No.204 ぜんぶやめてmood
夜会を否定するレストランで、有線放送がけたたましかった。平和橋通りに沿うそこにある店舗は、窓ガラスの底に緑塗料で線が引かれており、金メッキに蛍光灯がするどく反射して目に痛い。今思えばあそこはヒステリックな店造りだ。けれどもパートタイムのおばちゃんは夜中でも陽気に働いていて僕と友人を安心させる。有線放送が、音量、でかすぎませんかね、と申し願ってみると、あらぁすいませんとおばちゃんは自分の恥のように赤くなって去ったから恐縮した。ばかでかい音量の歌は喉の苦しいポップスで、○○だろ、と僕は決め付けて言ったが、本当のことは知らない。そのキメツケはまったく正当で友人に喝采を受けた。
音量は一度ワッとなって店内の客どもを怯えさせた。直後にハハと笑いが起こった。僕はおばちゃんの不慣れな指先が機器を操作するところを想像してやはり笑った。あまりきれいに笑えなかった。疲れていると笑いが汚い。健康な者は粘膜が清潔なもので、僕はときに人の歯茎に純粋に惹かれることがある。
音量は大小に揺れながらやや控えめなところに落ち着いて、そこに落ち着くと店内はいかにもいつもどおりだった。厨房から湯気があふれてパーティションの金具を濡らしていた。
なぜ感情がないのに感情的に歌うんだろうね? 僕はそう投げかけたが返答は求めていなかった。返答を聞くどころではない気分だった。とつぜん正気に返ったみたいに、天井スピーカーの奥にいる若いポップス歌手が面白く思えたのだ。なにかとんでもない罠に嵌っていて、面白いことになっている。それは滑稽だけれども、ひとつの事実として歴然であるから、いいんじゃないのそれでとむしろ素直に思えたほどだ。
感情がないのに感情的に歌う。感情は無くていい、無くて当たり前だ。感情的なものといえば、たとえば夫婦喧嘩とか。あるいは今さっき事故で母御さんを亡くした少女が哀号する、そんなときにはひたすら少女の悲嘆がある。感情とはそういうもので、そりゃあそうだろう。それに比べれば、スタジオで懸命な録音に励む若い歌手らにどのような感情が? 感情なんてなくて当たり前だ。感情なんて野暮ったらしいものを大のおとなが求めるなんてみじめなことではないか。だから感情なんてなくていい。
それなのに、感情が無いのに、感情があるふりをする。感情的な歌い方だなあ、と思って、その背後に具体的な感情の様子を思わず探してしまうのだけれど、具体的な感情はやはり無い。元が無いのだから当たり前だ。歌にはムードが必要なのであって、こちらとしても求めているのはムードだ。感情的にするとムードはなくなる。そこを、こぞって自ら感情的に糊塗してムードを起こさないようにするのだから、面白い、何かに嵌っている。いやあ、どうあがいたって、母御さんを亡くした少女の確かな感情には勝てないと思うけれどもね。まあでもそうするのが今や正統ということなのだろう。
あまりに愉快になって、僕は食べきれないほどチーズケーキを注文してしまった。太いフォークの先でがすがす突いて食べた。うまい。フォークのステンレスが陶器の皿にかちゃりと音を立てるたびに気持ちが清潔になっていった。
僕はムードのほうが好きだ。
表面上の、ふてくされたふうの態度とか、おちゃらけたふうの態度とかは構わない。構わないというか、いいねぇ、とこっそり思わされる。ムードがあるのはいいな。
内心では、嫌われるんじゃないかとびくびくしていて、でも内心ってそういうものなんじゃないのか。それでね、嫌われるかもというのじゃなくて、嫌われるよ、そりゃ疑問ではなく確定的なことだ。嫌われるのは悲しいし、ある意味こわい。でも内心がどうだっていいわけだろう、表面上にそれがこぼれてきてみっともないことにならないかぎりは。
ムードというのは、何によって出来るのか、作れるものなのか降ってくるものなのか、まったくわからない。手がかりの欠片もない。この、手がかりの欠片もないところがいい。手がかりの欠片もないからムードがある。
この十数年間、僕などは、ムードだけを追ってきたとも言いうる。ムードを愛してやまないわけだ。ムードを自分でぶっ壊してくるたびに、僕は深く後悔してきたし、正気に返ってすぐ気づくのは、自分でムードを壊すなんてことは不可能だということでもあった。
<<自分でムードを壊すなんて不可能だ>>。……この文言が、どう見ても間違っていて、平易な視点からあっさり論破できてしまうことを僕は重々知っている。重々知ってなお、このように言うしかないのだ。なぜ、ということさえあきらかでない。<<自分でムードを壊すなんて不可能だ>>。自分でムードを壊すなんて不可能だ!
全部やめてしまえばいい。ところで、人間は、その気になれば実はものすごくたくさんのことをやめることができる。何もかもやめてしまうということで、生きることもやめてよろしい。ただしそのときは自殺もやめてしまわねばならないわけだ。
通勤も通学も明日にでもやめられる。ひょいとその気になってしまえばそれでおわりだ。年齢をカウントすることも、日付も曜日もカウントすることもやめられる。生活がみじめになり、おいしいものは食えない、人生は貧しくなってひどい目に遭うけれども、それを嘆くことも求めることもやめてしまえるのだから、その気ひとつで全部おわりだ。
全部やめればムードがやってくる。
生活があるから無茶はできない。でも一時的にはその気になってもかまわないわけだ。せめて金曜日の夕刻からは、少しの時間、全部やめてしまってかまわない。それをやめるために生きてるんじゃないの。それは誰でも金曜日にやる、いわゆる気分転換というやつじゃないのか。
[了]