No.207 それは一つの戦いだった
中学生のころから手品をしていた。後には年齢を偽って少しバーマジシャンとしても働いた。高校に入るとゲームセンターに住んでいる如くだった。高校の最後に震災の神戸に一ヶ月住み込みで働いた。高校を出たら、偏差値は40を切っていたので、一日十五時間受験勉強をした。大学に入ったらなぜか合唱団の指揮者をしていたし、なぜとはなく女の子をナンパしていた。見知らぬ女性となんとなく立ち話をするのは当たり前のことになっていた。インドに四十日ほどの一人旅に出たこともあったか。大学の図書館ではフロイトの全集と畑正憲の全集を読んだ。就職して東京に来て、丸の内で商社の仕事もした。初めて取った電話は国際電話だった。それで今は、小説を書こうなどとしている。
わけがわからない。けれど、このわけのわからない進みゆきも、僕の中では一つのことで確かにくくられている。それらは全て、僕にとっては一つずつ戦いだったということだ。そして自慢じゃないが、それらの過去の記憶は、ほとんど眩しいほどの思い出、バカらしさは満点であってもかけがえのない思い出で埋め尽くされている。もしこれを換金できたら僕ほどの金持ちはいないんじゃないかと思えるぐらいだ。僕は幸福な人間なのである。
僕の幸福の理由は、半分には、女運も含めて人との出合いの運がいいこと。しかしもう半分には、やはり一つ一つが戦いだったからだ。人には必ずしも戦う義務はないが、戦わなければ可能性は生じず、可能性を持たない者に人は関心を持たない。馴れ合いで友人はできたとしても、見ず知らずの女性が足を止めて微笑んでくれることは決してない。人が可能性に向けて自己を拡大するとき、必ずそれ自体が戦いとなる。趣味の幅を広げてもしょうがない。そんなものは戦いにならない。百倍に広げるというならまた話は別かもしれないけれど。
戦いになること、戦うことを選択肢に入れれば、自分のやれること、やるべきこと、やりたいことは一気に増える。逆に、戦いにならないようにと前提すると、やれることの選択肢はとてつもなく少ない。しかもどうでもいいような選択肢ばかりになる。
今は残念ながら、何か可能性に向けて戦おうとしたとき、応援するより足を引っ張ろうとする人のほうが多い。今に限らず昔もそうだったかもしれないけれど。表面上は笑顔で応援するふうでも、あとで陰口を言い合って足を引っ張る人は少なくない。けれどもそれも含めて戦いだ。むしろ、そうやって足を引っ張られるのがお定まりのパターンなんだから、自分は足を引っ張られるようなことをこそ見つけて向かえばいい。足を引っ張ってくれる人がいたら、それは自分が戦いに向かえているということだ。
よく、一言でいえば何がしたいですかとか、どんな小説を書きたいですかとか、無邪気に訊いてくる人があるけれども、馬鹿を言ってはいけない。そんな究極的な答えを先に見つけて取り組める戦いなんてない。戦いというのは、興味の起こったほうへ、ふと心の惹かれたほうへ、エイッと踏み込んだら、そこはもう戦場で、気がついたら何か知らんが必死こいて戦っている、それだけだ。動機とかきっかけとか、ありそうに見えるけれど本当は無い。僕自身、手品がやりたかったか、合唱団の指揮者がやりたかったか、丸の内で働きたかったかと訊かれても、「いや別に」としか答えない。知るかそんなもん、という調子だ。戦いからオリないという気概だけで意地になって張っていたら、いつのまにかそうなっていたというだけだ。そんな、動機とかきっかけなどどうでもいいのだ。ただそこに戦いが発生して、そこで誠実を貫いて戦い抜いたら、かけがえのないものが残った、ただそれだけしかない。戦いだけがそのきらめきをもたらすのであって、その他はどうでもよろしい。むしろ、動機やきっかけだけを飾り立てて、その戦いの実際が貧しいばかり、なんてことのほうがよっぽど多いじゃないか。
何がしたいのか、とまず考え込んだり、まず問うたりする習慣はよくない。それはあれだ、前もって解答の用意されている試験問題に毒されすぎだ。あるいは攻略サイトの情報を頼りにゲームを進めすぎだ。現実はもっと混沌としているし、むしろ<<間違っていないと進めない>>と覚悟するほうがいい。だって、究極に正しいことなんて前もっては見つからないのだから。正しいことが見つかってから進もうとしたなら、それはもう生涯進めないことを約束されたようなものだ。
人それぞれ、やってみたいことをなんとなくで決める。なんとなく、というのが一番いい。それをいざ本当にやってみるとなると、容赦のない戦いが始まるから、あとはその中で自分の誠実さの限界を試せばいい。簡単そうに見えること、たとえば、近所の人に朝、伸びやかに挨拶の声をかける、というようなことでさえ、実際にやるとなると途端に難しい。今日は調子が出ないからとか、そういう空気じゃなかったからとか、理由をつけてすぐ逃げる。伸びやかに挨拶したら、ヘンクツジジイにはギロッと睨まれるだろう。そしたら、「何だあのジジイ」と気分を害して、やめてしまう。そしたら次は、「そもそもこんなことをする動機が無いんじゃないか? 精神的に損するだけじゃ?」みたいな議論をして、戦いをやめる議決をあっさり下してしまう。そんなことでは、何においても戦えないし、かけがえのないものなんて残らない。
「あの人の挨拶は、スカッとしていて、何か特別な力があるね」。たとえばこう言ってもらえるようになろうとしたら、それは厳しい戦いを誠実に戦い抜く必要がある。声が大きいだけでは駄目だし、義務付けられた機械のようでありつづけても駄目だ。本当に伸びやかにスカッとする挨拶が、自我のこだわりなんか飛び越えて出てくるようにならないといけない。なかなかそんなものは手に入らない、だから戦いになる。技術的なことなら修練で向上できるのだけれど、これは技術ではないから戦いになる。何かに打ち勝つことでしか、伸びやかにスカッとする挨拶なんてできない。一生このことをやり続けても、ついに一度もできないかもしれない。何かに打ち勝つということが一生かけても果たせないことはいくらでもあるのだから。それでもやる、それでもオリないというのが戦いだ。そういう厳しさを経てしか、人はそこに特別なものの気配を感じてはくれない。
誰かに向けて、本当に本心をそのままに、誠実に本音の全てを語りつくすつもりで、手紙を書いてみてもいい。どれだけ長くなってもかまわない、という覚悟で。これにしても、実際にやるとなると難しい。本心だけを書けばいいのに、すぐ気取ってカッコつけたものが出てくる。それで書き直すと、今度はただ乱暴なだけの文章になって、そこに本心がちゃんと書かれているかというと、書かれていない。長文になるぞと覚悟して取り組んだのに、気がつけば便箋の五枚ぐらいでもう行き詰っている。
そうなると、「書くべきことをまず整理しないと」なんて考え始めて、実際にはもう手紙を書くことなんてやめてしまう。戦いからオリてしまう。手紙を書く技術が必要だ、なんて技術論に逃避する。普段使っている日本語で、ウソではない本音だけを書くのに、技術なんて要るわけがないのに。
こうやって、なんだかんだで戦いからオリる。すると、手紙の一通を送るにしても、「自分はこれをした」ということは残らない。これでは何も確かなことをしないまま生きつづけることになる。
だからやはり、<<間違っていないと進めない>>と覚悟するしかないし、動機やきっかけなど忘れて、戦いをオリない、ということだけにしがみつくしかない。
世の中はまったくつまらんことだらけだ。ただしそれは、戦わない前提で物事を眺めるからそうなる。自分を奮い立たせて、勇ましく、何事にでも戦う、誠実に戦い抜く、というつもりで眺めれば、本当は世の中はスリルに満ちている。戦うのと戦わないのとでは世界がまるごと違ってくると言ってよい。
誰しも、過去のどこかまでは戦っていたんじゃないか。どこかでそれをオリて休憩せざるを得なかった。誰でもそういうことにはぶつかるものだろう。けれど休憩はもう十分したのだから、再び戦い始めないと。あそこでオリたね、というところを思い出して、今あらためて、自分の戦いは何だったかを思い出さねば。
戦いというのは、他人と比べっこするものじゃない。競争だけが戦いではないし、他人をやっつけるのが戦いじゃない。夫婦喧嘩なんかは争っているけど戦っていない。自分が戦おうとするときは、むしろしょうもない諍いに巻き込まれないよう気をつけたほうがいい。そうしてしょうもない諍いに巻き込むのも、足を引っ張る人の手法の一つだからだ。そんなのに付き合うのはエネルギーの無駄だし、さらには、そういう諍いで時間をつぶすことで、本当の戦いから逃げ回っていることもある。
戦いというのはそうじゃない、自分を可能性に向けて拡大することで、そこに理屈を持ち込まないことだ。ただオリなければそれは戦いになる。足を引っ張られても、そっちをいちいち振り向く必要は無い、前を見たまま蹴っ飛ばして失礼すればいいだけだ。足を引っ張る人も、本心では自分も戦いたいと思っている。けれど今の彼らにはそうして足を引っ張るしかない事情があるのだ。
人の夢とか恋あいとかはそういうものだろう。別に立派な理由があるわけじゃないが、ただ佳い男でありたかったし、佳い女でありたかった。男なんて若いうちはひたすら女といちゃいちゃしたいじゃないか。それを男女互いの幸福の中でやりたかった。自分は美人じゃないしイケメンでもない、でもそれがどうした、戦いというのは他人と比べてどうこうじゃない。他人から見て立派なものなんかでなくていい、ただ自分にとって眩しくかけがえのないものが残れば、それはまさしくかけがえがないじゃないか。そのためにはやはり戦わねば。
何であれ戦う、と腹に決めてあれば、自分のできることの選択肢は増えるし、エネルギーも湧いてくる。「私は戦うのだ」。その覚悟を持たないまま、理屈で自分を説得しようとしてはいけない。価値ある目的を動機にして、努力してゆこうと思います、なんて理屈はまったくダメなのだ。まるで悪口になるが、そういう理屈は元気のない人でも理解できるからよくない。そこには、元気がなくていい仕組みが秘められているので、やっている当人が元気を失くしてしまう。
僕は小説を書こうとし、実際書いてもいるが、小説に価値なんて無いと言い切るし、世界で一番不必要なものだと思っている。
[了]