No.208 成人式に圧しつぶされたリョウ
天空に外灯が無闇に白く光っているせいで、光の圏外にある景色はやたらに黒く濡れていた。僕は自分の後背の闇から、立ちほうけている僕の指を不意に掴んでくる子どもがありそうで恐れた。成人式に圧しつぶされたリョウは、そうして圧しつぶされたことを秘密にしてきたが、今はそれを曝け出して、むしろそれによって威張り散らしている。リョウはいま電柱の根元にしがみついて慈悲を乞う者の彫像めいてあるが、生気を失っており、またそれ以上の理由で灰色のセメントの景色に溶け込み、僕は意識的に目を凝らさねば彼を見失いそうになる。僕はむしろ彼の臀部から落ちる地面の黒影を彼の座標として確かなものに信じていた。リョウは酔ったふりをしているが酩酊はもう醒めているはずで、別の理由によって立ち上がることができない。アカ、アカ、と奇妙な声を漏らし、出ない唾を吐こうとしているように見える。電柱の中部には深緑の地に白抜きで学習塾の広告が出ており、そのむなしさがまったくリョウの頭上にふさわしいものとして映っている。
――函館の話、函館の話がよかったなあ! もう一度、聞かせてくれませんか。初めから。
リョウの饐えた声が僕に求めた。開いたままの口腔から暗澹そのものが顔を覗かせている。僕はリョウが自分の未来の無さを確信し、さらにそれを切り刻まれることを望んでいると感じたが、僕がなにか鼻白むふうに感じたのはまったく別の理由からであって、その理由は僕自身あきらかでない。僕はあえて演劇部の稽古のように、かつ身が入らない語り部のような立場を採って、一応はリョウの座標に向けて話しはじめた。
――教会群が一番きれいに見えるところはどこですか、って聞いたんだよ。ラーメン屋でね。彼女はラーメン屋の店主と顔見知りのふうだったから、地元の人であることは疑いなかったんだ。彼女はきっと美人だったが、そのときは化粧を落としていたからね、目立つ女というふうではまるでなかった。俺もそのゆるやかさに甘えて彼女に踏み入ったところがある。彼女の印象は、さっきも言ったけれど、ちょっとやんちゃなふうに見えるけれど、きつくまとめたポニーテールが彼女の性根の真っ直ぐさを表しているように感じたよ。何の根拠もないけれどね、別に根拠は必要じゃなかったから。
話しながら、僕はふとリョウが体験した成人式の風景を空想した。肌が乾いて不健康に見えるリョウだが、華やかな会場の空気に肌はいっそう乾燥して、しかし引きつった声で友人らと大はしゃぎしただろう。その喧騒ごと空想した僕は、ふと成人式という漢字の綴りを見失ったので、空想の中にある毛筆看板の文字はセイジンシキと片仮名に改まった。その中でリョウと友人らと振袖の女たちは幸福そうだ。
――俺は持参していたガイドブックを彼女に開いて示したよ。思えばそのとき、もう彼女と相席になっていたんだね。自然とそうなったはずで、手続きの詳細は覚えていないけれど……ガイドブックは当てにならないから、と僕は言ったのだけれど、そこには地図が載っているからさ。それで彼女は飾り気のない女の爪を地図上に滑らせて、おっとりした声で説明してくれた。その声のおっとりした調子はそのときの俺もアレッと思わされたよ。でもそれはラーメン屋の店内に満ちている温い蒸気のせいかと思った。特にそのときは函館には珍しいほど雪が積もって特別に寒い夜だったから。それで、ひとしきり説明を終えた彼女は、かすかにムフフとした表情で、少し眠そうでさえあったけど、そのまま俺の前に座っていたんだ。なんかそのとき俺は、ああ自分は旅先に来てるんだったな、と強く思わされたよ。それで彼女は立ち上がって、ムフフとした表情を残したまま、顔を赤くすることもなしに、でも照れくさそうに俺を手招きした。それで彼女は、俺を軽自動車の助手席に乗せて、ハンドルを両手で握って腕を伸ばし、連れてってあげる、と勇ましく言ったんだよ。車の中はすごくいい匂いがした。若くて健康な女の匂いでもあったけれど、むせかえるような、俺とはまったく別の暮らしの匂いがしたから。
リョウは僕の話の一節ごとに、オーゥ、と低く了解を唸ってうなずいている。そのたびにわざとらしく額を電柱のコンクリートに打ち付けていた。
がさがさ、と潅木の葉叢が音を立てた。その危機的な音に僕の語りは一旦中断された。自己に向けての演出的な態度を続けていたリョウも自分の背後を実直に振り返った。アスファルトに細長いものが出ると、それは猫に追い立てられた蛇だった。白い猫が正座めいて座っており注視を続けているが、猫は獲物の思いがけない大きさに怯み、攻撃の意思をもはやくじかれた様子。
蛇は前進とも横に進むともつかない方向に蠕動して進み、下水を蓋した金網の中へするすると消えていった。
緩和した空気の中に注意深く聞くと、もう新聞配達のカブが遠くに排気音を立てていた。
リョウが無言で話の続きを促した。
――うん、それで。彼女が言うには、教会群は見るだけでも美しいけれど、歩き抜けるのがもっと素敵なんだよって。それで、お気に入りのコースがあるからって言って、そこへ俺を案内してくれた。二人で一緒に歩いたよ。もう遅かったから誰もいなくて、ざくざく、足音が近所迷惑を気遣うほど響いた。照れくさかったけど、手をつないで歩いたよ。彼女が仕掛けてくれた思い出に、そうしないと格好もつかないと思ったし、より具体的には、彼女の足元はブーツだったけれどヒールが高くて、凍りついた斜面を一人で歩かせるのは憚られたんだ。じっさい、手を離すと両手を広げてバランスをとって歩こうとするんだからね。
――いい女ですね。
――うん。いんちきの無い人でね、素敵だった。それで、最後のお別れのときだよ。車の中で、さっきは名台詞とか言っちゃったけど。「わたしがあなたに甘えたね、ごめんね」って。それは妙に染み入ってきて、俺は何も答えられなくて、足元に転がっていた正体不明のCDの裏面が光っているのばかり眺めていた。あれは何のCDだったんだろうね。それで、あとは特にないよ。主義として、俺はあまり具体的なことは言えないたちだから。首筋の肌が燃えるように熱い人だった。彼女がつい先日に離婚したばかりだって知らされたのは、その名台詞の後だよ。それはもう、彼女が自己を整理するふうでもあったし、俺に向けて語られているエピローグのふうでもあったから、俺は特に何も言えなかった。分かりやすくはいえないけれど、お互いの態度は全て正当だった、と今でも疑いなく思うよ。
――いや、いや! わかりますよ。
不意に強い声を放つものだから、すでに遠くへ去っていた白猫がはるか向こうからゆっくりこちらを振り返った。その声の強さと裏腹に、僕はいよいよ彼を風景の中に見失いそうで、電柱の根元に向けて眉根をしかめた。
――本っトーに違いますもんね! そういうの、俺らと! あのねぇ、もう話しちゃいますけど、オレ前の女にね、その本人がさっきいたうちの一人だったから、あんときは言わんかったんですが! オレあの女に言われたんですよ。あなたいつも「お母さん」と一緒じゃない。同伴! って。
――「お母さん」?
僕はやにわに興味を惹かれた。
リョウはうずくまったまま、態勢をより奇妙な形に変えて、顎の先端を電柱のコンクリートに突き立てた。話すたびに剥き出された歯茎に、打ち付けられた歯がガチガチ音を立てる。
――あいつ大学で難しいことやってますから、言い出されたら勝てないですよ。誰かに言いくるめられて、エーキョーされたんじゃないかって思ってますけど! あいつが言うには、オレが使ってるネットって、お母さんらしいんですよ。マザーネットワークとか言ってましたね。母親に全部教えてもらったり、慰めてもらったりして生きているらしいんです。オレが。
僕の下腹部に赫とした熱が突如として起こった。そして弾かれたように、――いつもの調子が出てきたね、と口からこぼれた。
――はぁ。
彼の応答は威嚇的なその音声のみだった。
けれども彼は確かにいつもの調子を取り戻しつつあった。
彼の語る言葉の調子に、聞きなれない訛りが混入してきた。僕は時々に、うずくまる彼の背後に、彼が幼少を過ごした故郷の風景とすでに年老いた両親の幻像を見た。両親は彼を痛ましそうに見下ろしている、しかし彼に興味を向けてはいない。
すでに僕自身も視覚のうちにある彼の存在を疑いはじめている。
――生まれて初めて論文いうのを読まされましたが。あいつが突きつけてくるもんだから! いやでも論文いうのは面白かった、ペーパーいうんですか。オレも大学いっとったらよかったですね。いやでも本当に言うとおりで、オレ実際に行けますもんね。函館にでも教会にでも。それで多分、本当に検索していきますよ。函館、教会、と……あと何です?
――絶景、とか。
――そうですね。絶景ってして。いやあしかし本当にそうだなあ。これじゃ自分が鍛えられない! 鍛えられないですよ。でもそれしかありえんし。ありえないですよ。
尿を漏らしている? そう疑って僕はリョウのしゃがみこんでいる股の間を見た。それは錯覚で、すでに東の空が白んでいるのを受けて影がわずかに広がり始めたために過ぎなかった。
――あいつだってそうしてるクセにね。あのね、オレ本名は健作っていうんです。これってひどいと思いません?
――リョウと呼ばれているけれども。
――そっちは苗字なんです。あいつが、付き合ってたとき呼ぶんですよ。ケンサクくん、ケンサクくんって。いやぁつらかったよなあ。つらかったわあ。<<ケンサクくん>>は、つらかった!
リョウが今さらながらというふうに、かつてのつらさを吐露した部分において、その声は突如として老人のものになった。その明瞭すぎる変貌に僕はギョッとなり、走って逃げ出したい衝動にかられた。同時に僕は目を奪われてもおり、彼の手の甲に老いた静脈が浮き出ていないか探す。
リョウの語りはそれからも続いたが、僕の耳は再び彼の露骨な老人の声が出現するのを警戒して待ちうけるのみだ。スタア・バーに、という単語にオヤッとなる瞬間があったけれども、その前後は了解できなかった。
東の空がはっきりと朝の光景を示しはじめた。空の高くにウミネコの群れが愚図るような鳴き声を残して飛び去っていく。それを見上げてぞくりと寒気を覚えたとき、僕はわずかな時間が自己から切り離されて失せたことを知った。
ある確信を基に、視線を再び電柱の根元に遣ると、その確信が反映されるようにそこにリョウの姿は忽然と消えていた。一瞬、違和感が膨大に起こる。けれどもそれはただちに当然の日常感覚に埋め尽くされていった。
僕は自分が何か買物に出てきてその買物の当てを忘れた、という錯覚をした。同時に、リョウは昨夜の全てをこの瞬間に忘却したのに違いなかった。
[了]