No.209 無数の光柱
生鮮品の商店の向こうに古本を叩き売る店があり、僕はそこで女の写真を買った。大きな画板は抱きしめてみると確かに自分のものになった気がした。空が暗くなってきて、急遽雨が降り出さないか、画板を濡らさないかと惧れた。季節の変わる頃この道はずいぶん長く真っ直ぐに見える。
たまにこうして抱きしめて思い出さねばならなかった。僕はすぐ忘れてしまう。画板の中に彼女が、こう生きています/生きていましたと報告している。そこに聞こえる声は、はるか海の向こうの歌い人が届けてくる声に似ている。はっきり同じものだ。こう生きています/生きていました。
僕はどう生きているのか。励まされて、思うのはそのことだ。自分も彼らのように、彼女のように、はっきりと生きねば。そして、どう生きたかを報告し、証を残さねば。
夕刻の空に、人差し指を高く伸ばしてみる。永く建設予定の立たぬ土地の、転がった岩石どもが僕の指先に注目する。高く指先に触れてくる風は地表のそれよりまだ冷たく、空の高層がまだ氷っていることを示していた。
心の儘! 僕は演出的に宣言する。岩石どもはウーンと否定的に唸り、眉をひそめる。ここから見れば穴ぼこの、建設予定の立たぬ土地の中央にある暗渠排水を操作する地下から、大江健三郎がひょっこり頭を覗かせてこちらを見た。
岩石どもは手馴れた反論の準備をしている。けれども、僕は本当のことをすでに云ってしまったし、それが本当のことだと岩石どもも知っていたので、彼らの言論は空虚であり、しかし振る舞いは密だ。
彼らも今や、人差し指を高高と空に伸ばして上空の氷結を確かめているのだ。
――それは、一般的ではない!
――一般などというものは存在しない! 存在しないものを云うことはできない!
僕の応答は彼らの期待に沿うものであったので、彼らからオーッと好意的な、また不敵な喊声が上がった。ただし人差し指は高く掲げられたままで拍手をすることはできない。
いまや全てのものが僕に友好的であった。人差し指を突き上げたものどもは思いがけず自らの実在を、自分とまた他者同士とで確認しあっていた。にわかに一つの真実がわれわれに共有されている。<<実在するもの同士は対立できない>><<対立するには観念的なものに溶かされねば>>。生鮮品の商店では駐車場にまではみ出した山積みの林檎と蜜柑の陳列がハロゲン光を受けてその艶光を星々のように見せつけあっている。それぞれの色づいた果香が幾何学的な正確さで垂直に伸張していた。
やがて、まだ歩行のあやうい男児が、母親のタイトスカートにしがみつくまま歩いてきて、われわれが天を指しているのをハッと眼に留めた。数歩を駈け寄って、丹念に唾をつけた彼の人差し指を、われわれに倣って突き上げようとしたけれども、その途端わかい母親が彼の腕を、その肩の脱臼が惧れられるほど激しく引き、余勢のまま彼の頬を無慈悲に平手で打った。口腔の肉が歯につぶされる音が鳴り響き、火のようになった母に男児は絶望した。
わかい母親は牛頭馬頭の代理めいて屹立し、男児に這いつくばり路上の砂塵を掻き集めるよう言いつけた。男児は桃色の手のひらでそれをやらされる。風のよくあたる路上は清潔でさしたる砂塵は見当たらない。彼のように這いつくばれば別かもしれないが。
――あなたはその中に満足を見つけなさい!
わかい母親はいまや母の慈愛から離れ憤怒を帯びた執行官として男児に命じている。その中に満足を見つけなさい! きつい声は純正の強制を男児に叩きつけている。
男児は顔をしかめて泣きながら、しかし母の強制に屈服するよりない。彼はこれからしばらく――ずいぶん長い間になるだろうが――這いつくばってその砂塵集めをし、満足さがしに慣れなくてはならない。
彼がそれを十分にこなしたころ、わかい母親は母としての慈愛の態度に立ち戻るだろう。子どもはまずそのように教育されざるを得ず、心中の応援はいかにあれども、われわれは彼を横目に見て粛然とするよりない。
重力に負けて緩んできた肩口をあらためてぐっとひきつけると、僕の自己感覚は僕の肉のうちにすっぽり収まった。肺の底に長らくたまっていた不潔なガスが、ふしゅうと自動的に排出される。なんとも僕はちいさな身体に戻った。光景の全てはただちに生々しい本来性を取り戻してゆく。
光景の隅々まで、それは広がる無数の個性どもだ。それぞれが垂直に自らの香気を立ち上らせている。それらは全て色づいて半透明の柱に見える。今はどうしようもない、わかい母親と仔を除いては。船員たちの酒場めいた陽気な喧騒が聞こえる。岩石どものみならず光景の全ての個性どもが闊達の声を放ち始めたのだ。
僕は脇に抱えたままの女の写真を改めて開いた。やさしい横顔に精気の眠る頬が映り、僕は再びどきりとさせられる。写真から香気が立ち昇りはしないが、映像の向こうにあったはずの確かな香気が僕の想像力を刺激する。このようであらねばと思う。一般へ逃避するのでなければ、僕はこの無数の個性が無数の光柱を立てて居並ぶおぞましいほどの世界に生きている。
いくらなんでも嵩張るとして、僕は女の写真のうち、特に喚起力を強く覚える数枚を選りぬき、それ以外を風に飛ばそうとした。折り良く背後から風が吹き抜けている。けれども写真は厚みがありすぎてどさどさと地面に雪崩れて落ちた。
やがて地を這う風が、一枚ずつ女の写真を拾っていった。ひらひらと風に踊る一枚ごとは、遠くなるほど大きく舞い上がりはじめた。もう地には着かない。それぞれ、無数の光柱のさらに上を飛ぼうとする。
風景のうちに遠近を伴い、女の微笑みとうつくしい肌の手足が数限りなく舞った。どこまでも飛んでゆきそうな写真の花吹雪の底で、まだ男児が這いつくばって泣きながら掌で砂塵を集めていた。
[了]