No.211 本当に生きること
本当に生きるためには、自分を地獄へ向けて励まさねばならない。本当に生きるとは、危険なほうを選ぶということであり、不利を選ぶということであり、損をするということだ。
ただし、そちらに向けて、やってやるぞと鼻息を荒くしても、それは手続きが違う。損をしてやるさ、と「思う」ことは簡単だ。それは安い少年漫画めいたお遊びにすぎない。「損をしてやるさ(そのほうが本当の利益が大きいってことなんだろ? シメシメ)」と思っているから駄目だ。
本当に生きるということは、何が損だとか何が得だとかを判断する観念の黄金樹を枯らすことだ。この黄金樹を、形として分からなくなってしまったら、それは狂人である。だからこの黄金樹を伐り倒すのは狂人のすることである。これを伐り倒す必要はなく、立ったまま枯死させる。
そのためにはどうすればよいかというと、「何もしなければ」よい。水を遣らなかったら勝手に枯れる。
ここで、よしじゃあ、何もしなければよいんだなとして、何もしないぞと鼻息を荒くしても、それはやはり何にもならない。概念は正しくても手続きが違う。
ここに一本のスコッチがあったとして、そのスコッチが「わかる」という人は、その味わいがわかるという人だ。スコッチの情報に詳しい必要は無い。情報が味わいだったらいちいちそれを呑む必要はなく、物の本を読みインターネット検索をしていたほうがよい。適切な解説が見つかるだろう。
口中にスコッチを含むと、その味と香りが広がる。当たり前だ。スコッチが「わかる」というのは、その味わいの奥広さ、端々に到るまでの繊細さまで感じ取れるということである。美味というが、その味わいの美しさがどこまでわかるか、時にはとんでもないとショックを受けてよい味の美しさが、わかるか、ということである。
スコッチが大好きだ、と思おうが、最高級品だ、と思おうが、何をどう思ったとして、スコッチの味そのものは変わらない。当たり前だ。たとえスコッチが大嫌いで、このクソみたいな液汁が、と憎らしく思っていたとしても、その味が「わかる」人は「わかる」。
「思う」とか情報とか価値観とかとはまったく別に、「味」は存在しているのである。
あなたにこのスコッチがわかりますか? と問われたとしたら、僕はある特別な集中力をもってそれを口に含む。それがどの銘柄か、などと当てっこするのは、商用としての専門性を必要とされる人人のためのゲームにすぎない(銘柄は情報だ)。
何をどう思おうが、厳然とした「味」がある。その「味」が、「わかる」かどうか。それと同じ面持ちで、世界観や人生観についての問いかけがある。
<<あなたはこの世界がわかりますか? この世界と、あなたが生きているということの? その「味」がわかりますか?>>
このように、「わかりますか?」と問われたとき、やはりある特別な集中力をもってそれを味わうことに自身を向かわせる。目に映るもの、肌に触れる空気、鼻腔に届く風の分子、取り巻いて響く音、その他の第六感的なもの。
これが「わかる」ということがある。確かにわかる、確かな「味」。これがわかるとき、観念の黄金樹の影響圏内から離れている。「思う」とか情報とか価値観といった観念の全てから、「味」は離れてあるのだから。
「味」には何のmeaningも無いのだ。「味」には味しかないのである。
「味」の中にあるとき、味わう、ということの中にいるとき、何がいいとか悪いとかいう観念からは離れている。その「味」について、即座に良い味とか悪い味とか思ってしまうけれども、そう「思った」時点ですでに「味」そのものからは離れてしまっている。「味」そのものには何のmeaningも価値もないのだから
、良いも悪いもない。
「味」の只中にあるとき、そこには何の感想もない。味の只中には味しかない。
この中でようやく、観念の樹、価値と損得判断の黄金樹を枯死させることができる。枯死させたらもう二度と戻らない。そうしてしまおう、そうしてもらおうという<<決断>>ができる。この決断には何の価値もなく、何の感想さえもない。やめろ! 損だぞ! という声は黄金樹の悲鳴として響くのみ――あるいは狡猾になった黄金樹は「そうだ、そうすることに価値がある!」とも語りかけてくる。
「そのような決断は、決断ごっことしてはできても、本当の決断にはできない!」、この声が残るうち、まだ黄金樹は生きている。真の決断に到達したとき、この決断は当人にとってまったくどうでもよいような決断、と捉えられている。表情は塵一つ分も動かない。
この決断には何の積み重ね性もない。人が死ぬように、あるとき突然に枯死して、もう元には戻らない。
黄金樹が枯死したら、好きとかきらいとかいうのはなくなる。美しい味、汚らしい味、淋しい味というのはあるけれども、それは価値を伴ってはいない。
黄金樹を枯死させたほうがよいとか、そうでないのは悪いとか、そういう観念もない。そういう観念を理解することはできるが、それは枯死した外形物でしかない。
決断は意志によって行われる。意志には観念的意志と純粋意志がある。観念的意志は何かしらの「根拠」によって決定が行われるもので、利益の質量が最大となるよう算術して決定がなされる。すなわち観念的意志は黄金樹の一枝として存在する機能である。
一方、純粋意志は根拠や算術を持たず、無意味・無根拠に決定がなされる。子どもが蝶を捕らえることのように決定する。黄金樹の枯死はこちら純粋意志の決定に依るものだ。価値や利益を求めてこの枯死がなされることは構造上永遠にない。これを無理にやろうとすると諸機能がただ不具合・故障を起こすのみだ。
黄金樹の枯死は、これまでの自分、これまでの生き方を、全て捨てる、ということに重なる。これについて黄金樹は、「そんなことはありえない」と警告を鳴らし続ける。ここにあるのは恐怖の味わいである。けれども純粋意志が「危険なほうを選ぶ」と無根拠で決定する場合、それを別の根拠の提示によって変心させることはできない。恐怖の味があれば恐怖の味がし、恐怖がなければその味はしないだけで、冷や汗や熱い汗があろうがなかろうが、まったく同様同質の決定がなされる。
枯死した黄金樹は見た目には何も変わっておらず見える。でももう二度と元には戻らない。いかなる物ももはや味わうしかなく、あの慣れ親しんだ惰性の空気はもう終わった。
[了]