No.214 理知の果て、虚妄の果て
人間は、「嘘」と付き合って暮らしている。朝から積極的に眺める、新聞やニュース番組の報道は、嘘であってはならないものだ。けれどもそこに紛れ込む、若い女性の声が告げる「星占いのコーナー」、これは嘘のものである。人はこれを嘘と知っていながら観る。この「嘘」をどう捉えるかは、思いがけず画一的な教育はなく、個人の思うところにゆだねられている。
この「嘘」との付き合い方について、それぞれを明細に分別はできないが、おおよそ大別することはできる。一方の人は、理知の輝かしさでこれを照らし、他方の人は、虚妄の澱(よど)みに吸い込まれていく。この理知と虚妄の、全体としての天秤の傾き具合は、時代と情勢によって揺動する。
理知の側と虚妄の側とに、大きく隔てられた二人は、互いに対話することが困難になる。はじめ、互いは互いを「わからず屋」と感じ、不満に思うが、その精神的距離がさらに大きくなると、今度はもう初めから諦めの態度となる。言ってもわかるものではないし、人それぞれ思うところはあるのだから……と、むしろ不満の感触は低減する。不満が無くなるがゆえに、互いに、向こうの言い分にも好奇心めいた興味を持つところが出てくる。それが互いを豊かにするとは限らないにせよ。理知高くある人は、虚妄深くにいる人を眺め、人間はこのようにもなりうる、ということを改めて目撃する。虚妄深くにある人は、理知高くある人を眺め、その背後にある霊といったような妄想を作り上げ、その妄想を眺めて満足する。
この、理知と虚妄の戦いは、当然ながら理知が勝利するように、初めから決まっている。虚妄の側ができることは、勝利の定義を捻じ曲げて、なんであれ自分たちが勝利したと主張することのみだ。なるほど、自分がこうして不幸になり、むなしさに苦しむことこそ真の勝利なのだ、と言い張ってしまえば、確かに彼らの勝利を否定することは困難になる。理知の側は、この虚妄の言い分に対し、論戦をもって挑もうとはしない。嘲弄も憫笑もしないものだ。それが彼らの理知という性質である。彼らは、虚妄の側が言い立てるそれを神妙に聞き、それを自分や友人のことと照らし合わせて、さらなる可能性はないものかと慎重に精査する。彼らの立場からは、虚妄を理知のほうへ引き上げてやりたいという心がないではないが、彼らはその理知によって、そのようなことが無益なでしゃばりだということを知っている。「向こうから見れば、こちらが虚妄に見えるのだから」。
理知と虚妄とであれば、理知が勝利する。それはたとえば、このようなことだ。次のことを、理知の彼らがあえて言わないのは、やはり彼らの理知の性質による。そのようなことを、あえて言うべきではない、というのが彼らの理知の結論であるから。
虚妄の側が主張の武器にするのは、迷信や占いといったもの、あるいは近年はスピリチュアルと呼ばれる霊感の現象である。現在、理知と虚妄の天秤は、虚妄のほうへ大きく傾いており、この占いやスピリチュアルといったものが、公然と語られることに、市井は受容的だし、そこに違和感を覚えはしない。けれどもそこに、2011年、3.11と呼ばれる大震災が起こった。津波を含めた災害によって二万人以上の方が亡くなられたが、この3.11の当日、朝のニュースに紛れ込んだ「本日の星占い」は、その凶相を警告してはくれなかった。
亡くなられた二万人の方は、その全員が、凶相の手相を持っていたわけではなかったし、中には盛運を示す手相の方もいた。多くの人がその年の初めには初詣にゆき、おみくじをひいては大吉を引き当てた。震災でなくなられた方は全て大凶を引き当てていたわけではなかった。
これは驚くべきことではない。占いやスピリチュアルといったものが元々「嘘」である以上、震災の実際によって何かが暴かれたというのでもない。嘘が現実と整合しないことは何も問題ではない。少なくとも、理知の側からすれば当然のことだ。人間は「嘘」と付き合って暮らしている。
むしろ驚くべきことがあるとすれば、いまや公然と語られるようになった占いやスピリチュアルの主張が、震災に際してそれが「嘘」であることをまざまざと晒したことについて、虚妄の側がなんらのリアクションも示さないことだ。これについての説明は、理にかなう形では不可能で、ただ「そういうものだ」と言うことしかできない。人間は「嘘」と付き合って暮らしている、その暮らしの方法として、「そういうもの」ということしか出来ない。外部から眺めたとき、それがいくら奇妙に見えたとしても。
この「そういうもの」を了解してもらうよりしょうがないとして、ただ了解してもらえれば、理知の側が勝利するということも滑らかに説明がつく。たとえば占い師が本日の自分の運勢を占った。大吉と出て、自宅でのんびり過ごすのがよいと出た。しかし、大地震が来て役場の津波警報のサイレンが鳴ったとしたら、彼も水晶玉を放り出して走って逃げる。それは彼でさえ、海洋に地震があれば津波がありうるということ、それを警告するサイレンが機能するということ、その「理知」の仕組みのほうが優れていると知っているからだ。
自身を占って健康運は万全と出た。おみくじで引いた大吉にもそう書いてあった。けれども、顔に黄疸が出て嘔吐物に明らかな血が混じっていたら病院に行く。彼がまっさきに駆け込むのは知人の占い師ではなくて医者のところだ。それもなるべく、近代的な設備と最新の医療が整った病院を望み、理知の優れた医師に掛かろうとする。もし彼を手術する外科医が、理知の人でなく虚妄の人で、手術するかどうかは易経の占筮で決めますと言い出したら、彼は焦って転院を希望するだろう。それは明らかな矛盾であるが、それも含めて「そういうものだ」と、やはり了解してもらうよりない。
占いとスピリチュアルを信奉する者が、いくら万物の真理を掴んでいると嘯いても、彼らは集って政党を結成しようとはしない。彼らが政党になっても、3.11を予言することはできないし、隣国の権力者の病死する日時を言い当てることもできず、鉱石のある土地をダウジングで当てることもできないと、彼ら自身うすうす知っているからだ。彼らは企業経営者の手相がいかに盛運を示していても、それを根拠に株式に投資しようとはしない。もし彼らが何かしら冤罪で逮捕されることがあったとして、その判決を占いにゆだねるとしたら、彼らは納得しない。公正で理知的な弁護と立証責任を乞うだろう。
理知と虚妄とでは、そのように理知が勝利する。そして理知と虚妄の天秤は、時代と情勢によって揺れ動き、今は大きく虚妄のほうへ傾いている。人人はその中で引き続き「嘘」と付き合っている。
***
占いやスピリチュアルや霊感といったものを、重視しなさい、というのが、占い師やスピリチュアリスト当人らの主張である。ではこの、そういったものを重視しなさいと、<<言わなかった>>人は誰であったか。それは代表的には、ブッダやキリストである。彼らの教えの中には、そういったものを重視しなさいということは一切語られていない。彼らの教えを伝道する正統な教団は、礼拝を重視するが、それによって霊力を受けるとは唱えていない。
そのほか、マハトマ・ガンジーもマザー・テレサも、ダライ・ラマも言わなかった。宮本武蔵の五輪書にもそのようなことは書かれていない。浄土真宗の祖である親鸞は教行信証の中でそのようなことは言っていないし、「宿無し興道」と呼ばれた澤木興道は生涯を無所得の座禅に費やしたが、その中でやはり占いやスピリチュアリズムを否定する法話しか残していない。画家・岡本太郎は、呪術的な力を描写しきろうと生命を燃焼させた人だが、彼の著作のどこを見ても、やはり占いやスピリチュアルを重視しろとは書かれていない。
唯一、占いやスピリチュアルに可能性を残したのは、深層心理学の巨人たるユングだが、彼は意識の下に眠る無意識と、その底につながってある超越的な周辺的無意識によっておこる「偶然」の秘密に触れたのみで、その偶然を必然として利用可能だと主張したわけではなかった。
これは彼らが優れて理知的な人たちであったことを示している。そして同時に、占いやスピリチュアルといったものが、虚妄に属するものだということも明らかにしている。
占いやスピリチュアルといったオカルティズムに傾倒したとして、歴史的に記録されている大人物は、おそらくアドルフ・ヒトラーのみで、少なくとも彼がその代表だ。
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人人は、理知と虚妄について、もともとは、理知のほうを目指す。それは、理知の側が勝利するのが必然で、人人は自分を勝利の側へゆかせたいからだ。ではこの理知へ向かう人をどのようにして虚妄の側へ引きずりこむことが起こるか。
その現象を、もっとも平易に言うためには、「頭を弱くする」という言い方が適当である……「頭が弱い」というのは、知能レベルの低さを単純に意味しない。それはまったく「弱さ」なのだ。いくら頭の良い柴犬でも、人間に比べれば知能は低い、けれども、その柴犬を指して「頭が弱い」とは言わない。一方、知能テストで高得点を獲る人間にも、やはり「頭の弱い」人はいるわけだ。
人人は知性をもっており、五歳を過ぎれば嘘を嘘だと見抜くようになる。嘘との付き合い方において、嘘を嘘だと見抜いて付き合うのは理知であり、このままでは虚妄へ転落しない。人間が虚妄へ転落するときは、その知性が機能を麻痺させられたときである。機能の麻痺は恍惚によって起こる。その恍惚のためには、刺激と恐怖を交互に与えることが向いている。刺激は恍惚を生み、恐怖もまた恍惚を生むからだ。
たとえば、アドルフ・ヒトラーの演説は刺激的なものだった。大きな声を張り上げ、激しい抑揚によって、聴覚と言語野に刺激を与え続ける。それに加えて、戦乱の世界で敗北する恐怖が語られ、ヒトラーに歯向かえば拷問に苦痛を与えられ生命を奪われるという恐怖を見せ付けた。この刺激と恐怖の中で人間は恍惚になる性質を持っている。聴衆は「頭が弱く」なった。そこに滑り込んできた、「我々こそ世界でもっとも優れた民族なのだ」「ユダヤ人を根絶するしかないのだ」という演説を、彼らは嘘だと見抜くことができなかった。虚妄へ向かって一歩を踏み出したのである。
淫猥な写真や漫画を集めた成人向けの雑誌の、最後の頁には広告が載っている。決まって、いかがわしい商売への呼びかけか、強運をもらたすペンダント、といった類だ。これは実利的には優れた方法である。雑誌の紙面は当然ながら刺激的で、読み手は恍惚へ導かれている。そして雑誌を読み終わる、その読み終わりかけには、この娯楽が終わってしまうというささやかな恐怖、寂しさが押し寄せてきている。このことも恍惚を加速して、読み手は「頭を弱く」している。そして、その最後の頁に書かれている、普段なら嘘と見抜けないはずもない広告内容を、そのときは嘘と見抜けなくなる。
会員を食い物にするマルチ商法も、近年の「振り込め詐欺」や「ワンクリック詐欺」も、手法の仕組みは同様である。大きな声、大きな刺激を与え、同時に恐怖を与える。それによって恍惚を導き、嘘を嘘だと見抜けない状態を作り出す。誰も、頭が強く健全な状態のまま、高額な霊感の壷を買ってしまうわけではない。
鉄で出来たパチンコ玉が盤面にジャラジャラ鳴り、店内には大音量の音楽が流れている。けばけばしい色のランプは激しく明滅し、サイレンのようなフィーバー音がスピーカーに鳴る。盤面の中央には液晶モニタが据え付けられていて、めまぐるしく映像が動き、リーチが掛かると大騒ぎで焦らす。これらの刺激に加えて、ここまで投入した金銭が水の泡になる、という恐怖がつきまとっている。これらの刺激と恐怖によって、プレイヤーは恍惚となる。こうして「頭を弱く」することで、広告チラシに書かれた「勝たせます」の文言がプレイヤーを誘い込むのに有効になるのだ。
もともと、人人にとって娯楽というのは、そのような刺激と恐怖による恍惚を、それじたい目的にしているところがある。恍惚はある種の寂しさに対しては慰めになる。これは身体的な健康を損ないはしないから、あるていど認められているが、その慰めや恍惚は、頭を弱くするという代償と引き換えである。
現代にもっとも一般的な娯楽は、テレヴィ番組が提供するそれである。星占いのコーナーを、ただそれだけ視聴者に与えることは実は適当ではない。恍惚とさせ、頭を弱くしてからでないと、その本来の娯楽性を発揮しない。
すなわち、色のはでなスタジオ・セットを作り、さかんにジングルを鳴らし、テロップを次々打ち出し、画面に映るプレイヤーも次々に入れ替える。カッティング・エッジが盛んなほうが刺激的である。たくさんの女の子にひらひらの服を着せ、動き回らせ、刺激的な声を聞かせる。そうして刺激を与えた上で、本日の星占いを提供する……ただし、ランキングの順位をつけて。最下位の運勢には否定的で悲観的な予言が用意されている。このささやかな恐怖はそれまでに与えられた刺激と相乗して恍惚の作用をはたす。
人人はいま、この娯楽の仕組みと作用を、うすうす知りながら、それでかまわないと認めている。なんであれば、もっと刺激的なものを、もっと恍惚とさせるものを、と望んでいる。多くの人はむしろ、もっと「頭を弱く」したいと望んでいるのだ。
テレヴィ画面に、あるいはグラビア写真に、まだ幼い――ふうを装った――女の子が映し出される。そこには媚態的な仕草と表情が伴っている。もしこれを理知が眺めてしまったら。理知は、嘘を嘘だと見抜いてしまう。そこにある媚態が、わかりやすい作り物でしかなく、彼女は心から輝かしいものを発してなどいないと気づいてしまう。
それでは、恍惚を失い、娯楽と慰めを失ってしまう。
それを失うぐらいならいっそ……と、人人は「頭を弱く」することを選ぶ。人は内的に、そのような選択を能動的に採っているのだ。ごく一部の注意深い人のみが、自己のこととして、それを実際にやっていることに気づく。<<まったく信じがたいこととして>>。
それは気づいてしまうと、思いがけず、恐ろしいほどの決定的な一歩、虚妄への踏み込みだった。取り返しがつかない、と思われるほどのそれを、実は日々のこととして繰り返している。
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理知へ向かう人人は、当然、虚妄へ向かう人人と逆の道筋を採る。彼らは頭を弱くするどころか、強くしようと望み、それを鍛えることも厭わない。逆の道筋にあるものは、刺激的でないものだ。そして恐怖に恍惚とならず、恐怖を克服しようとする。
彼らは、現代のハリウッド映画よりは、古い映画を選んで観る。古い映画のそれのほうが、はるかに刺激的でないからだ。感情的な表情や展開、青春の光景に見せかけて実はエロチシズムの見せつけでしかない表現が織り込まれた漫画本よりは、辞書を引きながらでも文学の全集を読み通そうとする。
それらは一見、退屈に見えるものだ。なにしろ刺激的ではないのであるから。けれども、それは悦びを伴わないものではない。彼らは、自分が自己の理知に応じて生きている、その理知に従う味わいを悦んでいる。
彼らはそうして頭を強くする。そして、ときによって、横暴で恐ろしく見える教師に向かい、言うべきことを言うために立ち上がる。それは彼が、恐怖を克服する理知の側に生きようとし、またその鍛えてきた理知によって、この教師が恐ろしげに見えるのは、演出に過ぎない、「嘘」だ、と見抜くことによる。
彼らは詐欺の手法に引っかからない。生半可な刺激や恐怖を与えたところで、鍛え上げられた彼の理知は恍惚へと転落しない。誇張された刺激や恐怖の演出を「嘘」だと見抜いて動じない。「気のせい」だと……。代わりに、理知に従って生き、振る舞い営むことの味わいをよく知っており、同じくそのようにして振る舞い営む者から表れてくるものを見つけて愛する。彼は作り笑いで自己を有利に演出せず、また作られた媚態に惑わされることもない。代わりに、一見退屈そうに見えるけれども、実は理知の味わいが伴って豊かなもの、そういうものを見逃さない。
***
ここに、僕自身の話をひとつ置くと、僕は冗談口で言うそれとして、人の過去が見えることがある、と言う。その、霊感パフォーマンスみたいなことが出現したときには、霊感だ、霊視だ、といってふざけるが、僕の場合のそれはまったく霊感などではない。同じ冗談口のまま、けれどもこれは嘘ではないとして、僕はこのように言うことにしている。これは霊感ではなく、ジャンルと手口は「刑事コロンボ」のものだと。
僕がある女性と話している。女性は、頑張らなくちゃね、よーし、と言った。それを受けて、僕にはふと、想像力に或るヴィジョンが結ばれるところがあった。
――あなたは高校のころ、バスケ部か何かにいたのではないか。そして、声を出していこうと、周囲を引っ張っていくタイプで、けれども軟弱な連中がついてこないので、それを歯がゆく不満に思っていた……
このようなパフォーマンスが、ことごとく的中していて、彼女を驚かせることがある。思いがけないことに、空気がワッと沸くので、霊感だ、と僕もふさげて言うのであるが。けれどもこれは霊感でもなんでもなく、ただの洞察である。
悲しむべきことがあるとすれば、実はこのような洞察は、誰にでもできるもので、なんであれば、<<誰でもやっている>>とさえ言いうることなのに、人人の思い込みが、そのようなことは出来ない、霊感でも無いかぎりは、と決め付けていることだ。彼らは、人間の天然の能力を舐めてかかっており、ひいては、理知のはたらきの奥行きをも舐めてかかっているのである。
彼女はふと、ある仕草をしていたのだ。髪の毛を、後ろにまとめる仕草である。おそらくは彼女の、無自覚の仕草で、その髪はいまにもポニーテールにまとめられそうであった。唇の先がわずかに開いている。そこに実物はもちろん咥えられていないが、おそらく当てはまるのは髪を留める輪ゴムだろう。
彼女は、「頑張らなくちゃね」「よーし」と言った。彼女は自身について、やる気と集中力を高めてゆかねばならない、と改めて強く思ったのだ。それで、彼女が生きてきた歴史の中から、思い出のシーンを振り返り、そこから力を得ようとした。その心中が思い出のシーンに立ち寄ったため、表面上に、具体の動作がリプレイされてきた。人間は自然にそういうことをする。僕はその彼女のパントマイムを読み取ったに過ぎない。
僕は彼女がそのようなパントマイムを示したことを、霊感によって気づいたのではない。そうではなく、それまでの彼女の気配、目つき、表情、声の調子、仕草、漂ってくる若さや年齢の感触などが、とつぜん切断され、まったく違うものが出現した、と看取されたからだ。
顔つきは急に若々しくなったが、それは幼すぎるというほどでもない。だから中学生というよりは高校生ぐらいだ。髪の毛をまとめる仕草に合わせて、鋭い目つきが前方の低くを伺っているのは、その仕草が自宅や教室のものではなく、また更衣室のものでもなく、すでにプレーの現場にあることを示している。これがもし屋外の競技だったら、視線はそのように近くを注視するふうではないはずだ。また何か聞き耳を立てるように音響を受け取っているふうがあるのは、それも室内の競技であることを示している。屋外ではさして音の響きが試合のありようを伝えてはこない。視線の低さはまた、バレーボールやバドミントンのように、ネット越しに高く打ち合う競技ではないことを示しているし、全体を広く見るふうでもあるのは、それが個人の競技ではないこと、また広くコートをプレイヤーが動き回る競技であることを示していた。
要するに、彼女のパントマイムにもっともよく適合し、「頑張らなくちゃね」「よーし」という言葉に符合するためには、これからコートに立ちプレーに参加する高校生のバスケット部員、とするしかなかった。また、「よーし」と彼女から零れた声は、奇妙に張りがあり、自身に向けた声というよりは、周囲にも合わせて聞かせる声だった。その表情には、何か腹立たしさが含まれており、なおかつ、それをこらえて乗り越えようとする決意の含まれているところがあった。彼女は「そういう顔」をしていたのだ。
だからこれは、霊感ではない。彼女の思い出から無自覚に出現したパントマイムを、刑事コロンボに倣って読み取っただけだ。
いちいち考えていて、そのようなヴィジョンが得られるわけではない。ふとしたときに、想像力がその像を結ぶのみだ。そしてこのようなことが、僕がそう読み取ろうとして、過去を見ようとして、得られるわけではない。そのような機能は、僕の意図によらず、<<もともと肉の身に具わっていて>>、ときにそれがふと受け取られるのみだからだ。
だから誰にでもできることだし、誰でもやっていることだと言える。ただそのようなことに気づくためには、まず本当にその人を「見て」いるかどうかが問われる。見ていなければ気づくわけもない。人を「見て」、なおかつ、そのような理知のはたらきに気づくかどうかだ。
……敢えてこのことも言われるべきだ。仮に人間に霊感なるものがあり、それによって人の過去を読み取ることが出来たとしても、<<それのどこに益があるのだ?>> そんなもの、不確かな霊感などに頼る必要は無い、もし彼女の過去に触れたいのであれば、彼女の思い出話をじっくり一晩聞けばよい。あるいはアルバムから思い出の写真を見せてもらえばよい。そのようなところに、霊感や神秘的な益がある気がしてしまうのは、けっきょく虚妄であり、頭を弱くした者の恍惚への依存であるに過ぎない。
***
人人は、人間のもつ能力、自身の持つ理知のはたらきを、舐めてかかっており、たいしたことはできないものだと決めてかかっている。彼らはまず、自覚と自意識を、自身に関わる全ての根拠にしているため、自意識に認知されにくい現象については、それが存在すると認めない。仮に認めたとしても、そのことが起こる現場では気づかないのであるから、認めるかどうかも大したことにはならない。
ここに二品の料理、AとBがあったとして、Aのほうを食べたとき、「おいしい」という認識が起こる。一方、Bのほうを食べたときには、ふむふむという程度で、賛嘆は起こらなかった。けれども、彼の自意識がそのような認識を起こすのと裏腹に、食べ終わってみれば、Aのほうを残し、Bのほうを食べきっていた、ということがある。それは、Bの食材が、ささやかな味付けながら、食材として旬のものだった、というようなときによく起こる。このようなとき、彼の肉の身に具わった能力は、Bの美味と滋養を見抜いていたのである。けれども彼はその自意識によって、Aという料理が旨かった、と友人に報告するだろう。このような事情の中で、やはり一流の料理人は、Bの味わいにその本職の精力を向けている。
僕の直接知る、職業的マジシャンの或る人は、僕がトランプの一組を手渡したとき、「これ一枚少なくないか?」といった。調べてみると、たしかに54枚のはずが一枚足りておらず53枚だった。なぜその一枚の差までわかったのだと聞くと、「わからない」と彼は答えた。彼はそう答えてから、自らのことに驚いたのである。
人間の肉の身に具わった能力の程度が、実際は100まで奥行きを持っていたとして、自意識がその全てを捉えているとは限らず、またそれに気づくとも限らない。自意識は100のうち1までしか認識しえていないかもしれない。
だからときに、人間は、その自意識を超えた現象を体験したり、見たりする。そのことがまた、捻じ曲がって記憶され、霊感めいたものを信奉させる体験的根拠のひとつともなる。
先の段で話した、僕による或る女性の過去の読み取りについて。その読み取りは、ただパントマイムの読み取りだったに過ぎない。けれども、それを飛び越えて、彼女の髪を留める輪ゴムが明るいピンク色で、それをくたびれるまで愛用していた、ということまで見ることがある。このようなことは、当たっていることもあり、外れていることもあるが、明らかに偏って的中するとき、その現象を常識の範囲では説明できない。
けれども、それでもやはり、そこにあるのは霊感などではなく、ただ日常に構成された常識が人間の能力を捉えきっていないということに過ぎない。一台のパソコンを与えられてもその機能の全容は知りえないように、人間が各自に与えられた肉の身は、はるかに繊細で奥行きを持っており、その能力を自意識は把握しきれていない。
人人のうち、ごく一部の人たちが、そのような奥行きに気づく。自意識に捉えきれない能力がこの肉の身に潜んでいることに気づく。そしてその中でも、さらに限られた人たちが、ついに自意識の限界が実に貧しいことを見切って、自意識を媒介させず100の能力を直接使う方法を会得する。それは一般に達人と呼ばれる。
自意識を媒介させず機能するとは、驚くべきことである。たとえば達人の剣士が、背後から不意打ちに切りかかってくる敵を、そちらを見ないまま制してしまう。ところがそうして勝利した達人の剣士は、どのようにしてそのような対応が出来たか、敵が切りかかってくるのが「わかった」のか、自意識に心当たりを持たないのである。彼いわくは、彼の肉の身にそのような機能が具わっていて、それがはたらいただけだという。確かに、自意識に心当たりがあったら、それは不意打ちをされたということにはならないが。
ムツゴロウの愛称で知られる畑正憲氏は、そのエッセーの中でこのようなことを告白している。プロ同士で位を賭けて麻雀を打っているとき、ある牌を切ろうとしたら、どうも身体に違和感が走った。それでその牌を捨てるのは取り下げた。後で確認してわかったこと、もしあの牌を切っていたら、四暗刻単騎に振り込んでいた。
このようなことは、後ろから見ていると、まるで霊感があるように見える。そのように見えるから、一部の人人が、それを根拠にして霊感を信奉することになる。
これらについて、霊感を否定し、正しく言うためには、「理知の果て」という言い方がふさわしい。人間は理知の果てに、ついにそのような能力を実現する。もともと、肉の身に具わってある能力であるが、これを捉えて活用することが出来るようになる。その実現が示されたとき、人人は、人間のもつ可能性と本来性を目の当たりにした思いがして、悦びを覚える。また、自分の持つ常識が日常に構成された不十分なものに過ぎないということも確認し、いつかこの自意識を越えた能力を自分も実現させたいと前向きに捉えることが出来る。
ただし、それでもなお、この理知の道筋へ踏み込み、進んでゆこうとする人は全体の一部だ。理知の果てを遠くの目標とし、進んでゆこうとしても、その道筋は険しい。深く入り込んだ常識を超えることは難しいし、自意識を排除して機能するということは端緒が無く取り掛かり方さえわからない。自分のニブさを突きつけられるばかりの道筋だ。
その中で多くの人は、志を変えることにする。理知の果てにある達人など「嘘」だ、インチキだ、と見なすことで、常識に適合することに落ち着くのだ。常識に適合すれば、彼は「常識的」な者となり、常識の中に住み続けるかぎり、彼を責め立てるものは何もなくなる。そのようにして彼は安楽を得る。
ただし、それは安楽ではあっても、寂しさを伴うものなので(人間の可能性と本来性を否定しているのであるから)、寂しさを癒す道筋を求めはじめる。彼は理知の果てを否定することによって、常識に適合し、自らを「現実的」な者として逞しく感じているが、その現実的という感触が彼に寂しさを与えてやまないのだ。このままでうつ病になってしまう……
そこに、恍惚がありますよ、という呼びかけが届く。刺激的なものが与えられますよと。彼は一転、虚妄のほうへと歩み始める。まさか虚妄の果てに到達するわけではあるまいと信じながら。
***
占いやスピリチュアルといったものが、文化的に排除されず、人心からも排除されないのは、その本来が深甚なはたらきを持っていることによる。
占い・スピリチュアルは、人間の心にある構造の壁、意識と無意識の壁に隙間を開け、そこに換気の風を通そう、という試みである。無意識の側は、人が覚醒しているときは、必ず壁によって閉じられていなければならないが、その中でもあくまでイレギュラーとして、無意識の側に呼吸をさせる必要が生じることがある。ユングによれば、無意識の底には、さらに周辺的無意識という超越的な心理層が続いている。隙間を開けて、そこまで空気の入れ替えをしてみようとする、その作用を求める方法として、占いやスピリチュアルは人人に保存されてきた。
人人は、占いやスピリチュアルを根絶まで否定しきってしまうと、可能性を失い、こんどは別の病気になる、と考えたのだ。
ただし、この本来の機能としての占い・スピリチュアルの試みは、危険を伴う。意識と無意識の壁が、隙間どころか、破損を起こしてしまったら。特に、まだ頭の弱い未成年や、成年であっても鍛えられておらず弱いままの者は、その破損を十分起こしやすい。この壁が破損して意識と無意識のミックスが起こると、それはいわゆる統合失調症という精神病になる。かつては精神分裂病と呼ばれてきた。
人は自分の心に不協和を起こすものを、無意識下に抑圧する。それによって安定を得、閉じ込めた不協和は、時間をかけて後日にゆっくり解消してゆこうとする。この抑圧のこじれきったものを、ユングはコンプレックスと呼んだ。コンプレックスを解消するためには、確かに無意識の層に押し込められた記憶を、意識上に取り戻して解決しなくてはならない。そのためには意識と無意識の壁に流通の機会が必要だ。また、そうして無意識下にさまざまな記憶が蓄積されていくからには、無意識下には意識上の自我とはまったく正反対の、ひとつの人格が形成されることになる。それをシャドーと呼び、このシャドーと自我とが改めて統合することを、ユングは自己実現と呼んだ。このことのためにも、やはり意識・無意識の間で流通が起こらねばならない。
占い・スピリチュアルは、本来はそのことへの呼び水として機能していた。けれども現在になって、人人が占い・スピリチュアルと関わるその関わり方は、本来の節度を保ってはいない。本来は、理知を十分に鍛えた者が、さらなる向上、自己実現への不可解な一歩を踏み出すものとしてそれはありえた。しかし現在のところは、むしろ頭の弱い者にかぎって、それに触れて自分を浸していくことに熱心である。
理知において、いや理知によらずとも、占いやスピリチュアルは「嘘」だ。占いの流行がある中、占いは3.11の震災を予言しなかったし、被災者をなんら救済しなかった。スピリチュアルが人の前世を断言しても、それは断言しても否定のしようがないというだけで、嘘だ、という断言も同様に成り立つ。占い・スピリチュアルの特徴は、こうして「嘘」であるにも関わらず、当人らはそれを決して嘘だとは自白できないというところにある。
同じように「嘘」に見えても、例えば映画や演劇は「嘘」ではない。手品であれば、手品師は「タネも仕掛けもございません」というが、その嘘をもって、手品を「嘘」ということはできない。なぜならば、それが手品であると告白している以上、前もってタネがあることは先に知らされているからだ。
映画は映画であり、フィルム撮影したものにすぎないと、前もって告げてあるものだ。演劇は演劇であって、舞台の上で作り上げているものに過ぎず、そのことは前もって言われている。そのことの証明のように、映画の終わりにはスタッフロールが流れる。これはスタッフによって作り上げられた映像作品です、と挨拶をして締めくくっている。演劇も、同様のカーテンコールがある。これらは嘘ではなく「架空」であり、「フィクション」と呼ばれる。
映画など虚構に過ぎない、として、それを愉しまないものは、これは理知の態度ではない。人人は嘘と付き合って暮らしているが、理知はその中で、嘘を嘘と了解したまま付き合う能力である。手品のタネをしきりに知りたがる人は理知的ではない。演劇の舞台裏や役者の私生活を知りたがる人も理知的ではない。
この中で、占い・スピリチュアルだけが、それが「嘘」だと前もって告白しない。それどころか、本当のことだと言い張る。これが占い・スピリチュアルのもっとも重要な特徴である。
それは、占い・スピリチュアルが、それを「嘘」ではないと「言い張る」こと、そのこと自体が、作用の最重要の核を成すからである。
ふだん、人の心の構造は、自我・意識の側が無意識の壁を封鎖している。眠っているうち、その壁はやや緩んで、検閲済みの書簡程度なら流通する、という具合だ。この強固な壁に隙間を開けるには、<<自我を屈服させねばならない>>。
理知は、嘘を嘘だと見抜いてしまう。これは自我が屈服していない状態だ。これを屈服させるには、独特の風貌やキメツケの口調で刺激を与え、霊的な次元で致命的な損失が起こると脅かして恐怖させ、頭を弱くし、ついに「嘘」を「本当」だと思い込ませねばならない。
占い師が自分の未来を言い当てることなどできない。そのことを、本当は人人は知っている。知っているのに、その理知が屈服してしまう……このことが、占いやスピリチュアルの、本来の役割に向けての第一歩なのだ。ここを折れてしまっては、それはもう占いでもスピリチュアルでもなくなる。
このことの手ごわさがあるから、古くは、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と言い習わしてきた。古人が、無意識の壁に隙間を開けるとして、その八割ぐらいの手加減で押すのがいいとされてきたのである。十割で押し込んでは壁に穴が開いてしまうと。
けれども現在は、占いやスピリチュアルについて、人人がそれに関わる態度は節度を失った。やはり、「もっと恍惚とするものを」、「もっと頭を弱くして」、と多くの人人が望んでいる。
はじめのうち、心の壁に開く穴は小さなものだ。どこかふわふわした心地がして、それは現実を生きることのむなしさから彼を救ってくれるように感じられる。実際それは、恍惚によって、慰めの効果を持っているのだ。
だがこのときすでに、彼は自覚のないままに、朝のニュースに挟み込まれてくる星占いにしても、それが「嘘」だということを忘れ始めている。彼の理知は屈服することに慣れきってしまった。朝の星占いなんて、まさかこんなものアテにしないよ、と気を張ってはいるが、それをはっきり「嘘」だとは言えなくなっている。彼はまずこのように、何が嘘で、何が嘘でないか、はっきり言えなくなる、あいまい化する状態に陥る。
彼には徐々に、<<全てのことが占いに見えてくる>>……このことの心性は、もともと多くの人に存在するものだ。靴は左足から履かないと、よくないことが起こるジンクスがあるとか、この紙ゴミを投げてくずかごに入ったら、今日は幸運な日だとか。あくまでお遊びとして、人はそういうことをやる。けれどもそれはあくまで、嘘を嘘のまま遊んでいるものだ。<<全てのことが占いに見えてくる>>彼の到ったところはそうではない。
たとえば、すれ違う車のナンバープレートを目にする。そこには数字の配列があるが、その無意味な配列が、何か意味をもって自分に語りかけてきているような気がしてくる。ベランダに野鳥が来てさえずると、彼にはそれが自然の風景に見えず、何かを自分に言いに来たように感じられてならない。自転車の鍵をかけわすれて、自転車を盗まれてしまった。それを、彼は自分の失敗や治安の悪さとは捉えない。この盗難事件は何かを意味しているはずで、これは自分に必要なことだったと捉えて符合を探す。
果ては、自分の運転で人を跳ね飛ばしても、とっさにそのようなことを思う。「しまった、やっぱりあのときの猫だ!」。このような例は、極端でもなく、珍しくもない。虚妄の澱みへ進んでゆく人はありふれてこのような様相を示す。彼にいまさらその虚妄を指摘する友人がいても、彼にはそれを聞き遂げる理知は残されていない。
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人人は暮らしの中で、実に何気なく人に会っているが、その中で一部の人についてだけ、独特の印象を覚える。それは鋭いような、それでいて穏やかな、包容感のある印象だ。見ているだけで、頭がすっきり冴えてくるような……その人は、ただそうしてそこにいるだけで、そこに存在するという印象を強く与えてくる。このことを人は「存在感」と呼び、一般的な感覚として通用させている。
存在感とは何による現象なのかということは一般には掘り下げられない。また一般の使われ方では、企業組織などで権力を振るっている、いわば厄介者などについても、それを存在感と呼ぶことがある。けれどもそのような、立場を奪えば消失する存在感は本来の存在感ではない。本来の存在感は、その主が持つ理知の気配による。一般にありふれたそれとは違う、磨きぬかれた理知が彼にはあると直観されるとき、なぜかそれは存在感として人人の皮膚感覚に直接訴えかける。それはメディアを通してでも伝わってきて、ハッとさせられることがある。名前も知らない外国人俳優の、その姿になぜか深い理知を直観させられる。それを「存在感」があるとして、彼の名前はなんであるのか、どのような作品に出ているのかを、調べて知ってみようと、積極的な心がはたらき始める。
人は、その彼の「存在感」を受けたとき、その人と話してみたい、という心を自然に起こす。それは、その人には、自分の本当の声と言葉が受け取られそうだからである。これは存在感が理知の現象であることによる。理知は嘘を見抜くものであるから、そのぶん、本当の声と言葉を受け取る。
造りのしっかりした高級なベッドがあれば、それに飛び込んでみたい、という気持ちがむらむら起こる。それは造りのしっかりした高級ベッドが、自分の身体を間違いなく受け止めてくれると予感されるからだ。それと同じように、「存在感」のある彼には、自分の本当の声と言葉が間違いなく受け取られるという予感があり、話してみたいという気持ちがむらむら起こる。
ここには同時に、いざ本当にそうなったとしたら、畏れるだろうな、という予感も伴う。それは、本当の声と言葉が受け取られるぶん、嘘やごまかしがきかない、ということも、ときにはより切実なこととして、予感されるからだ。人はそれぞれの暮らしの中で、使いまわしてこなれた、自分なりの話す方法を持っている。それが本当は、いささか軽薄な、安っぽい手段でしかないと知ってはいても、その使い慣れた方法で話すことに安心を覚えている。それが、本当の声と言葉が伝わってしまうとなれば、安心は剥奪されてしまうということだ。それで、まだそれが空想の段階でしかないにも関わらず、空想のうちですでに尻込みする。そして、もし話すことがあるにしても、もっと自分がまともな人格を具えてからだ、と思いなおす。
一方で、奇抜で演出的な格好をした者が、狂態を示し、奇声をあげて、舞台上なり路上なりでのたうつようなパフォーマンスをすることがある。それは彼なりの自己表現なのだろうと了解されるが、人人は彼に存在感を覚えない。それでも彼がいちおう目を引くのは、単に彼が見慣れない刺激物で、かつ狂態が恐怖を与えるからだ。娯楽性を持っているのである。ただしこのような娯楽性は、人人の頭を弱くさせることと引き換えにしか愉しまれない。よって、この奇抜な者に子どもが目を引かれることがあれば、母親はその手を強く引いて、見ないの! と子どもを叱り付ける。それはいわゆる「教育に悪い」というもので、母親が、そのような刺激物が子どもの頭を弱くすることを知っているからだ。
そのような、奇抜で目を引くけれども、存在感がない者については、先ほどとは逆に、「この人に話をしても無駄だろうな」という直観が前もってある。
人は、その自覚はないにせよ、単に物理的に存在している人間とコミュニケートするのではなく、存在感のある人だけを本当にはその存在を認めていて、その「存在」に向けてコミュニケートしようとする心を起こす。このコミュニケートの極端な不能を直観させられる人を、俗に「電波」と嘲弄する言い方があるが、これは彼が妄想の電波を受信する者で、こちらの声や言葉を受信はしないという直観から出ている。
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人は、特に男女として交際するとき、その交際相手が「特別」な人であってほしいと望む。その「特別」というのは、「特別な存在感」のことである。たとえば女性から見たとき、相手の男性が、理知に富んでやさしく微笑んでおり、自分の存在がよく受け止められる……このように自分の声と言葉が、あるいは自分の全体が、受け止められる人はこの人のほかにはいない。そのように思わせてくれる人を、交際相手にしたいと望む。
理知に向かう二人が出合い、互いに恋仲に結ばれるとき、二人は幸福だ。仮に、若すぎる二人が、やがて折り合いを付けられずに別離することになったとしても、そのことが二人を不幸にはしない。貴重な体験と記憶を二人に残して過ぎ去ってゆく。二人は、それを踏み台にするというよりは、そういう時間を過ごしたということを、自分の生そのものに結ぶ。生きるということは、むなしいことでは決してないと、失いようのない記憶として、彼らは互いに互いの存在を残す。
強調されるべきは、彼ら二人は、娯楽性によって交際するのではない、ということだ。楽しみが二人を結ぶのではない。二人を結ぶのは悦びである。互いが互いに受け止められる悦び。二人は互いに、どのようにして生きていくかを考え、話し合う。そのような重要なことへの考えが、互いに受け止められるということが、彼らを何より励まし勇気づける。
彼らは理知へ向かう二人であるから、二人の間に「嘘」や虚妄は交わされない。彼らはなにも、本当のことを話そうとするのではないのだ。ただ二人が向き合うとき、そこには本当の声と本当の言葉しかこぼれてこない。彼らの理知は、自分がこれから何をするべきか、また相手に何をしてやれるか、ということを考えている。彼女が熱病に罹って寝込んでいるところに、彼が駆けつけてきてくれる。今日はひまだったからさ、と彼は言うが、彼女の理知はそのような嘘をやすやす見抜く。半ば、そうして見抜かれていることを、彼のほうでもわかっているのだ。彼らはこうして、互いに本当のことが伝わることを悦びあう。
彼らの間にも、生活に関わる「嘘」はあるかもしれない。彼の顔面についた青アザは、殴り合いによるものだったが、彼は彼女の心を痛めないよう、それは自転車で転倒してついたものだと言い張る。彼女は過日、友人と食事に出かけたが、それを友人とだけ言ったものの、それはいくらか自分に言い寄ってくる気配のある、けれども立場上断ることもできない先輩からの誘いであった。
そのような、生活に関わる「嘘」は、彼らの間にも出現する。けれども、それは彼らにとって重要ではないので、ただちに見捨てられる。彼らの悦びは、互いの存在を受け止めあうことにあるのであるから、その受け止めあいが嘘にならなければかまわないわけだ。そんなことより、と健気な二人は考えている。彼らがいつも気に病んでいるのは、はたして自分は相手のことを十全に受け止められているだろうか、という真摯な問いだ。
彼らの恋あいは、むしろ恍惚との戦いである。若い二人にとって、恍惚に引きずりこまれる誘引は強烈だ。互いに与え合う性の刺激は強く、また互いに潜在している、お互いを失うことへの恐怖は、潜在のものであっても巨大である。
この中で二人は、やはり理知を持ち崩すこともある。彼女に触れられなかった夜、彼はもやもやと嫉妬の気持ちを湧き上がらせる。彼女のほうは、ある夜、ふと自分は彼と長くやっていけないのではないかと思い、不安におののく。
こうして理知を持ち崩したとき、人は本意からではなく、冷たく無神経な態度を表出させてしまう。それは何かに気をとられていて、グラスを取りこぼして割ってしまうことと大差ない。こうして冷たい態度が不本意にでも現れてしまうと、嫉妬に焼けていた彼はついに感情的になってしまう。あるいは、不安におののいていた彼女に、彼の冷たい態度が触れると、「わかってくれないの?」と彼女には取り乱した不満が起こる。
そうして二人は、いかにも若い恋人がするような、ありふれた喧嘩もする。けれども互いが理知の人である以上、問題は長続きしない。二日もたてば感情的な熱は醒め、再び理知によって、自分はどうするべきか、相手に何をしてやるべきか、ということを考える。若い二人は互いに、「ごめんね、あのときはどうかしてた」と言う。その、どうかしてた、というのは、彼らが理知を持ち崩した時間のことを指している。
一方で、虚妄へと進む二人については、理知のそれに倣わない。彼らは、交際について求める「特別」という部分について、相手にとって自分がその「特別」であることの言質を求める。男は慌てて、「きみのことが好きだ」「きみなしではいられない」といったことを言う。それは「嘘」なのだが、彼女はその嘘を見抜く理知の者ではない。
彼らの交際は、当初、むしろ誰よりも幸福なのではないか、という様相を示す。それは彼らが、恍惚となることを得意とするからである。恋人の語り合いとして、彼らは互いに刺激的なことを言う。それは「嘘」であってもかまわない。また、あるとき女性が虚妄にかられて、自分なんか死んだほうがいいと泣いてわめいたとしても、そこにある恐怖もやはり二人を恍惚へ導いていく材料となる。
そうして恍惚のまま進んでゆければ、いっそ幸福なのかもしれないが……残念ながらそのようにはゆかない。人はいかなる刺激物についても、やがてはその刺激に慣れてゆく。慣れてしまった刺激には恍惚が得られない。パチンコ店でも新台を入れ替えねばならないように、彼らの恍惚は無限には続かない。
理知の反対側をゆく彼らは、情緒不安定になることに抵抗力を持てない。そして、まずこの情緒不安定が二人を衝突させる。週末、出かける予定をしていた二人だったが、彼女は突如、出かける気になれないと言い出す。男の側は、そのようなことはさして重要ではなかったはずなのに、彼のほうもやはり情緒不安定によって、つい険のある声が出る。「お前って本当にわがままだよね」。
また、彼らの交際が、互いの生活を支えあうような密接なものだった場合、情緒不安定は生活面でも彼らを切迫させる。彼の就労は安定せず、彼女は勉強するといっていたものが、ろくに続かない。彼らは互いの頼りなさを軽蔑しはじめる。彼らは互いに、いまさら相手の本当のことを見たように思わされるのだ。「こんな人だと思っていなかったよ」。
彼らはいったん話し合おうとする。けれどもその段階になっていよいよ気づく。自分の声や言葉が、本当には相手に受け取られていないということに。話し合うというよりは、もはやクレームの言い合いめいたものが続くことは、二人を心底から疲れさせ、絶望させる。この絶望と苛立ちについて、女性が愚痴をこぼすことはよくある。そこに、「それは彼が理知的でないということ?」「彼の頭が弱いということ?」と水を向けると、「そう!」と激しく合点されることがある。
そして二人は別離する。それぞれに、また別の恍惚の相手を探すが、そのときにはもう、驚くほどに、互いに互いのことが覚えられていない。ずいぶん密接した時間を過ごしたはずなのに、互いが互いに残した言葉や声、互いに与え合ったはずのものが、いっさい残っていない。
それは互いが、恍惚によって結ばれていただけで、互いの存在感を認め合っていたわけではないからだ。これによってむしろ彼らは、過去の交際を引きずるということから無縁でいられる。まるで何事もなかったかのように晴れやかになり、彼らは、自分の気持ちが前向きになったと感じる。新しい恍惚のパートナーが見つかったとき、いよいよ完全に、彼らは過去の相手について、「そんな人はいなかった」と内心で扱う。
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人人は「嘘」と付き合いながら暮らしている。「嘘」とどう付き合うか、そのやり方は、理知と虚妄とに分かれていて、その全体の天秤は、いま虚妄のほうへ大きく傾いている。
この中で、珍しいこととして、たとえばひとりの少女は、このように自己の進みゆきを理知のほうへと転換する。
虚妄から理知への転換は、徐々に、という手続きを踏まない。あるときふとやってくる。彼女は自室のベッドに横になっていた。そこでふと思うのだ……<<この、占いとかスピリチュアルとかいったものは、全部ウソなのじゃないか?>>
「全部ウソ」、ということの決定的な意味に、無慈悲なものを彼女は感じる。彼女は急激に悲しくなり、また淋しくも感じた。全部ウソだなんて……彼女は自分が暮らす中、身近なことの全てに、神秘がつきまとっているのではないかと、漠然と信じていた。そう捉えることは、彼女を豊かな気持ちにしていた。
それが突然に剥ぎ取られたのだ。彼女は急に孤独になったのである。
それでも彼女は、勇敢に問いを続ける。彼女の内には、理知が生き残っており、正しく育ってきてもいる。その理知が、勇敢にこの問いを続けてやめない。
彼女に思い出されたのは、ひとりの友人のことであった。友人はこのところ、人にある「オーラ」についてばかり話すようになった。それによって、付き合いにくくなった、と彼女は悲しく思っていたのである。
「オーラが見える人っているんだよ」
「オーラのことを意識すると、やっぱり人のことがよくわかるようになるよ」
「こんど、本当に見える人のところに行こ? 一緒に」
はじめのうち、彼女もその友人の言うことに、面白がって乗っかっていた。それだけ熱心に言われると、真に受けるわけではないけれど、そういうものってやっぱりあるのかな、という気がした。そもそもオーラというものが無かったら、オーラなんて言葉自体が無いはずなんだよね、という言い方には説得力があった。
でも、と彼女は思う。彼女には悲しさがこみ上げてくる。
――人のことがよくわかるようになったんだったら、どうして、わたしが「付き合いづらくなったな」って悲しんでいることに、気づいてくれないの?
それはあのコがまだ、オーラを見るのに初心者だから? 専門家になったらまた違うのかもしれない。彼女は問いを続けている。でもやっぱり、全部ウソなんじゃないか? 最近のあのコが、上昇に向かっているとは正直思えない。
全部ウソ、という言葉の決定的な意味は、やはり無慈悲で、彼女はこれをなかなか受け入れられない。そして、ひとつ発明をしてこれをしのいだ。彼女は、「仮に」と考えた。
――<<仮に>>、占いとかスピリチュアルとか、オーラとかが、全部ウソだったとしたら、わたしはどうするんだろう?
それは、仮定としての、彼女の思考実験に過ぎなかった。けれどもそれは、彼女に目覚しい変化を与えたのである。「仮に、それらが全部ウソだったとしたら」「わたしはどうするか?」。
……いまこの瞬間に、神秘的と思っていたものの全ては<<終わった>>。そのようなものは、いま世界から全て絶たれた。
あれっ? と彼女は、寝かせていた体の、半身を起こす。目に映る自室の光景は、当たり前のものとしてそこにあるが、それらは奇妙にまざまざと、実物の実感をもって迫ってくる。それは長い夢から醒めたときの感触に似ていた。
彼女は、自分がここにいて、机がそこにある、というような当たり前のことを、ものすごい手応えの事実に感じた。
人が虚妄を断ち、理知に目覚めると、その自身の理知の輝きが自分の生きる世界を照らす。世界の全てが理知に包まれる。そこには神秘ぶったものは何もなく、当たり前のことしかない。けれどもこのときの彼女は、その当たり前にこそある荘厳を捉えていた。
彼女は、この世界でいい、と思ったし、この世界のほうがいい、と思った。笑いの衝動が、彼女の腹の底にこみあげてきている。
彼女は友人を思い、改めて、実声に出してこう言った。
「ああ、ごめん。やっぱり全部ウソだわ」
彼女のイメージの中で、友人はショックを受けておののいた。彼女にはもう、それがなぜウソなのかを、説明する気さえ起こらなかった。ウソにきまっているものをウソだと説明することは馬鹿馬鹿しかった。そのウソにはまり込む人がいるのもわかる気がする。つい先ほどまで、自分もそうだったのに、あつかましい話で申し訳ないが……
でもウソだからね。
彼女は、目の前にまざまざと広がる当たり前の世界に向けて、考えた。自分はこれから何をしてゆこう。具体的なそれはまだ浮かばないにしても、やるべきこと、やりたいことは、いくらでもあるとわかった。それは当たり前だ。わたしは生きているのだから。
ずいぶん長い間、何かをさぼっていた気がする。何から始めるべきというのでもないけれど、とりあえずわたしは、ちゃんと人にハキハキあいさつをしよう。ハキハキあいさつをするのは気分がいい。自分にとっても人にとっても。気分がいいということは大事なことだ。
そうか、と、彼女はあごに人差し指をあてる。占いとかスピリチュアルとか、神秘的なものに、入れ込んでいるつもりは決してなかった。そんなつもりはなかったのに、自分の精神力が、ずいぶんな量、そっちへ吸い込まれていたんだ。それでは、力が出るわけがない。
彼女は自室を、右から左へ、何事もなく見遣った。その中に、これまで自分に娯楽を与えてくれた、いくつものアイテムを見る。これはこれとしていい、という気がした。でもいまの自分には必要ない。彼女はいま孤独である。<<部屋に一人でいるのだから孤独で当たり前だ>>。これほどはっきりした孤独をこれまで彼女は感じたことがなかった。
実は、世界は、ものすごく単純に出来ているのではないか? この発見は、彼女を痛快な気分にした。自分がいて、自分が何かをする。人も、何かをする。ただそれだけしか、本当にないんじゃないか? それは思えば思うほど当たり前のことであった。彼女は友人の虚妄をひねりつぶすことに決めた。
[了]