No.215 恥辱を請け負う者
動物が雌雄に分かれている。人はそこに差別を与えなかった。オスとメス、男性と女性があるが、そこにある性差は明らかにせよ、それは差別の対象ではない。だから人は、身近な飼い犬や野良猫について、それがオスであるかメスであるかにこだわらない。飼い猫がメスだからといって、そこに「おんならしさ」を探しはしなかった。
けれども人は、成熟した女性について、そこに差別を与えた。彼女らを差別の対象とした。それはきっと、与え合うということがしたかったからだ。人は女性に<<恥辱>>の階級を与えて、差別した。そしてその階級を「おんな」と呼ぶことにした。
男性と女性は対等である。そこに性差はあり、性差は考慮され、配慮もされるが、差別はしない。女性を差別するのではなく、その下に「おんな」という階級を作った。同じ階層に「おとこ」という階級はない。女性は、女性兼おんなという二面性を抱えてゆくが、男性は男性と呼んでもおとこと呼んでも同一だ。男性は単一の階級だけを生きる。
だからおんなは、どれだけ酔っ払っても、服を脱いで裸になり、陰部を見せて踊ることはできない。おとこは酒宴でよくそれをやる。おとこの場合がへっちゃらなのは、その股間に恥辱階級の徴(しるし)が無いからだ。おんなの場合はそうはいかない。おんなが同様にそれをやると、股間に陰茎がなく、ヴァギナが具わっている。それは「おんな」の徴で、恥辱階級の徴だ。彼女は恥辱の身分を明らかにしてしまい、容赦ない差別が与えられてしまう。
ましてそこに、「おんな」の徴を強調するように、月経の血がしたたっていたら、恥辱の顕れは倍増してしまう。
ここで注目すべきは、そのような恥辱の差別を与えるのは、男性からだけではない、女性の側からもだということだ。彼女は、男性と女性とで構成された社会共同体から、身分においてはみ出してしまう。彼女はもう、女性という立場に帰ることさえ許されない。要するに、会社をクビになっておかしくないし、クラスメートたちからは、永遠に差別的な目で見られてしまう。
彼女たちには、恥辱階級であることの徴が、その肉体に刻まれているのだ。だから彼女たちは、生涯にわたってそれを隠す。男は立小便を許されても、女性は密室においてしか陰部を曝け出せない。月経という生理現象は誰にでも知られているのに、女性はその当日を見破られてはならない。もし、座席の布に、その血液の染みでもついたときにはおおごとだ。仮に、男の性交の現場が写真に撮られたとして、それは男にとって「気恥ずかしい」という程度にしかならないが、おんながもしそのようなものを撮られたら、恥辱の一大事となる。
だから女性は、この人ならと認めた特別の男性にしか、その陰部、恥辱階級であることの徴を晒せない。また男性が、女性と性交するとき、女性に「恥じらい」を求める理由はこれだ。彼は女性と寝たいのではなく、その恥辱階級を明らかにしたおんなを抱きたいのである。だから男がそこに求める恥じらいというのは、いわゆる「照れ」といったものとは次元が違う。男は、おんなが自らの階級、その恥辱に震えておののく、そのさまを確認して抱きたいのである。
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おんながそのように恥辱階級であり、それは社会生活においては隠蔽されなければならないのだとしたら、なにも彼女は「おんならしい」格好や振る舞いに気を配る必要はない。ひたすら、その恥辱階級の特徴を隠して、まったく男と同様の振る舞いをしてゆけばいい。
たしかに、隠蔽するだけならばそうだ。彼女らは、ずっと「女性」のまま生きて、男性と共に社会を営んでゆけばよい。けれどもそうではないから女性は苦労する。女性は二面性を背負って生きねばならず、それはまるきり、スパイの生活のようになるのだ。
彼女は女性として暮らしている。その中で、自分が恥辱階級であること、「おんな」であることを気づかれてはならない。にもかかわらず、彼女はやはり、おんなとして活躍できる機会も、生きているうちに見つけ出さねばならないのである。それで彼女は工夫をする。あえて、短いスカートを穿き、バストを強調し、恥辱の徴をリスクに晒してでも、自分が「おんな」であることのシグナルをこっそり発信する。もちろんそれが、「おんな」であることの状況証拠にまで揃ってしまってはいけないのだ。もし問い詰められたとしても、あくまで自分は「女性」だと言い張れる、ぎりぎりのところで抑えておかねばならない。それで、バストを強調しておきながら、その肉感が露骨にならないようにブラジャーで覆う、というような矛盾が生じてくる。彼女らはまったくスパイのようで、平和な暮らしを装っておきながら、常に秘密の活躍ができる機会をうかがっているのである。
このことは、常時、女性を苦労させている。女性はこの苦労から解放されたくて、よく空想で遊ぶ。その空想は、たとえば、同僚もしくはクラスメートたちの集まる公共の場で、そこにいる男性と女性に囲まれながら、自分だけが「おんな」としての恥辱を晒す、というような空想である。彼女は強制的に裸にされ、教卓に四つんばいにさせられ、男子生徒に下卑た差別の眼で眺められながら、女性教師によってヴァギナに玩具を挿入される。彼女は、実際にそのような事態になることをまったく望んでいないが、そのように自分の恥辱階級が暴露されたとしたら、性的に解放される、という感触を認めているのだ。
同様に、女性が自慰をするときに、自分がレイプされている空想をそこに伴わせることは多い。彼女は男どもの力ずくによって、その「おんな」の徴を暴きたてられ、男に最低の嘲弄を浴びせられながら、その肉をむさぼられる。そしてみじめな思いをどん底まで味わうが、涙を飲んで耐えるしかない……ということを空想する。もちろん、彼女は実際にそのような体験を望んでいるのではないし、そのような加害があったらただちに「女性」となって報復の手続きを取る。ただ、それは空想として、やはり自分を性的に解放するものがある、と認めているわけなのだ。
これらの空想は全て、「はずかしめ」と呼ばれる。彼女は確かに、はずかしめを受けたときには、もうその恥辱階級を隠蔽する苦労から解き放たれる。よく、多くの女性が娼婦願望を隠し持っていると言われるのもこのためだ。彼女らは、その恥辱階級を公に明らかにしてしまえば、女性という社会的な立場を失ってしまうが、それと引き換えに、「おんな」であることを隠蔽する苦労から解き放たれるのである。それはきっと、自由で伸び伸びしたことだろう、と彼女らは考え、実際にそうはしなくても、憧れを持っている。
男性が女性と性的に関わるとき、あくまでレディに対して紳士的を貫くのがよいとされる一方で、それと矛盾することが起こる。男性が女性に向けて、「はずかしめを与えてあげる」「あなたに恥辱を与えてあげる」と言い、またむき出しにさせた陰部を指差してその恥辱を指摘すると、女性の側が深く悦ぶことがある。それは恥辱の暴露によって、彼女が解放されるからでもあるし、恥辱的な自分がそのまま肯定的に受けいられるから、それがうれしい、ということでもある。このとき、女性は差別されたいのだ。恥辱階級として差別され、おとこに<<はずかしめを受けたい>>のである。「あなたの恥辱を見てあげるから、見せなさい」と命じられることは、彼女らにとって解放となる。
このことの求めが強い女性は、一見矛盾したような情緒反応を示すことがある。たとえば誰か男性に恋心を寄せていたのに、その彼から明らかな好意が返ってくると、なぜか途端にやる気を失くす。興味を失ってしまう。また彼女らは、自分のことを賞賛して言い寄ってくる男性については、うれしくは思うものの、まるでその気になれない、という。男の側が、女性にはやさしくするとか、フェミニズムの言質を漏らしたら、それだけで内心で失笑していることも少なくない。
それは彼女らが、むしろ自分を堂々と差別してくれる男、お前は恥辱階級だと断じて揺るがない男を求めていることによる。彼女らも、自分に好意が向けられること、賞賛が与えられることは、うれしいのだ。ただそのうれしさと裏腹に、自分がはずかしめをうける期待のときめきが遠のくのである。あるいは、彼との距離が接近するに従い、本当にいよいよはずかしめを受けるかもしれないと感じられると、怖くなって逃げ出すということもある。
もちろん彼女たちも、自分の関わる男性について、姓的な関わりの以前に、信頼のおけるやさしさの持ち主でなくては困る、まったく困る、とは思っている。けれども、それがいかに無理難題だと自分でわかってはいても、同時に自分を――おんなを――堂々と差別する気配の男にしか心惹かれないということがあるのだ。彼女らは、女性を恥辱的に差別しない男について、善良で親しみやすいと感じながら、内心で、「おんな」に触れる資格の無い者、とみなしている。
女性によっては、おしゃべりをしてから抱かれるより、抱かれてからおしゃべりするほうがいい、と思っていることもある。それはまず口外されることではないが。そのような女性は、むしろ誰よりもおしゃべりを愛しているところがあって、それだからこそ、自分の恥辱階級を隠蔽したままの窮屈なおしゃべりは「もったいない」と感じている。たしかに順番を入れ替えれば、彼女は自由に伸び伸びおしゃべりができるわけだ。
男女平等の思想はいまも神経質に言われる。むしろ女性の側こそが内心で、その軽薄化したスローガンをあざ笑っているところがあるが、それでもなお男女平等思想は現代社会における金剛条である。この中で、ここまで話したような、「おんな」の話、恥辱を請け負う者の話はまず広くは受け入れられない。その声が放たれることもまずないはずだ。それは、「おんな」は恥辱階級であって、社会に声を投じることなど許されていないからである。
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女性はどのようにして、恥辱階級に押し込まれるか。気の強い四歳の少女に、「あなたは恥ずかしい側の性です」などと言えば、反発され拒絶されるに違いない。だからはっきりとはそう言いつけない。むしろ幼女は、その幼いうち、男性より高貴なものだとして扱われる。女の子なのだから、はしたないことをしてはいけません、と言われる。このとき女の子は、自分が損な立場にいる気がして不満も覚えるが、男の子よりきれいで華やかな服を着せられ、男の子より高貴な扱いをされるため、そこに自尊心を覚えもする。それで、自分は男の子より損なところもあるが、高貴な者なのだから、それらしく振る舞うことにしよう、と彼女は心を落ち着ける。彼女らはまた、将来にドレスを着ることになるのですよということも、ずいぶん早くから教えられるものだ。
子どもたちに読み聞かせられる童話が、子どもたちに彼らの将来を暗示する。男の子は、逞しくて勇敢な、英雄にならなくてはと思う。「桃太郎」や「金太郎」などがそうだ。手下をしたがえて、悪い者をつぎつぎにやっつけるのである。
男の子らに与えられる暗示がそのように単純明快であるのに対し、女の子のほうはそうではない。女の子に与えられる暗示は巧妙だ。童話の中で女性は、「おんな」として王子様に娶られるか、そうでなければ消失しろ――「おんな」であることが露出する前に――と教えられる。娶られてハッピーエンドに結ばれるのは「シンデレラ」であり「眠れる森の美女」だ。消失は、「かぐや姫」と「鶴の恩返し(夕鶴)」である。
子どもらが七夕の短冊に書く願いは、これらの童話が反映されている。男の子は、将来の夢として職業を書き、特に「やきゅうせんしゅになりたい」と書く。父親の膝の上でテレヴィを通して見る英雄がそれだからだ。一方で女の子のほうは「およめさんになりたい」と書く。「結婚したい」とは書かないので、これはもちろん婚姻の契約を求めているのではなく、シンデレラか眠れる森の美女か、もっと直接には、高貴なドレスを着ることを求めているのである。また女の子のほうは、短冊に願いとしては書かないにせよ、「消失」ということに当てられて、白血病で亡くなる薄倖の美少女、といったものにも憧れを抱いている。
男の子の側、「やきゅうせんしゅになりたい」は、単純なものでその後も続く。続いた先がたとえば高校野球の甲子園につながっている。一方、女の子の側はそうではない。「およめさんになりたい」などというのは、ちょっと待って、ふざけないで! と破って捨てる勢いになる。男の子に比べて高貴な者であったはずの彼女らは、急遽、陰部から出血する生理について教えられる。しかもそれが毎月のことで、生涯にわたって隠し続けなくてはならないという。膨らんでくるバストは、絞めつけの苦しいブラジャーで隠さねばならないし、挙句には男性から性的にむさぼられるリスクがあり、妊娠もするから気をつけなさい、と教えられる。
「この不利はなんなの!」となる。これまで彼女たちは、男の子より損をする立場ではあったけれども、そのぶん高貴な者であるはずだった。それが、股間から出血し、それがこぼれないように布を当てているというのでは恥辱もいいところだ。
月経がおこると、少女らは体育の授業を見学する。するとそこに、のんきでまだ思慮の必要を知らない愚かな男の子が来て、下品な好奇心のもと、「生理だろ!」といったことを指摘する。腹立たしく、やりかえしてやりたいが、事実を当てているので反撃もできない。彼女は恥辱にまみれる。バストが膨らみはじめてブラジャーを着用すると、それもまた指摘される。要するに、男の子らが彼女の「おんな」を指摘する、それらの全てが恥辱になる。
このようにして女性は、まったく巧妙な手続きで、気がついたときには恥辱階級にすっかり押し込められている。彼女は大人たちの欺瞞に腹を立てもする。これまで大人たちの教えてくれたのは、男の人と女の人のことだけで、その下に「おんな」という差別階級があるだなんて、教えてくれなかったからだ。
ここから女の子たちは、やむを得ず、自分の恥辱の徴をひたすら隠蔽することを練習して、やがて「女性」となってゆく道筋をとる。その実現には、しばらく時間が掛かる。その練習の間は、中性的な雰囲気のアイドル・グループや漫画・アニメなどを愛好する。それを楽しんでいる間は、恥辱階級の苦しさを忘れることができるからだ。
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女性が、誰か愛する男性と結ばれたとしても、その彼に向けて、自分の身分、恥辱階級を明かすのは、勇気のいることだ。どのような女性も、これまで日常には、そのことだけは晒さないようにと気をつけてきたのだから。初めて性交をする夜、彼女らの動揺はただごとではない。
またその特殊な事情があるから、何割かの女性は、初めて性交する相手を選ぶのについて、恋人を選ぶそれとは違う、独特の選び方をすることがある。彼女らはその相手に、単にやさしい男性でなく、やさしく頼もしいお医者さん、というふうの相手を選ぶ。この人なら、わたしの恥辱の徴に鼻息を荒くしないし、破瓜という外科手術に動揺もせず、やさしい配慮を保ってくれそうに思う。またその恥辱を笑ったり言いふらしたりしない、マナーや守秘義務も具えているはずだ。彼女はそのような相手を選び、まず恥辱階級としての営みの実際がどのようなものかを知ることにする。恥辱階級として誰かと愛し合うのはその後でもよい、と考える。そのような手続きを踏ませるだけ、それは彼女らにとって恐ろしいことなのだ。
初めての性交がうまくいかず、傷つく女性は少なくない。それがもし、下卑た男との仲において、それをしくじるというなら話もわかりやすいが、そうでない場合も多く、そのときは彼女を混乱させる。自分の大切な恋人、やさしく善良であった恋人こそが、彼女をうまく抱けないということが出てくる。彼は善良なので、自分の大切な恋人を、どうしても恥辱階級の者だと捉えることができない。彼女をそのような身分に押し込めることが苦しくてできないのだ。そのようなとき、男性の機能は「おんな」に向けてはたらこうとしない。そこにいる二人は、裸身でなお、男性と女性のままだ。
女性の側は余裕が無い。初めて男性に、自分の恥辱の徴を晒すのである。彼女は実際にヴァギナを晒しながら、恥辱階級の自分を落ち着かせて扱うことなどできはしない。彼女は心のバランスを取るため、なお自分は男性と対等な女性だという虚勢を張りがちだ。彼女の表面は、いつもより強気でいきりたつふうになることもある。
彼女は内心でこう思っている。「それでも、こうして恥辱の徴を晒すことにしたのだから、わたしの表面上の無様な言い訳を踏み越えてきてちょうだい。わたしはまだそうして言い訳することでしか自分を保てないの。こうしているだけでも、本当は死ぬほど恥ずかしいのよ!」。けれども気の優しい善良な彼は、彼女の表面上の言い訳を、いつもどおり、大切な恋人の言葉だと受け取る。なんなら、いきりたった彼女の気勢に気後れする。そうしていると、差別的な営みはいつまで経っても始まらない。初めのうち、二人はこの失敗を互いに受け止めあい、支えあおうとするが、これが繰り返されることは二人にとってつらい。このつらさゆえ、二人が別離することはまったく少ない例ではない。この別離の痛みを経て、男性は、性風俗で経験を積んだほうがいくらかマシだ、とやさぐれて考えはじめることがあるし、女性の側は、このやっかいな未経験、処女というのを、とりあえず捨ててしまおう、と考えはじめることがある。
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男性は自分を、自分の価値観を実現するほうへ向上させようとする。勉学し、修練を積み、就労して活躍しようとする。男性がそうである以上、女性もそうだ。男性と女性は対等で、ともに第一の身分階級にある。女性も、勉学に励み修練を積んで、就労して活躍しようとする。
その中で「おんな」という部分は、価値観の実現には向かわない。なぜなら、彼女らは差別される階級であって、そのような社会参画は認められていないからだ。娼婦としてそこに参加することは特例としてありえるが、それは街の暗いエリアに閉じ込められて、別世界の遊郭として区切られたり、地図上で赤い線で囲われたりする。それは差別的なエリアであり、やはり社会からは黙殺されている。
「おんな」はどうするか。おんなは、「おんな」としての自分を実現しようとする。すなわち、理不尽に背負わされた差別について、反発するのをやめ、その差別をむしろ<<完成>>させようとする。
差別の完成に向かうおんなたちは、男性や女性がその差別について、<<ガタガタ言う>>のをあざ笑う。彼女たちにはその資格があるのだ。なにしろ、恥辱階級に差別される彼女たち自身が、そこに自己を肯定しているのであるから。彼女らは、まだ差別を受け入れられていないおんなを「未熟ね」と思うし、より厳しい態度として、<<差別をする側>>である男性がその差別を受け入れられていないとき、彼らを「坊や」と呼んであざ笑う。男が怯んでいる内心を、「いい子ちゃんでいたいんでしょう」と見抜いてしまうし、彼女らは「坊や」がおんなに触れる資格を認めない。
そうして「おんな」たちは、男性に(女性にもだが)、自立を求めるのである。彼女らが、そうして恥辱階級を受け入れて、伸びやかにそれを生きようとしたとき、むしろ立場は逆転するように見える。男性たちのほうが、責務を背負わされた者、自立を問われる者として、成熟と価値観の実現に向かっているかが、逆差別的に審査されるのだ。
差別が完成したとき、そこに言い争いはない。悪臭は無くさわやかなものだ……男は、おんなをはずかしめ、おんなは、男の価値観実現への向上を賞賛する。<<身分の差を越えて愛し合う>>。このようなとき、おんなは、むしろ自分の「女性」を指摘されるのをいやがる。
女性に向けて、その「おんな」を指摘すると、それは一般的にセクシュアル・ハラスメントと呼ばれ、差別的ないやがらせだ、と捉えられる。これと同様に、おんなに向けてその「女性」を指摘すると、これも差別的ないやがらせとなり、彼女を不快にする。よくある話、交合を終えた娼婦が、男から説教されるとうんざりするのはこのためだ。このことは、通常の男女交際の中でも起こっている。
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男女差別を完全に撤廃するとしたら、それは「おんな」という恥辱階級そのものを消失させることによってしか為されない。鬼が島で鬼退治をするのは女の子になるし、眠れる森の美男子、というものも提出されねばならない。敵に囚われの身になるのは王女ではなく王子様だ。それを、女騎士が救出にゆき、女騎士が求婚する。
女性は男性と並んで裸踊りをするし、野良で小便をする。それは不自然なことのように見えるが、身近な動物でさえまったくそのように暮らしているのだ。だから、生活が動物に近しい原住民のあいだでは、女性はバストを隠さずに暮らしているし、一部のビーチでは、やはり女性がトップレスで堂々としている。文明から離れるほど、「おんな」という恥辱階級の差別は薄れる。
そもそもなぜこのような差別が、人人の文化に据え付けられたのか、その理由は定かではない。定かではないが、このようなことが言いうる。それはきっと、与え合う、ということがしたかったからだ。
男性同士や女性同士、また男性と女性の関係においても、彼らは対等であるから、そこに与え合うという行為は発生しない。そこにありうるのはあくまでギブ・アンド・テイクと呼ばれるものだ。ギブ・アンド・テイクは、誤解されがちだが、与え合うということではない。テイクを潜在の前提としたギブは真に与える行為ではない。
健全なはずの男女交際の関係で、たとえば男性が、その不平等を訴える。誕生日記念などに関わって、女性の側ばかりが、プレゼントで優遇されているね、という話がある。あるいは女性の側からも、これだけ尽くしているのに、もっと色々してもらってもいいはずじゃない? という要求はよくこぼれてくる。
人人はこれらの話の貧しさを直観で見抜く。そこに起こっているのはギブ・アンド・テイクの発想で、真に与え合うということではない、ということを見抜く。
これが、もし差別的関係であったとしたら、そこにギブ・アンド・テイクの発想は生まれない。上位階級が恥辱階級に向けて、何かを与えたとしても、その下位階級が何かを返報するべきという発想はもたない。また下位階級から上位階級に何かを与えたとして、その「お返し」があって然るべきとは発想しない。彼らは真に与え合うのみ。これが具体化すれば、たとえば男はおんなの誕生日に、花を買ってやり、それを押し付けるように差し出す。またおんなの側は、男の誕生日に、ネクタイをおずおずと差し上げ、受け取ってもらおうとする。
いま、健全な男女交際の中で、二人の関係が、そのような差別的関係のみに構成されていることはまずありえない。ほとんどは、男女平等、男性と女性という対等の関係で交際している。差別的な営みが含まれているとしてもごく一部だ。けれどもその差別的なものが少ないといって、満たされないと嘆いているのは、むしろ女性の側に多い。
ここで、実際に男女交際をしようとする、若い女性に向けて、くだらないアドバイスが言いうるとすれば……あなたが「おんな」として、自らその差別階級、<<恥辱を請け負う者>>として立てば、あなたに対する彼の扱いは変わってくる。真に与える、与えられるということが起こってくる。その差別を明らかにやっていくのは、とても難しく、リスクのあることだったとしても。
またそのリスクがあるからこそ、おんなはおんなとなる前に、まず男性に対して女性として向き合い、互いを信頼しあわねばならないのでもあるのだ。
[了]