No.216 人間らしいとは熱っぽいということ
恋あいやセックスを楽しんでしようなんてあさましいことだ。それは元々が楽しいものであるから、不覚にもその楽しさに巻き込まれないか、互いに試したり鍛えたりするためにするものだ。楽しんでしまったら、それはお楽しみに成り下がるじゃないか。
やるからには思い切って熱烈にやる。なぜそれをするかというと、そうするのが人間らしいからだ。その人間らしさを、自分という人間に「やらせる」。それでかつ、自己をその人間らしさに巻き込ませない。抵抗し、たたかう。また男女はそれぞれ男と女であるわけだから、それぞれが、男らしさ、女らしさ、ということも自分にやらせる。その男らしさや女らしさを互いに自分に「やらせる」こと、そこに人間らしさを「やらせる」ことが重なって、恋あいやセックスの営みになる。それは官能的で楽しいが、それに巻き込まれてしまい、ウットリするだけに堕してしまったら二人は敗北なのだ。
そうではなく、互いに、自己を自分という人間から切り離す。自己が自分を見捨てて厳しく当たる。人間らしく、熱くあることを命じる。容赦なく。そして男女が絡み合って、なお互いの自己がナヨナヨと巻き込まれずにあり、むしろ互いが互いの人間を自己から引き千切った、引き離してくれたというとき、互いは互いの飛翔を悦び、互いの無敵を確認しあって悦ぶのだ。
もし、恋あいやセックスが単に熱烈でさえあればかまわないものなら、それぞれは眼を血走らせていてもかまわないことになる。でもそれは何か違うとみんな知っている。この営みは、もっと互いを高みへ飛躍させる可能性を秘めているし、もともとそのためのものであるはずだとお互いに知っている。ダレきって退廃したそれなんかもちろんNGだ。話にならない。話などしないほうがよい。単に恋あいやセックスのありふれた経験が豊富なだけの者や、それにこだわりをもって語る者のありようがどこかでどうも受け入れがたい、低俗に感じられる、というのはそのためである。互いを高みへ飛翔させる本質を知らずに、ただそれを数多く齧ることでよく知ったふうになることを、人はあさましいと直観するし、何かが弱くベトベトしていて、絶望の予感がある、と覚えるのだ。
自分を自己から切り離すのである。切り離すもなにも、本来もともと離れてあるものだ。それがいつの間にかくっついてしまう。これは甘えているのである。甘えるというのは何も他人に対してだけじゃない。自己が自分へと甘えるのだ。人間らしさの熱に溺れて、「別にいいだろ!」と開き直る。
別に恋あいやセックスでなくてもいい。自己と自分を切断し、自己の甘えるのを糺し、自己と自分を本分に帰らせることを求めるそれならば、何をしたって高潔だ。むしろ人間のすべての営みはそれを希求して発達しているのである。
なぜそのような営みに自らを向け、自己と自分とを切断しようと志さねばならないか。それはいま言ったように、それが本分だからだ。自己と自分とは、元々が切り離されてあるもので、この本来あるべき姿に自分を帰らせるためにそれがある。自己と自分とを合わせた全体が完成することとは、その本来あるべき姿に到らせるということである。
乱暴なセックスが二流だということは誰でも知っている。けれども、乱暴なそれは二流だからといって、おずおずとテーブルマナーのようにそれをするのもまた二流だと人人は知っている。乱暴なそれに比べれば具体的にはましだ、という程度に認めはしても。
そんなことではいけない、と誰でも思うのは、本来その自己と自分とが切断されて、互いが自分にその人間らしさを「やらせ」、男らしさ・女らしさを「やらせる」のであれば、そこに真っ直ぐな力のやりとりは生まれるし、それは互いに呼応しあうから、乱暴とは感じられない、と知っているからだ。むしろそこは、自分に人間らしさをやらせるのだから、燃えてのたうつように乱暴なところがなくてはならない。ただ、互いが呼応した中での乱暴さであれば、それはなぜか互いの人間や肉体をゴツンと衝突はさせないのである。濁流に呑まれるがごときであるが、それはただ互いの炎をよりたぎらせるだけ、お互いを傷つけない。あるいは女性の側からは、さらなる熱っぽさを求めて、自分を傷つけてくれ、傷つけるほどにしてくれ、という求めも放たれるかもしれない。彼女がそのように叫びうるのは、そこで肉体が傷ついたとしても、自分が傷つくわけではない、そしてなんであれこの確かな呼応の中において、すべては大丈夫だと確信して、それに感動しているからだ。
人の悦びは自己を得ることなのだ。だからこそ、自分を与えようとする。彼が自分を奪ってくれたら、彼女は自己だけを自己に残し、結果、自己を得ることができる。男は、女の身体の呪力のようなものに、全身を投げて、そこへ吸い込まれてしまえ、と自分を解放する。その熱烈な奪い合い、与え合いを熱烈に「やらせる」。このとき二人は、互いに自己を得ながら、切り離された人間の部分において、もっとも人間らしく熱く結ばれている。浅はかな者は、その目に見える肉体の部分を真似するだけだ。
自己と自分が癒着したままだと、自分を誰かに投げ与えることはできない。自己が駄々っ子のように、自分の肘をぐいぐい引っ張って離さない。しょうがないから、自分はその甘えん坊の手を引いて、二人連れで、どうもこんにちは、とやってくるしかない。お互いがそうであるから、そこで交合しても他人行儀になる。お互いに甘えん坊の子どもを連れてきているようなものだから、その子どもを構いながらでしか交合できない。
自己と自分とを並べたら、自己が親だ。親なのに、親のほうが子どもに甘える。子どものほうはすっかり大人に、一人前になっているのに、親のほうが子離れしない。親が子どもに、精一杯やってこい、と言って突き放し、送り出すということをしない。それは親のほうが大人になることを怖がっているからだ。子ども(=自分)と癒着しているほうが、熱っぽいあれこれがあって楽しい気がして、それにくっついてゆくことをやめない。
自己の本分は孤絶だ。そこに熱っぽいものはない。孤独で、シンと静まりかえり、躍起になれるものが何もない。けれどもそこには、果てしない美が広がっている。癒着を止めない自己は、その孤絶からの美をまだ見たことがないから、本分に帰る決心ができない。それで多くは、自分のほう、自己から見て子どものほうが、もう親のことを無視して、引き千切ってやらせてもらうと決意することで、癒着の切断が起こるときは起こる。けれども、今はこの全体が甘えきったムードだ。子どものほうも、そうして親である自己を引き千切ろうとなかなか決心できない。
自己の本分は美と冷厳で、人間である自分の本分はひたすらの熱っぽさなのに、それが癒着したままだから全てがぬるま湯のようになる。本当に冷厳なものがなく、本当に熱っぽいものもなくなってしまう。
恋あいやセックスは、楽しくやるものじゃない。それは人間のやることだ。そして人間のやることはすべて熱っぽいことだ。楽しくやるんじゃなくて熱っぽくやる。ひたすらの熱をぶつけあう。一方で、自己のほうは何もしない。何もできるはずがない、自己には両手も両足もないのに。自己はただひたすらの美の中にシンとしてあるだけだ。自己に熱は伴わない。自己は美に包まれてあるけれど、それに熱を覚えることは許されていない。
恋あいやセックスじゃなくてもいい。そういうことには向き不向きもあるし、身体の病弱な人だっている。世間体との関わりだってあるだろう。だから別にそれに限らず、熱っぽいことをしたらそれでいい。
熱っぽいことはやらなくちゃいけない。自分にそれを「やらせなくては」ならない。なぜなら、それをするのが「人間らしい」ことだから。自分という人間の本分だから。何をしたらいいかわからない、何をやらせたらいいかわからない、なんてことはない。それは見つけなくてもある。すべてのことに、日常生活をする中にだって、それを全力で「人間らしく」やらせるのならば、それは必ず熱っぽくなる。何も特別なことは見つからなくてもいい。もちろん、特別な何かが見つかったならそれはなおいい。自己に休憩はいらないし、自分にも休憩はいらない。休憩がいるとしたら生理的な肉体の面においてだけだ。熱っぽいことをさぼらせていい言い訳はいらない。酒を呑んだり、冗談を言い合ったりする、そういうこともすべて、人間らしく熱っぽいからいいんだ。
[了]