No.218 好きについて
僕が生きることには価値がない。価値なんかあってたまるか。僕は価値についての権利を与えられていないから、見るものや聞くものについて価値を審査することができない。頑張って遠くを見たり、何かを聴くのに聞き耳を立てたりすることができない。
ただ僕には、好きなものがある。それを好きになることは、僕が決めたことではなく、僕のあずかり知らぬところ、僕がそうなるように作られてある。僕は何かを見たり、聴いたり、触れたりするのが好きで、人の顔を見たり、話を聞いたり、声を聴いたり、するのが好きだ。僕が何かを好きじゃないとしたら、それは好きなものの上に何かをかぶせて見えなくしてあるからだ。それだと、好きだ、ということは起こらない。そのかぶせてあるものが取れたら、中のものが出て、僕は好きだ、となる。僕には何かをがんばって好きになることはできない。好きじゃなくなることもできない。好きだということを忘れることはできる。自分の上に何かをかぶせてしまえばいい。でもそんなことをする理由は特にない。
僕が何かを好きなばあい、僕はできるだけ、それに長く触れていようとする。でもなぜか、それに触れているだけではいけない、という気がしてくる。自分も誰かにとって好きなものにならないといけない、と思えるからだ。それでなんとなく、何かしないと、という気になる。何をしたらいいのかはよくわからない。
でもそうして、好きなものに触れて、自分も何か、誰かにとって好きなものになろうとする、何かしようとする、そのこと自体も、僕は好きなのかもしれない。いや、そうだ。そうでなかったら、長いこと自分をがんばろうとしない。
つまりは、長いこと自分をがんばろうとするのも、別に僕がそうすると決めたわけではなく、また僕のあずかり知らぬところで、僕がそう作られているということでしかない。もし何かスイッチのようなものがあって、これを好きになれ、と自分に命令できたらとても便利だ。でもそうそう都合よくはできていない。それを都合よくしようとすると、僕は好きなものを全て失わないといけない気がする。そうして気がつくのもまた、僕が気づこうとして気づいたことではないのだから、不思議だ。
好きなものと僕とは断絶している。好きなものに触れているときは、僕、という感覚がない。好きなものがワーッとあるだけで、好きだなあ、とも思っていない。僕がそこに無いから、僕によって思う、ということができない。いろいろ思ったり、考えたりできるのは、好きなものに触れていないときだけだ。好きなものに触れていなければ、ずっと思ったり考えたりしていると思う。
自分を、誰かにとって好きなものにする方法というのがあれば、らくだと思う。できれば、僕もその方法がほしい。でも困ったことに、その方法というものが、想像しただけで、僕はきらいだ。僕がそれを本棚から漁って、こっそり持ち帰ったりしたら、僕はずっと好きなものに触れることをなくして生きなくてはならなくなる。それはちょっとこわい気がする。それで、もしそんなものがあったとしても、まあいいか、やめとこうという気になる。
好きという現象はなんなんだろう。とても興味があるが、それを知ろうとすることは、僕は好きではないらしい。それだと、自分で好きなものを壊してしまうから、やっぱりやめとこう、ということになる。
好きというのは不思議だ。それに触れていると、僕は僕という感触を失うから、まるで僕という存在を代償してくれているみたいに感じる。そうして、僕を代償してくれているのか、と気づくのは好きだし、そう捉えるのは好きなのに、僕を代償してくれているのだと、言う、となると好きじゃなくなる。不思議だ。でもたぶんそれは、言う、ということをしようとするときに、僕は僕という感触を取り戻さねばならないからだ。取り戻すためには好きという状態をやめなくてはいけなくなる。
好き、というのは、状態ではないのかもしれない。なんとなく、僕が何か対象に向けて、好き、と思っている気がしているけれど、それは思い込みかもしれない。好き、というのは存在なんじゃないだろうか。ふだんの僕は僕という存在でいるのに、ある状況がそろうと、僕は僕ではなく好きという存在にすりかわる。そしてその、僕ではなく好きという存在にすりかわったとき、ああ僕は本当はこういう存在だったんだ、と思い出している気がする。
かぎかっこを入れたら文章はとてもわかりやすくなる。けれど、僕はかぎかっこがきらいだ。きらいというか、それが混じると、何か僕の好きという状態がバタンとドアを閉じそうになる。ビックリマークも好きじゃないし、ハテナマークはもっとやっかいだ。なぜそれが好きだとかそうじゃないとかは、先に言ったように、僕のあずかり知らぬところ、僕がそのように作られている。読点や句読点は、記号自体は好きじゃないけれど、入れないといけない。記号自体は好きじゃないのに、それが入っていない文章は全体がもっと好きじゃなくなってしまうからだ。僕がその好きの存在でありつづけるためには、ずいぶんな条件が課されている。たいへん制限されているのだ。
僕が死んだら、僕は僕という存在性を失って、ひょっとしたら、好きの存在になりきってしまうのかもしれない。それはずいぶん納得させられるし、その筋書きは僕を好きにする。いったん好きになると、それが本当かどうかはどうでもいいような気がしてくる。本当かどうかを考えるためには、また好きをいったんやめて、僕という状態を取り戻さないといけない。そうしなくてはいけないときもあるけれど、そうしなくていいときはできるかぎりやりたくない。また、死んだら僕は僕をやめて好きになりきるというのも、それを土台にして考えてゆくということはしたくない。死んだときのことを土台にして考えるのは好きをなくさせる。生きているうちは生きているうちのことだけを考えればよいように思う。どうせ死んだら僕は僕を失うのだから、たぶん考えるということもできなくなるだろう。僕は僕の本来に帰るのだが、そこまで考えるのもやはり好きじゃない。たくさん考えて本当のことに接近することはできるけれども、接近して好きをなくすぐらいなら無理に接近することもない。ほうっておいてもそれは向こうから勝手にきてくれるものだ。それをほうっておくのが僕はいちばん好きだ。
僕のことを、僕ではなく好きにしてくれるものについて、僕は好きだし、うらやましく思う。それで言うと、死も好きでうらやましいということになりそうだけど。それはたぶん間違っていない。でも今はそのことはおこう。僕は何かを見たり聴いたり、触れたり、人に会ったりして、ワーッと好きになったら、その人をうらやましく思う。だいたい、たくさんの人が、僕と同じように、それのことやその人のことを好きだからだ。なぜうらやましいと思うのかはわからない。でも、そうしてうらやましいと思うこと自体も、僕は好きなのである。
どうしたらそんなふうに、たくさんの人から好きになってもらえるのか、知りたい、知りたいけれども、教えてもらえない。それはきっと、教えられないからだ。教えられないし、それを教えようとしたら、その人は好きの現象を起こせない人になってしまうのだ。現象を失ってしまったら、やっぱり教えられなくて、だから初めから教えようとしない。その決断はとても賢い。きっとその人は、どうすればよいのか、僕に教えてやりたいと思ってくれている。思ってくれているけれど、教えられないんだ、だから気づけ、よく見たら気づく、と、僕にいろいろ見せつけてくれている。僕はそれに気づかないといけない。
好きな人に、僕はフワーッと吸い寄せられていく。はじめのうちは、踏ん張っているから、惹き付けられるぜ、とこらえているのだけれど、好きということが起こったらもう、踏ん張る僕がいなくなるからフワーッとなる。踏ん張っていたことは途端に無意味になってしまう。僕は自分の言葉とか、目とか体とかが、その好きの中に溶けていって、好きそのものと一体になる。意識はとてもはっきりしているのに、それは僕の意識ではなく好きの意識だ。僕はその好きと出会えたことをうれしく感じる。人と出会うということは、好きと出会うということだと思う。好きということが起こったら、全部のことがちょっと別になってしまう。僕は僕という存在でなく、好きというよくわからない存在になってしまうから、見るものや触れるものが全部好きになってしまうし、好きになってしまったものは特別な感じのものになる。だからそのときは、そこにある全てのものが、特別のものになってしまって、ものすごく鮮明に記憶に残る。記憶というのは時間がたつと、その好きという記憶しか残らないような気がする。僕の記憶はどんどん消えていくのに、好きの記憶はなくならない。僕が僕でいるときも、その記憶に触れていくと、ふとどこかで、また好きの状態に切り替わっていく。ときどきそれに甘えるけれど、そうして甘えること自体は、僕は好きではないらしい。
僕が僕という存在をやめて、好きという存在になるためには、ひょっとしたら死ぬしか方法はないかもしれないけれど、死んだらどうなるかという保証はないので、これは早とちりだ。だからけっきょく方法はないのだけれど、ひとつヒントがあるのは、好きになるときには僕は僕をやめなくてはならないということである。僕が僕という存在でありつづけたら好きという存在にはなれないのだから、これは当たり前だ。だから僕は、僕という存在を、いつでもやめられますように、と捨てる心構えをしていなくちゃならない。これをこっそりやっておくことは、僕には好きに感じられるし、僕を好きのほうへ導いてくれる予感がする。
それで、そうか、と思った。
僕の生きることに価値はない。それは残酷だけれど当たり前のことだ。僕はなにか価値の理由があって、いつのまにか生み出されたわけではなかったし、何か価値のために生きるべしと、何かで決められたわけではなかった。
この残酷なことが、いっしゅん受け入れがたく思うけれども、そうかと納得がいくと、こわくなくなった。僕の生きることには価値はない。けれども、好き、ということはある。好きなときは、どうせ僕は僕ではなくなるのだから、僕の生きる価値はどうかと、あれこれ考えなくていい。
何かを好きになることに価値がある、という言い方が、僕はきらいだった。話がごちゃごちゃするけれど、僕は価値と組み合わされると、ずっと僕でいなくてはならない気がする。それだと、好きということがなくなってしまう。なくなったそれに価値があるというのは矛盾だ。
これはとても大切な話のような気がするけれど、これいじょう話をすると、僕はこれを好きではなくなってしまいそうだ。くやしいけれどここでおしまいにする。ここでおしまいにしなくてはならないのは、きっと僕の力量不足なのだと思う。これを力量不足と言うのは、僕はとても好きだ。
[了]