No.219 communication, オレらの言葉
僕は少女と歩いていた。少女は僕の話を聞きたがった。彼女は気分のいい話を聞きたがり、スポンジのようにそれを吸い上げていた。うつくしい女になると思った。先ほどとさえもう顔つきが変わっている。上質な少女と言わせるものがあった。
彼女は僕を尊敬してくれていた。ずっとそうして話を聞きたがってくれた。僕は西日が彼女の頬にあたっていて日焼けが起こるのを惧れた。彼女の肌は乾いてもすぐ再生しそうだったが……僕の内にはむらむらくる気持ちがあった。話を切断して、僕はそのむらむらと対決した。「俺の」とまず出た。「俺の話なんか、聞くな」と出た。僕の声は急に険しくなり、彼女はショックを受けてしまった。
僕の内にはぐんぐんと力が湧いて出てきていた。力の正体はまだわからない。盛り上がっていた気持ちが風にさらわれてスーッと消えて飛んでいった。俺の話なんか聞くな。俺の話なんか聞かないでいてくれたら、僕はどれだけ幸せだろう。
僕のそれが伝染したかのように、彼女の様子も急に変わった。あれっ、と、二人して催眠術が解けたみたいだ。僕は途端に、山梨県の富士吉田の町を歩いていることをズバリと自己に受け止めた。うらびれた街に錆びた鉄骨があって、その向こうに巨大な富士山が威容を誇っている。一瞬、時間旅行をして知らない時代に来てしまったかと心配した。
オレらの……と、わけのわからない言葉が出てくる。文脈は、何がどうでもよいと思われた。オレらの? なんだ? 僕は答えを探した。見つからないが、オレらの、ということだけが正しかった。何が正しいのかはわからない。
少女がかわいい背丈から僕を見上げていた。上質な少女は皮をむかれて、あたりまえの少女だけがそこにあった。爛々と光る眼に、涙が滲んでいて、風に砂埃を疑わせた。まっすぐ僕の眼を覗き込んでいる。オレらの……と言うと、そのたびに彼女が健気にうなずく。彼女の眼も、何かを了解していて、そう、それ、としきりにYesを放っている。同時に、危なっかしくなった彼女の表情は、しきりに、これは何? と問いかけてもいた。
僕は言葉を封じられていた。気がつけば、迂闊には何も言えなくなっていた。二人は、二人きりで、まだ草の一本も生えていない、広大な沃野に立っていた。本当に二人きりだ……沃野はまだまっさらで、新しいものさえまだそこに生じていない。これからのひとつごとが全て新しいものとなって残されてゆく。
絶望的とも言える、その切断された幸福の中で、僕は痛烈に過去を悔いた。オレの話が聞き取られた、それらの時間は全て哀しいものだった。僕の言葉は全て封じられ、もう二度と出てこようとしない。ただ彼女を見る。彼女を見ると言葉がそっと湧いて出てきた。新しいオレの言葉……いや違う、これは<<オレらの言葉>>だ。僕はようやく落ち着いた。動揺したままの少女に、改めて、俺の話なんか聞くな、と言った。それは僕の発言ではないみたいに響いた。それは彼女に聞き取られる前に彼女に通じた。彼女は瞳に強烈な謝罪の光を浮かべ、全てを了解してうなずいた。
***
僕が僕の言葉で話すのは簡単だ。けれどもそれは、誰かとつながってあるとき、全て封じられてしまう。そこで僕は、自分が自分の言葉のみで話していたことに気づく。気づかされる。そして、僕が僕の言葉で話すとき、それは意見、キメツケ、つぶやき……それはcommunicationでないことを知った。僕が僕の言葉で話す。考える、意見する、それらはわかりよい。彼女はそれを理解する。意見には同意する、つぶやきに笑う……それらはcommunicationではない。逆説的に、communicationというのは<<起こらない>>。言葉の発生と伝達は同時に起こっている。起こったものが音声になって漏れていくだけ、まるで排気されるみたいに。
オレらの言葉には意味がない。これが難しい。意味がないものにはどうしたって抵抗がある。意味がなかったらこれは誰が生み出しているものなんだ? なんのためにcommunicationを? 言葉によってcommunicateされるのではなく、communicationによって言葉が生じる。言葉から起こすやりとりの全ては、変形した挨拶にすぎない。
言葉を言うことは不可能に近い。言おうとすると、つながっていたものを切断して、いったんオレに帰らねばならない。オレら、の間に言葉のやりとりはない。オレらから言葉が生み出されていくだけだ。それもやはり意味が無い。言葉に意味があれば、まだ手がかりになるのだが。
一人と一人が、あるいはもっと複数人が、オレらになったとき、それは物語になる。それが物語の起点になる。なぜなら物語は必ず登場人物を複数持たねばならないから。オレの物語、登場人物が一名の物語というのは存在しない。いや、人とモノとのかかわりでも物語はありうるのか……しかし人一人「だけ」という物語は存在しない。
communicationへ進むには、物語へ進むには、言うのをやめることだ。「言う」ためにはcommunicationをやめなくてはならないから。いざそうなってみたら僕ほど舌が鈍重な者はいない。僕はもっと饒舌かと思っていたのに。
オレらの言葉であれば、汚らしい言葉は存在しない。なぜかそういうものは排出されない。オレだけの言葉、僕だけの言葉であればいくらでも汚いものでありえるのに。
いまさらこんなもの、方向転換できるのだろうか?
オレの意志では駄目だこれは、オレらの意志が出るのを待たないといけない。
[了]