No.223 映画「耳をすませば」から
あの謎めいた猫は「トトロ」だ。あの猫は誰の目にもは見えていない。あれが見えているのは、月島雫、天沢聖司、地球屋の主人、幼い子どもたち、犬、ぐらいだ。通行人のうち一人の大人だけが、それを目の端に留めてはいるようである。
それは電車のシーンで確認できる。もしただの猫が電車に乗って移動していたら騒ぎになる。騒ぎにならなかったのは、あれが他の人の目には見えていないからだ。駅の構内を猫が駆け抜けてゆくが、誰も注目しない。それが見えているのは月島と、「あ、猫!」という子どもの声だけだ。
トトロは人を物語に連れてゆく。あるいは、人が物語に引き込まれてゆくとき、その徴(しるし)に現れる精霊だ。だから、あの猫は「ムーン」として月島を地球屋に連れてゆき、「物語を書く」と決意した月島の帰路を「ムタ」として見送る。
残酷な話だが、あの猫を見ることができない人は、もう物語に接続しうる可能性を持っていない。それが月島の大切な友人であってもだ。
月島の生きる世界は二つに断絶されている。ひとつは物語のある世界で、もう一つはそれが無い世界だ。あの猫トトロはその境目に現れる。
月島はまず、物語の無い世界に生きている。いかにも家族共同体を感じさせる団地暮らしがあり、学校があり、友人らがいる。親友と呼ぶべき友人もいる。
月島はこの共同体世界によく生きているが、そこから逸脱する要素を持っている。彼女は童話ファンタジーのような文学小説をよく読む少女だからだ。それも観察として読むのではなく、自己の体験として読む。それは彼女の趣味という範囲を超えている。
彼女はこの逸脱した部分があったから、猫トトロを目で見ることができた。
彼女は猫トトロに牽引されて上昇する。坂道を駆け上がることに暗喩されている。そして彼女はついに「坂の上」まで到達し、そこに「地球屋」を発見する。彼女は地球屋に迎え入れられ、ドワーフたちに出会う。宝石の眼を持つバロン男爵に出会い、天沢聖司ともあらためてそこで出会う。
月島と天沢が、単に会うことであれば、先に学校のベンチで会っている。会っているが、それは学校という共同体世界の場であり、またそこに猫トトロの媒介はない。だから物語を紡いでいく二人としての然るべき出会いはまだここでは起こっていない。
月島は、共同体世界ではない、物語世界の側で、地球屋の主人に迎え入れられ、バイオリン工房に迎え入れられ、ドワーフとバロン男爵に迎え入れられ、古い楽器を演奏する者らに迎え入れられる。月島はそこで共同体世界とは異なる素敵な体験をする。
そして帰宅すると、アテツケのように、団地の風景の中、家族共同体の世界が待っている。
端的には、坂の上の「地球屋」と団地の「家」は対比されているのだ。両者の世界の断絶を際立たせている。だから彼女は「物語を書く」と決めてその執筆に取り掛かったときも、それを家族には見せられないでいる。何をしているのかと問い詰められても「言えるときがきたら言う」としか答えられない。それは断絶した向こう側のものを持ち込んでいるからだ。執筆している物語の内容は、親友の夕子にさえ明かすことはできない。それを読むことができるのは、断絶の向こう側、物語の世界の者たちだけだ。
もしそれが断絶でなかったら、彼女は親友の夕子を地球屋へ連れていったはずである。「すてきなところがあるの」と言って。
月島雫の体験は、この断絶の<<飛び越え>>だ。彼女はもともと共同体世界に生き、それも健やかによく生きていた。彼女はその共同体世界と物語世界を往復し、自分はどちらに住まうのかという決断に揺さぶられる。その揺さぶりは彼女に深い涙を強いるほど苦しく切ない。物語の世界の側からは、意図的にというよりは無邪気に、天沢聖司が呼びかけてきており、彼女を物語世界の住人だと信じて疑っていない。それを受けて、彼女は断絶を飛び越えたいし、飛び越えなくてはならない、と思う。けれどもそれは抵抗のあることで、恐ろしいことであり、また誰に相談できず、具体的に何をすればいいのかもわからないものだった。
この「断絶」がもっとも鮮烈に、また残酷にも描き出されるのは、学校の屋上のシーンだ。二人は雨上がりの屋上で虹が出るのを探す。天沢はイタリアのクレモナに行くことを告げ、また自分は月島のことを想っている、とも告白する。それは、自分は物語世界の側へ立つ資格などないと思いこんでいた月島に鮮やかな驚きを与える。月島は「信じられない」という表情を見せる。
天沢が、月島を物語世界の側へ迎え入れてくれる。その信じがたいほどのことが、ついに信じられたのは、天沢の「おれイタリアに行ったら、お前のあの歌うたって頑張るからな」の言葉によってだ。天沢が、イタリアのクレモナに、自分の訳詩したそれを、月島の作品として持っていってくれるという。それを彼自身の励ましにするのだと言ってくれる。
この屋上は、共同体世界からにわかに断絶された、いわば「聖域」だ。友人らは、その聖域に入り込む権利を持たない。覗き込んで、共同体世界から囃し立てるのみだ。共同体世界からは、彼らが思春期の二人として「いちゃいちゃ」しているように見える。彼らは物語を所有しないから。聖域の側ではまったく別の物語が紡がれているが、そのことが共同体世界の友人らに伝わる由はない。何しろ、当の月島自身、自分が「聖域」に認められて天沢の隣に立っていることが信じられなかったほどなのだから。
月島は断絶の境界にたたずみ、苦しめられる。彼女は共同体世界で、受験勉強の義務に迫られ、またその取り組みを監視されてもいる。その世界を共有して生き、支えあっている親友もいる。級友の男子からも想いを告白された。彼女は共同体世界で、今のスラングで言えば「リア充」である。けれども彼女は、そのようなものは捨てて、断絶を飛び越えたいと願っている。彼女の願いは「リア充」ではなく、天沢の隣に立ち、物語の世界で充実することであったから。
「わたし物語を書く」
この宣言が、親友である夕子の前で為される。これもまた、残酷なシーンのひとつだ。彼女は断絶を飛び越えることを決めた。そのためには、親友の夕子とさえ切り離されるのだ、と彼女は決意したのである。夕子は月島の決意の、真の感触はよくわからなかった。そして、月島はもう彼女とも断絶されたから、自らの決意が何であるかを説明せずに去ってしまう。もう「わかってもらう」必要はないのだ。ちなみに夕子と話しているときは、月島も共同体世界の者であって、天沢のことを「聖司くん」ではなく「あいつ」と呼んでいる。
「簡単なことなんだ。わたしもやればいいんだ」
月島の物語が立ち上がった。それを、猫トトロが、新しくムタの名前で見送る。ちなみに、ここで猫トトロが精霊でなかったとしたら、夕子の自宅近辺にいるのはいかにも地理的におかしい。
月島はついに孤独な戦いを始める。ついに、生まれて初めて、<<自分の力だけで、本当の自分のことをやりはじめる>>。それは月島が天沢と同じ場所に立つためであった。物語の世界の側、あの地球屋の場所で天沢と同じくあるために。
月島がこの生まれて初めてのことをこなすのは困難だった。はじめは環境的な困難があったが、それは思いがけない父の理解で助けられもした。父は共同体世界を生きる者だと思っていたのに、父が、そのような断絶はある、それを飛び越えようとする戦いもある、と既知の理解を示したことに月島は驚かされた。父は月島に、その戦いの無謀を確認させたあと、彼女の戦いを黙認することに同意した。父の決定は共同体の決定であった。また姉が家を出ることと重なり、月島は集中できる個室を得ることにもなった。
そうして環境はやや好転しても、その戦いはやはり困難だった。彼女の筆はしばしばその無力によって立ち止まる。彼女は本当の自分の力がどのような程度のものであるかを突きつけられた。勢い込んで、精一杯やり、受験勉強なんか振り払ってやるつもりで取り組んだが……やはり自分には、向こう側、物語の世界に立つ資格なんか無いのではないか、とあらためて思われてくる。むしろそのことを確認するために書き進めるようで彼女の執筆は苦しい。それでも無理やりにでも書き進める。牢獄でバイオリンを作る人の挿絵に月島は目を留める。その挿絵はただちに天沢の姿に重なった。物を作るというのはこういうことなのか、聖司くんはこんなことを積み重ねてきたのか、と彼女は呆然とする。もはや彼女はよれよれになっても書き進めるしかなかった。
彼女の手元にはついに明らかな失敗作しか残らなかった。
月島は明らかな失敗作を携えて、地球屋にやってくる。自分への哀しい結論と、その哀しさを押し殺した面持ちで。地球屋の主人は月島の小説を読み終わり、とてもよかった、と言う。月島はそのようなオタメゴカシは要らない、と猛反発する。
彼女は慰められるためにここに来たのではなかった。自分は、断絶のこちら側、物語の世界に立つ資格などありはしない者だと、そのことをむしろ報告しにきたのだ。そこをごまかされてはますますみじめである。だから「自分でわかってるんです!」と吠え立てた。
「そう、荒々しくて率直で、未完成で……聖司のバイオリンのようだ」
月島はむしろ、この瞬間に、自分の中に張り詰めてあったものを、初めて自分で理解した。自分はなぜ物語を書かねばならなかったのか、それもなぜ今それを書き、天沢が帰ってくるまでに仕上げねばならなかったのか。そして思ったように書けなかったとして、本当には何が苦しかったのか。そしてそれだけ苦しくても、なぜ彼女はそれを投げ出さなかったのか。
彼女はこのとき、ついに自分が天沢に決定的な恋をしていることを認めたのかもしれない。彼女は、天沢がいよいよ飛び立ち、自分が彼に絶望的に置いていかれることが怖かった。あの屋上で彼と並んだ自分を失いたくなかった。なんとかして、彼の隣に立ちうるものでありたかった。
彼女が死に物狂いで求めていたのは、執筆の成功などではなかったのだ。自分が天沢の隣にいられるための、何かしらの根拠を手に入れようとしていた。地球屋の主人は、シビアに、彼女の作品に良作の評価を与えなかったが、ただ彼女の一番欲していたものを与え認めた。
それで月島は、張り詰めていたものを一気に救済され、その安堵と、これまでにこらえていた苦しさを決壊させて号泣する。天沢が自分を置いていってしまうのが、怖かった、と告解のように吐露した。
たんなる力作でない、自分の鉱脈を本当に掘って作品を綴り上げた彼女は、今や立派な物語世界の一員だ。堂々と、聖司の友人たる資格を持っている。まだ仮免許のようなものでしかなかったとしても。
彼女はラストシーンで、天沢のことを「聖司くん」ではなく「聖司」と呼ぶ。
物語の終幕は二人の再会。月島は、高校進学という自分の進路を、自分の物語に接続することに成功した。一方で天沢は、今後の具体的な進路については語らない。そのままイタリアのクレモナへ、今度は長期の修行に出るのか、それとも日本で高校生活へ進むのか。
そのことは語られないので、わからない、とするしかない。二人がこのとき物語世界の住人であることは確実だが、このあと二人が向き合う試練はさらに大きく、また必ずしも二人がずっと物語世界の住人でいつづけられる保証はないだろう。
けれども、その先は語られないので、彼ら以外の者が彼らの物語に同行できる時間はここで終わる。
物語はただ、天沢と月島の二人が、通常の意味とはことなる、彼らの<<ふるさと>>を手に入れた、ということを語りつくして締めくくられる。彼らがそのふるさとを手に入れた物語と、これから生きて進んでゆく物語は、きっと月島自らが作った詩に結ばれていることだろう。彼ら二人を想うとき、歌詞中にある<<あの街>>は、特定のまさに「あの街」が結ばれてよい。
カントリー・ロード
この道ずっとゆけば
あの街につづいてる気がする
カントリー・ロード
***
もし本作を、娯楽的なものとして観察するに留めず、自己の触れた物語体験として受け止めるならば、ここには切実な美しさと、恐ろしい残酷さまでもが含まれている。本作の鑑賞後に、単にその手応えを喜ぶに留まらず、「死にたくなった」とこぼす人も少なくない。それは本作の残酷さに知らず識らず触れてのことである。
本作をもし、単なる恋物語として観るなら――そこにはいささか無理がある。月島と天沢は、ありがちな思春期のすれ違いなどをまったく起こしていない。そして彼らの友人たちの物語に関わる度合いの地位は極めて低いものだ。
言ってみれば、ありふれた生活風景を描き出してみせて、その中の人人にいかに恋物語があるか、ではなく、その人人といかほどに断絶されてこそ恋物語がありえるか、ということが示されている。
もし、
「わたしも月島雫のような恋がしたいわ」
という平凡な感想に、生真面目に答えるとしたら、
「違う。お前は、屋上の手前で、彼らを覗き込んでヒューヒュー言う側の人間だ」
という返答が正当になる。
本作は、その断絶と、向こう側の恋物語にすさまじい説得力を与え、共同体世界にありうる「リア充」といったような軽薄な思想を、残酷なほどあざ笑うものなのだ。
もしそれを直撃されて受け止めた者がいたら、「死にたくなった」という感想も、思いがけずまっとうな心情の吐露だと言える。幼い子どもを例外として、本作は、小トトロに出会える者と、それが目にも見えない者とに、厳しい差別を与えている。共同体世界にもドラマはあるが、そこに物語は無いのだ、と厳しい。
またそこの差異を描写する力が、ちょっと人為を離れて生じてきたかのような、圧倒的な説得力を持っているので、観る側は打ちのめされるしかない。
作中にはその他にも残酷な描写がある。それはきっと、本作の作り手自身が、他でもない、物を作る者たちだったからに違いない。地球屋の主人は、月島雫が物語の世界の住人になったことを賞して、「あなたにふさわしい」と、エメラルドの原石を与えた。それを覗き込むと確かに美しい宝石が光って見える。だがそれを取り出して磨き上げると、逆につまらないものになることもある、とも彼は警告して怯まなかった。
本作は95年に封切りされた。監督は近藤喜文氏であった。近藤氏は初監督作品として本作を製作し、その三年後に四十七歳で急逝された。本作は氏の最初で最後の作品となった。
***以下、余談***
・初めての地球屋で見る大きなアンティーク時計の文字盤に「Porco Rosso(紅の豚)」の文字が。主人の声は、「この時計を作った職人が、きっと叶わぬ恋をしていたのだよ」と語る。いわゆるメタ要素だが、つまりあの後のマルコ・パゴットが……いやいや技術を転用したフィオ・ピッコロが……と考えうるが、これはジョークを深読みした類だろう。ちなみにメタ要素としては、作中に「耳をすませば」の映画看板が出ている。これはけっこう堂々と目に留まるところに映る。
・天沢の父は天沢こういちといい、天沢医院を経営している。PTAの会長もされていたということなので、きっとお堅い。この天沢の家に豊かな天沢文庫があったというのは、彼の母親の蔵書だったのか。天沢の話に母親はまったく出てこないので、早いうちに逝去されたのかもしれない。そして息子が本ばっかり読んでよくないということで、蔵書を全て学校へ寄贈してしまった。天沢の祖父が地球屋の西氏なので、この西の娘が天沢家に嫁ぎ、西家の気質が母から子へ受け継がれたと考えられる。父親の天沢こういちというのは、きっと月島とすれ違ったときに聖司の隣にいた背丈の低いチョビ髭の紳士だろう。医師ふうであった。仮説。
・作中、カントリーロードの訳詩は、「ありきたり」のものから「自分の言葉で」のものになるが、それでも友人らが歌い上げるときと、月島自身がバイオリン伴奏で歌うときとでは歌詞が若干変わっている。友人らは「一人で生きると、何も持たず町を飛び出した」と読み上げているが、月島が歌うときは「ひとりぼっち恐れずに生きようと夢みていた」になっている。さらに、月島が歌うシーンではCメロが「どんなさびしいときだって」であるのに対し、エンディングロールでは「どんなくじけそうなときだって」になっている。作中時間内で訳詩が推敲されたのか、映画制作上でトラブルがあったのか、理由は不明。「どんなさびしいときだって」の場合はさびしさの語が二回出てくることになり一般的には不適。
・天沢がいつの時点から月島を見初めていたのかは不明。彼が口説き文句のために嘘を交えた可能性もある。よくよく考えれば彼もバイオリン作りのみに没頭できていたのではないわけで、そこは立派に思春期の少年である。想像を飛躍させれば、月島が覚えていないほど昔のころに、彼女が天沢医院に掛かったことがあり、そこで出会ったことがあるという仮説も成り立つ。医院の待合室にはきっと天沢蔵書のご本がたくさんあっただろう。ただこれは仮説というよりは空想。
・杉村の告白があり、月島が断った後、杉村は夕子にやさしい態度を向けるが、その杉村に向ける月島の表情が、ひょっとしたらわずかな嫉妬か。余談というほどでもないが、どうだろうなあ、と大変悩まされる表情がある。
・本作の舞台が聖蹟桜ヶ丘であることは有名な話。映画を見てから聖蹟桜ヶ丘に行ってもそれほどピンとこないのに、行ってからあらためて映画を見ると記憶の風景とばっちり重なるから不思議だ。
・余談の余談。物語を書くと決意した月島は、その自分の立ち向かう行為そのものを、無意識に物語に映し出している。そして月島が立ち向かわなくてはならなかったものは、勇敢な者の誰にとってもきっと立ち向かわなくてはならないものだ。才能は原石として鉱脈の中に埋もれている。鉱脈を探す旅が始まる。お供があれば励まされる。近くにあるものは小さく見え、遠くにあるものは大きく見えるだけのことだ。あんなに高いのに飛び越えられるのか。なあに近づけばそれほどのことはないさ。上昇気流を掴むんだ。もたもたしていると「小惑星」が集まってくるぞ。早く。もっと早く。息を切らして走る。鉱脈の中、無数に光って見えるほとんどは偽物で、その中で本物はひとつだけだ。この中で本物を見つけ出すなんて絶望的な……その中でずば抜けて光る宝石が現れる。見とれるほどのそれを取り上げて……しかし取り上げてみればそれはまやかし、醜い小鳥の死骸であることもある。
[了]