No.226 僕たちは対等だからあざ笑う用意をしよう
信頼関係について話そう。信頼関係とは、ある種の訓練の上に成り立っている。そしてそれは、タバコ買ってきてくれ、という言い付け一つで、現れたり、現れなかったりする。決して、心の持ちよう一つとか、自分はあいつを長い間見てきた、性格が悪くないのをよく知っている、というようなことじゃない。信頼関係というのはもっと特殊なものだ。恐れずに言うなら、今や多くの人が、それを一度も体験しないまま生涯を閉じる。
タバコ買ってきてくれ、と僕が言う。すると、信頼関係の無い女は、「はあ?」と反発する。あるいは、「はぁ、別にいいですけど」と言う。中には、善良で好意的な女もいて、「いいですよ」とにこやかに言ってくれることもあるのだが、実のところ、この最後のタイプが一番多い。
そして残念なことに、この最後のタイプをもってしても、それは信頼関係を意味してはいない。それは善良で好意的で積極的というだけで、友好的というだけで、信頼じゃない。信頼関係とはどういうものか、僕ははっきり知っているが、それは今の常識の中ではたどり着けない、例外的な現象になっている。
信頼関係のある女に、といっても、信頼関係というのは、元々そこにあるわけではなく、ある種の熱によって、ズバッとその場で生成するものなのだが、まあそれは後に語るべきとして、信頼関係のある女に向けて。タバコ買ってきてくれと僕が言う。言うなり、ただちに、女は腰を浮かしていなくてはならない。それが信頼関係だ。ただそれだけのことだが、ここには深甚な意味と絶対的な違いがあり、このわずかなことを、体験しない人は一生に一度も体験しない。低品質の教育ばかり詰め込まれているとそうなる。勝手な言い種だが、僕が嘘をついてもしょうがない。
一体感と言うだろう。一体感とは何を指すかというと、この場合、目の前にいる女が、僕の手足としてそこに存在する、という状態を指す。もちろん、互いが互いをそのように、自己の肉体のようにみなしているのだが、まあわかりづらくなるのでやめよう。目の前の女は僕の手足である。僕の意志どおり、手足のように動かなかったら話にならない。「なぜ俺の言うことを聞いて俺の手足として動かないんだ」「ごめんなさい、ぼんやりしてたわ」、こういうやりとりが正として為されるようでないと信頼関係じゃない。
一体感というのはそういうものだ。誰だって自分の手足を見てみればわかる。動いてもらえますか、なんてお願いしていない。命令を送れば直ちに動く。しぶったり反発したり不機嫌になったりするわけがない。手足が反発したりしぶったりしたらそれは「麻痺」だ。あなたは自分の手足、自分の肉体を信頼できなくなるだろう。
信頼関係とは、時間をかけて徐々に積み上げていく、というものではない。それは信用取引の概念であって、人間の持つ信頼の機能じゃない。ある種の熱によってズバッと生成するものだ。
たとえば兵士たちが銃弾の雨の中に銃を構えて伏せている。そのとき、位置関係から、A隊員が突撃を決意する。A隊員は仲間たちを振り返り、アイコンタクトだけで自分の決意を伝えるだろう。A隊員とB隊員が呼吸を合わせる。合わせようとして合うものじゃない。この局面は、ワンチャンス、あいつの突撃にかかっているし、あいつの突撃を成功させられるかどうかにかかっている。ここはそういう局面だ。これを成功させるなら自分は死んでもかまわない。成功しなければどうせ死んでしまう。
A隊員が飛び出すのと、まったく同時のタイミングで、B隊員は仲間に怒号で命令する。
「援護ー!」
全隊員が、ここだ、ここがワンチャンスだとわかっていて、決死に身を起こして最大の火力を前方に打ち込む。戦力は負けているが、この瞬間だけ、弾幕で敵陣地を抑えこむ。視界は土煙に包まれて、「伏せろー!」という声が響く。敵の反撃が始まってしまった。仲間もきっと何人かやられただろう。だが気になっているのはA隊員のことだ。あいつは目標の地点まで到達できただろうか?
信頼関係とはそういうものだ。これを、
「あの、すいません。わたしはこれから突撃しようと思うのですが、援護していただけますか?」
「もちろんですよ。それが私たちの仕事なのですし、私たちは互いに支えあう仲間なのですから」
「ありがとうございます」
「いえいえこちらこそ。突撃をお任せしてしまい申し訳ありません」
このようなものにしてしまったら、何が信頼関係でありうるか。こんなものでは戦争にならない。こんな映画があったら、さっさと全滅しろ、と観客は呆れかえるに決まっている。
これは部隊を構成してきた兵士たちだから成立した、というわけではない。もちろん特別な訓練を積んだ彼らのほうが、連携プレーを生み出す効率は遥かに高いだろうが、信頼という現象そのものは別に兵士たちでなくてもありうる。たとえば震災の直後、危機的な状況から脱出しなくてはならないときなどにそれはありうるだろう。
普段は控えめな女性であっても、暗闇に火災の光だけが照る中、キーがついたままの車を見つけたら、あ! と大きな声をあげる。喧騒を超えて周囲の全員に届くように、声帯をまったく酷使する叫びで。
A「この車、キーついてます!」
B「ドア開く?」
A「……開きません!」
B「ガラス割って!」
C(Aを押しのけて窓ガラスを蹴る)
D「これ」(瓦礫に落ちていた鉄パイプをCに手渡す)
C(無言で受け取りガラスを叩き割る)
E「こっち、けが人がいます!」
B「誰か、救助行って!」(F,Gが無言で向かう)
C「エンジンかかりました!」
D「トランク開けてください!」
A「瓦礫をどけましょう!」
B「怪我した人から先に乗せて!」
F「向こうの橋に、消防と救急の車停まってます! ひとまずあそこまで行きましょう」
B「全員乗れそうかー?」
A「大丈夫そうです! わたしトランクに入ります」
G「誰かハンカチかタオルもってませんか! 出血がひどいです!」
このようなとき、たとえ見ず知らずの者たちであっても、すいませんが、などといちいち伺いを立てたりしない。緊急事態だからこう、というのでもない。緊急事態なら逆に互いを押しのけあうパニックになることもある。
そうではなくて、熱量だ。第一の声、女性Aによる「この車、キーついてます!」という叫び声。この声と言葉にはいろんな意味が乗っかっている。誰でも想像してみればわかるが、この女性Aの声を聞けば、ただちに自分の心が彼女を信頼すること、また自分はただちにその声に応じるということが確認できるはずだ。
A「あのー、すいません。この車、キーがついたままなのを、見つけたのですが」
B「ドアが開くかどうか、確認していただけますか?」
A「はい。あの、開きません。ドアにはカギが掛かったままのようですね」
B「わかりました。ありがとうございます。あのー、すいません、どなたか、ガラスを割るのに手を貸していただけないでしょうか」
こんなものは通用しない。いちいち伺いを立てたり、言い出すタイミングをはかったりなんかしていられない。こうして伺いを立てないといけないのは、互いに信頼関係が発生していない場合の、マナーである。熱量の伴わない関係ではこのマナーが通常の方法となる。人人には災害等の緊急事態についての一種の憧憬があるが、本当には、緊急事態だからといってその熱と信頼関係が生じるとは限らない。緊急事態でもボソボソと呟くことしかできない者もいるし、そのまま無力に煙に巻かれていくこともある。
ハリウッド映画などで、戦争や災害や襲撃などの危機を描くのが常になるのは、タフガイが危難に対して熱を起こし、そこに見知らぬ同士でも生成する信頼関係を描きたいからだろう。あるいは、そのような状況を押し付けないと、熱も発生しないし信頼関係も生成できない、それでしか熱の起こりに説得力を持たせられない、ということなのかもしれない。僕は、その熱というのは何も危難に際してのみ生じるのではない、どう発生しうるものなのかというのをよく知っているが、人人の全体がそれを本当に見失いつつあるのだとしたら恐ろしいことである。信頼関係というのは無論、自分一人きりで発生させられるものではない。
信頼関係というのは、「タバコ買ってきてくれ」という一言にでさえ、現れたり、現れなかったりする。むしろそういう一言についてのほうが、そこにある互いがどのような関係なのか、その場所はどういう局面のものなのか、ということを明らかにする。信頼関係というなら、僕が「タバコ買ってきてくれ」と言ったとき、ただちに女の腰は浮いていないといけない。それで立ち上がって、動き始めたなら、「困った人ねえ」とかわいらしいクレームが言い残されて構わない。
このことがどうしても理解されがたいときは、架空に、熱量を添えてやるとわかりやすい。あるドクターがレントゲン写真に見入っている。重大な決断を迫られている。部屋の空気は張り詰めていて、よもや気軽に話しかけられるような雰囲気ではない。ドクターの眼はレントゲン写真を射抜き、高度で壮絶な知性が彼の頭脳で回転しているのが見て取られる。
「オレンジジュースを買ってきてくれ」
「はい」
ドクターはレントゲン写真から目を離さないが、彼の言葉は直ちに助手に届く。誰に向けられた言いつけなのかはっきりわかる。はい、と応じた助手は、言いつけを審査した上でそれを了承した、というのではない。ただちに応じたし、応じるまでに彼の思念は媒介しなかった。彼はそのときまさしく、ドクターの「助手」なのである。直ちに応じる機能が当然の、ドクターの手足である。彼らは真実からそこに「チーム」として存在している。
「○○君、すまないが、オレンジジュースを買ってきてくれないかな」
「もちろん、いいですよ。ちょっと待っててください」
これは友好関係であって信頼関係ではない。
このようなことは、誰にでも起こりえて、誰にでも体験されうるように見えるが、そうではない。熱量によってその場にズバッと生成する信頼関係であるが、この熱量を起こすこと、またその熱量を受け取り信頼関係を発生させることにも、実はそれなりの訓練を要する。また逆には、そのような現象を阻害する訓練というのも、知らず識らずのうちに積まされていることがある。
たとえばドクターと助手にしても、ドクターがいかにレントゲン写真に壮絶な眼差しを向けていたとして、助手は意図的にそれを丸きり無視することもできる。部屋の隅に立ち、携帯電話でもいじって気を逸らす、というだけでも、そこに起こりうる信頼関係の現象を、むしろ彼は回避することができる。
助手は携帯電話をいじっている。
「オレンジジュースを買ってきてくれ」
(……ん? 今の、俺に言ったのかな?)
「あー、はい、わかりました。行ってきます」
これは、言葉の意味はかろうじて伝わっているものの、信頼関係ではないし、チームではない。彼はきっと、オレンジジュースを買いに行きながら、「こんなの助手の仕事じゃないんだけどなあ」と軽く不満げに思い、「まあでもいいか、重苦しい部屋から出られて気が楽だ」というようなことを思う。
信頼関係を作りうるための訓練は、両親や教師による教育でほどこされ、また部活動のコーチや先輩から、あるいは丁稚奉公における主従の関係において、ほどこされる。軍隊では、まずこの訓練として、上官にいかなる罵詈雑言を投げつけられても、「サー、イエッサー!」と全力で応じる、という訓練をほどこされる。わずかでも間を空けたり、わずかでも疑問に力の抜けたところを見たならば、許されない。完全にそれに応じきるまで訓練がほどこされる。そのようにせねば狙っていることの訓練にはならないからだ。
これは訓練であるから、まったく肉体に宿されるもの、身につく、ということを起こさせるものだ。厳しい風土の部活動などでこれを訓練された人は、ある現象に心当たりがあるはず。コーチや先輩に、指導されたら、あるいは指導でなくても何かを言われたとしたら、とにかく全力で返事するものだよ、そうでないと問答無用で許されないんだから……という訓練。この訓練によって、返事で応じるということが身につくと、誤って授業中にもその応じ方を現してしまいそうになる。
「というわけで、重要な公式ですから、覚えておいてください!」
「ぅ、」
(あぶない、声が出そうになった)
その声は、空手部なら「押忍!」が出そうになったということであるし、体育会系ならば「ウォイ!」というような声が出そうになったということ。
このように、訓練を経て、ただちに応じるという機能を身につけた者、あるいはその機能を活性化させた者というべきなのか、そういう者が、人と信頼関係を築くのに、身体的にアドバンテージを持っているのだ。企業などが採用活動において彼の部活動の経歴などを気にするのはこれが理由である。信頼関係を築くための訓練を、彼は人生の中でしてきているかというのを、経歴的にも、また面接の現場においても、まずは確認しているのだ。
石原さとみさんという美しい女性がテレヴィの画面上に出ると、ふと僕はある女性のことを思い出す。彼女の、美しいけれど、どこかトボケたところもあるような、柔らかいかわいらしさ。その風貌と雰囲気が、どことなく通じているところがあった、ある女性についての記憶が僕にはある。彼女は、初対面のときからそうだった、と、これは確かなこととして僕は報告することができる。銀色に青の光沢が掛かった、たしかCOACHのバッグを持っていて、よく似合っていた。僕はそのとき初めて、COACHのバッグはやはり上等なものだと、むしろ彼女によってブランドの底力を正当に評価したのでもある。
ただ話をしていて、そのほかに何をしていたというのでもないのだけれども。僕が勝手に、一方的な好意を寄せていて、ただ僕が彼女と話したいということから、彼女をそれに付き合わせていた具合だ。彼女がそうして話に付き合ってくれたこと自体も、僕には思いがけない、意外さの幸運と感じられていたのだが、とにかく僕は彼女と話しており、僕は話の脈絡とは別に、彼女には何か異様な魅力がある、これはいったい何なのだろうと、その正体を知りたがっていたように思う。
彼女は穏やかに、トボケたような空気をまとっていたが、僕は汗を掻いていた。僕は少しふざけた気持ちもあったが、汗を掻いたので、「ハンカチを貸してくれ」と言った。そのときの彼女の反応を、今でも僕は明瞭に思い出すことができるが、僕がそれを言った直後には、彼女の細い指先はすでにCOACHのバッグの中を漁っていた。相変わらずの、トボケて穏やかな空気をまとったまま。
僕はそこに、目覚しい鮮やかなショックを受けた。これが「素直」ということか、素直さというやつか、と衝撃を受けたのである。そのときは「素直さ」という言葉が強く与えられた。それが素直さであること、それこそが素直さであることは、今もってまったく間違っていない。
もし僕がそこで、汗を拭いてくれ、と言い出したなら、きっと彼女は、迂闊にもそれに言われたまま応じたように思う。彼女の細い指で、清潔なハンカチが僕の額に押し当てられただろう。それはきっとそうなっただろうという確信がある。それは彼女の身に仕込まれた彼女の性質、「素直さ」であって、僕に対する好意うんぬんとは関係が無い。彼女は、もしそれを拒絶するにしても、第一に、思わず言われるがままにしてしまいそうになる、という性質を仕込まれてある。
僕はこれまでに何度もこのような体験をしている。人の素直さに直面し、内心で鮮やかなショックを受けるということ。それらのどのシーンを思い返しても、僕は、それらの全ては空疎ではなかった、という独特の感触を確認することができる。僕と彼女は、チームというのではなかったが、確かにその場所に一緒にいた。そしてどれだけささやかなことであっても、信頼関係としての時間を互いに与え合っていた。
***
左翼教師たちは、熱心だったが、彼らが教えたことは信頼関係の対極だった。彼らのその教育には、物事の半分としての正当性があるのでもある。世の中には確かに悪辣な人がいて、彼らによって損失をこうむらないためには、確かに彼らを疑って、対立をもって臨むほうがよい。それは生きていく中の事実の半分を捉えてはいたが、そこに問題があるとしたら、それは彼ら左翼教師が、それを半分と知らず全てだと思い込んでいたことである。彼らの神話は、資本家と労働者の闘争であったが、彼らはその構図が全てと信じてしまったので、<<ときには資本家と労働者さえ信頼関係を持つことがある>>ということに気づき得なかった。彼らは信頼関係そのものを虚構だと信じて無意識に攻撃するのを本能としてしまったので、彼らが重視していたはずの彼ら自身の「団結」というものも、まるで自己免疫反応を起こすように歪めてしまい、信頼において団結はできず、癒着によって固まることしかできなくなった。
人は互いに対等であるべきだ。この平等思想は、現代を構成する不可欠の柱であり、僕自身もこれに合意している。人一倍、これを主張したい気持ちがあるほどだ。ただし僕は、信頼関係という現象を知っているし、それがかけがえの無い現象、人人の関係を空疎たらしめない唯一の現象だ、ということを知っている。その上では、人は互いに対等であるべきということも、重要なりに、それがどのように重要であるべきかというのも、冷静に見て取られるのである。
僕が女に、タバコ買ってきてくれ、と言う。お願いするというよりは、言いつけ、命令する。これについて、「はあ?」と反発する態度がありうるのは、想像力のもっとも安っぽい部分を用いて想像が容易だ。この不満げな反発は、言わずもがな、「何様のつもり?」と、つまり互いの対等性を侵し、自分が優越たろうとしているのか、という疑いによって起こっている。
その構造はわかる。わかるけれども、僕は正直なところ憮然としているのだ。僕の憮然とする心地をたとえるなら、「地雷原のジェンガ・ゲームか」と、僕の心は比喩を選ぶ。人は対等である。それのバランスをわずかでも崩すと――一巻の終わり。本当に、我々の人間関係、その我々なりに愛だの思いやりだのでこだわるところの人間関係というのは、タバコを買いに行かせただけで大爆発でおしまいになるのか。そんな、積み上げられたジェンガがゆらゆらとして不安定な麓で、とりあえず崩れずにある、さあお茶を飲みましょう、と、我々はくつろいだふりをするのか。そんなものはおかしいし、やっていられない。
これは冗談ではない、なんなら夫婦関係を契約した仲でさえ、何かのついでという合理でもなければ、タバコ買ってきてくれ、と言い出すことも許されないところがあるのだ。あるいはそのような信頼関係を、表面上でもパフォーマンスして満足するために、亭主関白、というような題目に合意しておかねばならない、というようなことがある。それで買いに行かせても、買ってきてもらったならばきっちり礼を言うかどうかを言質のように確認されるし、なんならその妻のほうは、そのような亭主関白のパフォーマンスに付き合わされるのに十分な対価を受け取っているだろうかというようなことを、ふとした折に考えて確認の試算をしているのだ。
なぜだ。本当の本当に、人同士の対等性というのは、そこまでシビアに保たれればならないのか。今のところ、我々の暮らしは、対等性をわずかにでも狂わす信頼関係は築きえていないが、今のところはそれとして、本当にそのような世界のまま生きていって、本心から喜ばしく思い切れるのか。
僕にはまったく納得できないし、納得できないまま、腹立たしくも感じている。
渋谷で、ゲリラ豪雨があり、いっそう混雑したJR渋谷駅で、ひとりの女性が立ち尽くしていた。階段の踊り場で、どうしようもなく困り果てていた。田舎から出てきたばかりだそうだ。巨大なトランクを脇に置いて、身動きがとれずにいた。見たこともないような混雑が恐ろしかったらしく、また、そのトランクが信じられないぐらい重たい。よくぞこれを、ここまででも持ってこれたものだと、僕は不思議でならなかった。今考えても、あの女性があの重さのものを階段の踊り場までどうやって運べたのかは謎のままだ。火事場の馬鹿力、というようなことだったのか。とにかく彼女は、ゲリラ豪雨に打たれて、びしょ濡れのままそこに立ち尽くしていた。
僕は彼女のトランクを持ち上げてやり、電車の乗り場まで運んでやった。自分のでしゃばりを後悔するぐらい、そのトランクは本当に重たかった。そのおせっかいの道中、ずっと、彼女は恐縮して礼を言っていた。混雑の喧騒に当てられて、彼女が動揺していたということもあったのだろうが、僕は途中からそれがうっとうしくてならなかった。このド田舎モンが、と内心では吐き捨てていたところがある。彼女のそのドンクサさは、自分で運べないような重さのトランクをこしらえてしまったことときっとつながっている。造形は美人だったが、美人にそう腹を立てるのは僕自身めずらしいことだった。
彼女は僕に礼を言い、恐縮し、感謝しているが、僕を信頼してはいなかった。僕にはそれが腹立たしかったのだ。どんな教育をされてきたんだ、と、僕の心中はひどい台詞を怒鳴るのである。
馬鹿馬鹿しい話だが、彼女の常識では、僕が善意からそのような手助けをした、というふうにしか見えないのだろう。そのように教育されてきたのだからしょうがないのかもしれない。けれどもこんなもの、状況さえ分かればチンパンジーだって手を貸す。そのような現場に出くわしても、オランウータンは状況を読み解くことはできないから手を貸さないだけで、何をしたらいいかわかればゴリラだって協力する。僕がそのゴリラより劣等なものと扱われるのでは腹を立てて当然ではなかろうか。
彼女はしきりに礼を言うが、僕を信頼などしていないのだ。そこに信頼関係が無いからこそ、僕の好意を説明するのに善意という原理が必要になる。僕にはまったく腹立たしいのだ。男尊女卑でないと女にタバコも買いに行かせられないか。善意がないと行きずりの女の荷物も運んでやれないのか。
信頼関係が無いというのはこういうことだ。電車の乗り場まで僕が荷物を運んだ。それで汗を掻いたので、汗を拭いてくれ、と言ったとする。彼女はハンカチを取り出して汗を拭いてくれるだろう。けれどもそれは、僕の言いつけに彼女がただちに応じたのではない。彼女は計算したのだ。彼女の受けた善意と比較して、その低度の返礼はしてよい、という計算をした。その計算は何を意味しているかというと、対等性なのだ。彼女がその返礼をしたほうが互いの対等性が回復するだろう。それを行為の正当性の担保にすることで、僕の汗を拭きうるのだ。つまり彼女が僕の汗を拭いてくれるのは荷物を運んでくれたからで、そのことの引け目がなかったら彼女は僕の汗を拭いてくれない。汗も拭いてくれない女ってどんな女だ。汗も拭いてくれない信頼関係ってどんな信頼関係だ。
世の中の人間関係って、本当にそんなものなのか。そんなものであってよいのか。そんなことはない。そんなことはないし、そんなことではないというようなものを、僕はいくらでも経験している。
一部の人には到底信じがたいようなことが、僕の実体験としていくつかある。たとえば僕が、家の玄関先でもよい、通りすがりの、まるで赤の他人に、タバコ買ってきてくれ、と言う。言いつける。想像力のもっとも安っぽいところで想像すれば、そこには「は?」という、怪訝で警戒的な態度が返ってくることが予想されるだろう。頭のおかしい人かしら、と恐怖に警戒する顔つきをして。そりゃあそのようにしかありえない……と想像される。けれども、本当の本当には、必ずしもそうではないのだ。そうでない現象が起こることもある。実際に、ポカンとするけれども、何それ、とクスクス笑い出し、悪い冗談かコントかに乗るような形で、
「何ていうタバコ?」
と聞き返されることはある。本当にあるのだ。
時代ということを、あまり悪く言いたくはない。けれども、時代というものによる人人の気質の変化や、また場所や土地柄による人人の気質というものが実際にある。今の時代より少し前、くたびれきった場所と少し違う場所では、そういうことは普通にあった。ありふれてあったのだ。もちろんそういうことに縁の無い人もいた。そういう人は、信頼関係の訓練を積んでいなかったから。
この現象には、人間の持つ信頼ということの機能の、まったくの妙味が表れている。これを説明するのは容易ではないし、説明したところで訓練がなければ実現はできない。僕はこの妙味を説明はしきれないし、誰かに伝えて実現させることもできないが、ある揺さぶりをかけることはできる。
自分が玄関先にいて、ふと目の前を、「友人」が歩く。彼に対して、タバコ買ってきてくれ、と言うことは不自然ではない。ありふれている。
ただ、それが赤の他人であったら、タバコを買ってきてくれと、言いつけるのはたいへんなイレギュラーになる。本当には、そういうことはあってもよくて、それがあってはならないというのは、現代の思想に過ぎないのだけれども。
つまり、タバコを買ってきてくれと、その一言がたいへんなイレギュラーに見えるのは、目の前の彼と自分とが、「友人でない」という一点による。だから、彼にタバコを買ってきてもらうにせよ、まず彼と友人になり、その後に言いつけるなら構わないわけだ。
僕が揺さぶりをかけうるのはこの点である。多くの人がこの単純な視点を見落として気づかない。友人になってからならタバコを頼める。だが、<<タバコを買いに行くのと、友人になるのとでは、どちらが大変か?>>
本当の本当に、赤の他人の言いつけを真に受けて、タバコを買いに行くことは不可能か。生涯のうち一度も、そんなことはありえないし、あってはいけないことか。そう考えてみると馬鹿らしい話である。たかが、タバコを買いに行くだけのことで、大仰な。時間にして数分のことに過ぎない。労力として、重大な善意の決断など必要としない。ガンジーかマザーテレサでないとできない、という行為ではない。タバコを買いに行く、というだけだ。人間のやることの中でもっともイージーな行為の中の一つである。
この、鼻くそをほじることの次に簡単な行為を、なぜか我々は、できない、決してできない、と思い込まされている。もしそのようなことをするとなったら、それは重大なことだ、よくよく考えろ、十分に審議して正当性の担保を見つけてからにしなくては……と発想することを押し付けられている。
そんな馬鹿なという話である。思い込みだ。わけのわからんものを押し込まれているのだ。左翼教師らの熱心な教育、その薫陶の成果である。そんなもの、ちょっと揺さぶると「おかしい」と気づかれてしまう。たとえば、アフリカでもブラジルのアマゾンでもよいが、原住民たちの暮らしに少しお邪魔している。そこで、民家の玄関口に立つ青年が、「水を汲んできてくれ」と水瓶を突きつける。あなたはそれに「はあ?」と苛立った不満の態度を本当に返すか。あるいはモナコの高台を歩いていたら、庭にいるおじいさんがあなたを手招きする。「花屋に行って、スイセンの花を買ってきてくれ」。あなたはそれにも「はあ?」と返すか。「いいですけど」と心の濁った態度を見せるか。違うんじゃないか、わけがわからなくても、とりあえず言われたとおり、水を汲みに行こうとしてしまうし、スイセンの花を買いにいこうとしてしまうのじゃないか。
なんなら、そういうことがあったなあと、旅先なら旅先のこととして、貴重な思い出なんかにしてしまうのじゃないか。
信頼関係である。素直さである。あなたは何か、ブラジルのアマゾンの原住民に対しては素直で、信頼関係を築き、モナコの高台のおじいさんとも、また素直に信頼関係を築くのに、日本に戻ってきたら直ちにブーたれて「はあ?」という反応を当然にするのか。それではおかしい。あなたが、日本と日本人を特別にきらいで、日本人だけは決して信頼しないというのであればわかるが、そうでないかぎりはこれはおかしい。
職員室の風景はある印象深さで子どものうちの記憶に残っている。その風景を記憶から取り出してみると、そこにあったのは信頼関係に結ばれた彼らではなかった。彼らは建前上は、子どもたちを正しく教育するためのチームであり、連携し、協力する者たちであったはずが、職員室の空気というのはふつう重苦しくて、ここに入ってみたいと、子供心にも憧れは持ち得なかったものだ。
一方で、子どもたちは、まだ職員室のようにクタビレきった空気をまとっていない。彼らは、信頼関係を起こす訓練に未熟だが、その分、信頼関係を阻害する訓練についても、まだ深く薫陶はされていない。それで、たとえば文化祭の展示物を作り上げるのに、気づけば自然な信頼関係が生じることはある。女子から男子にでも命令する。
「ハサミ持ってきて!」
文化祭の展示物を作るというようなことにも、無邪気な熱を持つ彼らは、その熱によって信頼関係の現象を起こす。命令を受けた男子はただちに腰を浮かせている。教室には熱い命令が飛びかっているが、それは無秩序な喧騒ではない。
一方で、職員室では、教師Aが教師Bに命令を言いつけ、ただちに……というようなことは起こらない。
「すいません、ハサミを持ってきてもらえますか?」
あるいは、
「ああ、○○君、ハサミを持ってきてくれないかね」
というふうに、お願いごとをするに留まる。彼らはそれが大人だと信じ込んでいる。
どちらにせよ、行為として残るのは、またしても容易極まる、ただ「ハサミを持ってくる」ということだけだ。ただそれだけのイージーな行為に、人間の対等性であるとか、個人の自由であるとか、巨大な思想を持ち込んでくる。教師Aがどれだけ子どもたちに、人を信じること、信頼関係において連携することを説いたとしても、彼自身は教師Bに、「ハサミ持ってきて」と言いつけることができない。彼らの人間関係というのは、その程度のことも許されないほどなのだ。
教師Aがそのように、「ハサミ持ってきて」という言いつけ、その容易な命令さえも教師Bにできなかった場合、彼は生徒たちに向けて、「静かにしなさい!」と命令することはできるだろうか? それを無理やりにでも可能にするならば、権威と権力によって子どもらをねじ伏せるか、もしくはヒステリーめいた気勢や物理的な膂力を背景にして、子どもらを威圧するしかない。それは、子どもたちを制圧しうる戦闘力を持ったロボットでも代替しうるものである。教室の隅に赤い目をしたロボットが二体あり、喧騒が一定のデシベル数を超えたとき、「シズカニシナサイ」という警告が発せられる。従わなければ当事者に向けて電圧ショックを与えるコードが撃ち込まれる。このようにすれば子どもたちはねじ伏せられるだろう。だがそれによって子どもが何かを学ぶということはない。
実際に僕にはこういう経験がある。電車で移動していた折、修学旅行か何か、制服姿の子どもらが車中に乗り込んできた。車中は大騒ぎである。僕にはそれはまっとうな子どもらしさに見えていたし、自分が彼らの立場であったら似たように大騒ぎしたように思う。別に僕は彼らをして低品質の子どもらだとは思わなかった。ただ、その騒ぎ方があまりに長く、度を越すところがあった。
若い女性教師が、静かにしなさい! と強めに言っていたけれども、彼女の声は車両の全域を制圧はしない。燃え盛る炎にわずかな水をかけた具合に、わずかな沈静を見せるが、すぐに再び燃え盛る勢いであった。僕は彼らに向けて、「おい、静かにせえや!」と命令を発した。周囲はシンとなったが、やや遠くにいる者らは、まだその変化に気づいておらず、吊り革にぶら下がって騒いでいる。「おい、静かにしろって」。僕は彼らに向けても改めて命令した。命令が伝われば、彼らは静かになった。彼らを統率する若い女教師まで、意表を突かれたふうに静かになった。これは奇異なことでも奇特なことでもない。通りすがりの女性に「タバコを買ってきてくれ」という言いつけが可能であるなら、なぜ彼らに「静かにしろ」という言いつけができないわけがあろうか?
僕は子どもを教育することなどに興味は持っていない。マナーや、その遵守にも、さしたる関心は持っていない者だ。教育といえば、僕自身についてがまず不十分に思うし、マナーといえば、僕はかなりの非マナー者であろう。人に何かを教えられるような立場や力量にない。僕が見て、僕が憮然としているところは、引き続き同じである。僕はただ「静かにせえや」と命令したのみだ。静かにする、というのは行為として容易なことである。この容易なことを命令するのに、本当に、教育というような巨大な概念は必要か。マナーというような高潔なものに、行為の正当性を担保させる必要が本当にあるのか。これはそんなに大仰なことか。「静かにせいや」というだけのことが。
ここにも思い込みがある。あることについて、我々は、それができない、決してできない、と思い込まされている。人間は人間同士、確かに対等でなくてはならない。でもそのモットーは、地雷原のジェンガ・ゲームのように、繊細なバランスをわずかにでも崩せば大爆発して一巻の終わりか。
子どもを教育するのは教師だ。静かにしなさい、と、子どもらを制圧するのは、教師の業務かもしれない。でも本当に、そこにいた僕は、目の前の子どもらに命令してはいけないか。たしかに公的な権限を与えられてはいない。けれども、そんなことに、「静かにせいや」というだけのことに、国家資格と知事の認可印が本当に必要なのか。
別に僕が命令してもかまわないだろう。その命令が発せられて、その場がどうなるかは別にして。人人は対等である。けれども、そのことを忘れない限り、僕は世界中の人間の、誰に対しても命令や言いつけをしてかまわないはずだ。どうしてもそれが非道極まるもので、誰かの利益を重大に損なわせるものであれば、僕の命令などは排斥されるか無視されるはず。だが僕の命令など、いじましさも極まるものではないか。タバコを買ってきてくれとか、静かにせえやとか。通りすがりの女性が、まだ電車に乗っている子どもらが、ただちにそれに応じたとして、いったい何の害悪がある。
左翼教師たちは熱心だったが、彼らの教育は信頼関係のそれと対極だった。それは確かに必要な教育ではある。世の中には悪辣な者たちがいて、彼らから損害をこうむらないためには、彼らを信頼しないこと、彼らと間違って信頼関係を持たないことが必要になる。そのためには個人の自由を強く意識し、人間同士は対等であるべき、という理念を常に念頭に置いておく必要があった。その土台が共産主義の、労働者らに向けられた声、「資本家どもを信頼するな」であった。それはそこだけを見れば確かに正当なことだ。だがこのワクチンを無闇に投与すると、副作用で重大なものを失うということは、彼らは知らなかったし、それは今になって、結果として知られたことに過ぎない。
薫陶され、詰め込まれた教育の影響は深い。どこか生真面目なところがあった者ほど、健気にその教育を詰め込んできたところがある。人人は対等であるべき、という理念には○がつく。対等性を侵してはならない、ということにも○がつくし、「対等性を侵すやつはクズ」ということにも、ためらいがちに、やはり○をつけねばならないところがある。これに○をつけたならば、次、「人は人にお願いをして、受け入れられたら礼を言うもの。何様気取りか、自意識を肥大させて、命令なんてしてはいけないのよ」ということにも、やはり○をつけるしかなくなる。
ところが、こうして理念を上から下に見たときには○がつくものを、今度は下から上に見ていくと、よくわからなくなってくる。
タバコを買ってきてくれと無法に言いつけたら、彼女は立ち止まってくれて、メンソールなら持っているわと笑い、その煙草を箱ごとくれた。中には半分方のメンソールタバコと細長いライターが詰められてあった。この彼女は「クズ」か、と言われると、クズとは言いがたい。彼女の行為には○がつきそうだ。「静かにせいや」と僕が言いつけ、子供らはドキリとした顔で、シンとなって友だち同士で目配せをした。これは、僕も子どもらも人間の「クズ」か。そうともやはり言いがたい。それで○をつけてしまう。これが、「ときには思い切って命令することで、最善の展開がありうる」と言われると、まあ○をつけるしかない。「ときには思い切って命令すればいい」と言うことにも○をつけねばならないが、「人は人に命令していい、たとえ対等であっても」ということに到ると、もうわけがわからなくなってくる。これに○をつけたら、先ほどの自分の解答と矛盾してしまう。
この矛盾は、やっかいに見えるが、実のところそうでもない。まやかしにかかっているだけだ。両者は互いにまったく違う土台で人間の営みを見ている。それはもう水中と空気中ぐらい前提が違うので比べるほうがおかしいものだ。
一方は、信頼、という現象を土台においている。一方は、非信頼、という状態を土台にしている。この違いの上で気づかずに議論をぶつけても何も起こらない。
前提の欠損と言ってもいい。対等性を厳しく保つように訓練された側は、相手と信頼しあえる可能性、というものを前提に入れていない。入れ忘れたのだ。一方で、信頼しあうことを厳しく訓練された側は、それだけでは、相手が悪意を持っている場合を前提に入れていない。それでは確かに、とんでもない目に遭う。
でも、ただそれだけのことだ。それだけのことで、本当に我々はそれを上手くこなせないか。ある程度のことでいい。もしそれが上手くこなせず、どっちかにしがみつくしかないというなら、いい年こいて、まあ年を取った甲斐のないことだ、と僕などは思う。ケースバイケースの応用も利かないなら、なんのための知恵と知識か。
人には信頼関係を起こす機能が具わっているし、悪意を持っていない場合だってある。左翼教師がすっかり忘れていたことを教えよう。機会があれば、先生に直接言ってやればいい。資本家と労働者だって信頼しあうことはありえる。資本家の命令に労働者がただちに応じる、ということじゃない。それはもう十分やってきただろう。
「給料上げろ」
「おう」
もしこれが通用してしまったら、長いあいだ左翼と呼ばれてきた、マルクス・エンゲルスからの共産主義の理論は、まるきり要らなかったね、馬鹿みたい、ということになる。<<ただこれだけのことで>>だ。むろん世界中の大規模な経済活動においてはこういうやりとりは通用しないが、どこまでも誤解がある、我々が関わるのは何も大規模な経済活動ばかりではない。具体的にお前の関わってる大規模な経済活動って何だよ、と、教師に言ってやっていい。教師は赤っ恥を掻くんじゃないか。教師の仕事は生徒に知識を与えつつ、その知識と、人に物事を教えるということの熱気と技術において、生徒らの尊敬を勝ち得ることだ。生徒らが、自分もこうして人に尊敬されうる者になりたいと、そう望ませてこそ本当の教師だろう。あと重要なこととしては、教師という枠組みから離れても魅力的な一人の人間でありつつ、嫁さんの機嫌を損なわないよう英知を尽くすことだ。それらの小規模な活動が成功していないのに、大規模な経済活動における問題と解決ばかりに詳しくなってどうする。そう言ってやったらいい。教師だけでなく、全ての大人にも、老人にも。もちろん自分自身にも。
「タバコ買ってきて」
「おう」
もしこれが通用してしまったら、長いあいだ難しく言われてきたことの全ては、まるきり要らなかったね、馬鹿みたい、ということになる。だから僕は憮然としているのだ。馬鹿みたいだ、と本当に思っているから。もしこれが通用してしまったら、なんて言うけど、そこそこ通用することが別に珍しくもなくある。それを僕は体験してきた。それを、と、言い方は失礼になるが、体験の貧しい側からの、彼らだけの前提で言われても困る。
人の対等性とかいうのは、さすがにそろそろやめにしないか。
<<そろそろやめにしないか>>。
僕を――といっても、正確には、ここに語られている声を、だが――信頼してくれている人は、この僕の「命令」を、ただちに受け取ってくれている。言われたとおりにまず腰を浮かせて動いてしまう。それが面白いから、こんな与太話でも、読むというのは面白い、と感じている。
***
この、いま僕の話していることが、僕の意図どおりに伝わるところがあったとしたら、一部の人には、発想の大転換とか、世界観の逆転とかが、引き起こされることはありうる。そのようなことがあれば素晴らしいと思うけれど、そうなるはずだ、と思い込めるほど僕は自分に酔える性質ではないし、自分の万事の力量が何かを引き起こすのに十分だとも思っていない。僕の語っていることのテーマは素晴らしいが、僕自身は何も素晴らしくないので、そこが問題だ。僕自身が素晴らしくなれればと思うが、素晴らしくなる方法がわからないのでこのままである。だからといって、テーマ自体は素晴らしいのだから、黙っておくのも勿体無いのでこうして話している。このテーマが素晴らしいというのは、人間が素晴らしいということである。僕は素晴らしくなくても、立ち止まって笑ってタバコをくれた女は素晴らしかった、ということだから、これは間違いのないことだ。いろんなことに思い込みがある。僕が素晴らしい人間でなくても、素晴らしい体験はしてこれたわけだし、人に素晴らしい体験を引き起こす触媒になりうる可能性だってゼロではない。もしそれがゼロだとはっきりしていたら、僕はとっくの昔に自殺していた。
とにかく、このテーマ自体は素晴らしいもので、一部の人には、世界観の目覚しい大転換を引き起こすことがありうる。簡単に言えばこうだ、<<人は人に命令してよい>>のだ。命令してもよいし、命令されてもいいのだ。ただこれだけのことを、簡単に言うためには、ここまでのように長ったらしく話すしかなかった。
人は人に命令してよい。特に、命令されてよい、という点は重要である。命令されてはいけないものだと思っているから、いちいちに「はあ?」とか「ああん?」とか反発してしまう。その反発が実は感情的でさえあることに我々は気づかなくてはならないだろう。正直、まるで躾の悪い犬みたいにだ。僕自身にもそういうところはある。それは後になって気づくと大変恥ずかしい心地がする。対等性から逸脱しているのでお断りします、ということなら、そう断ればいいのに、それに感情的に反発するのは、理知的でない安物のプライドに過ぎない。ちょっとぱかり低く見られた心地がして腹が立つのだろう。そうして感情的になるときの僕は、決まって何事かで自信を失っている。自信がなくなるとわずかなことも受け入れがたくなるものだ。
人は人に、命令してよいし、命令されてよいというのは、もちろん、信頼してよいし、信頼されてよいということだ。僕はここに、かけがえのないぬくもり、涙腺につながる熱源を感じている。人は、信頼されてよいのである。僕だって、人に信頼されていいし、その信頼において、人に命令されていいのだ。それはなんと嬉しいことだろう。車を運転していたら、窓をコンコンと叩かれて、駅まで乗せていってくれ、と命令されていい。それで、礼も言われずに済む。そのようなとき、僕は確かに人人と一緒に生きていると感じて、身体の底が熱くなる。あまり格好のよい話ではないが、それが僕の本当の話だ。
命令されるのは、どうしても腹が立つ、受け入れがたい、という人はいるかもしれない。そういう人には、じゃあ命令する側をやってみよう、とおすすめしたくなる。このことにはまた、とびきり面白い妙味が含まれてある。僕の推理が正しければ、そういう人は、人に命令することができないはずだ。上司としてか、先輩としてならできるかもしれない。けれども対等な他人については命令ができないはず。
いざそれをするとなったらわかるが、命令をする側のほうが、すさまじい勇気とエネルギーが要るのだ。そうして勇気とエネルギーが要るということ、そのことが愕然とするほど確かに自分に感じられるということは、貴重なことである。それは、ただ命令するというだけのことが、本当には何を意味していることか、理解を超えて身体のほうが知っている、ということだからだ。その、「あかん、めっちゃ勇気が要る、めっちゃエネルギーいるわ」という、絶望的な壁の感触が、その行為が何であるかをあなたに教えているのである。赤の他人に、命令できるかどうかやってみたらいい。通りすがりの人に「タバコ買ってきてくれ」と。それがどれだけ難しく勇気の要ることか。それは「信頼」という現象の愉快きわまる感触を掴まなくては出来ないことだけれど、その感触を掴むのにどれほど自分の思い込みを突破せねばならないか。
まして、汗を垂らして思い込みを突破し、「信頼」の愉快きわまる感触とはこれか、というのを掴んで、本当に赤の他人がくすくす笑って、「いいわよ」とタバコを買ってきてくれたとき、どれほどの感動が身に注がれるか。人は赤の他人同士でも信頼関係を起こしえるのだ。それはひょっとすると、人を信頼する、ということの、生まれて初めての体験かもしれない。そんなものを体験したら、それは感動に打ちのめされるに決まっている。地球上に六十億の人間がいたら、六十億の人と、関係を持ちうる、その確かな可能性を手に掴んだのだ。それは感動するに決まっている。僕はずっと、自分は幸福と歓喜の中ばかりを生きていると自分で言っているが、それは僕の頭がおかしいのではないし、多幸症をわずらっているのでもない。運以外の何かにやたらに恵まれているのでもない。単に、その無限といってよいような、人との信頼関係の可能性を手に掴んであるというだけだ。それがある限りは、この世界に生きることは空疎ではないし、逆にそれがなかったとしたら、世界中に何があろうと空疎だ。周囲に人数が増えるのは単に混雑することでしかなくなる。
これはどこまでも難しい話で、引き続き、いや命令されるのは腹立たしいし、人に命令するというのも、わからない、動機がないわ、という人もいるはず。言おうとしていることはなんとなくわかるけれど、ちょっと大げさすぎるというか……信頼なんて普通に誰にでもあるじゃない? と。そのようなとき、僕からお願いできるのは、「ひょっとして」と思っておいてくれ、というぐらいしかなくなる。それ以上は、まさに個人の尊厳に関わることで、進入禁止だ。そのときは、あくまで合理的に、理屈を言うことだけに僕は努める。合理的に考えて、人は、何の確信もない、何の実もないことを、こんな聞きなれない話の調子で、必死こいて話そうとするだろうか。それはちょっとおかしいだろう。殺人犯が後ろめたさからオドオドしていることのように、僕の必死ぶりには何かしらの理由がある。僕の低能がそれを上手く伝えられないだけだ。だから、「ひょっとして」と保留してもらえるのが最善である。
……ややこしい語り口でも、その筋道が思いがけない解決へ結ばれることに、面白さを覚える人であれば、ここからの話はきっと好ましく思ってもらえるはずである。人は人に命令してよいし、命令されてよい。実際にこのことをやるには、ものすごい勇気が要るし、エネルギーが要る。思い込みは打破されねばならない。僕が人に命令してよいというのは、その人は僕に命令されてよいということである。その相手方のことも考えていないと、思い込みは打ち破れない。僕があなたに何かを命令しうる根拠は、僕が命令してよいから、というだけではない。もう半分のこと、あなたが命令されてよいものだからだ、ということが重要だ。そうでないと、実際この信頼関係への踏み込みはできない。不思議なものだ、頭でいくら強引に行こうとしても、本当のところを掴んでいないと、身体は恐れて拒絶してしまう。
あなたが命令されてよいものだから、僕はあなたに命令してよい。このことはもちろん逆転させても成立する。僕は命令されてもよいものだから、あなたは僕に命令してよい。
ここまでに出した全ての例を振り返る。「タバコを買ってきてくれ」と、言いつけられた通りすがりの女性。彼女は笑って、メンソールタバコの残りをくれた。
ここにはまったく奇妙なことがある。赤の他人に対して不平等な命令、勝手きわまる言いつけをしたはずだ。が、そのシーンにある二人を見たとき、その二人の間に上下の差別のようなものはあるか。彼女の像は、僕に虐げられて、命令を拝領させられた、不本意なものとしてそこにあるか。
ハンカチを貸してくれ、と言いつけると、彼女はただちに細い指でCOACHのバッグを漁っていた。彼女は自らの立場を下にしたから、命令に従わなくてはならなかったのか。
一部の人は、この話を読んでくれて、面白がり、僕の命令にただちに応じて遊んでくれたものだと信じよう。対等性などそろそろやめにしないか――Yes、と。けれども、そうした人は、何かを上から押し付けられて不愉快な気分に耐えているか。
そうではないはずだ。僕は全ての体験を振り返って断言するが、命令、言いつけ、赤の他人に対してもそのようなやりとりが成立するとき、相手は必ず笑っている。思いがけないことに戸惑っている様子があっても、何かしらの愉快さを感じて笑っているものだ。
それが愉快なのは信頼関係だからだ。これは矛盾ではなく逆転である。<<信頼関係は、互いが対等でいられていないと成立しない>>。対等でなければ、人は愉快でないし、笑ってなんかいられない。
よくよく見ると、矛盾なんかどこにもない。人は人に命令してよいし、命令されてよい。僕はあなたに命令してよいし、されてよいし、あなたも命令してよい、されてよい。
こうして、互いに命令してもされてもよいのに、その関係のどこが、対等でないのだ。対等といえばこれ以上の対等もない。
この、本当の対等ということに到達していなければ、赤の他人に命令なんかできないし、信頼関係も起こせない。信頼関係がなければ、心の底からは愉快でない。愉快でないし、熱源が涙腺に接続したようには、心の底からは笑えない。
地雷原に積み上げられた、不安定なジェンガ・ゲーム。これはバランスを崩せば一巻の終わりだった。これは、当人が大切にしているつもりの対等性の概念が、実は貧弱で、かろうじて崩れずにあるという、不確かなものに過ぎないことを意味している。こんなもの、ちょいとつつけばすぐ崩壊だ。
空高く屹立する、「対等の塔」がある。流線型で、黄金で出来ており、叩いたって壊れようが無い。人の手では壊せないものだ。
人は人に命令していいし、命令されていい。そんなことは小さなことだ。命令しても、されても、大したことではない。何か重大なことがあるかといったら、なにも無い。対等性は壊れない。
あなたの思いや意見はどうあれ、まず、何かをあざ笑う用意をしよう。これは命令である。そして、用意が整ったなら、遠慮はいらない、不安定なジェンガ・ゲームを地雷原に積み上げている連中を、指差して笑え。あいつらは何か、対等の塔を自作した結果、いまやバランスを崩したら一巻の終わりになるらしい。それで、人と信頼しあい、命令したりされたりする、ただちに動く、ということができないそうだ。そりゃあそうだろうな、見てればわかる。バランスを崩したら大爆発だもんな。申し訳ない気持ちだけれど、ああじゃなくて本当によかった。
[了]