No.227 個性とは差別である
個性ということに特別の関心をもつ者には、このことが知られるべきである。<<個性とは差別である>>ということ。差別はまた、異物を生む。そして異物となったものを、異物のまま愛したとき、人は彼を個性ある者として受け止めているのである。
個性とは差別であるということ。また、現在の時代の流れにおいては、差別が除去されることが好まれ、それに伴って個性が除去されていっているということ。このようなことは、学生のレポートに次々と書かれてよい。それは教師の興味を惹くだろうし、数が重なれば教師の固定概念を揺さぶりだすかもしれない。個性とは差別であり、異物化であるということが、正しく了解されたならば、同時に、性格が個性なのではない、ということも、明瞭そのものとして理解される。
個性とは差別であり、差別は異物を生む、そして、異物の対極にあるものは親近感である。親近物、という造語を当てはめてもよいかもしれない。これらの、差別・異物・親近物という語群によって、我々を取り巻く空気の正体は、解決はせずとも、明らかになる。
異物には色々あるが、それらの全てを分類別にも列挙することは冗長になる。それでも列挙するよりないが、より滑らかに理解を得るためには、それぞれの読み手において、そこには確かに「親近感が無い」ということ、確かに断絶があるということを、前もって感じ取るふうにされるのがよいと思う。
たとえば、漫画「ドラえもん」に登場するキャラクター群。彼らは全て個性的である。「のび太」「ジャイアン」「スネ夫」と彼らの名を示しただけで、そこには彼らの個性と、彼らに与えられた差別が浮かび上がる。彼らはそれぞれに異物である。「のび太」について、わかるわかる、と、共感したり、親近感を覚えたりする者はいない。「どうしようもない奴だな」と、距離を置いて彼を受け取る。学校に遅刻し、廊下に立たされ、テストは0点で、野球をすれば空振りとエラーしかしない。そしてジャイアンに気分一つで殴られて、マンガ本を取り上げられてしまう。スネ夫にも貧富をアテツケられていびられている。それでどうするかというと、泣き寝入りか、ドラえもんに泣きつくか、そうでなければ昼寝している。彼は自己を改善しようとはしない。
「のび太」は我々にとって異物である。劣等生のモンスターと言ってもいい。我々は彼を差別し、異物として見ている。その差別の証拠は次のように明らかにされる。我々は、のび太が、ジャイアンとスネ夫によって、「のび太のくせに!」という文脈でブン殴られるシーンを見ても、そこにショックを覚えない。それは我々がのび太を異物と見ていることの証拠であり、差別の証拠だ。これがもし、なんでもないクラスメートが、ただジャイアンの粗野によって殴られるなら、そこには精神的なショックがありえるだろう。それは我々が、そのなんでもないクラスメートを差別していないからである。そして、彼を差別しておらず、異物として見ていないから、彼はまさに「なんでもない」クラスメートである。
同様の差別と異物化は、ジャイアンとスネ夫のほうにも与えられている。ヒロインである「しずかちゃん」にも、女性という性別、美少女という点において、実は差別と異物化が与えられているのだが、ここでは煩雑になるのでひとまず置こう。ジャイアンには、あの粗野な性質と、それにふさわしい顔つき、ズングリとして力感に偏った体型と、下手な上に自覚のない歌、貧相な八百屋である実家、不美人の典型である妹が与えられている。また差別の最大なるは、彼の実用に耐えうる暴力に秀でた膂力だ。彼の個性はまずその暴力に秀でた膂力によって決定されている。
スネ夫のほうは、単なる金持ちというよりは成金という嫌味成分、「○○ザマス」と馬鹿げた口調で話す母親、「骨」「皮」「スネかじり」という暗喩を含んだ氏名、そして痩せたチビとしての体型と、奇形じみてとんがった顔つきを与えられている。我々はそれらを見て、彼らを差別し、異物化して見ているのだ。だから、ジャイアンがジャイアンらしく粗野であること、スネ夫がスネ夫らしく嫌味であることなどについて、のび太の劣等生ぶりと同じように、改善しろよと口を挟む気になれない。異物のことは異物のことであって我々のことではないから。
旧来の漫画の主人公は、その異物たることを特徴にしていた。「北斗の拳」のケンシロウを見て、読み手が親近感を覚えることはない。「ドラゴンボール」の孫悟空について、わかるわかる、と親心のようなものを寄せることはありえない。「スラムダンク」の桜木花道の、あの腕白ぶりは異物であるし、「アルプスの少女ハイジ」のハイジは、その天真爛漫さが見慣れない異物である。「ジョジョの奇妙な冒険」や「おぼっちゃまくん」は画面全体が異物の勢い。「ガラスの仮面」の北島マヤは、観劇のチケット一枚のために、疲労困憊の極にありながらも大晦日の真夜中に、横浜の海に飛び込むのだ。それを見て、わかるわかる、とほのぼのした気持ちを引き起こされることはない。異物というのは、なんであれこちらをどこかゾッとさせるものを持っている。
これに比較すると、たとえば近年で急激に人気作となった「エヴァンゲリオン」、その主人公の碇シンジは異物ではない。彼にはこちらをゾッとさせるものはなく、どこにでもいそうな中学生、という存在として意図的に描かれている。観衆は彼について、「わかるわかる」と親近感をそそられる。これは現代の時代が、差別の排除を好んでいることの反映として作品に表れている。
漫画やアニメにおいて、作中人物が異物化されるためにはまた、彼らのプライベートがそうは明かされない、ということも気づかれるべきだ。我々は思いがけず、ケンシロウや孫悟空のプライベートを知らない。彼らが一人であるとき、どのような角度で俯き、内心に何を思っているのかを知ることはできない。観衆は、彼らのことをよく知っているようでいながら、思いがけずそのブライベートは知らないのだ。「のび太」のプライベートは、都合のよいことに、おおよそ昼寝しているので、彼の内心で独り言がどのように語られるかを、観衆は知ることができない。
これに比較すると、碇シンジのほうは、いつの間にか、彼のプライベートを知っているような気がする。そのように受け取られるよう、巧みに描かれている。近年の作品は、主人公がどのような活躍をするかというより、その華々しい活躍の裏で、プライベートではどのような表情を見せているか、ということに、作品の魅力の重きが置かれる。それで、彼が一人で自室で落ち込んでいる様や、女性キャラクターであれば、サービスというふうに、彼女が入浴して独り言をつぶやいているシーンが描き出される。そうしてプライベートを大きく露出させることによって、彼らは異物でなく、親近物として観衆に接近してくる。
近年の流行は、このように差別の排除、異物の否定と、親近物のアピールに寄っている。
もちろんこのことは、漫画やアニメだけに限らない。アイドルタレントが大きな人気を博すとき、彼女は舞台上のパフォーマンスによってその人気を得るというよりは、その舞台裏、楽屋、プライベートがどのようであるかという様をもって、その人気を獲得する。彼女は舞台上の微笑みよりも、舞台袖で疲れ果てていた、ぐったりしていた、けれども頑張った、ということによって、ファンの心に届く者だ。
舞台というのも、そもそも異物化のための装置である。いかなる奇人変人も、舞台の上にいることによって、彼は異物なのだから、と人人に同意を得て存在することができる。それは差別のための装置と言ってもよく、我々は客席から舞台を差別的な目でみることについてのみは、その咎を問われない。もともとそのための装置なのだから。ボクシングのリングの上で、どのようなパンチが見舞われても、我々はそれに口出しをしない。我々がボクシングのルールに熟達しているわけではないが、そのリングに囲われた世界は、こちらと断絶してあるものだから、と了解してそれを見ているのだ。リングの上で選手同士が手ひどい挑発合戦をしていたとしても、我々はむしろそれを面白がる。それは彼らを差別し、異物同士のやりあいだと見ているからである。
だからこそ本来、舞台の上に立つものは、なんであれ差別の対象であり、異物として見られる対象であった。俳優にしてもミュージシャンにしても御笑芸人にしてもそうである。ところが最近は、御笑芸人が舞台から離れ、その裏側で何をやっているかの隠し撮りや、あるいはプライベートとしてウェブ上のツールでつぶやきのやりとりをする、それを公開するということで、親近物としての人気を獲得する手段に移行してきた。奇抜な格好をしたミュージシャンほど、一通り目立った後には、すぐバラエティ番組に出て、パフォーマンスもそこそこに、まず最近の自分のマイブームは、といったような話をする。あるいは、小学生ごろの写真というものを大写しにする。それは異物を親近物に変えていく作業である。
文化にせよスポーツにせよ、その舞台でスターになった者について、彼をスターの座から引きずりおろそうとする、いやらしさの衝動が人間にはある。それはいわゆるスキャンダルやゴシップといった類のことで、それをしたがる動機はよく大衆の嫉妬にあると言われる。けれども本当には、これはそう単純な話ではない。人人は、自分が個性化するということに、憧れを持っており、また恐怖も持っている。その複雑に抑圧された深層心理によって引き起こされている部分も大きくある。だから、スターたちをその座から引きずり下ろそうとするとき、その企みは決まってまず彼らの個性化を破壊しようという発想から始まる。異物であるスターから、彼が異物でない証拠、親近物である証拠を、なんとか暴きたてようとする。
故マイケル・ジャクソンをそのスターの座から引きずり下ろそうとした者は、彼のパフォーマンスを侮辱し否定する、という方法は採らなかった。本来、マイケル・ジャクソンはパフォーマーであったのだから、彼を否定するにはそのパフォーマンスを否定するのが妥当である。けれどもスキャンダリズムの精神は、そのような方法は最善でないことをただちに見抜く。それよりは、何なら、マイケル・ジャクソンが公衆便所に入るところでも盗撮したほうがマシだ、と気づく。もはやパフォーマンスがどうであるとかは関係がないのだ。それよりは、借金がどれぐらいあるとか、性癖はどのようであるとか、親近感のある話題とスターとを接続しようとする。それによって異物を親近物にしようとする。親近感はプライベートにある。よってスキャンダリズムの徒は、なんであれ、スターたちのプライベートを覗視する方法とアイディアに長けていくのだ。
人人には、自分を個性化し、異物化することへの憧れと恐れがあって、現代の風潮は、その恐れの側に膝を屈したものと言える。スターの座にあるべき者がむしろ、親近感を持ってください、と自らその座を下りてくるところがある。それについて鷹揚になり、何はともあれ親近感をまず喜ぶ、親近物を悪く言うことはないさと、いっそ腹を括っているのが現代文化の性質と言える。もし今の時代にジェームス・ブラウンが転生してきたら、プロデューサーは彼を番組に呼んで歌わせようとするより、まず話を聞くか、よく行くレストランに一緒に行くロケをするか、なんなら輪投げのようなゲームをやって遊ぶ企画に、彼を取り込もうとするだろう。異物を親近物にすることで人気が得られる。漫画「北斗の拳」がそのまま再開されるよりは、番外編かスピンオフかで、「ケンシロウの日曜日」というシリーズを作成したほうが人人の興味を惹く。「ルパン三世」を新しく描くなら、「泥棒をやめたルバン」というシリーズを作るほうが興味を惹く。
ただしそのようにして、異物を親近物にし、差別を排除したことで、どうしようもない損失や、厄介さも現れてきた。それは、差別が個性であった以上、プレイヤーにも作中人物にも、個性を持たせられなくなったことだ。個性を持たない登場人物は魅力的でない。それどころか、登場人物のそれぞれが個性を具えていなければ、見ている側は、誰が誰やら、見ていても何も読み取れなくなってしまう。
差別を排除すると、たとえば女性を描くとして、「しずかちゃん」と「ジャイ子」のように、美少女と不美人という明確な個性を与えて描くことはできない。全員を美少女にしなければ。そうなると個性が失われるので、誰が誰やらわからなくなる。それで、髪の色や瞳の色などを、ピンク色でも真緑色でもいいが、はっきりわかる差のものにする。いわゆる「描き分け」のことだ。奇抜な髪型を与え、目立つ口癖を与え、特殊な体質を与え、奇矯な服装を与える。彼女らに与えられる性格や気質も、ステレオタイプのそれを与え、キャラクターの区別に役立てる。そうして、差別の排除によって失った個性を埋め合わせている。今はどちらかというと、その埋め合わせに生じてくる奇抜さが、それぞれの作品の「ウリ」ともなっているのでもある。
差別を除去し、親近感を与えるのに、様々な工夫が凝らされている。主人公が柔弱な気質で、周囲に上手く馴染むことができないというような描写は、それじたい観衆に親近感を与える。けれどもそのような親近感の作り方は、彼に作中での差別を与えてしまう。それで、その作中での差別を中和するために、彼には特別な超能力や、特権的な環境が与えられる。彼はだいたい、多くの人人を守る特別な部隊のエースになる。彼がその道へ進むというのでなく、前もってそうなることがその作品の前提だ。特権的な環境というのは、複数の美少女を身の回りに置かれるということ、またそれを別の男に奪われる可能性が無いということも含んでいる。「ドラえもん」のように、のび太はゆくゆくジャイ子と結婚することになるかもしれない、しずかちゃんを出来杉くんに取られてしまうかもしれない、というような差別のスリルは課されていない。
仮に、「ドラえもん」を、現代の文化に合わせて作りかえるなら。まずのび太は、あのようにみじめに差別される階級であってよいが、それによって「実は」痛ましく落ち込んでいる、心を悩ませている少年であると描かれねばならない。まちがってもノンキに昼寝をするような者として描かれてはならない。それはある意味ではタフすぎることで、異物でありモンスターだ。
そして、そうして痛ましく落ち込んでいるのび太には、隠されていた特殊な超能力がなくてはならない。のび太には、未来と交信する特殊な超能力があるのである。そして未来の世界からロボットを召喚する。やってくるのは、姿の美しい人型アンドロイドであるべきだ。
それによって、彼の「個性」はもはや、差別によって決定されたそれではなくなる。学校に遅刻し、テストは0点で、ジャイアンとスネ夫にいじめられ……ということは、彼の個性ではなくなってしまう。彼の個性は、「未来と交信する超能力を持つ少年」であり、「人型アンドロイドと共に、現在から未来にわたる地球を守る秘密の任務をこなしうる唯一の少年」となる。彼はもう、ジャイアンに呼び出されて野球で三振する、というようなことはなくなるだろう。彼はそのような差別的な人間関係からは離脱する。彼が接続するのは、超能力によって開かれた、未来への世界と人型アンドロイドに向けてである。
「ドラえもん」というロングセラーの妙味は、のび太にあてがわれるのが、未来の世界から来た「ネコ型ロボット」だったところにある。ネズミに耳をかじられた、おまぬけなネコ型ロボット。彼の登場は、のび太に可能性を与えたが、可能性のみで、のび太をその差別階級から救済はしなかったのである。
ドラえもんは、あくまでのび太に秘密道具を貸すだけ。道具を貸すだけなので、のび太そのものに超能力が付与されるわけではない。だからのび太は英雄化しない。ドラえもんそのものの機能もお粗末なもので、タケコプターをつけないと、ドラえもんの本体には空を飛ぶ機能さえついていない。機能といえば、ドラ焼きを喜んで食べる、夜は押入れでしっかり眠る、という、やはりおまぬけなものだけだ。
のび太には差別階級を突破しうる可能性が与えられた。けれども、彼がその可能性を生かせるのか? ということを、観衆は物語の奥に見ているのである。そして観衆はただちに、子どもであっても見抜いている。秘密道具の力に頼っていては、いつまでも彼はしずかちゃんと結婚できないだろうと。差別と戦うのは自力だ。秘密道具に頼るのをやめたら、あるいは……と、子どもたちも見抜いた上で「ドラえもん」を見ている。
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個性というと第一に性格のことが浮かぶが、これは習慣になった誤解である。たとえば、女性に男性を紹介するとき、「温和な人だよ」という触れ込みは、あまり彼女の関心を惹かない。温和といえば、のび太だって温和だろうからだ。それよりも、「水泳の全国大会に出たことがある人だよ」というほうが、女性の関心を惹く。女性はその触れ込み一つでも、彼を異物化し、個性的に捉えようとする、その心のはたらきを起こし始める。
温和ということは、むろん広義には個性のひとつではある。けれども、誰よりも困難な激務をこなし、その疲労の上でも温和である者と、仕事の能力がなく、重要な局面では尻込みしてしまう者として温和であるというのとでは、温和ということの意味もずいぶん変わってしまう。前者の場合、その温和さが魅力の正面にあるように感じられるが、その魅力を支えているのは、背後にある差別の部分、彼は誰よりも困難な激務をこなしているのだ、というところにある。
このような差別は、何も集団から特に秀でた者でなくても、日々の些事において起こっている。たとえば少年らの前に跳び箱が示される。少年らはその跳び箱の前後で、それを鮮やかに跳び越える者と、無様に肉体を衝突させるのみの者とに差別される。それはそのまま、社会問題となる差別に接続するわけではないが、とりあえずのこととして、鮮やかに跳ぶ者に向けられる賛嘆は禁じえようもないし、無様に衝突するのみの者に向けられる隠された憫笑もやはり禁じることはできない。
社会問題とされる、人種差別や出生に関わる差別などは、言わずもがな論外だ。それらの社会問題としての差別は、彼に差別を与えうる根拠が無いにも関わらず、文化的な思い込みで差別を与えているから不当なのである。差別そのものと、差別に関わる問題は別だ。ここでは社会問題としての差別は一切扱っていない。
差別はまた、それだけで、「人間の価値」なるような、曖昧で重大なものを決定しうる要素ではない。ここで指摘しているのは、個性とは差別だ、ということであり、人間の価値は差別だということではない。跳び箱を跳べない者は、身体的に劣等であるが、それは彼の人間そのものを劣等とみなす差別ではない。ここで扱っているのは、あくまで厳密に、個性とは差別であるということ――つまり、跳び箱が跳べない者は、「跳べない者」という個性が与えられるし、鮮やかに跳べる者には、「鮮やかに跳べる者」、という個性が与えられるということだ。
誰しも思い返せば明らかである。クラスで一番頭のよかった者。一番足の速かった者。一番美しかった者。一番金持ち、あるいは一番貧乏と思われた者。それらの者についての記憶は、独特の確かさで記憶に残っている。卒業アルバムで、一人の生徒を指差したとしよう。彼はどんな人だった? と聞かれたとき、「彼は頭がよかった、クラスで一番だったな」と人は答える。人はそのように、与えた差別を第一の個性としてそれぞれを認識しているのだ。
人人がそれぞれに、単に動物としての懸命さだけでなく、人間らしさのそれで努力的に生きるということは、それぞれが、自分に与えられる差別について、自分として誇れるものでありたいと望み、そのために努力的に生きていくということだ。ある者は、自分は知性において劣等の差別を与えられるのはいやだ、と思う。その差別を与えられると、自分はみじめに感じる。だからこそ、そうはならないように彼は努力する。その、それぞれがどこに意地を張るかは、それぞれの価値観に依るだろう。自分は勉強はまったく駄目だった、だから身体能力については、優性の差別を与えられうるように研鑽した。あるいは自分は、この人の話は面白くない、と思われるのがいやだった。あるいは自分は、プロポーションと性的な魅力において劣等となることだけは認めがたかった。それぞれの価値観において、自分に与えられうる差別と向き合い、格闘する。それが人人が努力的に生きるということである。その結果として、自分に与えられる差別が個性である。たとえば、「あの人は努力家なのよ、生まれがひどく貧しくて、将来は絶対に裕福になってやると志して、今があるんだって」と。
努力的に生きるということは、複雑なことではないように見える。誰でもある程度そのように生きているつもりはあるし、善良で積極的な性質の者であれば、そうして努力的に生きることにためらいや億劫さは覚えないだろう。
けれども、実際に我々が生きる上では、そうして努力的に生きるということも、そう一筋縄ではいかない。そもそも、努力的に生きるにしても、そこへ踏み込む気概が挫かれそうになるのだ……なぜなら、努力するとは、まず自分に与えられる差別と向き合うことを土台にするから。差別における自分の現在の地位から脱却し、みじめさを振り払うのが、努力の目指すところである。であればまず、その自分のみじめさ、その認めがたきものを認めないでは、努力の根が張る土台がない。みじめさを認めるのはつらいことである。このつらさを受け止めるぐらいであれば、努力の可能性ごと放棄するほうが……という選択を人間はいくらでも採る。
我々が「異物」を見るとき、そこには差別の機能がはたらいている。誇らしい異物を見るときにも、みじめさの塊のような異物を見るときにも。それは異物のことであるから、何であれ気楽に、笑って見ていたりするが、そうして差別の機能がはたらいているとき、その機能は自分自身をこっそり眺めてもいる。異物について、彼が何者であるのかを、差別的に受け止めようとしているとき、では自分は「何者」であるのか? という問いかけが自分にも向けられ始める。「ドラえもん」を見ながら、そこにある個性的な異物たち、のび太やジャイアンやスネ夫を見ながら、「強いて言えば、自分はこれらの中の、誰に当てはまりうるだろうか?」というような問いかけを、子どもであっても薄々持ち始める。
差別をよく表現したものに触れることは、少年に、知らず識らず、差別との戦い方を教えるところがある。自分について、自分はジャイアンだ、あるいはスネ夫だ、とまで当てはめうる者はなかなかいないものである。「強いて言えば」、ほとんどの者はのび太に近い。
少年が実生活で、乱暴者にからかわれたとき。冗談にしても、悪意を持って、頭をゴツンと殴られたとき。少年には怯む心があるが、それ以上に、自分に与えられる差別についての恐怖がある。女子生徒らは自分に今与えられようとしている差別を観察している。自分はいじめられる者に――のび太のように――なってしまうのか? 彼はのび太の愚かしさをよく知っているし、作中でのび太は本当はどうするべきだったかをよく知っている。それで彼は、まったく緊急に奮い立ち、「やめろよ!」と、自分の与えられんとする地位を拒絶して跳ねのける。彼はのび太を通して、差別との戦い方を、またそれとは戦うべきということを、知らず識らず学んでいる。その場では叩きのめされるかもしれない。けれどもそのみじめな地位に甘んじ続ける義務はなく、彼は努力によってそのみじめさを脱却することができる。
このように、努力と差別は接続しているので、差別を除去するということは、そのまま努力を除去するということ、その根が張るはずの土台ごと除去するということでもある。むろん、差別を除去するといっても、それが実生活から排除されきるはずはなし、人人は努力をやめたりはしないだろう。ただ、すでに今このときにも、「努力は必要だ、しかし、なぜかそれに本腰を入れにくいのだ」と自らを不可解に感じている人は少なくない。
差別のない世界は平和だ。差別がなければ平和になるのは当然である。差別を除去した空間には、平和の空気が満ちており、その平和の空気は世界の輪郭を滲ませ暈すように見える。そしてその平和に滲んだ世界は、安らぎに満ちており、魅力的だ。今すでに少なからぬ人が、それを受け入れたときに覚える底抜けの安らぎを認めており、そのようなものに日常的に触れることに慣れ始めている。
同時に、そのような安らぎの楽しみ方が、差別の本能と努力の土台と、本腰の入った営みの全てを、根こそぎ腐らせてしまうものなのではないかということも、薄々ながらに感じて恐怖を覚えている。だからどうしようという解決はまだ見つかっていない。
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人間の与え合う差別について、最大の、また最も原型的な差別は、男女の差にある差別である。一方にはペニスが具わっており、一方にはそれが具わっておらず、奥を探るとヴァギナがある。思春期になれば体つきは外見的にも変わり、身体能力にも歴然の差が生じ、またいくら隠しても女性の側が月経を起こすのは周知のことである。男女差別が、我々を取り巻く最大の差別だ。
差別は個性である。だから、人は人を認識するとき、まず対象が男性であるか女性であるかを第一に捉えている。これはあまりにも巨大な差別すぎて、逆に見落としがちのものだ。人が人を個性的に捉えるとき、その個性化の第一は性別である。だから、人はその氏名にさえ、その者が男性であるか女性であるかの印を入れている。名を聞けばふつう男性か女性かは見当がつく。誰もにとって、まず男であるか女であるかが自分の第一の個性である。
差別は異物を生む。だから、幼いうちは互いに団子のようになって遊んでいたものが、思春期が近づくにつれて、男女は互いに異物として隔たれていく。女性は思春期に近づくと父親をまったくの異物として恐ろしく感じるし、男子生徒たちを悪ふざけの過ぎる愚か者どもの異物と感じる。男性の側も、思春期ごろには、女性に向けて募る強い関心と裏腹に、彼女らを近寄りがたい異物と感じる。ましてその異物らが群れをなしてこちらを観察しているとなると、内心では戦々恐々となるほどだ。
男女の差別は生来のものであるし、肉体に具わったものであるから、どうしようもない。いくら近年の流行が差別の除去であったとしても、これだけはどうにも差別できないように思える。何しろ、その氏名にさえ、差別の印が記されてあるのだ。
けれども近年の流行は、ここにも差別除去の工夫を凝らした。それは思いがけない方法である。ある空間に、それは舞台であっても作中であってもよいが、女性なら女性だけを敷き詰めることにした。そして彼女らの間で、あくまで児戯めいた程度のかわいらしいものではあるが、同性愛の表現をもたせることにした。これによって性差別を空間からやはり排除したのである。空間に敷き詰めるものを、女性から男性に変えてもむろん同じだ。近年に明らかに目立つ同性愛表現の多さは、同性愛への直接の興味というより、性差別の力を中和し消失させる役目を担って現れてきているのだ。
それらの方法が功を奏したのか、そうでもないのかは不明だが、実際のこととして、今の若年層は、明らかに過去のそれと比べて、男女の間に隔たりを持っていない。かつては思春期ごろのクラスメートと言えば、男女が混交することはまず無く、クラスメートといっても男女で厳しく隔てられていたものだ。仮に混交するふうに見えても、そこには異物が混在していることの緊張感があった。今はそれが、偽りなくオープンで、平和な空気のまま混交している。男女の差別よりは、女性同士の派閥差別のほうが強く、女性同士の混交のほうが難しいほど。
そうして男女の混交が平和に進行する中で、男女交際ということになると、これは近年では活性化とは逆へ向かっている。それは男女交際が、男女混交のそれとは違い、男女差別の上に成り立っていたことを示している。ひいては、男女の垣根がない男女の混交ぶりというのも、正確には無性別性の混交と言われるべきだろう。あくまで男女差別の上、異物としての男女の間に成り立っていた「恋あい」は、今やとうに時代おくれの遺物である。
こうして差別の除去は進行している。男女の差別がより深くあったころ、「男のくせに」「女にくせに」とよく言われた。また「男だから」「女だから」、「男らしく」「女らしく」ともよく言われた。それらは差別として努力の土台になりえたものだが、今はやはりこの土壌も失われつつある。男らしさの何かが表されたときも、女性はそれを気軽に囃し立てる拍手をする程度で、かつてのように異物に向けて恐れを覚えるというふうではない。男女は今互いに親近物として仲が良いのだ。
先に、「ドラえもん」作中のヒロイン・しずかちゃんが、実はしっかりと差別を与えられた者だと指摘したが、そのことをここに説明しておく。彼女は「女だから」に満ちている。彼女は常に短いスカートを穿いており、ピアノを習っており、四六時中といってよいほど入浴している。そして何より、のび太を呼ぶときにでさえ、彼を「のび太さん」と敬称つきで呼んでいる。これらは全て彼女が「女だから」だ。しずかちゃんは、男女差別の上において、実は女の子ということのモンスターである。差別を除去するこの現代で、彼女のような女らしさをなぞることのできる女性はまずいない。<<のび太を「のび太さん」と呼べる女性はいない>>。それほどの「女らしさ」を異物として実践できる環境はすでに現代に無いだろう。いかに空想してみても、おそらくほとんどの女性が、たとえば「のびちん」というような渾名(あだな)で彼を呼ぶことに留まるはずである。
新生児の誕生に、キラキラネームと呼ばれる、見慣れない派手さの名付けがされることが、しばしば話題にのぼる。マスメディアはそれを品性の低劣なものと攻撃し続けているにも関わらず、それらの名付けをする向きはまだ収まる方向にない。このことは、単に品性の問題ではなく、やはり差別の除去にその根源がある。生まれてきた仔に、第一の差別であるはずの、「男らしく」「女らしく」の差別が与えられない。差別が与えられないと個性化はされない。したがい、美少女の群れにピンク色の髪と真緑色の瞳を与えて個性化を補うように、親は子に名前の派手さで個性化を補おうとする。おそらくそれは、単なる品性の軽薄さによるものではなく、もっと切実な衝動によるものだ。どのような者であっても、出産の直後ぐらい、厳粛な気持ちの一端は取り戻すはず。その厳粛な気持ちの中で、彼らはどうしても、我が仔に個性を与えたいという衝動を覚えるのだ。
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人は自分を個性化することに憧れと恐れを持っている。憧れとは、自分が自分自身を、何者か確認したい、何者かであらしめたい、という欲求である。恐れとは、自分を異物化することで、自分が他の人人にとって親近物でなくなってしまうということである。
時代の風潮は、確実に、すでに根深く、人人をこの恐れの側に屈服させる方向へ流れている。自分が何者かなど確認しなくてよいではないか、と。それよりは互いに親近物であり続け、親近感を喜べばよいではないかと、そう主張してきている。またそうして差別を除去した先にある空間は、底抜けの平和に満ちて魅力的だ。その安らぎに触れているうちは、それに引き込まれることのほうが、自然で真実なのではないかと感じられてくる。
けれども、時代の風潮がどうあれ、人はそれぞれに選ぶことができる。自分は何者なのかを確認しにゆく方向へ、自分を何者かであらしめるための方向へ。自分を異物化することを恐れずに受け入れてゆくことができる。
そちらへ進もうとする者にとっては、次の文言がまったく正当に聞こえる。
<<自分に与えられる差別をよろこべ>>。
始めるならば第一のことから始められるべきである。第一の差別は男女のそれである。差別をよろこんで生きるならば、まず男女は互いに差別を与え合い、互いに異物である。
本稿は冒頭に記した一文を繰り返して締めくくられる。
――そして異物となったものを、異物のまま愛したとき、人は彼を個性ある者として受け止めているのである。
[了]