No.228 港の見える交差点から
地区名自体がブランドになっている、業の町で寿司を食い、電車に乗って、港町でリブステーキを食べた。数学的に切りそろえられた少女のボブカットは入念なものだったが、彼女は居酒屋で鍛えた自分の振る舞いを寿司屋にぶちまけていた。耳は何も聞いていなさそうだった。港町のステーキハウスは開放的な造りをしており、キュートな制服が与えられ、彼女はキュートな化粧をしていた。そしておそろしく景気が悪かった。彼女は仕事に生真面目だったが、全てを早く済ませたい、済ませたい、済ませたい、と思っているようだった。
梅雨の合間におとずれた晴れ間の日、高台に吹く風は粘り気のない甘露であった。僕は何本でも煙草を巻いて吸った。僕はまだ治りきらぬ、この初夏の足の発作がぶりかえすのを惧れながら、祈るように立ち上がってふたたび歩き出した。私は歩かねばならない。次の風景に進まねばならない。なんとしても……女学院から上等な生地のスカートを穿いた、信じられないほど美しい少女が出てきて、すれ違って去った。街は精神の継ぎ目に見る夢のように危険なほど美しく、残酷なほど冷たかった。あるいはこのような街にも人が土着するというようなことが本当にあるのだろうか? 想像してみたが、それは僕の想像を超えていた。
僕は物事を酷い見方で見る人間だ。そのようにしか見えないから、と平気でひどいことを言う。僕が見るところ、彼女らはつまり人間が嫌いなのである。それは、そういう人もいるだろうと思う。彼女らは自分では自分は人間が好きだと思っていて、それを自己の性質だとしてそこに安心を覚えている。だからわざわざ接客業を選ぶのだと思う。自分は与えられた仕事に熱心できちんとそれをこなすことができるというのも、彼女ら自身を安心させる。けれどもそれは彼女らの自己についての誤解であって、彼女らは人間が好きではないし、仕事はとにかく早く済ませたい、早く終わってしまえとしか思っていないだろう。良質の血統犬の利口な振る舞いだけが好きというのは、動物が好きとか生命が好きとかいうのと違うだろう。平たく言えば、彼女らは冷たいのであって、冷たい自分を認めるのは厄介だから、そんなもの包み隠してしまえ、と発想して怯まないほど冷たいのだ。彼女らは自分の都合のよい人間関係を、絡むという語を用いて言い、その都合のよさの中で絡むことだけについては、人間が好きである。それは自分の寂しさを癒すし、自分が幸福だと信じ込むための段取りにいろいろ役に立つ。それらの都合のよい人間たち以外は、正直なところ邪魔だ、出来るだけ関わりたくない……というのが正直なところだろう。僕は物事をひどい見方で見る人間だ。そのようにしか見えないということを曲げて言う動機を持っていない。
けれども僕は、その冷たい人間たちが好きだ。僕が向こうに好かれないことはわかっている。でもそうして、自分が好かれようもないことを確認し、冷たさをわざわざ身に受けることも、嫌いではないというか、はっきりと好きなのだ。冷たさを身に受けるというのはつらいことだ。この先へどう歩んでも自分は冷たいものばかりに出くわすだろうと予感される。温かいものは常に奇跡的にしか出合わないものだ。それでも僕は次の風景に歩いていかねばならない。その先にあるものが、僕はやはり好きであるから。わけのわからない話だが、つまり、僕はもう何でもかんでも好きなのかもしれない。冷たい人よりは温かい人のほうが好きだ。冷たい人は、それはそれでいいだろう、なんて思わない。どうにかできたらいいが、僕にどうこうできるわけではないというだけのこと。身に与えられる感触で言えばマイナスばかりしかない。それでも、どうしても、僕は次の風景に出くわすものが好きでしょうがないのだ。ただそれだけのために、足の発作に怯えているくせに、なんとか保ってくれよ、と祈りながら歩いている。
おそらく、僕が散歩したり観光したりするのは、それが近所であれ遠所であれ、ふつうに人がするそれとはまったく異なっている。まったく違うことを僕はしている。僕には、次の風景へ歩きたいというのもあるが、それ以上に、そこへゆかねばならない、歩かねばならない、という気持ちを抱えている。何の楽しいことがあるのでもない。ただわけのわからぬ、好きなものが、大好きな人が、その向こうにいるのだ。ひたすら冷たくされるばかりなのに、それが大好きな人だなどと馬鹿げた話である。それはわかっているのだが、好きという気持ちがそれで止められるわけでもない。僕は何かが楽しくてそうしているのではないし、何か自分の足しになると思ってそのために進もうとするのでもない。もし風体が公共の迷惑にならないのなら、僕は足の発作を気遣って、アスファルトを這いながらでもその風景の先へ進もうとするだろう。むしろそうして這ったほうが、手足に実に進んでいる感触があって良いかもしれない、などと夢想するぐらいだ。
地獄に落ちる準備をしなくてはなあ、などと思っている。風景の先へ進むとき、いつも僕はそのような思いに駆られる。好きこのんで地獄へ向かうような者はいない。僕は地獄に行きたいわけではないが、何しろ風景の向こうの新しい景色だ。そこにあるのは天国か地獄かわからない。地獄に応じる準備をしていなければ、たとえ天国と出くわしても取りこぼしてしまうだろう。僕がどこかへ歩き進むとき、そうそうは誰かを連れてゆけないのはこれが理由だ。こんなことに人を巻き込むわけにいかない。僕を身近に知る人は、うすうすそれをわかってくれている、まったくありがたいことに……僕はすれ違いの美少女と全能のキスをすることもあるし、かわりに、深いガンを患ったホームレスの半生を一時間も聞かされて握手させられることもある。友人らはしばしばそれを見てきて、認めてくれていて、こいつのこれだけはどうしても止めようが無い、と諦めてくれている。それでも友人でいてくれるのはかけがえのないことだ。それは僕が歩きぬけてきた風景の中で、たまたま拾った幸運の、温かい側の人たちである。
普段は、その温かい人たちのことを主として話すようにしている。そのほうが話はわかりやすいし、気持ちよく受け取られやすいだろうから。でも本当のところは、僕の趣味に限っては、温かい人も冷たい人も好きだ。温かい街も冷たい街も好きだ。冷たい人や冷たい街のことを悪く言われるとこっそり胸が痛くなる。確かに冷たい人というのは自身と周囲を幸福に近づけないかもしれない。けれども悪く言わないでほしい、それらは全て僕が這いつくばってでも歩いた先に出合った風景なのだから、悪く言わないでほしい。
不満というのは難しい。僕だってもちろん、新しい風景へ歩いていくとき、その向こうに温かい人と温かい街があることを祈っている。それは僕にはどうすることもできないものだから、ひたすら祈るしかないし、その祈りは人に明かせぬほど実は必死だ。しかし、そうあってほしいという祈りが叶わなかったとして僕には不満は起こらない。これから先、何十年と、ついにもう温かいものに出合うことはなかったとして、そうして朽ち果てるときにも不満は残らないだろう。とにもかくにも、次の景色、新しい風景を、たくさん浴びることはできたのだ。温かいものに出合いたかったな、出合えないかな、ということは、きっと死ぬぎりぎりまで切実に祈っているように思う。けれどもそれは僕に不満をこさえる仕組みではない。
僕に不満が起こることがあるとすれば、唯一、僕が何を感じるか、何を言うかについて、強制を仕掛けてくるような場合だ。温かい人は良いものだろう? 冷たい人は悪いものだろう? そう迫ってきて同調を要求してくる類だけには、僕はどうしようもない反発を覚える。何がいいとか悪いとかを、審査し裁定するために僕は歩いているのじゃない。僕が表面上だけでも彼に同調させられるとき、なんだかんだでその表面は僕の内部まで侵してくる。何が不満といって、考え方の問題などではなく、僕の生きることを消さないでくれということに切実な不満が起こるのだ。僕が歩いて進み、新しい風景を勝ち得ていく中、それらの風景は僕のものだろう。それをどうか、それだけはどうか奪わないでほしい。こっちは足に持病を抱えたまま、おそるおそる歩いているのだから。僕の歩いた先が、温かい天国であれ冷たい地獄であれ、かまわないから、その歩いた先を奪うことだけはやめてくれ。僕の心身を気遣ってくれる人を、僕は温かくありがたく感じているから、僕はいつも感謝している。甘ったれになるが、そうして心配しつづけてくれたらうれしい。僕はそれを気にして、歩くのもほどほどにして帰って休むことにする。ただ僕は、さすがにそろそろ、何をそうまでしてうろちょろしているのかを話しておく必要があった。
僕がそうしてうろちょろしているとき、といっても生きること丸ごとうろちょろしているだけという有様なのだが、そうして歩くことは、散歩や観光も含めて、一般に捉えられているそれと僕のそれとは違うのだ。僕の歩みは具体的に遅く、たとえるならダンゴムシのような歩みだ。右へ左へ、どこへ向かっているのかわからないと思うが、僕はどこにも向かっていない。よい所を薦めてもらえるのは嬉しいし興味も湧くが、僕がそこを具体的に歩くときはダンゴムシだ。僕は旅行が好きだなんて一言もいうつもりはない。ただ見知らぬ場所のほうが、そのダンゴムシらしさをのびのび発揮できるということはある。
高台から港の見える交差点があり、僕は左折して帰路についた。心配してくれる人たちがいて、なお足を痛めて帰ったら申し訳なさすぎるから。たくさん、冷たい人たちと冷たい街に出合ってきた。でもよかった、本当に歩けてよかったと思う。僕は自分を愛してもらえないことに、正直を言えば胸に切り込みを入れられるような痛みを覚えるが、それでも僕は彼女らが好きだった。ぜいたくを言えば、温かい奇跡がさらにあればいいのになとは思う。でもそれをブツクサ言うのには、まず資格が足りない。地獄へ落ちる準備が足りないと、このごろはよくわかるようになった。
[了]