No.231 情熱は短く、残りは少ない、男は女を可愛くする義務がある
心が出たら、どんな女でも可愛くなくなる。そうならないよう、男は自分をぶちのめすのだ。心を持ち出された女ほど、気の毒でかわいそうなものはない。全て男の責任だ。
僕のような男は、女に愛されないから、これまで有利でいられた。本心? そんなものを持ち出せば、僕のような者は好きではないか、少なくともどうでもよいに決まっている。だから本心を出させないことだ。そうするしかなかったので、明瞭だった。
愛などなくても、好きでなくても、愛という現象は実現できた。文脈が間違っていても物語はやれるように。本心? そんなものはくだらない。人間にはもっと大きな心がある。僕などは本心が貧しい人間だから、その大きなものばかりを焦がれうるのである。
情熱は間違う力だ。ルールに反発する力ではない。ルールより先に実物・実現象を乞うから、結果的にはルールに反した間違いへの力となるのだ。
ルールに反発するには力が要る。この力というのはクソだ、自我の血圧と力こぶが力である。では、ルールに反発するのがクソなら、ルールを無視すればいいかというと、それも違う。無視というのも力ずくでやるものだからだ。
機序の問題であり、順序の問題だ。ルールは知っていなくてはならない、が、ルールは機序においてずいぶんな後回しである。精神の機構のもともとがそうだ。サッカー選手が足でボールを蹴るのは、ハンドをしてはいけないからではない。足でボールを蹴りたいからだ。
本来の機序において、人は実物に、まず情熱を燃やす。これをこうしたい、と。良くしたいのではない。良い悪いはルールである。人は感動したらまず拍手したいのである。拍手することが悪いことではないとルールを参照するのは拍手をしたいという衝動が起こってからずいぶん後のことだ。
情熱は短く、残りは少ない。概念を考える時間はいくらでもあるが、実物に取り掛かる時間はいつだって少ない。十分に足りているということは一度だってない。誰だって情熱は残り少ない。使うなという話ではない。使わないほうがもっと減る。
人と会う、話す、遊ぶ、何をしたっていいだろう。ただ、それをやるのか、やらないのか。実物の機会をどうするか。それが問題だ。実物の機会は情熱の機会で、それはいつだって残り少ない。
人と話すのは、実物としかやれない。何を話す? そんなことを前もって考えるのはクソだ。何を話せば「良い」? それもルール思考であってクソだ。情熱は実物にしか湧かない。繰り返し、人と話すのは、実物としかやれない。場所、時間、環境、座っている椅子に及ぶまで、そこに実物があってはじめて「こうしたい」という情熱が成立する。「こうしたい」「そうする」というのが、良いとか悪いとかは、機序の後方のルール参照だ。まず実物に対して「こうしたい」が機序の第一になる。一人でいるときもそうだ。自分の身を代表に、実物のない場所に居る人はいない。実物をよく見よ、それが情熱の対象だ。実物というのは何も、目の前にある物体のみではないけれど、とにかくそれをよく見るのだ、情熱が湧くところまで。
僕は愛されねばならない。僕を愛してくれる人にも、愛してくれない人にも。本心などというものがどうあれ、そこに愛が成立したら、誰から何の文句が起こる? そうして愛が実現したら、後はゴミ箱に捨ててくれて元通りだ。
本心などというものは、精神の下痢だ。その下痢をわざわざ引き起こすような男はクズである。精神が下痢をしている女の顔は美しくない。クタビレ、たわみ、溌剌としていない。男には女のその下痢を、起こさせない、何なら止めてやる義務がある。女が自分の顔を醜く思うのは、とても辛いことだから。
僕が「こうしたい」と情熱を起こし、女はそれに乗っかる。あるいは互いの「こうしたい」がせめぎあう。実物の話だ。それは情熱の現場であり、精神の下痢は止まる。
何をどうしたい? そんなものはわからない。実物を目の前にしてもわからない。「わかる」というようなものは概念であってクソだ。情熱は、そこにあればよいのであって、わかる必要はない。わかるような情熱はない。サーマルスコープのようなみじめな器具でも使わない限り、熱が目に見えてわかるわけがあるか。
力の量はゼロだ。力というのは自我の血圧と力こぶだ。力の為しうることの全ては雑用に過ぎず、力というのは何であれ全て暴力である。僕は今これを万年筆で書いているが、金ペンの万年筆は血圧と力こぶを要さずスラスラと筆記できるから上等なのだ。僕はペンなり指先なりを使わずに筆記する能力がないのでやむを得ずこうしている。つまりペンと指先の物理的な力は雑用をしている。こんなものは少なければ少ないほど良い。
情熱に必要な力の量はゼロだ。血圧と力こぶを要したらそれは情熱ではない。情熱に力はない。情熱は雑用をしない。情熱は仕事から最も遠い。ただこいつの残りと、こいつを使える実物の機会は、いつだって少ないし、短いし、足りない。使わないほうがごっそり減るから、じゃんじゃん使え。全ての実物の機会、つまり、これから全ての今・現在に使え。
[了]