No.232 青春を破壊するもの
「事情」が青春を破壊する。青春の中に事情はなかったはずだ。男は部活動のレギュラーの座が取れずに、女にもてない。女は化粧の練習をしているが下手くそだ。それでよかった。やること、やってみること、笑いが起こることに、何の事情もなかった。これが人間が老け込んでくると、事情というものが深く構造に入り込んでくる。男は社会的に栄達できておらず、妻にも軽蔑されて、引き続き女にもてないが、それでよかった、とは言えない事情がある。栄達できないのは社会の流れや会社の退廃のせいで、また運もなかったからで、「栄達することが人生の実りとは限らないからね」という視点が取り出されるべきで、自分が女にもてず妻にも軽蔑されるのはいわゆる不器用というものだからで、それはまた朴訥な誠実さとも採りうるだろう? と匂わせて……それらの万事を通して、人格がよく練られているから、なんだかんだで高い評価を与えうるだろう? 気さくでよく笑う人柄だしさ! という気配が押し出されてくる。そうして、彼らの考えること、話すこと、営むことの全ては、「事情」を抑えこむためだけに費やされる。「事情」が入り込んだとき、それより優先されるものはもうない。
レギュラーの座を取れなかった少年に、「レギュラー、取れなかったね」と少女が言う。それで少年は、泣いたりもするし、笑ったりもする。悔しさが滲んで涙がこぼれることもある。取れなかったなあ、と、ただ笑うこともある。それでよかったのだ。次こそは、なんて少年は発想しない。そんなクタビレた考えを少年が持つものか。レギュラーが取れなくて、泣いたり笑ったりしてから、少年は、ハンバーグが食べたいな、と思う。それで目の前の少女を、勇気を出してファミリーレストランに誘ってみようとする。それでよかったのだ。
大人であっても、若者はよく笑う。大きな声で話すし、活動的で、活発だ。仕事にも趣味にも熱心で、能力も地位も向上させるさ、人間的な心の強さと深みもね、というゴリゴリした意志の中にある。けれども彼らはすでに「事情」を抑えこむために生きている。彼らはよく笑う者でなくてはならない。そうでないと若者として負け組だから。大きな声でしゃべらないと、ショボいという評価にさらされるし、そうしないと活発な自分であるべきという事情を抑えこめない。若者は、よく考えて、パッと行動し、人に積極的で、やさしさもなくてはならない。そうでないといけないという「事情」があるし、そうでないと人に好感触を与えられないという「事情」もある。彼らが一見いい顔で笑うのは「事情」のためだ。もしあらためてレギュラーの座が取れなかったら、取れなかったねえと、もう笑っている場合ではない! それでよかったのは過去のことだ。今はそれではよくない、断じて! レギュラーの座が取れなかったことには、悔しがる表情と涙を見せ、その後は笑い飛ばして、次こそはと燃え立つようにし、つまりは自分はそういう者であると、なんだかんだで成功へ辿り着く者なのだと、周囲にも自分にも見せ付けねばならない「事情」がある。
世の中には正しさがあって、彼らは正しい者でなくてはならないという「事情」に支配されている。熱い思いというような正体不明のものを、持たねばならない、示さねばならない、という「事情」がある。ありふれた親交の飲み会があったとして、男はそこで、女を直接ベッドへ誘って連れて行くような、性的な活力と吸引力を持つ者でなくてはならないし、それを自分にも周囲に見せ付けねばならないし、そういうのが出来るのは若いうちだから! という「事情」もあるし、そういうスリリングな体験を若いうちにたくさん経てこそ誇らしい壮年になりうるのだからそうならねばという「事情」もある。女のほうも、そのスリルに臆さないコケティッシュな者でなくてはならないという「事情」に満ちてそれに付き合う。
そのようなアバンチュールに同意しない勢力もある。彼らは「そういうのはちょっとね」と否定するが、彼らがそうして否定を起こすのも「事情」によってだ。世の中には正しさがあって、その正しさはこうだろう、という別の立場に彼らは立っている。彼らは和やかに深い話をすることを目指すが、彼らはそのような深い話をする機会を多く持っているべきという「事情」から、そのような機会を多く持とうとする。またその深い話に及ぶ話し方が熟練されていなくてはという「事情」があるので、その話し方に熟練する。彼らはそのように硬軟取り混ぜた遣り取りをし、その果てに交合するなら交合する、そしてそれを特別な営みとして自分にも周囲にも見せ付けねばならない「事情」がある。
つまり、彼らが活発に振る舞おうとも、スリリングに振る舞おうとも、和やかに深い会話を進めていくように振る舞おうとも、またそれらの互いが水面下で思想的に対立していようとも、それらの営みの根本的な土台は「事情」である。真に活発なのではなく、ある「事情」から活発。無意味にスリリングなのではなく、事情があってのスリリングの選択。和やかに深いふうの空気づくりも、事情を抑えこんでシメシメという利益が得られるある種の経営。
僕がこの話をしながらもっとも気を配っているのは、僕自身、この事情の話を、なんらかの「事情」でしてはいないかということだ。僕はこの話の賛同者を求めない。よくわかります! と、何らかの「事情」で賛同されることに僕は知己を得たとは覚えない。「それでよかった、としたいのだ!」などという新しい「事情」をこさえたくない。僕にはこの話をする動機が特に無い。この話をすることで僕に起こる利益はない。無意味だ。ただ、ハンバーグを食べたいな、とは思いはじめている。へんな話をしたね、と少女に言われたら、泣いたり笑ったりするだろう。
青春の時間が終わると、次に何の時間がやってくるか。それは「事情」の時間だ。長い長い、死ぬ瞬間まで、一時も中断されることのない、「事情」の時間。「事情」を抑えこみ続けるために人は生きる。活発に、スリリングに、和やかに、深いふうに。活発さには活発さの利益が計算されている。スリルにはスリルの、和やかさには和やかさの、深さには深さの、それぞれの利益が。「事情」をよく抑えこめるものがすなわち利益だ。そこには本当の活発さもスリルも和やかさもスリルもないけれどもね。活発さ……それは利益を得るために自我が熱中することの力感。スリル……それは利益が得られるか損害となるかの分岐が注目される卑しい緊張感。和やかさ……それはこのやり方が互いの利益になると互いに合意できていることのシメシメという安心感。深さ……一般よりも量の大きな利益を今得ているという特別なことをしていることの恍惚感。
えらくネガティブな物の見方もあったものだね! こういう奴はどうもね! と、おおよその場合、決定的な否定で僕自身こそが捉えられることは、さすがに僕にも想像がついている。僕が話していることは決してウソでも虚妄でもない、本当のことなのだけれど、このことが普段の生活にこなれた心の状態にハッと気づかれるとはさすがに思えない。これはそんなに容易なことではない。シンプルなことではあるのだけれど。ただ僕は、ネガティブに受け取られて、僕自身が人格的否定の対象になるだろうという予感を、もちろん悲しくも恐ろしくも感じながらも、そのことを自分の「事情」にしたくない。この「事情」を抑えこむために、僕は自分を使いたくない。理知的に、反論の余地がないように、語るべきだ、またそこに好感触を残す者でありたいという、「事情」が、僕にそうさせようとせっつき、脅かしてくる。でも僕はこの「事情」に屈服したくないのだ。僕がここに話したこと、大人は「事情」を抑えこむためだけに一生を費やし、それは一時も止むことがなく、その間に本当のものは一度も出現しないというのは、まぎれもない、いま演奏中の本当のことだ。もしこのことにハッと真実気づかれたなら、そのときは、滋養に満ちた静けさに自己が浸されて愕然とし、歓喜幸福に沈黙する、ということを約束する。/僕がここまでにしてきた話は、活発だったか? スリリングだったか? 和やかだったか? 深さを主張するベトツキが気負われていたか?
「事情」。僕はできるかぎり、この全ての「事情」に置き去りにされたい。「事情」の全ては、僕を通り越して行ってしまい、僕は取り残される。
「事情」なんて、本当にはなんの事情でもない、ただの自分のこだわりだ。こだわりをやめたら事情は消える。初めからそんなもの無かったんだから。
僕の言っていることが「正しい」のかどうか、議論する筋道はある。けれども僕は今忙しいから、その糸口は僕が<<死んでから>>でいいだろう。死んでからでも十分間に合う。そのときにまたじっくり聞かせてくれ。
[了]