No.233 また会う人に願わくば
自分自身を見つめなおして、改めてこう問う。「人は、このような人間に、もう一度会いたいと望むだろうか?」。この問いかけは、より具体的な手応えを得るため、人の目に自分がどう映るかという捉え方でなく、「自分がこの自分に会ったなら?」という捉え方を用いる。そうすると、自分が人を見る目というのは、思いがけず厳しいものだ、底のほうで……ということに気づく。自分がこの自分に会ったとき、自分は彼に心を打たれ、特別な気持ちになり、これから自分の生きてゆく先は、ささやかであっても彼との関わりあいを何かしら伴う、と予感することがあるだろうか。そして自分は彼について、「もう一度会いたい、是非。そうでないと、この先にある得られるべきものが、得られないでは惜しすぎるから」と強くせきたてられるであろうか。
この問いかけに対する自己の回答はいつだって厳しいもの。「うーん、厳しいんじゃないかな」と、冷淡でゲンジツ的な声が響く。<<もう一度会っても、いいですけど>>という、望みというよりは単に善意的で好意的たらんとする態度が返ってくる、それで満足するしかないというのが、本当のところじゃないかな? 僕はこの問いかけと回答をいつも隠し持っているが、これを確認するたびに胸のうちを深くグサリとやられる。何しろ自分の意見に自分が反論などしようがないし、理知的に見ても反駁する余地がない。僕は打ちのめされる。僕にもう一度会いたいとは、誰も思わない――まず僕が思わない。それは自己嫌悪などという思い込みより、より具体的な刃厚を持って容赦なく突き刺さってくる。
ただしこの問いかけと回答は、常に僕を救ってきたものだ。
僕の存在は他人の誰かに必要とされていない。好意的に見てはもらえていても、ぜひ存在していていいと思うよ! というところに留まるのであって、それは必要ということとは異なる。僕の想像力は、僕がそのように他人にとって特に必要でないということを的確に捉える。僕は長いあいだそれを、「自分の存在はゼロだ」と呼び習わしてきた。
僕は、ごはんを食べて、湯で体を温めて、眠るときはできるだけ身体をやさしくして、休もうとして眠る。そうして、なんとか健やかにと、命をつないで生きているが、そのようにしていること自体、僕だけが僕のためにやっていることであって、他の誰かにとって必要なことではない。今日のごはんは特においしかったんだよ、というようなことは、僕にとって大事なことだけれど、その話をもって、誰かが僕にもう一度会いたいと思ってくれることはない。だから僕は、その今日のごはんが特においしかったということを、どこに持ってゆけばいいかわからなくなる。とても大切な心地がしているので、ただ捨てるしかないのかと思うと身を刻まれるように切なくなる。
この問いかけと回答は、これまで何度か、僕を自死の淵まで追い詰めた。自死のすべてが、陰鬱で感情的な嘆きの塊となって営まれるというイメージは間違いである。むしろ、よっしゃ! と割り切った行動的な気配の中でその手続きは進んでゆく。「手早く」死なねばならないと思うのだ。首を吊るとして、太目のロープと、あとは意外に、歪み無く太い縄をどこかに固定して結べるか、ということには自信が無いことに気づくので、そのための実験もする。続いて場所を探し始める。そのとき僕は、世の中を憎んでいるわけではないので、できるかぎり人人に不要な記憶を残さない、後片付けも手早く済ませてもらえそうな場所の、頑丈そうな樹木を探す。
もっと人目につかない、樹海などでひっそり自死しろ、というモラリティの考えもある。それは最後まで気が引けてしまうところなのだが、馬鹿げた話、いざ自分がどこかで自死しようとしたとき、まったく見知らぬ不安な光景の中で死にたくないものなのだ。人が病死するのでも、病院で死ぬのはどこか悲しく、自分の家で死にたかったという願いを隠し持つように、自死するのでもどこか自分として親しみのある場所で死にたいという思いがどうしてもある。できれば、よく親しんだ風景の、普段は目をやらない端っこで。よく見た景色を傍観する位置から。自死するといっても、全員がそれまでの過去の生を全否定して掛かりたいわけではない。僕の場合は、ここで生きた時間が確かにあったねと、確認しながら死にたい、という思いに囚われてしまう。いわば、そのときは、僕は「良い」自殺者になりきれない。
この樹の枝なら、頑丈だし大丈夫そうだ……と、その手応えを確かめている。そのあたりで、割り切っていたはずの気持ちも、どこかに穴が開くのか、ぽろぽろと涙がこぼれてくる。それは思いがけず、悲劇に対する涙ではない。少なくとも僕の場合はそうだ。それはむしろ感動の涙だ。不思議な、どこから出てくるのかわからない、ありふれた言葉が心中に湧いてくる。そのときにこそ、ああ自分は本当にはこのようなことを思い、大切にしていたのだ、と気づかされる。
「僕だって、血が通って生きていたんだがなあ」。そのことを何とかして伝えたかった。が、それは意外に難しいことだった。それが為せなかったのは無念だが、それは自分が非才の身だったのでしょうがない。不満は結局残らなかった。「大好きなことは、色々あった」。みんなでごはんを食べたりとか。みんなで車に乗ってどこかに出かけたりとか。夜中にコンビニで立ち読みしたり、買い食いをするのも好きだった。意外に、イベント事は、そんなに好きじゃなかったんだな。映画が始まるよ、とみんなで身構える時間が好きだったし、楽しみの時間そのものより、その楽しみがこれから始まるというのを、みんなで待つ時間のほうが好きだった。新しいCDを聴くのより、新しいCDが出たのに気づくことのほうが好きだった。いつもの野良猫が路地裏でぽけっと座っている風景、懐いた猫が甘えて寄ってくるときの鳴き声。押入れから懐かしい本を取り出してきて読むこと。花火の終わったあとの時間とか。何がいいとも言えなかったけれど、ただそれが好きだった。それが好きだということを、言おうとしたし、伝えようとした。なぜ伝えようとしたのかはわからない。ただ伝えたかった。でもそれは意外に難しいことで、話は聞いてもらえなかった。最後の最後まで、この世界が嫌いで自殺する奴は、わからないな、と思う。僕は自分の生きた世界が大好きだった。ただ大好きなものでも、何かうまくいかないことがあって、そろそろおいとましなくてはならない、ということがある。そこで涙がぽろぽろ流れているのは、大好きでした、と、別れ際に自分の思いを確認しているからなのだ。僕は幸福な人間だ。もし自死したとしても、その自死さえも幸福の中で営まれるし、僕の幸福は破壊されない。
その、大好きでした、というのが、伝えられない、聞いてもらえない。ふーんと受け取られては、また会いたいとは思ってもらえない。それは自分の非才によるもので、しょうがないのだけれど、これが聞いてもらえないというのはとてもつらいのだ。だからこの日をもって自死することにした(注:回想)。大好きだ、と、聞いてもらえない、それでも大好きでならない女がいたら、ついに自分からその女の近くを去るしか方法が無いみたいに。
僕の存在はゼロだ。だから、大好きでした、と伝えようとしても、それはゼロになってしまう。こうして自死することもゼロだ。だから僕は自死するのだし、<<自死してもいい>>のだ。何をしたってゼロになるという、いっそ自由の約束された安心感がある。ゼロというのは、あってもなくても同じという玄妙な意味のもの。つまり僕がここにあっても消えても、それは同じということなのだ。
このあたりで、僕の思索は、「ん?」とひとつの引っかかりを覚える。その思索が起こること自体、僕の大好きなもののひとつ。
自死するにしても、その思索をひとつ済ませてからにしたいと思う。
「存在がゼロの者が、自死できるかね? 存在を消すというようなことが?」
そりゃあ肉体は物理的なものだから、死なすことはできるだろうけれども。
このことは、次第にこのように敷衍されていく。
――僕にもう一度会いたいと望んでくれる人はいない。まず僕自身がそれを担当してみても、もう一度会いたいとは思えないのだ。だからそれは明らかだが、その前にだ。そもそも、<<存在がゼロのものに、どうやって「会う」のだ>>?
もう一度という前に、その一度目からして、僕には「会う」ということの事象そのものが、具わっていないんじゃないのか?
僕が人に会うということ、それが成功するということは、そのゼロを見せ付けるということじゃないのか?
こうして、面白いことに気づいてしまった、となると、僕は自死をひとまず後回しにしてしまう。僕はやらなくてはいけないことを後回しにしてしまう人間だ。夏休みの宿題をぎりぎりまで後回しにして遊びつくしてしまうように、僕は自死を後回しにしてしまう。そして本当には、僕はその宿題を、ずっとずっと後回しにしたまま、今も生きている。
卑怯な、という印象が、なぜか前もってあるのだが、まったく卑怯なことに、僕は今すぐでも実用しうる首括りの縄を心の内に備えていないと、人に対してフェアであれない。それはまるで僕の身分証明書なのだ。これがないと、つい僕は、自分の存在がゼロだという出身を忘れてしまう。そのとき僕は常に見苦しくて、人に不快な現象ばかり与えてしまうのだ。
もちろん、よくある手口、自殺を匂わせて人人の同情的な関心を呼び込もうとする企みは、唾棄すべきものだし、僕の趣味ではないので、これはその意図ではない。そこはそれ、自死はやはり僕の宿題かもしれないけれど、僕などが宿題をやるやると言ったところで、その言の信用の置けなさは、それこそ逆にこれ以上ない信頼性を具えているのじゃないか。
言っていることが、表面上は矛盾してしまうが、僕にもう一度会いたいと言ってくれる人は、実際上はとても多い。人と比べるようなことではないが、一般から言えばはるかに恵まれている人間だろう。でもそれとこれとは話が違う。僕は、今日のごはんは特別おいしかったんだよ、とか、大好きだ、とか、伝えることを為し遂げて、そのことでもう一度会いたいと言ってもらえているのじゃない。やさしい人が一方的に僕などに愛情を起こしてくれて、もう一度会いたいと望んでくれているだけだ。それは僕を納得させていない。愛されてしまうものだから、僕は自分の存在がゼロじゃないという誤解を起こしてしまうが、そうするとどこかでやりきれなくなって、苦しんでは必ずここに帰ってくる。
***
人が、もう一度会いたい・会わねば、あるいはもう一度触れたい・触れねばと思うものは、人であれその他のものであれ、どんなものでありうるか。
1.物理的に近いもの。例、商店、医院、近隣住民、生活圏内の関係者。家族。
2.肉体的に快楽を与えるもの。例、味のよい飲食店、腕のよいマッサージ、性風俗、性交のパートナー、温泉。
3.生活上、定期的に必要なもの。例、生鮮食品店、医院、銀行、新聞、役場、電車、バス、床屋。
4.制度に則った組織であるもの。例、学校、企業、クラブ、NPO、家族、塾や予備校。
5.娯楽、特に慰撫効果のあるもの。例、テレヴィ、マンガ、アニメ、ヴィデオゲーム、動画、友人、恋人、趣味、旅行、飲酒。
6.刺激性や依存性のあるもの。例、酒、煙草、パチンコ、ギャンブル、淫猥な雑誌、煽情性の新聞や番組、悪友。
7.義務化されているもの。例、義務教育、就労、納税、選挙投票、自動車教習所。
8.特別な意図を事情にするもの。例、セールスマンが売り込みをかける客、婚姻関係を求める対象、救済されようとする者が占い師や宗教へ行きつけること。
人人は確かにこのような物の中で暮らしている。これらの物に繰り返し会い・触れている。ただしこれらは、<<よりよいものがあれば交換される>>という特徴を持つ。つまり、より近くに安くて味の良い料理店が開かれれば、旧来のそれは元の立場を失う。一言で、代替が利くと言ってもよいし、一種の経済活動と言ってもよい。このことを人人は鋭く見抜いているから、代替の利くような友人は真の友人ではない、と強く信じるし、その真の友人なるものには、人間の営みのうちもっとも幽玄な秘密があるとして、それを暴こうとはせずとも幽玄の存在を確信している。
もし僕が、単にもう一度会う・触れる対象となろうとするならば、これら1〜8の項目に倣うのがよい。つまり、企業やボランティアNPOや何かしらのクラブ・サークルに根を張り、娯楽や刺激を共にしようと呼びかけ、物理的に近い者同士を確認しあい、生活上で定期的に必要なものについての情報を交換しあう。あるいは自分で料理店を開き、人気と評価を獲得する。それは誰にでも知られている一般的な方法だ。この方法そのものには、幽玄な秘密は隠されていないが、人人はその一般的な方法に紛れながら、いつかその幽玄な秘密が起こり、誰かと友人として結ばれることを願い、待っている。もしそれを促進する方法があるならば、秘密裡にそれを忍ばせてゆきたい、と積極的でもある。
僕が自分の存在のゼロ性に向き合わされるのは、馬鹿げた無謀さとして、これら1〜8の方法を自ら避けてしまうところに始まる。これらの方法を取り外して、自分だけポツンと置いたならば、実際どうなのだろう? そういう幼稚じみた疑問を僕は追求している。その結果は、繰り返し、痛々しいもの。僕自身、僕のような者に会ったとしたら、もう一度会いたいとは思えない。頑張っているのはわかるけどね……と、同情的な気分も湧くが、その同情は卑下の哀れみさえ含んでいる。
ただ、それが事実なのだ。この事実は、きつい痛みを伴いつつも、僕が本当には何者なのかを教えてくれる。痛みから、首括りの縄が懐かしく近づいてくるころ、僕が本当には何が好きだったのか、何が大好きだと伝えたかったのかが取り戻されてくる。
僕はもっと傷つかねば。まだまだ足りないのだ。自分が本当には、何が大好きだったのか、それが聞こえ続けてあるためには、もっと深く切実な傷みが必要だ。耐え切れる痛みなど、自分へのごまかしのパフォーマンスに過ぎないだろう。そうではなく、耐え切れぬほどの痛みのほうへ。
***
痛みに耐えかねて身体を横たえている。何度でも繰り返して確認する、問いかけと回答。「自分がこの自分に会ったなら?」。もう一度会いたいと望むか? 「うーん、厳しいんじゃないかな」と、冷淡でゲンジツ的な声が響く。
人に、もう一度会いたいとは思われない自分。必要とされない自分。これについて、改善の余地はあるか? と問う。無い、という回答が得られる。たとえば、より好感触で、活発で、面白い話をする、やさしさもある自分に、自分を向上させてみる。つまり魅力的な自分になってみる。そうして出来上がったものに、自分自身会ったとしたら、今度はもう一度会いたいと思えるか? 思えない! もう一度会いたいというのは、そういうものではない! それは自分の<<大好きなもの>>ではない! こうして自己の向上による解決はありえないということまで理解させられる。
首括りの縄の実用が近づいてくると、取り戻される、自分には大好きなものがあったということ。本当にはこのようなことが好きだったのか、と、思いがけず知らされるようなものの群で、それはあった。ではどうしたら、せめて、自分をその自分の<<大好きなもの>>に入れてやることができる?
方法は明らかでないが……
さすがに自分自身をそこに当てはめると、薄気味悪くてしょうがないから、一人の女性でも当てはめてみよう。一人の女性が、涙をぽろぽろ流して、自分が本当には何が大好きなのかを、言おうとし、伝えようとする。そのありさまは、きっと僕は大好きだ。泣いていなくてもいい、笑っていてもいい。穏やかであってもいい。本当に大好きだったこと、今日のごはんは特においしかったんだよ、というようなこと。それが僕にとって、本当に大好きだったという証拠は、僕が自死の淵に再びたたずんだとしても、そのときその伝えようとしてくれたことを、僕は幸福の記憶として必ず思い出すということだ。
僕の存在がゼロであるということは変わらない。これからも変わらないし、向上しても変わらない。ただ、<<ゼロから何かを生み出す>>という言い方がある。これを僕は誤解していて、それはゼロが1になることのように捉えられていたが、そうではないのではないか。ゼロから何かを生み出すというのは、ゼロは本当にゼロのまま、それでも何かが生み出されるということではないのか。0/から/何かが生み出される。事実、ゼロであるはずの僕に、本当に大好きなものというのは、実は満ちてあったのだから。僕の存在はゼロで、あっても無くても同じものだけれど、それでも願わくば、また会う人に僕はなりたい。ゼロから何かが生み出されるということが、本当にあるのであれば。僕だって、これで血が通って生きている。僕という存在はゼロで、僕が人に会うことはできなくても、人が幸福に会うことはできる。もう一度それに会いたいと望むことも。
自分が本当に大好きなもののほうへ。大好きなもののほうへ! それは確実にあるのだから。
――首に縄を括りつけて、今までのやり方を、全部やめよう!
[了]