No.237 ゲロルシュタイナー幸福論
毎日が、溶けるように幸せだ。
それが正直なところなのだが、そんなことを言うと怒られるのだろうか。
怒られる……といっても、僕はこれまで怒られて身に染みたことは一度もなかった。
頑張って僕に怒ってくれた人には努力賞をあげたい。
我ながら最低な発言だ。
愛情深く怒ってくれた人には、その愛情が身に染みたけどね。
ゲロルシュタイナーとは何かというと、ドイツの炭酸水で、最近コンビニで売っている。
かっこつけて飲んでみたら、これが意外に美味しかった。
そんなわけなので、タイトルには恐ろしいぐらい意味が無い。
騙された人は大いに笑うように。
いちおう幸福論について話そう。
僕はこれまで、いろんな本を読んだはずが、幸福論だけはきちんと読んだことがない。
だから、今あわてて自己流でそれを作成するが、そうだな、
「幸福になるためには、幸福をやめなければいい」
これでいいんじゃないか。これで全文、ばっちり完成した。
大学生なら卒論はこれで一発OKで、OKにしない教授はこぞって頭がおかしい。
そもそもが幸福でない人はどうすればよいでしょうか? という反論がありうる。
その話は、わかるけれど、そりゃ幸福論じゃなくて不幸論だな。
幸福というのは、僕のように、毎日が満たされて、へろへろになっている状態のことである。
本当に怒られそうな気がするが事実だからしょうがない。
その幸福を、自慢すればよさそうなものだが、自慢はしない、なぜなら幸福を自慢するのはあまり幸福じゃないからだ。
自慢するためには、人と比べて俺は〜と、比較の段階を要するので、その比較というのが、魂を腐敗させる面倒くささを具えているので、やらない。
幸福だと、そういう余計なことはする気にならないものだ。
幸福になるためには、幸福をやめなければいい、というのは、冗談ではなくて、たいへん完成したものだと、これは自慢できる。
幸福をやめたら幸福でなくなってしまうのだから、これほど数学的に頑強な理屈もない。
幸福のためには、もちろん何もなしでというのは、お釈迦様でもないかぎりは難しくて、やはりそれなりに色々要る。
美女が僕を思って泣いてくれるとか、僕の涙をわかってくれる人がいるとか、あなたに幸せな顔をさせてあげられなかったと少女が下唇を噛んでくれるとか、そういうことだ。
ベッドルームの広さというのは、そんなに問題じゃない。広いほうがもちろんいいが、幸福だとあまりそういうところにこだわりがいかない。
「こだわり」、これほど、面倒くさいものも世の中に無いな。
処女がいいとか黒髪がいいとか煙草を吸うなとか、色々だ。
僕の場合は、そんなこだわりは無くて、ただ美の素質が具わっていれば、処女でなくて髪色はゴールドで長いキセルを吸っていても大丈夫だ。
美の素質というと、つまり美人がそれに当たる。
が、ただ美人だからといって、その素質を自分でブッ壊さない保証は無い。
簡単に言うと、たとえばヒステリーを起こしてしまえば、いかなる美女でも台無しである。
それでもヤリたいという男もいるが、僕はそこまでタフになれない。我ながら根性なしで情けないかぎりだ。
美の素質とは何であるかというと、たとえば造形や、健康や、素直さ、あとはやさしさや思いやりというのがある。健気さ、と言ってもよいかもしれない。
けれども、造形は確かに悪くなく、健康ではあり、素直なふう、やさしいふう、健気っぽくあろうとする、そういう努力の塊のような人もいるので、そういう人が美を具えているかというと、具えていない。
だから結局、美の素質といえば何かというと、幸福だ、と言うほうがいい。理論的には粗雑だが、実用上は適切で有用だ。
つまり、幸福な女なら誰でもいい、ということになる。
これが困ったことに、おおよそ外れていないというか、まったく当たっている。
幸福な女の頬をつつくと、お互いにニヘラニヘラとなって、幸福が相乗するものだ。
幸福というのは、そういうことをやめなければいい、というだけであって、それ以外の何物でもない。
僕はいわゆるイケメンではないし(そういう年齢でさえないし)、女性に安全性を売り込むフェミニストでもないし、要するにワガママでひどい人間なのだが、一部の女性が騙されて僕を愛してくれるのは、その幸福という唯一の美質による。
僕が幸福を失ったら、どれぐらい女に嫌悪されるか、それはもう想像しただけで恐ろしいものがある。
最低な発言が続くけれど、こいつを不幸にしてやりたい、なんて怖い発想はやめてね。
まあそんな人は、ここまで読み進まず、途中でPCモニタに鉄拳を打ち込んでいるか。
とりあえず、真面目に言うと、特に美人というのでなくても、幸福な女というのはそれだけでとても綺麗に見える。僕だけかもしれないが、僕だけでいいだろう。
僕は健全をモットーにしているので、僕以外の世界中の男は、全員インポになってくれ、と日々心から祈っているのだ。
それはともかくとして、別に美人でなくても、正直ちょっとユーモラスなお顔の女の子でも、幸福な女なら、ついツンツンしたくなるし、ツンツンしたくなるということは、もう大体OKということだ。
さらに真面目に言うと、男はそうして幸福な女をツンツンしたくなるので、どの女についても、まずそのコを幸福にしようとするのである。自分のツンツンのために……というのがしょせん自分本位だが、それで女の子が幸福になったら、別に文句はないだろう。
そのことは、幸福そうなワンちゃんを見ると、ツンツンしたくなる、ということと、あまり違いが無い。一方で、人間不信で唸っている犬を見ても、「おお怖ええ」としか思わないし、主人に愛されなくてションボリしている犬を見ると、胸が痛む、なんとかしてやりたいが、どうにもできないということで、気分が暗く沈む、というのも、大体同じだ。
そこに、人間の男女の場合、女の子の独特の表情が出てきたり、「あ」となって体温を上げて汗を掻きはじめたりしやがるので、別のことが始まってしまうという、ただそれだけのことなのだった。
不幸というのはなんだろう。とりあえず、不幸というのは、どうしようもない……と言ってしまっては、ちょっと度が過ぎてひどい気がするが、でもじっさいどうしようもないから、その人もさしあたり不幸で居続けるしかないのだろう。
恢復の道筋は、あるのかもしれないが、僕は知らない。わからない。つける薬の処方を知らない。
ひどい話に聞こえるが、これを逆に、オレにならあなたの不幸を治せる、なんて言えば、よけいに怒られるというか、憎悪されるのではないか。
不幸はどうにかできます、というのは、偉大な宗教がマジで言うか、インチキ宗教が商売で言うかしかない。
僕はどちらでもないし、僕が言いうるのは、不幸がそのようにどうしようもないものであるのと同じで、幸福もどうしようもないということだけだ。
幸福も、幸福になってしまえば、もうどうしようもない。どうにかなってしまうものだったら、心配でヒヤヒヤして幸福どころではなくなってしまうだろう。
先の、ベッドルームの広さについてもそうだが、たとえば不幸な者が上等なフォアグラを食べ続けたって、不幸は不幸のままだろう。
幸福になってしまえば、別にフォアグラは要らない。僕は偽善者なので、自分からフォアグラは注文しないことにしているが……
フォアグラはガチョウの脂肪肝だが、昔はその脂肪肝を作るのに、ガチョウにエサを食わせる「食べさせ屋」という職業があった。今はそれが「食べさせ機」になってしまった。「食べさせ屋」は、人間の営みとして認めえたとしても、「食べさせ機」というのはさすがに鼻白む。それで、僕はフォアグラを、出されれば食べるが、自分からは注文しなくなった。
ただし僕は、そういう偽善的な理屈を四の五の言う奴はきらいだ。自分で言っておいて何だが、どっちにしたって殺して喰ってることには違いないのだから虚弱な声を出すなと言いたい。
話が逸れたが、僕としてはすでに毎日が幸福で溶けてしまいそうなので、フォアグラを喰わないと憤死する、という様子ではない。ノドグロの塩焼きでもあれば十分だ。そんなことで、幸福がチャートインしたり圏外になったりしない。
もし、幸福をやめたら、そういうことばかり気になってくるのだろう。
幸福の反対は、不幸でなくて「不満」だと思う。
どうだ、幸福論らしくなってきたぞ。
やっぱり、途端に止めたくなってきたが……
どうしようか? とにかく、不満というものが、人間の美質を破壊することは間違いない。
不満タラタラで美しい人間なんているわけがないからだ。
それはやはり、不満が幸福の破壊になるからだろう。
幸福をやめたければ、不満を持てばいいのだ。
たとえば、僕が無料で美女といちゃいちゃしていると聞くと、「師匠!」と縋りついてくる少年がいる。
こういう少年は、能天気で、なんというか、救いがある。アホだが、美質は一応ある。幸せそうだし、不満を持っていないからだ。
一方で、「僕はあまりそういう欲求が無いからねぇ」とか、「そんなことばかりで本当に楽しい?」とか、何かしらんが不機嫌になる人もいる。
ホモなのか、そうでないのか、理由はよくわからないが、とにかく何かに不満があることは間違いなさそうで、その不満は彼の幸福を破壊しているように見える。
見えるだけで、本当にそうなのかどうかは知らない、いま考えてみたが、僕は男のことをまるで見ていなかった。
たとえば、前にある女性に、こんな話をした。
「あるか弱い少女を、拉致して、監禁して、自分のやりたい放題に、犯したとする。それを半年か一年か、三年か、と続けていって、そのコが幸せにならなかったとしたら、おれは所詮そのていどの男なんだ。仮にそのコと結婚しても、そのコを幸せになんかできなかったってことだよ」
僕の話は、彼女に常に、冗談話ではないと伝わる仕組みになっているので、彼女はその少女が無慈悲に犯されたおす日々を脳裏に描いて、慄(おのの)いた。当たり前だ。
けれども、数秒後、深く頷いてから顔を上げ、
――そのとおりだわ、それで幸せにできなかったとしたら、たとえ結婚しても幸せにできないわ。
と認めて微笑んだ。少し青褪めていたけれど、強烈な物事の見方を発見したわ、と喜びに赤らみもして。
こんな話をして、よしそうかレイプしよう、なんて発想をするのは、もうとんでもないアホで、治療はもう病院で薬剤を打ち込むしかない。
そんな犯罪が許されるわけがない。僕が指摘したのは、そこまでの覚悟で求婚してくる男がいたら、女は幸せだね、と、そういう話をしただけだ。
それで、僕がそんな話をしたけれど、彼女はそれで、僕のことを怖がりはしなかった。僕の良心が、僕自身の発想を支えきられるだけ存在していると認めてくれているのだろう。
そうして、彼女に話は通じて、何だったかというと、僕は幸福だった。
と、がんばって解説してみたが、これでは幸福というのが何なのかさらにわからなくなってしまった。
不満、ということは確かに重要なヒントとしてある。不満だらけで、幸福でない人間が、拉致して監禁してレイプして、という話をしたら怖い。
彼女が僕を怖がらなかったのは、僕が幸福で、不満を持っていないことを見抜いてくれていたからだろう。
それで、こちらとしても、こいつめ、かわいいやつめ、とツンツンしたくなるわけだ。
我ながら、こんな世界最低の幸福論もあったもんじゃないな。
あなたには「不満」があるだろうか。あるというなら、よしわかった。
じっくりそれを聞こう、というのではなく、すまない、僕は走って逃げる。
何をどうしてほしいかというと、僕はあなたに幸福でいてほしくて、幸福をやめないでいてほしい、ということなのだった。
そこだけ聞くとまるでいい話みたいに聞こえるから不思議だ。
[了]