No.238 二〇一二年九月の文脈
同時代を生きる人たちに向けて、やはり同時代を生きている僕から、ささやかなメッセージを送り込みたい、そういう気持ちが予(かね)てからある。今や我々は、光を追うように見せかけて、本当のところは背後に高く迫る暗雲を、感じ取りながらも、それを直接見ようとはあえてせず、逃走しているという有様、これを認めざるをえない。その逃走中のあわただしい足音の中で、僕の声に振り向いてもらえるとは思わないにせよ、声を張りたてればそれなりに、耳には届くということはありえるはず。その声の主をいちいち確認はしなかったが、何か面白いことを言っていた奴があったな、耳朶に染み込んでいる……そういう感興を遺すことはありえる。
僕の前を走ってゆく人人が、その面(おもて)で、笑っているのか、苦虫を噛み潰しているのか、無理にでも自分を鼓舞するため歯を剥いているのか、わからないけれども、僕はその背に向けてひとつの話をがなりたてる。<<文脈>>という言葉がどうか印象的にも、正しくも受け取られますように。それが耳に届いたならば、振り向いて確認はし合えなかったとしても、背中の肩甲骨を包む筋肉が、改めて勇ましく盛り上がったのを見れば、なんであれ一つの受け取りがあったということは、僕なりに了解しうるはず。
まず端的に話が通じることを狙って、このように僕は言いたい。文脈といい、文体といい、あるいはスタイルとも言うが、ここでは文脈という言葉がもっとも当てはまりうるとして、僕はこれを使ってゆく。この文脈というものについて、人はそれぞれ、自分の文脈などというものは、特別に持ち合わせてはいない、専門家でもないので……と思っている。けれどもそれは誤りだ。人それぞれ、自分の文脈というものを必ず持っている。僕は走るあなたの背に向けて第一にこれを言い立てるわけだ。
――あなたは文脈というものを持っている!
第二には、このことを言うのが、もっとも有為で、また面白味もあるはず。
――僕自身、僕が書いた文章を、読み取れない、読み取る気になれない、というときがある。わりとしょっちゅうそうだ!
平凡な程度の知能があれば、あくまで国語的なこととして、たとえばここに書かれているものについても、その意味を読み取るということは容易だ。けれども、そういう次元でない、人が真に何かを読み取るということ、受け取るということ、つまりは誰かの「声」の成り立ちをまるごと読み取る、ということがある。それは、意識されずとも、<<文脈が読み取られる>>ということが起こっているのだが、このことがあるゆえに、単に言葉を並べただけの了解しやすい仕組みの文言と、そうでない読み取りの愉しみというものが出てくる。ここまでの文章にしたって、僕は明らかに文体を許し与えて書いているし――文体というのは、飾り付けて具えさせはできないので――、その文体の中に文脈をこっそり仕込んである。それをこっそり仕込むのは、なんであれその文脈を受け手に侵入させるというのは、ある種の犯罪性を含んでいるからだ。堂々と仕組めばその犯罪性に気づかれて受け手に防御されてしまう。どうしたって防御されてしまうことはあるし、むしろそのほうが多いけれども、それでもなるべく僕はその犯罪を成功させるために最善の方法を採る。
文脈というものに、いくらピンとこなくても、それは知らぬ間に受け手に作用を深く及ぼしている。たとえば僕がここに、
――自分から男と腕を組まない女は全て<<クソ>>だ、
という野卑な一文を入れたとしても、これはそのままの野卑な手応えでは受け取られない。文脈を構成する一分子として慎重に受け取られる仕組みが、ここまででさえすでに成立はしてきているので、それは単なる便所の落書きのようには受け手に届きはしないわけだ。
こうして野卑な一文は文脈に取り込まれたし、そのぶん、文脈には野卑な一文の効果が加わってしまった。その効果が、稿のたくらみに沿わないものであれば、僕はそれを打ち消しにかかるのである。それを単に意図的にやったとしても、それは今度は「意図的」という臭気がミエミエになってまた文脈を汚してしまうだけになるが……
そのように、文脈の受け取りというものがある。それについて、僕自身が、僕自身の書いた文脈を、読み取れない、受け取れない、ということは、実のところいくらでもあるのだ。それはたとえば、テレヴィの娯楽番組を長く漁るようにして楽しんだとき。あるいは、ツイッターやSNSなど、あるいは完全な無記名が集う掲示板や動画ウェブサイトなどにあるテキスト群を長く読み込み、楽しんだとき。そちらには、そちらの文脈というのがあるのであって、そこからまったく別の文脈へとたんに跳躍できるかというと、なかなかそうはいかない。それが例えば、箱に入った古書の装丁本というのであれば、その厳(いかめ)しい感触を手がかりにして、文脈のリフレッシュをする――気持ちが改まるというような――ことができるが、そうでない、単に紙に印刷されているだけのものや、同じブラウザーで表示されるテキストということであれば、文脈のリフレッシュは手がかりがなく困難になる。そのようなことはたとえば、大文豪の著した文章の断片でも、ブラウザーで閲覧してみればわかることだ。そこには、箱に入った古書の装丁本を開き読むときのような切り替えが起こらない。いくら書かれていることが同じでも、まず、厳粛な山門や鳥居をくぐるような手続きがなくいきなり本尊に直面するので、急に粛然として合掌する心地というふうには、なかなか切り替わらないものだ。
誰にでも経験があることとして、いかなる漫画愛好家でも、漫画の雑誌は捨てられるが、単行本というのは捨てづらい、ましてそれが続き物として何冊もあるようでは、ということがある。それは、雑誌というのがそのまま雑多に、複数の作品ごと複数の文脈を内臓していて、そこに統一された力はあまり具わっていないからだ。その点単行本というのは、単一の書き手のみで構成されていて、その一冊自体がひとつの文脈を為しているとも言える。だから、ひとたびその文脈を読み取ってしまった者としては、その本は捨てづらく感じられる。
文脈とその受け取りは、そのように人間の精神機構に作用している。つまり、今これを読み進んでいるあなたも、これから五分間でも、他所の文脈に触れて帰ってきたら、あらためてここにある文脈を読み取ることはたいへん困難になってしまうということだ。読み取る気がなくなってしまうということで、それは書き手である僕自身でさえそうなのである。
つまり、僕がこうして話していることが、あなたによって読み取られるかどうか、国語的に意味の構築を読み取ることは当然に容易であったとしても、それを超えて声の成り立ちが読み取られるかどうかというのは、僕の文脈がある意味あなたの文脈として受け入れられ、所持されるかどうかということに掛かっているわけだ。その、文脈の受け取り、文脈の精神への移植というようなことが、まるで起きないときは、その受け手は僕と縁がなかったという断絶に尽きるのみであるが、僕としてはせいぜい、そのような無縁の人はそもそもここまで読み進めてはいまい、と信じて書き進めているわけだ。
じっさい、これまで僕のところに、無数といってよい私信が、単なる感想コメントということを越えて、eメールとして送られてきたけれども、その中でもっともうれしく感じられるのは、やはり文脈を受け取っての影響が明らかであるそれを頂いたとき。まだ子供というような少女が、いかにも努力を傾けてそれを書いた、というものが届くことがある。彼女自身はそれに無自覚だったとしても、自分なりに、きちんと形のあるものにして送りたい、そういうものが書きたい、という思いに駆られて本文をまとめたもの。そこには、幼い彼女なりの、出来たてほやほやの文脈や文体といったものが具わっていて、それが純粋無垢であるぶん、するどくこちらの胸に響いてくる……そうして素直な文脈の移植が起こるのは、まだ幼い彼女の精神が固着しておらずフレッシュだからだ。
人はそのように影響しあっているし、与えあってもいるわけだ。そのことは例えば、今まさにの受け手であるあなたが、手元のボールペンで或る小文を書いてみても明らかに判る。落書きの程度でよいので、例えばタイトルだけ僕が授けるとして、「明日について」。もしあなたがこれを真に受けて、ボールペンで紙の切れ端にタイトルだけでも書いてみたならば、あなたはそのペンを構えた自分自身に、奇妙な推進力がはたらいていることを感じるはずである。あくまで、ここまでの僕の文脈が、あなたに吸い上げられていればの話ではあるが。
じっさいにそれを、思いつくまま書き進めてゆけるわけではないにせよ、まずその出だしをどう書こうかというところに、ドスンとした営みの手応えが、その端緒なりと現れているはず。それは、あなたがここまでの僕の文脈に影響され、それがあなたの所持する文脈として仕事をさせろと言い張り、あなたが新しく活性化されているからだ。
そうして二、三行でも「明日について」を書き進めたとしよう。そうして出来上がったものがあれば、今度はそれをツイッターに投稿するかと考えてみる。すると、ツイッターの画面を開いたとき、今度はまた別の大きな違和感が起こる。それは、手元に書いたそれは、ツイッター文化が構築している文脈とまるで違うからだ。最後に「w」でも付けない限りは、それを投稿する気には到底なれない。
そういうものなのだ。この<<文脈>>というものの、実にいきいきとしたはたらきのものを説明するのに、説得力を持たせようとして、僕は僕自身のことを話した。僕自身でさえ、他所のテキスト群をうろつけば、こうして自分の書いている文脈に帰って来るのにはそれなりに時間が掛かるのだと。
第三に……では、そういう<<文脈>>があるとして。そのそれぞれの文脈が、与えるもの、もたらすもの、生み出すもの、あるいは禁じるもの、許さないもの、といったものがある。あなたが今ボールペンで書いた「明日について」は、此処の僕の文脈の侵入を受けての、明日についてが書き出されているはず。それは当然ながら、ツイッターやSNSなどで、「明日についてw」と書かれたものとは内容が異なる。<<それぞれの文脈に、与えるもの、もたらすもの、生み出すもの、禁じるもの、許さないものがある>>。ある文脈は決定的に勇敢な道を生み出すかもしれないし、またある文脈はそれをむしろ許さず、頑なに悲観的な先行きをしかもたらさないかもしれない。
そこで、僕はいよいよ、走るあなたの背に向けて、これを言い立てるわけだ。僕は走るあなたを立ち止まらせる意志を持たず、ただその声が耳にだけ届き、了解のあいさつ代わり、肩甲骨を包む筋肉が勇ましく立ち上がるのを見るのを求める。
――あなたの、あなたの持つ文脈は、本当にあなたが望むものをもたらしてくれるか?
***
僕宛に届くeメールに、自己の内に新しく立ち上がってきた文脈と格闘しての苦心の痕が見られることがあり、それにはうれしさを覚えると言ったけれども、それは文脈というものの作用であるから、同じことはツイッターやSNSでも起こるし、掲示板や動画ウェブサイトでも起こる。じっさいのこととして、多くの人が体験済みなのではないか? 帰路の通勤電車に揺られる中、暇つぶしというよりは積極的な楽しみとして、あるいは中毒の手応えさえ認め、ツイッターの画面を開く。そこには無数のテキスト群があるが、それらはツイッター文化としての文脈を意外に統一的に具えている。あなたはそれを受けて、ふと何気ない一文を、自分も投稿しようとする気にさせられる。文脈を吸い上げて、改めて影響づけられた勢いで。そういうことは今や誰でもが知るような体験ではなかろうか。ネットスラングを含めたその独特のテキストの口調が、個人的なメールの書き方にも、その文脈の性質を及ぼしてくるということ、なんであれば、それは口語で直接話すときにでも、侵入してきていると、今や認めざるをえないという人は多いはずだ。そして口語を含めた個人的なやりとりでさえ、その文脈の侵入が顕著であるからには、もはや単にウェブツールの使用を控えたからといって、その文脈との縁を断つことはできない。
それはある意味では、現代の我々が、やはり若い人たちが中心ではあるにせよ、ひとつの文脈を手に入れた、ということでもある。この文脈によって、我々は誰かと互いに接するときに、互いに与えあうもの、もたらしあうもの、生み出しあうもの、禁じあうもの、を紡ぎあっている。友好を結びあうのも、愛しあうのも、この近年手に入れた文脈に色濃く影響づけられている。たとえばあなたには、ロミオとジュリエットという古典作品を、現代の文脈にすればどうなるか、ということを、空想の中で実演させることができたりもするはず。それは馬鹿馬鹿しくは見えるものの、親しみやすさの笑いを誘い、なんであれば、本来の劇作よりその現代版に加工されたものを、もし上演されるなら観たいと、あなたは望むところさえあるのではなかろうか。
三十年後の未来について話そう。あなたと、あなたの友人が、直接体験する三十年後の未来。あなたの友人は、あなたについてふとこう思う。つまりはそういうことだったのだという、全てを受け止める荘厳な心地の中で。つまり、あなたの友人から見て、あなたというのはクソだったと。なぜこんなにも時間を無駄にしてしまったのだろう? と、落ち着いてはいても、嘆かわしさを堂々と認める。親しみやすさの笑いなど、さして必要でもなかったのに! 本当には、もっと豊かに生きられたのに!
あなたは文脈を所有しており、その文脈によって、友人に何かを与え、もたらし、生み出し、あるいは何かを許さず、禁じる、ということをする。つまりあなたの声の成り立ちだが、友人はそのあなたの声が、クソを与え、クソをもたらし、クソを生み出し、本当に大切なことを許さず、本当に大切なことを嘲笑して禁じた、というのだ。それでも、数十年来そうしてきたものを、今さら破棄してどうなるものでもない、自分の事実として受け入れてゆこうともするのであるが……
季節の変わり目に吹く風や、遠い外国でトラブル含みの中で当たる夜風に、究極の文脈が含まれていることがある。それはこれまで自分に積み重なっていたごみのような文脈を押し流し、ひたすら真理を直撃させてくるようだ。その風はすさまじいことを教えるし、また人によってそれを教えるのは風ではないのかもしれない。ただ三十年後の未来にまで、その体験は必ず各人に一度はもたらされるだろう。風が止めば、また元の自分の文脈に、それをごみと知りつつ戻ってしまうよりないわけだが。それでも究極の文脈はあなたにとんでもないことを平然と教えて去る。自分は別に、友人が欲しかったわけではなかったのだ。それが大切なものに感じられていたけれど、全てクソのような気のせいだった……かといって、もったいぶった、小芝居の感動ふうはもっと要らなかった。そういうクソみたいなもので、よく自分は、この三十年を埋めてしまったものだと、取り返しのつかないそれにむしろ悲しい感心さえ覚える。
本当に必要なのは、あなたが友人を捨てることだった。振り返る値打ちのないそれに振り向かず、もたらすべきをもたらしてくれる文脈の旅へ、孤独で勇敢な、二度と帰らぬ船出をするべきだったのだ。
さてこのように、不意打ちの大波めいた文脈を起こすにしても、これまでの文脈の確かさが土台に効いているわけだ。クソという野卑な言葉を盛り込むのにも、それが文脈から飛び出てしまわないよう、言葉そのものに前もって文脈上の市民権を与えておいた。人間にはそのように、不意の大波を含んだそれでも、文脈を読み取ろうとする機能があるし、もしその文脈が面白がられてあなたを直撃したならば、あなたのペン先が押し出される「明日について」の内容は、先ほどからさらに変化しているはずである。それは孤独で勇敢な船出を、自分なりにやりこなそう、という旅立ち前夜の日記のような気配を含み始める。「明日について」!
テキスト群の雑居を面白味とするウェブツール文化の文脈は、罪が無いように見える。親しみやすさの笑いを誘い、自嘲をウイットとしている。また日常生活の断片に、あえて光を当てて、和ませるという文脈を持つ。ただしいわゆる「病んでる」という文脈も大きな成分として使用されていることは見逃せない。物事を評論する声も文化の中に豊かだが、その文化は嘲る性質をどうにも混入しがちで、評論は嘲弄を含んでいるし、またその評論の未完成を嘲弄したくなるはたらきかけも文脈として具わっている。それらはナイーブ(神経質)で、攻撃的な性格を苦しく潜在させている。傷つきやすく、傷つきやすいか、あるいは苛立ちやすいか。
我々が新しく手に入れた、あるいは、植えつけられてしまったのかの、その文脈がそのようなものである以上、我々が互いにもたらしあうものも、それだ、と言わざるを得ない。端的には、これがあなたの持つ文脈であるし、この文脈があなたそのものだ、ということでもある。つまり、あなたそのものについて、姓名判断でもするふうに、こう言い当てることができる。
――あなたは、罪の無いように見える人で、親しみやすさの笑いを誘う人で、日常生活の断片に光を当てて和ませもする人。ただし、病んでる、と言われうるところを持っている人でもある。物事を評論するくせがあるが、その評論に嘲弄が混じりこむ。ナイーブ(神経質)で、苦しい攻撃性を隠しきれず持っていて、傷つきやすく、また苛立ちやすい、それが「あなた」だ……
<<決して振り向かないことだ>>。一人一人、進んでゆくのである。罪の無いように見える友人、親しみやすさの笑いを誘う友人、日常生活の断片から和みを与えてくれる友人に、あなたは振り向かない。誰を振り返ることがある? 誰を振り向かせることがある? 友人など一人も持ち合わせていないのに。
あなたの真の友人は、すでにあなたを置いて去った。あなたと友人であり続けるために、二度と会わない、振り向かないと決めて、あなたはその背中を見送ったはず。であれば、あなたも行くのだ。その背中を追うのではない、誰もいない孤独な道筋に一人で、あなたも決して振り向かないと決心して進む。友人らは二度と会うことのない友人としてそれぞれどこかに進んでいる。自分はその背中を見送ってきたし、自分もその背中を見送られてきた。その友人同士の誓いにかけて、我々はそれぞれ、振り向いてはならないし、背中に受けた誇りだけが自分を押し立てるのだ。正面を向いたその顔だけがいい顔で、自然な顔だ。誰に見せるためのものでもない、その顔が最もうつくしい。
財宝は――その究極の文脈は――自分ひとりの手で掴むのだ。周りに誰もいない、ただ自分はその財宝を手に掴んだということだけが残る。そうしてひとりで財宝を掴んだとき、初めて立ち止まってしゃがみこみ、友人らへの、また恋人らへの、感謝と恋慕を味わうのだ。自分はかつて背中を見送られてきたということ。おかげで今自分はこうして自分限りの確かなものを掴んでいる。友人らが、恋人らが、どこでどうしているのかは知らない。けれども、それぞれが、どこかでこうして何かを掴んでいることを、魂の底から願われてならない……
二〇一二年九月の文脈は、確かにあった。罪の無い、親しみやすい笑いを誘ってくる、やさしげなそれとして。だがそれはもう耳に聞こえなくなった。それで初めてわかることがある。わけもわからず我々が逃走していた、背後に迫る暗雲は、よく見るとただの水滴群ではない、ネットワークを持った巨大な構造体のクラウドであった。ではもう夢を見てまっすぐ走れ。
[了]