No.240 ぺたんこ
或る女のことを話そうと思ったのに、どうしても、埋もれた記憶のうち重要な一部が解除されない。僕は彼女を数度「ぺたんこ」と呼んだはず。だがそれが何を指してのぺたんこだったのかが、どうしても思い出されない。胸がペッタンコだったかというと、そうではなかったし、だいいち僕は女性の身体的特徴を呼称にするような無神経ではない。
何がぺたんこだったのだろう。髪がぺたんこだった? というのは、少し近い感触がある。彼女の記憶はきっと、この秋の季節と関係していて、手の多くは長袖の奥に引っ込み、指先だけがトレーナーの袖口から出ていたのを記憶している。彼女はその手をばっと剥いて、僕の額に当ててくれた。その手の肌がひんやりとしてうつくしく、その感触が彼女についての記憶の記念碑を形成している。感触が鮮烈だったので、いつまでもこのまま……なんて思ったものだ。
彼女とは何度も待ち合わせをしたはずなのに、その待ち合わせ場所の風景は覚えている一方、どのように待ち合わせをすり合わせたのかは覚えていない。まるで時間に約束された出来事のように、そのときその場所に行けば当然にそこにいる、というような記憶になっている。
大気の上層から氷を含んだ風が吹き降ろしてくるのがこの季節だが、この風が彼女の記憶を再生させると、そこにはなぜか火薬の焼ける匂いを錯覚させる。花火なのか、そうでないのか、その記憶の構造も解除されない。
あのときのぺたんこは、実に人を労わって暮らしていた。シャイで、はにかみ屋だったが、積極的なところも持っていて、ずっと人を見ていた。僕のことも見てくれていた。ずっと人のことを心配しているように見えた。何を心配しているとも言えないのだけれども。彼女は自分のことは見ていなかった。心配そうに、控えめで、積極的なところもあり、無口だった。無口だったが、いつも嬉しそうな笑みが顔にくっついていたし、彼女の声が聞けなかったという印象はない。実声を媒介せず声のやりとりをするような、そういう天性を持っていたのかもしれない。
彼女は控えめな女だったが、その心の内はよく動いたし、それは肉体のささやかな動きにも表れてきた。その心身の動きは飽きさせないものがあって、僕を永く楽しませた。その印象は、コーヒーサイホンの湯が静かに沸き立つのを眺めてしまうときによく似ている。こっそり音を立てて、ガラスの内側だが、上下にめまぐるしい。見ていると目がうっとりしてくる。
僕は彼女のことが好きだったが、それを言うと馬鹿馬鹿しくなるのは、あんな女は誰だってそれなりに好きだと、当たり前に思えるからだ。別に男女でなくても、同性であっても、彼女のような存在は嬉しいものだろう。晩秋、飲みすぎて閑とした駅の木ベンチに横になっていると、彼女がぱたぱたと歩き回っている。ほうっておくと、熱い缶ココアを買ってきたりした。そのとき、余計なものを洗滌するように、北から南へ夜風がびゅうと吹き抜けるのだ。僕は寝転んだまま、両手でココアを差し出すぺたんこの背後に、いつもの倍ほどは大きいオリオン座が光るのを明らかに見た。酒精で揺れる視界に、ぺたんこがいて、その背後にこれから黒鉄のSLが轟音もて走り抜けてくれ、それで何もおかしくない、という心地が強くした。
ぺたんこは僕の友人だった。僕と彼女は、実にそれらしい空気に始終包まれていたように思う。彼女はもっと広い範囲で誰かにとっての友人だったが、僕とぺたんこの友人関係はそれなりの秘密であった。交合もしたが、その中でもぺたんこの印象は変わるところがなく、何かずっとこちらを苦笑させ、安心にまどろませるところがあった。だからやはり、氷の風にコーヒーサイホンの沸くを眺めているような感触がずっとだ。彼女はよく、友達に怒られる、と言っていた。そこばく、本当にそれを怖がっていたところもあったような。何度か見たが、彼女は女友達によく説教をされていた。やれやれと見えたが、誰もが彼女の身の上を案じているのには偽りがなかった。
誰もがするような、痴話喧嘩もそれなりにした。別に交際の契りを交わしたわけでもないのに、身の程をわきまえないことだが。原因はすべて奥底に起こった僕の嫉妬に過ぎなかったように思う。それにしてもと、当時の僕が学んだのは、こんな仲でも喧嘩というのはできるものなのだ、という驚きだった。ぺたんこは所詮、人を労わるしか能の無い女だったし、僕はぺたんこの姿を眺めていると目がうっとりとなってくるのに、それでもいちおう喧嘩じみたことはできた。それらの不和はすべて、半日も続かないものではあったけれども。
彼女には、いたずらに小さなシールを貼るくせがあった。それを見つけたときには、あっやられた、という心地が一々した。今思えば、あれはいたずらというより、珍しく彼女の個人的な遊びで、彼女なりにわがままな声をぶつけてきたものの破片かもしれない。最近この本を読んでいるんだ、というような話をすると、彼女はあぐらを掻いたまま、にこにことそれを聞くのみであるが、読み終わってみるとそのあとがきの最後に彼女の手による小さなシールがいたずらで貼ってあった。それで、あっやられた、と苦笑させられる。
シールは、何の趣味もないキャラクターのものであることもあったし、手帳に何かの印をつけるための緑色の丸であったりもした。光沢のある桃色の星印のこともあった。それは買い出しに行って、後日に気づかされて、並べた鶏卵の最後の一つに貼られていたり、吊るしたままのコートの内側に貼られていたりもした。ちょうど忘れたころにそれを発見させられる仕組みである。僕のおらぬうちに部屋を訪問してくれたのか、ドアノブの下にこっそり貼られていたり、旅先から絵葉書が来ると、差出人は無記名なのだが、端にシールが貼ってあるので、ああぺたんこか、と納得させられた。
その点、よくよく見れば、ぺたんこは本当に人を労わるだけの女ということではなかったわけだ。あのにこにこして、動きの愛くるしい中、並存するように、シールを貼って人を驚かせようとするいたずらの女が潜んでいたことになる。あのひんやりとした、罪ひとつも知らないような指先で、シールをこっそり貼っていたのかと思うと、ふーんと妙な感慨に浸らされる。
彼女と会わなくなってからも、数年越しに、そのシールを新しく見つけて驚くことがあった。あっ、ぺたんこだ、と驚いてから、その懐かしい語の響きにもう一度驚かされる。そして懐かしい苦笑が内から湧き起こってくる。この仕掛けによって、彼女が僕に会った時間より、僕が彼女に会った時間のほうが、何倍も長くなる、ということが起こった。彼女のそばにはとっくにもう僕はいないけれども、彼女のほうは僕の近くにこっそり潜んでいる。
いま、現に物置にある膨大な、捨てるでもなく保管するでもないがらくた類、そのことごとくを精査すれば、まだ見つかっていないぺたんこの印がどこかに潜んでいるはず。緑の丸か星印か。あるいはまだ見たことのない形のものか。あと一つや二つは絶対にあると思う。その気の遠くなるような作業を、実際しようとは思わないが、もしこれから何十年後かにでも、それを発見してしまうことがあったなら、そのときはどのような感慨が起こるのだろうかと、それは想像するだけで気がやはり遠くなるのだった。
ぺたんこという愛称が、そのシール貼りのくせを指してのものであるはずはない。その愛称はシール貼りのいたずらが発覚するより先んじて用いられていたからだ。
ただ今になって思われるのは、彼女自身、その奇妙な愛称を気に入ってくれていたのかな、ということだ。ひょっとすれば、その愛称が彼女をくすぐり、彼女にそのくせのアイディアを呼び起こしたのかもしれない。彼女をぺたんこと呼んでいたのは僕一人だ。あれらのシールは全て、その僕独自の愛称に彼女なりに応えてのものだったかもしれない。ぺたんこより、と。
[了]