No.241 男が出す、女が吸う、つまりペペロンチーノ
また破廉恥なタイトルをつけてしまった。こういう手法で安易に関心を惹こうとするのはよくない。もっと三島由紀夫みたいに「金閣寺」とか「潮騒」とか清潔な言葉で人を呼び込まねば卑怯だ。
僕もだめだが、おっ、と興味を惹かれてしまったあなたもあなただ。このスケベめ。
なぜこんなつまらない切り口を冒頭にしたかというと、何か大事な話をしようとしているからだ。
そこには奥深いノウハウがある。と見せかけて、別に何も無い。
何も無いというのは、愛しいことだが……
まあ、ひとつには、照れくささがあるのかもしれない。
僕は、人に何かを話すのが好きかというと、好きではない。こうして書いて話すのが好きかというと、それも好きではない。
そんなことが好きな奴は気が狂っている。
というのはおおげさだとしても、話すとか書くとか、そんなことは平たく言ってめんどうくさい。めんどうくさいことについて、人はどうするか? ということがあるが、一般的にはそれを努力で突破する。
が、僕は努力もきらいなので、努力もしない。
ところで忠告すると、話はすでに本題に入っているので、おやいつの間にと面白がるように。
きりきりするのはよくない。
努力をしないというのは、僕だけのモットーではない。もちろん僕自身の性向もあるけれど、それ以上に、努力なんかしたら人を幻滅させる、特に女性を心底ガッカリさせるということがある。
その意味では、努力は許されていないと言うべきで、甘えるな、ということである。
物事の動機について、女にもてたいから、という動機は正当だ。
そこで、女にもてるために努力をする、なんてことが女にバレたら、女の側は落胆する。
この人は、女にもてたいがため、シコシコ努力なんてするんだわ、なんて夢のないことかしら、と幻滅する。
だから、努力はしてもいいけれど、その痕跡がバレてはいけない。
男の話や考え方は、理路整然としていなくてはならないが、それを整えるために努力したということがバレたら、とたんに女性は話を聞いてくれない。
同情的に、励ましたり支えたりしてくれる女性もいるが、そういう行為は女性の側が突然「飽きたわ」と言い出すし、そうなったらもう二度と元に戻ることはないので、覚悟しておくように。
甘えてはいけないのだ、と、誰よりも甘やかされている僕が言うことには、たいへん説得力が無いが、甘えてはいけない。
生物繁栄の仕組みで言うと、よく男が悪者扱いされるが、そうばかりでもないぜ、と僕は感じる。というのは、男は女を大事にし、女は子を大事にする、そうして繁栄していくものであって、この中に男が大切にされる仕組みはないからだ。
そこは、自分に向けても言うことだが、あきらめろ、としか言いようが無い。
女がやさしくないわけではない。そんなことを仮にでも僕が言うと天罰が下るが、そこはそれ、仕組みは仕組みなのだ。この人を大切にしてあげたい、と女が心の底から思うことがある。人間は繁殖と繁栄を営むためだけに生まれてきたわけではないのだ、と信じて。
ところが、そう信じていたにも関わらず、どうしようもない仕組みがやってきて、女は男を捨てなくてはならないときがやってくる、そういうときがある。仕組み上、女は自分を本当に大切にしてくれる男と、またその力を持ち合わせている男と、寄り添わねばならない義務がある。それで、ごめんね、愛しているけれど、あっちのほうが本当なの、と女は去っていってしまう。愛が無くなったわけではないのだが、それとは別に、彼女の選択は仕組みの荘厳によって定められてしまう。
男は間違っても、そんなときに嘆かないことだ。それは我々に宿された仕組みに対する否定であって、無力な侮辱に過ぎないから。むしろ喜べ、ということになる。女が「仕組み」によって、自分から離れていくそのとき、より上位の仕組みが彼女を本来の幸福へ牽引していると、そのことを喜べ。
その大きな仕組みが、彼女の記憶巣から、おれのことをきれいさっぱり消してくれる、二ヶ月もすれば……と、そのことを喜べ。
その仕組みに殉じるというのが、男である自分に誇りを持つということだろう。
どうせどれだけ泣いたって、仕組みは変わらないし、二ヶ月できれいさっぱり、忘れてもらえるのだ。どうせそうなるのがオチなら、せいぜいカッコつけてみる、ぐらいしか遊び方はないぞ。
夫婦生活の何年目かで、妻が夫に「死んでほしい」と切に願いはじめることは実に自然なことであって……というのはさすがに言いすぎか。でも珍しいことではない。もちろん愛が無くなったわけではないので、妻は夫に死んでほしいとは願っても、傷ついてかまわない、とは思っていない。
ただ、その仕組みというやつのせいで、「夫がもし死んだら」という想像は、多くの女性に夢と希望を与えてしまうのだ。
そんなことぐらいで、笑う余裕を無くすような男、女なんてと落ち込むような男は、何か土台を勘違いしているか、女々しすぎて話にならない。たぶん、どこかのおばさんが吹き込んだ都合のいい話を信用してそれを土台に生きようとしている。
暗くなるのは、大変よくない。暗くなるぐらいなら、自分はアニメオタクとしてどこまで狂えるか? と前人未到の地へ向けて冒険するほうがはるかにマシだ。そういう奴には、思わず「がんばれ!」とエールを送りたくなる。「決して、帰って来るなよ!」と船出を見送りたい。
生物の仕組みは、初めの性交で女性に痛みを与えたのに対し、男には初めから快楽を与えた。快楽を与えてやらないと、オスはもうメスを追いかける気力を失うからだ。
バージンの女の子が体験するような痛みと恐怖を、オスがもし与えられてしまったら、冷静に考えてしまって、おれはオスだから仕組み上誰にも大切にされないし……と、生物の仕組みそのものに参加することをやめてしまうだろう。そうなると生物として絶滅する。
こう言ってしまうと身も蓋も無いが、男は快楽に騙されることで元気でいられるのだ。おれはこんなに気持ちいいことをした、幸せだ、というとき、自分は何かに祝福された存在のように感じる。それで、よーしまた明日も頑張るぞ、という気にさせられる。
僕は嘆いているのではなく、喜べよ、こんな分かりきった当たり前のことなんだから、と言っているのである。
男は女に対して、出現することで、夢と希望を与えられる。次に、消失することで、また夢と希望を与えることができる。いいことじゃないか。あまり深く考えるとよくないぞ。
自殺しろと言っているのではない。自殺でもいちおう仕組みは成立することになるが、それは「野暮」だ。
女が、わたし三人と付き合って、三人と別れた、三人とも自殺したわね、なんてことになったら、さすがに粛然としてしまうではないか。そんな根暗なことは考えるものじゃない。
お寿司の食べ放題でも行って、何も考えられなくなるまで食べつくすといいよ。
あるいは、男らしく、仕組みと戦うのもいい。仕組みに反発するのではなく、また抵抗するのでもなく、超克してしまう。ボクは愛を信じて、赤い糸で結ばれた女性に大切にしてもらうんだ……というのではなくて、「女か、そういえばそんなものもあったな」と懐かしく思えるほど燃焼するということだ。
たとえば、女にもてたいという正当な動機で、ケンカに強くなりたいなあ、と発想する。それで実戦してみてボコボコにされ、女に爆笑されて、泣きながら格闘技のジムに入る。強くなるんだ、見返してやるんだ、おれもいい女とズコズコするんだ……と熱心になるうち、競技だから、やがてハイレベルな心身の衝突が起こる。何もかも忘れて集中しないと、勝てない、まともに立ってもいられない、というような相手を体験する。その中でなら唯一、男は女にもてたいうんぬんを忘れることができる。
顔がニヤニヤしてくる。仕組みを超克し、仕組みから離脱したのだ。まあそれがスポーツだと、数年で体力が衰えておしまいにはなってしまうが……
そうして、仕組みそのものと戦う、戦いの中で仕組みそのものを超克するというのは、いわゆる男の世界というやつだ。恥ずかしい言葉だが、間違っていない。
男の世界というのは、本当にいいもので、それが本当に成立したら、どれだけ色っぽいネーチャンが来ても、「邪魔だ、出て行け」と余裕で言える。こっちはそれどころじゃないんでな、と、いかにも楽しそうに。ネーチャンは「まあ」と憤慨するだろうが、きっと気分は悪くない。男性にだって、楽園は必要だものね、と遠い目をして微笑んでくれるだろう。
あまり言うと、なぜかファンファーレが聞こえてきて、戦場に旅立たねばならない気がしてくるのでやめておこう。
というわけで、理路整然と話してみたが、これだけ理路整然にしておいて、「おれだけは例外だけどな」なんて言うのはさすがにひどいか。おれだけは女に生涯愛しぬかれるが……という話は、実にしたいが、役には立たないのでやめておこう。
意味はきっと通らないが、おれは男だからね、ということも、ここにポツリとつぶやいておく。
おれは男だからね。
(恥ずかしいけど、ここはしょうがない)
さてそれで、本稿のタイトルに戻って。男が何を出し、女が何を吸うかというと、それはなにも精液のことばかりではない。声や言葉や表情や動作、ありとあらゆるものを男は出すし、女はそれを吸う。
そのサンプルのひとつは、言わずもがな、今ここにある書く/読むの関係性。僕が吐き出した言葉の群をあなたが吸っている。それに吐き気がした人はここまで読んでいないだろう。
言葉というのは、言葉に過ぎないし、精液というのは、タンパク質に過ぎない。それは事実としてはどうでもよいことだが、本質的にはそうではない。
人は、言葉の向こうに、あるいは声の向こうに、もちろん精液の向こうにでも、その人間の肉体的存在を受け取っている。
よく、人間中身が大事というが、人間の外形なしに精神的な存在だけを人間として捉えられる人はいない。すてきな人、というのをイメージしたとき、白い魂のモヤモヤしたものなんか想像しない。すてきな人、といえば、ただちに人間の外形、その肉体を持った人間像が思い描かれるはずだ。
いわずもがな、人が大切に思うのは、その人間像であって、精液そのものや言葉そのものではない。人が真に重要に受け取っているのは、精液や言葉ではなく、それを排出する装置としての肉体的人間だ。
洋楽を聴くとき、よく「歌詞の意味もわからんくせに」と言われるが、そうではないのだ。歌詞の意味は確かにわからないし、わかるなら勿論わかるほうがよいのだが、そうでなくても、その声を排出している装置としての肉体的人間の存在を感じることはできる。何がいいと感じているかというと、その肉体的人間の存在を感じ取り、それを「いい」と感じているのだ。
だからこそ、音楽性うんぬんなんて専門性が無くても、つまりストラヴィンスキーやショスタコーヴィチの何がいいのかさっぱりわからないという人でも、素直に、疑いなく、ポップスを楽しむことができる。
また、同じ和音とメロディで、同じ歌詞を唄えば、その歌は理論上「いい」となるはずだが、実際にはそうならない、「うわあ、へたくそ、かっこつけてイヤな声」となるのは、その声の向こうに肉体的人間を感じ取っているからである。歌詞の内容以前に、いやそれどころか、活発なレディたちは歌詞の内容なんか聞き流していて、その声を排出する装置である男そのものを、イイとか、キモい死ね、とか捉えている。
もちろん、歌詞には歌詞の強烈なはたらきがあって、かつて「たかが歌詞じゃねえかこんなもん」と言い放った桑田佳祐こそ、その歌詞のはたらきを慎重に取り扱っているように思うが、それでも活発なレディは、いい声してりゃ一回ぐらいはいいわよと思っているので、話が最低になってきたぞ、ともかく、歌詞の前に声を排出する装置そのものの美醜を嗅ぎ取っている。
男がピロートークで話すことなんかみんな一緒だし、精液なんかありふれたタンパク質だからペッとすればいいのよ、というのは、当たっているが、それでは味気なく本質を失ってしまうのは、それらの排出物はその排出装置の証拠品だからである。装置そのものを吸収できるわけではないので、その排出物を吸いとる。その味は、確かにその排出装置の味なのだ、と信じてゴックンするのであった。
どこまでも大切なのは、排出物ではなくてそれを排出する装置だ。男の側、つまり出す側も、そのことをゆめゆめ忘れてはならない。男がよく女に「おいしい?」と訊くアダルトビデオの演出があるが、あれはアホの発想の典型であって、男の精液なんぞがバスク豚のソテーよりおいしいわけがない。本当においしければオステルリーか広東料理の店で出るだろう。
言葉も精液も、その他すべての振る舞いも、実は排出物そのものには味も滋養もない。何を受け取っているかというと、相手の肉体的存在を直接なのだ。言葉や表情や仕草には、意味があるから、その意味もじんわり染みてきてアッとなるところはあるが、そのことが起こる土台はまず、肉体的存在が直接受け取られることにあるのである。何が好きとかカッコイイとかいうのは、全てその肉体的存在の直接の受け取りについてなのだ。
つまり僕の場合、この花が似合うと思って買ってきたんだから受け取ってくれ、と言うのと、苦しくても泣きながら飲み込めよ、と言うのとで、どちらも同じように聞こえなくてはいけない、そうでないと女に好きともカッコイイと思われていない、ということだ。前者と後者では、言葉の意味、排出物の持つ意味はまるで違うが、そんなことはどうでもいいのである。「いとしのエリー」が「いとしのペペロンチーノ」でも、まあ同じだね、というのでなければ、本当にカッコイイとはいえない。
「いとしのエリー」がどうでもいい、というのではなく、「いとしのペペロンチーノ」がカッコよく唄えないなら、いとしのエリーなんか歌う資格はないということだ。
そりゃだって、ペペロンチーノよりエリーのほうが恥ずかしいわけだから。
それと同じ仕組みで、僕も、謹厳ぶったタイトルでない、破廉恥なタイトルをつけてこそ、本当のところで勝負できる、と心得ているわけだ。
もちろんウソだ。
***
まず、リラックスしよう。
人間にとって、もっとも有意義な時間とは、何もかもを許せる人と過ごせる時間だ。
この人になら、何をされても構わない、叩かれても、殺されても、愛されても、困るけど、いいわ、来て、好きにして、という時間がもっとも有意義だ。
そのためには何が必要かといえば、リラックスなので、まずリラックスしよう。
リラックスさえしていれば、僕が少々、おっぱいをツンツンしたところで、もう、だめよ、ぐらいで済む。
愛と平和で、すばらしいじゃないか。
他の男がそれをやっていたら、腹が立つので、決してやらないか、やるなら極秘で地下5000メートルぐらいでやってくれ。
そしてそのまま生き埋めになってしまえ。
このように、僕の紡ぐ言葉、僕の排出物には、なんの意味も無い。まちがっても、これが大手新聞の一面に掲載されることはない。
意味なんてなくていいので、つまりペペロンチーノ、それが僕の肉体的存在から紡がれたものであるなら何でもいい。
その肉体的存在の排出物を、吸ってもらえるということ、それが全ての土台で、ほとんどそれでオワリなのだ。
さんざん抱いた女と強い握手ができるとき、それはまったくの愛だと思う。
たとえばほら、このようなことも、割と言えるようになっている。こういう文脈が成り立つのは、肉体的存在としての僕と、その排出する声が、もうしょうがないわねゴックンと、あなたに吸ってもらえているからだ。
まさか吐き出しながら読んでいるなんてマゾヒズムな人はいないだろう。
気をつけなくてはいけないのは、といっても、これは僕の個人的な話だが、何かを伝えようなんてしてはいけないということだ。
伝えようったって、肉体的存在がキモければ、死ねと言われるだけなのである。
まず、誤解があるのは、言葉というのは頭を使って捻り出すものだと思われていることだ。
そう思うなら思うでいいが、それでは少なくとも、僕がここに書いたようなアホなものは永遠に出てこない。
肉体的存在というときの、肉体というのは、何もムーンサルトが出来るとか走るのが速いとかそういうことを指すのではない。それはどちらかというと「機能的」という話。
寝たきりの老人だって肉体を具えていないわけではないのだから。
肉体には、実は言葉も入っているのだ。構造、というものも入っているが、これは難しくなるので無視しよう。難しい話が好きな人は、ソシュールとレヴィ=ストロースを読み漁ればいい。
彼ら構造主義の巨人たちは、じっさいすごい、よくそんなことに気づいたものだし、それを論文にガチガチにまとめられる知能を尊敬する。また肉体に入っているものは、その他にも色々言い出せばキリがないぐらいある様子なのだが、僕は学者ではないので永遠に置いておこう。
僕の場合、端的には、肉体+言葉という状態が、ばっちり出来ていないといけないと、ただそれだけのことであるわけだ。
肉体に言葉が入っている。それは、言葉群を具えた肉体が存在する、ということだし、肉体を具えた言葉群が存在する、ということでもある。
それが面白い。面白いし、面白いからモテる。僕の言葉がモテるとき、言葉は肉体を具えているのだから、その肉体ごとモテるということである。つまりウハウハだ。
説明にいかにも不可能性を感じているので、我ながらヤケクソじみている。
いっそのこと、肉体と言葉をもう分離する必要もないのだ、と感じているし、それはもう明らかなことなのだが、説明はいかにも不可能で、不可能だけど話しておきたいので、こうしてヤケクソみたいに話している。
話しているのは、わかってくれ、ということではない。ゴックンしてくれ、ということだ。僕の排出物なんだから。
おれの肉体的排出物をゴックンさせられるのは幸せだろう?
これに、うん、とあっさり言われたら、男はいつも恋をしてしまうのである。
ああ、とたんに、世界は豊かに満ちている気がしてきたな。
僕はマナーあふれる好青年なので、僕の排出物をゴックンしてくれない女性が、僕の言葉ならゴックンしてくれるなどと、浅はかな妄想は決して持たないのである。
困ったことに、話が横道に逸れるほど、調子が上がってきてしまうが……
話すとか、書くとか、そんなことが好きなんていう奴は、気が狂っているのだ。それは自分でシコシコして射精できたら満足、それが好き、と言っているのと同じだ。たとえ目の前に人がいたって、それは人前でシコシコしているというだけだ。人間、けっこう平気でそういうことをするぞ。
大事なのは、必要なのは、確かめたいのは、体験したいのは、愛でしょう? と、爆笑を誘うことを言ってみるが、確かに必要なのはそっちのほうであって、その他のことは手続きでしかない。
本当には、話すとか書くとか、あるいはズコズコするとか、そういうことを抜きにして、神通力か何かがピピッと通じて、ああこの人が好き、素敵、と、肉体的存在が肯定されればいいわけだ。
そちらのほうが楽だし純粋だしで、いいことづくめだ。ただ僕は、そういう神通力を持ち合わせてはいないので、やむを得ず書くとか話すとかズコズコするとかを使うのである。つまり自分の肉体的存在の排出物を吸わせようとする。それを吸ってもらったら、その背後にある肉体的存在が感じ取られる。感性がゾンビ化していなければだが。
じっさい、あなたに抱かれたいわ、と熱心に言ってくれる女性が、こうして僕なりに話したり書いたりをするたび、こちらのほうの排出物を受け取ってしまい、あなたの肉体的存在を感じ取ったわ、ということで、抱かれたいのは落ち着いちゃった、と言い出しやがることがある。
それは、ある意味では成功しているわけだが、単純な意味では、何をやっているのやら、自殺行為だ。
まあでも、そんなことはどうでもいい。
本当に、肉体的存在が愛し合われて、かつ感受性がきわめて高い女性は、耳元で「ペペロンチーノ」と言い続ける、それだけで「あっダメ、いっちゃう」ということがあるのだ。
理想的には、ペペロンチーノなんて、言うのはめんどくさい、そんなことなしで彼女がイッてくれたらうれしいのだが、僕には神通力が無いからしょうがない。
それで、しょうがない、僕は排出物を彼女に吸わせて、肉体的存在を感じ取らせる。それでイッてくれたら、よかった、愛してくれたし、愛し合えたねと、そういうことだ。
なんだかすっきりしたので突然話を終えてしまおう。
女性なら割と、誰でも経験があるんじゃないのか、「この人の声、この人の話を聴いていると、濡れてきちゃう、なぜかしら」みたいなことが。
僕の話が、あなたの夜のオカズにもならなかったら、そのときはごめんなさい。それはもう、ひたすら頭を下げて恥じるしか僕には無いのであった。おやすみなさい。
[了]