No.243 意志に生きよ2/エセー
僕にだって悩みはある。ひょっとしたら人よりたくさん、強くあるのかもしれないが、それについては話さない。
なぜ話さないかというと、それを話すことは、許されていないからだ。さらに言えば、悩むこと自体許されていない。
悩みはあっていいが、悩むことは許されていない。反省することすら許されていない。
これは気楽でいいかというと、そうでもなく、むしろきつい。
あれだけ言ったのに、反省もしないのね、ふーん、と、見捨てられたように言われるのは、たいへんきついが、それも含めて試練なのだ。
反省したって、僕などは根がバカだからダメだ、「そうじゃなくって」と相手をイラつかせるだけになるに決まっている。
ああ、反省したい、ずっぷり落ち込みたい……という誘惑は強烈にあるが、ダメだ、ダメなのはわかりきっている。
僕は結局、意志に生きるしかなくて、男なら誰でもそうか。けっきょく、反省もせずため息をつかれて、それでもどこかで、
「うん、やっぱりあなたが好き」
と笑わせるしかないのだ。それも心の底から。本当にそれしかないというのはなかなかエグい話である。
それはわかってる、わかってるが、ちょっと時間が掛かるのだ。ちょっと待っていてくれ、と、僕は東西南北の全方位に向けて言いたい。
悩むことは許されないので、せめて、悩みを消したいぜ、という程度には変形して話さねばならない。それならまだ少しは、意志の成分が含まれている。
女性が男性に問うのは、突き詰めて、「あなたはどうなりたいのよ」ということだけなので、それだけに応えればよく、それ以外のことでごまかしてもダメだ。
恥ずかしい話をしてしまう予感がある。
あなたはどうなりたいのよ結局、という問いかけは、まったく正当で、そのぶん問いかけは重い。それで、女性にはリアリストが多いから、男特有のロマンチシズム的な答えでは、よっぽどのことがないと納得させられない。
僕はつまり、夢のある人になりたいのだと思う。どうだこのロマンチシズムは……と思うが、僕もそのあたりがフワワーンとしたイメージしかない人間はいやだ。
そうではなく、僕はその夢という現象を厳密に捉えていて、それは人間のある種の現象のことを指していて、その現象自体はがっちりと現実にあるものだ。
その現象が何なのかというのを、説明はできるけれども、その説明をする人になりたいわけでは、僕はない。その現象を引き起こす技芸の人になりたい。ある種の術士になりたいと言ってもいいかもしれない。
術とは言っても、それがいかがわしいものだとは僕は思っていない。そうではなく、むしろいかがわしいものの全てを取り払ってしまったら、結局その現象が残るのだと思っている。思うというより、積み重ねた経験からそれを確信している。
よく、夢と現実というけれど、現実の努力は何のためにあるかというと、夢のような時間を持つために努力するのであって、じゃあつまるところ人間の本当の体験は夢なんじゃないか、ということだ。それはそうに決まっている。
ただ、その仕組みはシンプルで正当であっても、現実のほうが肥大してしまい、本来の目的であった夢という現象が、すっかり埋もれて行方不明になる、ということがある。僕はもう長いこと、きっと三十年間、そのことに納得できずにきた。
あまり言うと、変な雰囲気になるので、言わないのだが、僕はいまだに子供が見るような直接の夢をふだんから見る。見えてしまうのだからしょうがない。生きることの本体が直接見えてしまうことがよくある。それは官能的で神秘的で無邪気だ。切なくて、風に丸まって泣き続けていたくなる。
というと、ふつう気持ち悪がられるので、あまり言わない。
でも正直に言うと、僕はまだそういう現象と接触が切れていない。切れてたまるかと、思っているのだが……
案の定、恥ずかしい話になってしまった。僕がどうなりたいかというと、そういう術士に、やっぱりなりたい。三十年前から変わっていないのだ。
バカじゃないの、と言われたらバカだし、こんなもの説明してもしょうがないことはわかっているので、あまり普段は説明しようとも思わない。人を納得させられるとしたら、唯一、その人にその夢の体験をさせたときのみだ。そのときになって唯一、このバカが言っていたことは、ウソじゃなかったんだ、本当にあるんだ、こっちが実は現実なんだ……と認めてもらえることになる。
こう言うと、ファンタスティックに聞こえるが、実物の僕は別にお上品で繊細なボーイでも何でもない、スーツを着たら債権の取り立てか何かにしか見えない男なので、まあその面でも、説明で説得力を持たせるということは諦めるしかないわけだ。
意志に生きよ、ということで話を続けているが、その意志というのも、夢の一部だ。夢の一部なのか、夢にアプローチするための一部なのか、なんとも説明はしにくいので、説明はやめよう。
フーンこいつなりに何かスジは通っているんだろうなあ、と前向きに捉えてもらえたら十分だ。
意志についてだが、意志というのは、自分がまだ手に入れていない何かにしか向かわない。
これは重要な性質なので話しておきたいと思った。
よくある、男の言葉で、オレはこの家と、家族、この幸せを守りたい、とカッコいいのがあるが、これは彼の意志に見えるが、意志ではない。
意志というなら、「特に理由はないが、もう一軒、家が欲しいな、なんとなく」というほうが意志だ。
なぜかというと、前回話したことに照らしてもいいが、家族の幸せが大切だから守りたいというのでは、それは理由が遡れてしまっているからだ。意志には理由もきっかけもあってはならない。大切だから守りたい、という「気持ち」はわかるし正当だが、それが意志かというとやはり意志ではない。
そこのところの何がまずいかというと、まず土台として、自分は家族を所有しているという、思い込みが入っているからだ。家族を所有していると、戸籍謄本には書いてあるが、宇宙の神々から見ればそのような所有などは物理的には存在していない。太陽は木星を所有しているわけではない。それを「所有」と見てしまう、人間の観念の習慣があるだけだ。
まるで哲学の初歩のような話だが、間違っていない。こちらは細胞の塊で、家族もそれぞれ細胞の塊だが、その塊αが塊βを所有する、なんてことは起こらない。
僕は昔、女性に月をプレゼントしたことがあるが、あれはお前のものじゃないだろと言われたって、それは観念の問題でしかないのだから、おれのものと思えばおれのものだ。じゃあなにか、登記簿でも設定すればおれのものなのか、というのはいかにもおかしい。脳みそまで役所に支配されることはない。
まあとにかく、意志というのは、未知のもの、未体験のもの、未所有のものにしか向かわないのだ。
それはつまり、既知というのは思い込みで、経験済みというのも思い込みで、所有済みというのも思い込みだから、ということだ。
それは哲学的で面白い話かもしれないが、ええいうるさい、そんなことより意志に向かえ、意志を解放せよ、というのが僕の話である。
未知のもの、未体験のもの、未所有のもの……これらはいい。とてもいいものだ。わからなくても、いいですね、と思い切り言え。そしたら元気が出る。
意志の性質の第二は(と言いながら、考えていない、第二に何かいいネタはないか)、利益を持たないことだ(と、三十秒ほどで思いついた)。ローマに二年ぐらい住みたいと僕は前回言ったけれど、ここで重要なのはそんなことに何の利益もないということだ。利益があってはいけない。利益があったら、それを理由として遡れることになってしまう。
このことは、第一の性質ともつながっていて、未知・未体験のものへ向かう意志なのに、未知のそれに利益があると前もって知っていたらおかしい。それは未知に向かってはいないのである。
だから意志は利益に向かっていてはいけない。我ながら三十秒で、これはうまい辻褄を発見したものだ。
利益に向かわないのだから、ギラギラしたり鼻息を荒くしてはいけないということだ。明日キャラメルマキアートを飲むわ、というのと、世界中の客船に現れる謎の有名令嬢になるわ、というのとが、同じ調子でなくてはならない。
性質の第一、第二ときたら、第三ぐらいまでは無いと恰好がつかないので、第三について話すが、意志の性質の第三は(さあ考えよう)、矛盾しろ、ということだ。これは五秒ぐらいで思いついたぞ。
時間が掛かっていないぶん、こちらのほうが冴えているのだ。何がどう冴えているのかは、これから僕も探っていくのである。
矛盾しろというのはたとえばこうだ。自分はとびきり大切な、これ以上ない恋人を持ちたい、という意志を持つ。一方で、自分は誰にもこだわらない、ひたすら自由な中を生きるのだ、という意志を持つ。これは矛盾だ。矛盾しているが、意志というのは矛盾するし、矛盾していていいのだ。
矛盾にこだわるのは、意志ではないしょうもない精神のはたらきだからである。そのはたらきを何かというと、悩みという。こんな仕事辞めたいが、今の生活も失いたくない、という、その矛盾がいわゆる葛藤というやつで、そこにこだわるさまを「悩んでいる」という。
繰り返しになるが、意志というのはそういう次元のものではない。仕事も生活も、彼の悩みはすでに所有しているものについて発生している。意志はそういうものではない、未知・未体験・未所有のものに起こるから、「今の倍ほどこの仕事をこなしたい」「今の倍のゆとりが欲しい」というのに向かわねばならない。
するとほら、悩んでいたものがどこかへ消失してしまう。意志というのはそういうものだ。倍の仕事と倍のゆとりというのは矛盾しているが、矛盾しているのに、不思議に自分に、何をすればよいかを教え、何かをじっさいするほうへ自分を押し立てる力がある。
つまりは冒頭で、僕にも悩みがあるけれど、それを話すことは許されていないというのも、そういうことなのだ。僕は意志に生きるしかなく、意志についてしか話すことを許されていない。そうでないと元気が出ないし。
ということで、うまくまとまったのでボロが出ないうちに退散する。
ではでは、また。
[了]