No.245 愛の力を得るために
自分は何を愛しているだろう?
そう考えさせられる羽目になった。
考えざるを得ないのは、力が必要だからだ。
力が無いということは、愛が無いということだ。愛が無いと、力を起こす動機が無いのである。
だから、愛も無いのに力だけ起こすと、なんであれ無理やりでうっとうしくなる。
愛している、などというと、いかにも誤解を生みそうだ。
たとえば家族を愛していると言ったとき、往々にして、自分の家族、つまりカーチャンや息子を愛している、ということを指す。
が、それはなんだかつまらない話で、演歌みたいだ。いや演歌だってそんなつまらないものを歌ってはいないだろう。
家族を愛するというのは、「家族」という現象や構造を愛するということだ。つまり、こいつには夫がいて、子供もいて、親御さんもいる、そして手をつないで秋の日の下をむつまじく歩く……「ああ、家族だ」と。それを愛しているということが、家族を愛しているということだ。
個人的な、自分の家族だけを愛しているというのなら、それは単なる自己愛の周辺物にすぎないだろう。もちろん、それがあるのは当たり前で、何が悪いということでもない。
まあ、そんなことはどうでもよくて、自分は何を愛しているだろう、という話。
意外なことに、僕は破滅を愛している。
破滅といっても、個人的な破滅ではない、個人的なそれは特急電車に飛び込めばそれで済む話なので、そういう意味ではない。もっと全体的な破滅だ。
たとえば核戦争とか。核戦争……とイメージすると、イマイチだな、という気がするが、それは結局核兵器なんてものが人間のつまらん恣意で作り出されたアイテムに過ぎないからだろう。恣意的に作られているから合理的に過ぎる。核兵器を炸裂させると、どうなるかが前もって分かってしまっているところがつまらない。考えてみれば、あれほど遊び心の無いアイテムも世の中には少ないものだ。ただ爆発だけしかしない。
これを爆発させたら何色の炎が出るのだろう? というような、破滅と引き換えにしか見ることのできない希望、というようなものは含まれていない。
かといって、太陽がフレアバーストを起こして、地球がアッという間に黒こげ、というのも淡白すぎて悲しい。そういう、人間の歴史が手仕舞いになるというようなことではなくて、ロマンチックな破壊に、惹かれるところがある、どうも愛してしまうな、ということだ。
なんとも夢見がちな話で恥ずかしいが、神様がミスをして、「あっ」と悪魔の塊を地球に落としてしまった、そいつらが大破壊を起こしてしまう、「ごめん」と、そういう破滅が愛しい。
破滅というのは、何も善人が滅べば嬉しいという話ではない。破滅・破壊といったことで、幼心に真っ直ぐ突き刺さっているのは、僕もまだ当時子供だったときに生中継の映像で見た、ベルリンの壁崩壊だ。暗鬱な東西冷戦の障壁がついに解かれた……というような、平和的なものとして僕は見てなくて、そして誰も本当にはたぶんそういうふうには見ていなくて、市民の熱情が物理的に壁そのものに向かって、壁の破壊に暴力を振るわせた、その風景を僕は愛してしまった。
実際にその詳細をそこまで見たわけではないにせよ、僕の受け取ったビジョンとしては、八十を越えた老婆でも、鋼鉄のつるはしを振るってそのレンガに一撃を喰らわせた、彼女にはその権利があったし資格もあった、ババアの残り少ない命が愛しく燃焼したことに周囲は拍手を起こした……とか、そういう風景を僕は受け取り、やはり今もどこかで愛しているのだ。
ともあれ、破滅、破壊、そういったものを僕は愛している。そういえば、ハリウッド映画などを観ていて気に入らないのは、たいていその破滅は淡白なもので(隕石が降ってくるとか)、かつその破滅はなんだかんだでタフガイの活躍によって回避されてしまうからである。大量殺戮兵器を抱え込んだテロリストが〜というストーリーもよくあるが、そのテロリストが陰気だったり結局カネ目当てだったりするのが気に入らない。破滅そのものを愛さないならテロリストなんかやめろよと言いたくなる。
破滅は愛しいものだろう。王城を取り囲んだ兵士たちが、歌いながらその城壁を打ち砕いてじわじわ進む。燃え上がる炎が夜空を焼き……その光景はなぜか胸に来る。その王が偉大か邪悪かなんて関係ない、光景そのものが力を持っているのだ。
かといって、そんなもののためにいちいち本当に戦争なんかしていられない。
だからこそ、映画やヴィデオゲームや小説があるのではなかろうか。
と、至極当たり前のことを言ってみる。
当たり前のことを書くといかにも紙面の無駄という感じがするからやめよう。
そのほか、愛しているものには何があるだろうか。
くれぐれも、僕は人生に迷っているのではなく、力を必要としているから、整理しているのだ。
愛していないものに力なんか出ないし、出す理由もないんだからね。
自分が何を愛しているかのヒントは、きっと歌や詩や絵画などにある。風景にもあるか。
それを頼りに思索してゆくと、僕は孤独を愛している。自由も愛しているな。死は愛していない。おしゃれを愛しておらず、おしゃれなセンチメンタリズムも愛していない。このへんはちょっと心の狭い感じが自分でする。むしろダサさを愛している。ダサさ、つらさ、しんどさ、きびしさ、などを愛していて、田舎くさいものを愛していない。さだまさしの歌は強烈に人の涙を誘うが、あれで涙が出てくる仕組みそのものを僕は愛していない。母親のことを歌うな卑怯者め、ヘヴィメタルを見習え、と思う。
さわやかな青春、みたいなものも、愛していない。かつては憧れもあったし、今もそんなものがあればいいとは思うのだが、十中八九、そういうのは当人らが無理をしてやっているので、ああ無理なんだ、といつしか諦めてしまった。
田舎くさいものが嫌いなので、お涙頂戴の思想は嫌いだ。高校野球で球児が甲子園で涙を流すのは悪くない。でもできれば、三年生でなく後輩が泣いて欲しい。先輩らの夏を続けさせることができなかった、自分がもう少しできたら、という悔しさで泣いて欲しい。
そして、意外にへらへらして、さあ終わったからラーメンでも食いに行こうぜとなって、腹いっぱい喰いながら、全てをさっそく思い出話にして大騒ぎする、そのどこかでキャプテンがぽろぽろ涙をこぼす、みんなでそれを見ないようにしてギョーザを限界まで食う、そういう風景があってほしい。甲子園の土を持って帰ってきたけれど、帰り道、ガキの頃から練習を続けてきた公園があって、そこに衝動的にブチ撒けてしまう、それで恋人に別れを告げるみたいに野球そのものと別れる、そういう孤独な、自分だけが知る青春のシーンが、青春ものとしてはあってほしい。
こうなると、やはり僕は孤独を愛しているのだろうし、感情的なものがとことん嫌いで、感情を断じて意志に殉じるということ、つまり意志そのものを愛しているようだ。別れ、とか、終わり、とかも愛しているのかもしれない。人生の終わりという素晴らしいもののために生きる、というのは一つ、自分の生きる仕組みとしては筋道が立つ。
その他何があるか。僕は場所を愛しているし、場所ごとにあるダメ人間、ただし若い人に限る、を愛している。黒人の笑いには愛すべきものを感じるが、日本人としては思想が遠すぎてちょっと理解の範疇を超える。逆に嫌いというか苦手というか愛しようのないものだと、陰険なものとか陰気なものとか、ねじくれたものなどがダメだ。それらは実に救いが無いように見える。入念に根暗の味付けがされたもの。味付けといえば、逆に元気ハツラツとか前向きにとか激アツにとか、そういう味付けがされているものも嫌いだ。
が、考えてみてわかったが、嫌いなものをいくら確認しても自分の足しにはならないらしい。ぜんぜん力が湧いてこない。
やはり愛しているもののことだけを考えよう。
愛しているもの。破滅、夜、場所、孤独、自由、意志、ダメ人間ただし若い人に限るの、どうしようもない笑い。ダサいもの、悪あがきしていないもの。
孤独は友人を形成してよい。
今丁度、窓の外の遠くで、老人が空気とケンカしてウオーウオー言っているが、ああいうのが最悪だ。せっかく酒が入っているのだから陽気になればいいのに、いったい何十年分の不平不満が溜まっているのだろう。
まあそれぞれ、人には事情があるのだろう、ということで、あまり考えないようにしよう。
恋あいを、僕は愛しているだろうか? そう考えると、それはちょっと待て、という気持ちになる。少なくとも、僕以外の野郎が美人とヤッていることを想像すると腹が立つ。
が、本当に愛し合って、認め合って、支えあって、許しあっている若い二人を見ると、「あっ」と思わされて、いいな、彼らのホテル代ぐらいおれがオゴってやりたい、むしろ税金でまかなうべき……という気分になるから、やっぱり愛しているのかもしれない。
金持ちのジジイは自分ひとりで最上階のコーナースイートに泊まってよいが、フロントで愛しむべきカップルに出くわしたら彼らと部屋を交換しろ。ジジイはビジネスシングルでポツンと眠ればいい。それが公共性というものである。少なくとも僕がジジイになったときはそのようでありたい。
そういうことがないから、みんなどれだけ労働しても世の中に夢が無くなるのだ。
ジジイになってホステスに愛されるにはそれぐらいしか方法が無いように思うが、うーん、どうでもいいな。
意外なことに、僕は公共性も愛しているらしい。僕が言うと我ながら説得力がないが、いちおう愛しているのだ。
公共性というのは、いまの時代、逆にいいかもしれない。流行する可能性がある。
「この付け睫毛流行ってるの」
「公共性は?」
というような。
わけがわからないが力はある。
煙草のポイ捨てに公共性が無いのではなく、公共性の無い奴がそれをやるとひとしお不愉快に映るというだけだ。
ヒッチハイクを後部座席に乗せてやったことのない男を軽蔑しろ。
そんな程度の公共性もなしに、いきなり「ひとつになろう日本」みたいなことを、つい先日に連呼していたから、何かもう全てが馬鹿馬鹿しくなるのだ。ちゃんちゃら可笑しい、と笑えるかというと、もう色々笑えないところまで来ている。
ヒッチハイクで乗っかってきた奴がまるでつまらない公共性ゼロの奴らだったらどうしよう、という陰鬱な懸念は、今や最大のリアリティを持ってしまう。
うーん、どうしようもないが、とにかく僕は公共性を愛しているのだ。公共性が大事ということではない。破滅の光景が、妙に燃えてしまうところを持つように、公共性というのも、なにか妙に燃えるところがあるという、ただそれだけのことだ。
恋あいを愛しているかどうか、という話だった。これは難しいが、ノーだ、それ自体を愛してはいない、と捉えたほうがよいように思える。素敵なカップルがいたら道を譲るが、それは公共性への愛であって、恋あいという現象そのものへの愛ではないように感じる。
その点、やはり僕は女の子ではないわけだ。
恋あいというのは、あって然るべき、ヒマなのに恋あいがなければおかしいという、ひとつの土台というか、土壌のように思う。だから僕は恋愛相談をされてもそれについてウヒョヒョと興奮はしないし、ふーんと冷たく恬淡なものだ。
それよりは、その恋あいに関連して、破滅(壁の破壊)はあるか、夜はあるか、場所はあるか、孤独はあるか、自由であれているか、意志はあるか、ダメ人間であれているか、若いか、どうしようもない笑いはあるか、ダサくあれているか、悪あがきはしていないか、あとまさか陰気とかになってないよね? ということを僕は問う。そういう仕組みにどうしてもなるし、僕の話はこれまでずっとそうなっているはずだ。
女を愛しているか、とか、性を愛しているか、とか、そういう問いかけはもっと難しくなる。男女に分かたれた性というもの、それ自体がいいのよ、というのは、女の側であってほしい。性を愛するのは女のほうであってほしい。なんというか、男が「おれは男だ」と鼻息を荒くする光景はどこまでいっても田舎くさい。それに比べて、女のほうが「わたしは女なのね」としみじみ屈服するほうがうまくすればロマンチックになる。
男のほうは、ひどい話だが、女のことなんか知るか、性のことなんか知るか、というふうで、あってほしいというか、あるべきだ。「エヘン、男女は性によってへだたれておりますから」なんて男が言い出したら気色悪くてしょうがない。
男は女を忘れて、女は男を突きつけられるのが一番いい。
性が男女をへだてているというなら、それが一番のへだたりだろうし、なんといっても、そうでなければ女性の側が寒気を覚えて愉しめない。
性・性別を愛する愉しみは女の側の特権だ。
女は女らしさを男に見せつけ、男は男らしさをやはり男に見せつけるのである。
男は、男としての自分を愛するために、女を犠牲に、食い荒らし……なんて言うと、それはもう唾を吐かれるぐらい嫌われるのだが、しょうがない。自分が女だというアイデンティティに確信を持っている女に接するとき、そこを曲げると女から深いため息をつかれるので、これはもうしょうがないのだ。男は男である自分を愉しむためにその女を抱くのだと、はっきりしていないと、女に怒られるのである。何か悲しいわ、とか、時間の無駄よ、とか、馬鹿にしないで、とか言われてしまう。確信を持っている美女に怒られると本当に怖い。怖いし、もう二度とさせてくれないので、何が怖いといえばそれが一番怖い。
だから、奇妙なことだが、男はスケベ心を満たすためには、女でなく男を愛さねばならない、ということになる。男である自分をを愉しむ、そのために女に協力してもらうということでしか、女性をまっとうに口説くことはできない。
男を愛せるかな? というのは、けっこう重たくて難しい。僕にはホモの気はゼロなのでその意味ではないが、他の男が美女とイチャイチャしてたら腹が立つし、これをどうしたらいいのかは厄介だ。自分が男であるということだけを愉しんで愛せというなら簡単だけれど、そういうことじゃないとは冒頭で自分で言ってしまった。
破滅、夜、場所、孤独、自由、意志、ダメ人間、笑い、ダサさ……と色々言ってきたけれども、つまりはそういうものの総体が男だということだ。破滅の淵を歩いていて、夜に生き、場所に住み、孤独で、自由で、ダサいダメ人間で笑っているように見えるが、実は意志だけに透徹する、と。それを「ねえねえ」と甘えて癒着してまわるような奴は、もう男じゃないのだ。それは男じゃないからもう愛さなくていい。そう捉えればすっきりするし、そう捉えてみれば確かに僕にも愛する男どもというのは幾人かいた。
収まりがいい気はまるでしないが、話すことがなくなったので終わり。おやすみなさい。
愛の力を得るために/[了]