No.246 復路物理壁
長年の違和感がいよいよ確かめられて報告する形で。海の向こうへ留学なり旅行なりで、それが見聞を深めに行くという理由をこさえてあるとき、また学生がパートタイム・ワークに時間を費やしすぎるときに社会勉強の名分を立ててあるときにも、そのような心では何もたいしたものは得られまいという予感が前もってある。それは何かを持ち帰ってくるつもりでいるということの、無意識の自白である様子だが、そこで得たものを持ち、帰ってくる、というところに違和感の主源はある。それは帰ってくるために行ってくる、という構造で、であれば初めから行かなければよいではないかという感想を人人に起こさせる。何かを取って帰ってくる、まるで用事を済ませにいくようだなと。その直接の用事があるのかというと、勿論無いのだ。
ほんとうに、何か野暮用の用事を足しにいくときでないかぎり、人が直接に生き、何事かをするなり得るなりしたいのだというのであれば、それは帰ってくることを前提においてはならない。それは時間のかかる全てのことにおいてそうだ。たとえば映画の二時間をみるのでも、小説の延べ十時間を読むのでも。何があるとは知らねども、そこへ出発するのだということになれば、もうかつてのところに自分は帰ってこないのだという心持ちでゆかねばならない。それは心がけの推奨ではなく、誰だってかつて幼いころはそうだったではないかということへの、記憶の指摘だ。幼児の心はひとたびそこへ行ってしまったなら、もう帰ってはこない。
ここに連ねてある言葉群・文字群についてもそう。ここから何かを得て持ち帰ろうという算段でいるなら、不毛のことは即刻やめてしまうべきだ。それは決してあなたに重要な何かをもたらしはしないから。それは十分に保証できることだ。そうではなく、自分がこの一瞬をも確かに生き、暇つぶし程度という自覚はあったにせよ、それが人生の貴重な時間をただ磨り潰すことではないと信じたいならば、何か滋養めいたものや役立つアイディアを持ち帰ろうという浅ましい魂胆ではなく、ひとたび<<ここに住むのだ>>ということでなくては。そうでなくては何も齎(もたら)さぬ。これは古く言えば鉄則みたいなもので、文字通り鉄のように動かしえない。持って帰るという浅ましい発想が抜け切らぬならいっそ全てを忘れて置いて帰れ。そうであれば、少なくとも精神の健全さは損なわれない。
恋人に会うのでも友人に会うのでも、新しい人に会うのでも、知らぬ場所へ気まぐれに入り込むのでもよろしいが、誰かと会う時間は、ひとたびその人とその人の場所に<<住む>>――身をもって住む――のであって、それだけが唯一、自分の生きた時間として不毛でないものを齎す。そこで得られるのが人間的成長というような生易しいものではないかもしれず、むしろ平易な人生の旨味を漁るのには邪魔にさえなるのかもしれないとしても、少なくとも思い出は残る。それでよいではないか?
帰るというのには、ひとたび誰かと住み、何かがひとつ終わったなら、その終わりを合図として、去ればよい。それは帰るというより、また新しいところへ出発させられる、むしろやむを得ないこととして。たとえば美容室でカットなりサロン行為なりが終わって、お疲れ様でしたと言われたならば、それをもってひとつの終わりは示されるわけだ、ささやかに。そのとき、終わりの合図をもって、自分はまたその場所を立って新しいどこかへ出発すればよい。そんなことが積み重なって、われわれの実生はあるわけだ、いちいち光を当てるふうにせずとも。
なかなか馬鹿にできたものではない。<<終わるまで帰れない>>ということへ、具体的に反応を起こす肉体の生理は、実際あるものだ。我々は誰しも、学校の授業をそうして過ごしてきたのではなかったか? そしてその積み重ねが思い出になっていないとは強弁せず、まあそういうものであったわけだと、誰しもしみじみ認める。自宅で録画媒体を再生して映画を観るとき、それかつまらぬなら途中で停めてしまいかねないけれども、映画館に足を運んだとなれば、まさに<<終わるまで帰れない>>。ここには、老人特有の現象として、刺激が供されないとすぐ眠ってしまう、恥も外聞も無く、ということがあるけれども、そのことはここでは喚起される必要もないだろう。
ここに連ねる言葉群・文字群の、表面的な読み取りにくさは、意図的でも工夫でもないけれども、その読み取りにくさを自覚しつつ、こうであるべきと断行されているものだ。少なくとも、実際の書き手の僕にとってそう。これがいささか、ふだん聞き慣れた言葉の並びと馴染まない、ときにはその異物感から不快をそそるところがあるとは知っていても、これはこうでなくてはならないわけだ。それはひとつには、読み手を帰らせてはならない、ということのためであるし、読み手にやっかいな仕事をさせることで、何かを持ち帰るという発想の余裕を奪ってしまおう、という企みが含まれているわけだ。
<<帰ってはならない>>。初めから帰るつもりで踏み込んだところなど、心身を持ち込んではいない、好奇心から首を突っ込んでみた程度のことだ。それでは何も得られない。帰るつもりというのが万事において最大の野暮だと捉えておけよ。帰るつもりなどない、一歩ごと時間が進むたび、復路などは物理壁に閉ざされるものだから、帰るなんてそもそも……と。よくあるテレヴィ番組を引き合いに出さなくても、見知らぬ人とでも三日間なりと<<住んだ>>、たんに交流したというのでなく、ということであれば、何かしら得られる、ささやかでも思い出にはなるということは、誰しもいくつかの経験から知っているはずだし、また想像も容易なはずだ。どこへ踏み込み、何と住み、誰と住むとして、そこに何があるのかは前もっては知ることはできない、ただできることといえば、何かしらの終わりがやってくるのを共に迎えようということのみである。
小説などはよい訓練になる。小説の内容はもとより、そこに滋養を求めるのではなく、まず踏み出すということ。帰れないという心地を持って……。そのことがやがて、自己の人生を生きるのに、大きな船出を自然に決意させる原体験となってゆく。ひとつの小説が正しく読まれるとき、中断ごとに栞が挟まれるのは、書物にある物語のほうにではない、現実の実生活についてだ。読み手は引き続き小説物語の世界のほうに住んでいるのであり、野暮用から実生活に少し出掛けている。どちらに帰るかといえば、住んでいるほうに帰るのである。少なくとも、その小説物語が、ひとつの終わりを迎えるまでは。
気鋭の若者が人生の仕事に向かうとき、それは確かな企業への就労であってよいと思うが、彼らの多くが本能的に悟るのは、いちいち会社から帰宅することの無為と、それに費やす時間の無駄だ。ほとんど、入浴しないわけにいかないから、という程度の理由だけで、彼らは帰宅する。彼らは仕事の世界と、そこに活躍する者として住み始めたのであり、彼らは用事を済ませるためだけに帰宅もするし、夜毎の遊びにもそれなりに耽るのだ。だから彼らにとってもっとも悩ましいのは、休暇の余裕が無いということではなく、休暇無しに心身を投げ込んでも、企業なり業務なりのほうがまともな物語をもって応えてくれないというときである。そこで彼らは、単に今自分の所属する企業や業務に物語を求めるのでなく、社会全体にその物語のレスポンシビリティを求めるようになるが、社会全体がそれに冷淡で応えようとしないときには、彼らは必然やさぐれるか、仕事という世界になど住まぬ、早く足を洗うのだ、なんとかして……と志すのだ。
映画や小説などといったものは、どれだけの大作であっても、まず自分の生きることの、物語ということの性質、その人と物語との関わりあいについての、モデルでありひとつのサンプルであるに過ぎない。けれども、だからこそというふうに、そのモデル・サンプルは優秀で血肉に応えるものがあるよう求められるわけだ。数十時間なりと、そこに住んだとして、応えてくるものが確かにあるようであってくれと。そこで人人は若いうちに、自分が物語の中を生きるということ、その得もいえぬ体験を、直接の体験として覚える。それは彼をやがて大きな生の物語へ踏み出させる、その出航の覚悟の根拠になりうるわけだ。何もなしに生きるよりは、物語の中へ生きるほうがよい、そのほうが有利とかメリットがあるというのではなく、生きるということそのものであるから、と。
仕事というのが、本来は、単に給与を稼いで持ち帰るだけという、そのことに収束されては悲しすぎるように、その他の人生、恋あいというようなことも、単にすることをして、気分のよさを持ち帰ってくるというだけでは悲しい。そうではなく、仕事に住む者として、また異性の誰かと付き合う者として、その長い物語の中を――数十年も厭わず――生きる。帰宅するというのは休息と野暮用を済ませるためだけのことだ。よく、正しく結ばれた恋人らが、どれだけ離れていても彼と一緒にいる心地がする、という言い方をする。それは彼らが、互いを恋人とする物語の中に住んでおり、離れている時間、一人暮らしの部屋へ帰宅するときなどは、一時的なお出かけに過ぎないと感じているからだ。小説文庫になぞらえていえば、栞が挟まれているだけで、互いの心身は未だそこに住み続けているのである。一人ではその頁を進めてゆけぬというだけで、だから彼らはまた濃密に会って過ごす時間を作ろうとする。
色恋沙汰に、現(うつつ)を抜かす、という言い方もよくする。それは、頁を進めてゆけぬのに、たとえば仕事中にもそのことばかり考えている様子のことを指す。それは平たく言って愚かしいことだ。貴様は今どこに住んでいる? と、厳しい直言があってよい。そうして進めてもゆけぬ物語に現を抜かすのであれば、それこそ「帰れ」と言われる。人は何であれ、どこか場所か人のもとへと踏み込んだときは、そこにあるものと共に住んでみるよりしょうがないのだ。仕事中に色恋へ現を抜かせば仕事への侮辱となるし、色恋の最中に仕事を思い煩っていてはやはり恋あいへの侮辱となる。
目の前に誰かがいるのに、自分だけ自分の仕事の話、自分の色恋の話だけ、語り耽る人の何と多いことだろう? それは、そうして目の前の人とその時間住むということをしないのであれば、目の前の人に対する侮辱となる。自分だけ読み進めてきた小説の栞の箇所についてふんだんに語り続けるように、それは明白な独りよがりで醜態のひとつだ。
帰るつもりであってはならない。何より、それが全てにおいて必要なことで、帰るつもりが無い以上は、なんであれその目の前と足許にあるものに住む。それ以外には無いのである。そしていつまでもそこに住んでいるわけにはいかない以上、願わくば、一つの終わりをもって一区切りとしてそこを去りたい。そのような心があってこそ、初めて人はいくらかでも真摯になりうる。
共にそこにしばらく住んだとして、うまくゆかなくてもよいではないか。それはどちらかの器量不足か、互いのことか、わからぬけれども、決め付ける必要もない。ただそういうことがあったのだとして思い出に残る。生きたのは生きたわけだ、そうして。
この一連の言葉群・文字群も、まもなく終わりを迎える。さてこの内容が読み手の心に有意義であったにせよなかったにせよ、まもなく終わりを迎えるということの、この心地は悪くないはず。書き手は読み手の声を直接聞けるわけではないけれど、ここまで付き合ってくれてありがとうと、礼をもってまとめたいと、その気持ちは常に自然に起こるのだった。それでつい、恰好のよくないことを、当てもなく言って終わりたいと誘われるわけだ。つまり、じゃあまたね、と。
復路物理壁/[了]