No.247 愛されたいのさ
五日間ほど断食をした。思いつきでやったのだが、それなりに体調は変わった。
すきっ腹で、酒を呑むと、酔いの回るのが早い……というけれど、呑んで、このところ連日呑みつづけている。
もう若い頃のようには呑めないねえ、という感慨をこぼしたいところなのだが、呑めてしまうから困る。むしろ若い頃より翌朝の体調がいい。
断食とは何なのか、と、体験者はよく喧伝するし、そのための道場なんかもある。僕のは自前というか、ただの思いつきだ。
それで、それが何だったかというと、単なる内臓のヴァカンスである。何十年と、毎日、食餌を消化吸収するという仕事をさせられている。それに長期休暇を与えるのだから、そこは元気になるに決まっている。
アルコールを分解するのも、余裕のヘッチャラでこなす、という感じだ。
上物のスコッチばかり呑んでいたらお金が掛かってしょうがないので、カティ・サークを西友で買ってソーダ割りにしている。さんざん研究したのだが、ソーダ割りに関して言えばカティ・サークがどの上物より美味しいと思う。どんな蒸留所オフィシャルのアニバーサリーカスクでも、ソーダ割りにするといまいちだ。
あまり美味しすぎるものをソーダ割りにするものではないのだろう。安物を、と思って、ラガブリーンの五年・ボトラーズカスクを買ってきたが、ソーダ割りにすると不味く、けっきょく生までガブガブ呑んだ。
「これは明日が辛いぞ……」
と思いながら眠るのに、起きたらまったく元気だから、我ながら戸惑う。
持病の偏頭痛はどこへ行ってしまったのやら。
こんなことでもちろん、断食を勧めるつもりはない。メシを喰わないだけの、景気の悪いことを、僕は人に勧めたりしない。
それよりは、酒を呑め、ガブガブ呑め、というほうを勧める。勧めるというか、若いうちに強制されるべきだと思うけれど。
酒を呑んで、こりゃホントにいかん、というところまで行くと、人間の地が出る。僕はどれだけお酒を呑んだときも、暗くなったり愚痴っぽくなったりしたことがない。いつもアホみたいにご機嫌になる。それで後輩を殴ったりもしたが、それはゴキゲンパンチであるからしょうがないのだ。
どんな状況で、どれだけ呑んでも、河島英五みたいにはならない。「♪忘れて〜しまいたい〜ことや〜」と、アレにならない。これまでガマンしてきた心の内の声が、涙と共に零れて……というようなこともない。
元気いっぱいになるだけだ。辛い状況があるとすれば、この元気いっぱいの世界が周囲にはわかるまいとして、それを隠しているときがしんどいぐらいか。
何かしみったれた気分に入り込んでいる人に、この世界は何て美しいんだろうな、なんてマジの話をしても、わかりっこないし、なんだか可哀想だ。
なぜこんなに連日、酒を呑んでいるのだろう? ここまで呑むのはもう十年来のことだ。断食も思いつきだったし、酒もなぜか無性に誘われて呑みはじめてしまった。
何か自分の内でイベントが起こっているらしい、と感じていたが、ここ数日になって、少し自分のやっていることが分かってきた。
ここ、それこそ十年来か、色んなものを自分に蓄積してきたが、その不要分をついに焼き払っているらしい。アルコールの熱でごうごうと。
先日、友人宅の引越しがあり、それに伴う不用品処分ともどもを手伝った。不用品処分というのはえらくお金の掛かるものなのだが、業者と交渉して、値段をズバリと安くまとめさせてやった。
そうして、自分なりに、いい仕事をしてやったぜと気分良くしていたのだが、共時性といって、そういう生活表面上のことと自分の心の深層とで、奇妙な連携というか、偶然の同一性が起こることがある。
自分の内で不用品をごうごう燃やしている音が、今このときも聞こえている具合だ。
それも、もうまもなく終わる気配。
これまでの(現代までの)文学作法には重大な欠損があるように思う。といっても、大江健三郎のものばかり吸い取って、その他のものはほとんど眺めただけみたいなものだけども。
文学作法だけでなく、芸術全般の作法(さくほう)に同じ欠損があるように思う。
何が重大かというと、けっきょく、なぜ愛されるか、ということに触れていないからだ。
芸術家たちにとっては、愛されることなどどうでもよかった、ということなのかもしれない。
が、それが本当にどうでもいいとは言えないし、単なる見落としだろう、という気がする。
なぜよりにもよって、そんな重大なところを見落としたのか、逆に不思議だ。過去の偉大な芸術家たちは、愛されることになぜか触れたくなかったのだろうか?
芸術は、愛されなくてよいかというと、それは違う。なぜ違うとも言いにくいけれど、なんというか、愛されてしまえば、それだけでもう大きなことだからだ。逆に、愛されなかったら、いかに技巧を凝らして達者なものであっても、虚しいものである。
愛されてしまえば、それでもういいじゃないか、というのがある。愛されたら、それだけで救いになるし、愛する側もそうだ、何かを愛することができたというのは、大きくて決定的な救いになる。
愛されないまま、人気取りに汲々とするのは大変だ。恰好つけてみたり、思わせぶりにしてみたり、わたしは上位よ、ついてきたら良いことがあるわよ、と欲を刺激したり、あるいは光るスロットをぐるぐる回転させて明滅に興奮なり恍惚とさせたり、と、本当に色々しなくてはならない。その上でけっきょく愛されるかといえば愛されないのだからつまらないことだ。
愛されないまま、「必要とされる」ようになろうというのは、まったく大変だ。
僕は愛されるほうを選びたい。それなのに、これまでの芸術作法とは、芸術の機能を解き明かして、なぜそれが必要とされるか? ということに終始するのだ。それが重大な欠損、巨大な見落としでなくて何であろう。
人に愛されるのは難しい。愛してもらうのは難しい。お願いしたって叶うことではない。最近は、それを堂々お願いするのが流行っているところもあるけれど……
愛とは何であるか。愛するとは、愛されるとは、どのようなことであるか。
それは、説明するのは簡単なのだけれど、その説明が伝わるかというと、伝わらない。説明は簡単だけれど、伝わるか、というのはずいぶん難しいことだ。
それこそ、愛していなければ伝わらない。愛の説明が伝わるには愛が必要なのであって、愛がもうあるなら、説明は要らないじゃないか、という構造を成しているのだ。
愛の性質について言えば、まず、それは日常とまったく違う感覚の現象だ。説明が伝わりにくいというのは、説明という行為が日常性に属するものだからである。日常性の中にいる限り、愛というのは絶対にわからない。
愛の反対は下品だ、というのは、けっこう正しく言えていると思う。下品とは何かといえば、日常性の全てがそうだ。上品ぶる、という類も、日常性のものだから下品になる。そして下品だから愛に至らない。
先日深夜に、ボブ・ディランの若かりし頃、その仲間たちと作曲している風景が、白黒の動画で放映されていた。雑誌のインタビュアーを面前でぼろくそに嘲弄して、咥え煙草で、酒を飲みながら作曲していたけれど、下品ではなかった。本当に美しい顔をしていた。インタビュアーも素敵だった。そういうものは愛してしまう。
愛についてもっとも必要なものは何か。倦怠と無関心だ。
と、こんなことを言うと、僕がこれを誰に習ったかバレてしまう。どうせ知識のある人にはバレてしまうが、ドミニックに教わったんだ、とオシャレに言っておこう。これはウソではない。
倦怠の反対は、熱意とガッツと忙しさ、というあたりだろうけれど、これはほら、途端に日常性の臭いがプーンとしてくる。
それよりは、南の島で(行ったことないが)、夕暮れ、それはもう見事なグラデーションの夕暮れで、ああ何もすることがない、人生は要らない、ああそれにしても美しいな……というほうが、下品でなく愛に至りうる。アングルもきちんと決めずに安物のカメラで記念写真を撮るのがいい。記念写真、という言葉はよくよく見ると素敵だ。
これをブログにアップロードするから日常の下品になってしまう。
そういえば、南の島の夕暮れは見たことが無いが、タージ・マハルの夕暮れは、孤独の極みのような空気の中で、見たことがある。精神分裂病になりそうな光景だった。
あなたにお会いしたいわ、と呼び出されることがあって、行ってみるときれいなお姉さんが待ち構えてくれていて、
「あのように語り続ける熱意はどこから湧いてくるんですか?」
と真剣に聞かれることがある。これが、関心がある、という状態で、愛から遠い。日常性と下品の臭いがまたプーンとある。
強引にそのままキスぐらいはしたって、逃げられたりイヤがられたりはせず、がんばって応じてくれそうな気配ではあるが、そんなことで日常性は消えないし愛にも至らない。
僕は何度か、僕の話なんか聞き流してくれよ、とフランス男みたいに言ったことがあるはずだ。それは無関心で居てくれということだ。無関心は美しい。
ただ、無反応というのはだめだ。無反応というのは、なんというか、ただの論外だ。
すばらしいバイオリンの演奏があったら、ただ頬を赤くして、きれいな目で拍手をしたらそれでいい。
そこで、
「演奏ではどのようなことを心がけていらっしゃいますか?」
なんてことを、関心を持つからいけない。
この、本来の、愛と美しさの、まるで逆、無反応だけれど関心ありあり、というのが現代の流行だけれど、これはもうどうしようもない。ノー・コメントだ。そういうことはしてはいけませんよ、ぐらいしか、僕に言えることはない。
物事に関心のある人というのは、退屈に苦しんでいるのだろうか? いや、退屈に苦しんでいる、というなら、それなりの美しさが伴うはずだ。正確には退屈さえしていないだろう。むしろ熱狂しているのではなかろうか、退屈と戦う迷いに満ちた遊び、みたいなものに。
男が女を目の前にして、関心を持つのは下品で厭らしい。かといって無反応というのでは病気じみている。男は女に反応すればいいし、女は男に口説かれて、やはり無関心であればいいし、それらしい反応だけすればいい。どうしてわたしを抱きたいんですか? とか、下品な関心持ちが入り込むと、全ては日常性に埋没して愛から遠ざかってしまう。
反応だけがあればいいのでね。無関心……万事に無関心であれば必然そうなる倦怠。
アルコールで不用品を焼き尽くすとそういうものがいよいよ残ってきた。僕だってそりゃあ、愛されたいわけだよ、他の何を差し置いても。
[了]