No.249 虚業と実業と恋あい
人の世の営みには、虚業と実業があります。実業というのは、たとえば物流。今夜も高速道路をどすんどすん行くあのトラックです。あの運搬車を製造するのも実業ですし、運搬されている貨物も何かしら実業の商品です。黒く光る醤油も、高性能のBTOパソコンも、全てがそうですが、我々の実生活はこの実業によって支えられており、これ無しでは成り立ちません。
一方で、虚業というのもあります。それはたとえば、宗教や芸術などです。宗教にはこれといったサービス商品の実体がありませんし、たとえば公会堂に音楽を聴きに行っても、それが病院に行ったら病気を治してもらえるというようなサービス商品の実体を具えてはいません。
虚業と実業の境目は曖昧です。たとえばホステスさんはどうかというと、もう難しい。美しい女性がドレスを着て、「もてなし」をしてくれる、そこにはお酒を注いでくれるという実の行為もありますが、たおやかで毅然としていて気分がいい、というような、曖昧すぎるものが含まれています。このとき、勤務日に行けば彼女は必ずそこに勤めていて、一定のサービス行為を確かにする、というほうをみれば実業ですが、彼女がいるだけで独特の雰囲気になるとか、彼女の傍でお酒を呑むのがどうも不思議な気分を与えられるとかいう、そういうほうを見れば虚業となります。業に虚実はあるのですが、その境目はどうもはっきりしないのです。
このようなことは、「虚実皮膜」と云われ、大昔からすでによく知られています。「虚にして虚にあらず、実にして実にあらず」。歌舞伎の世界から、近松門左衛門という人が初めにその虚実皮膜論を言ったとされています。もちろん、そんな豆知識に何の意味があるのでもなくて……問題は、虚業と実業がある、それなのに、肝心なことはいつもその皮膜ぶりに依存するということなのです。
「実」とは何を指すか? それは第一に「実物」です。我々はこの「実物」を識るのに、その手触りや手応え、「もの」としての手応えを根拠にします。たとえばここに、一個のリンゴがあるというとき、それが写真でなく実物だということの証拠は、まずそれを手に握ってグッグッと押すことが証拠の確認になります。
それに比べれば、いわゆる絵空事など、そのグッグッとした手応えを具えていない……はずです。はずなのですが、例外的に、そうではない類のものがある。たとえばひとつの映画を観たときや、ひとつの歌曲を聴いたとき、何かに打ちのめされた、しばらくは足腰がまともに立たなくなった、ということがある。それがもし実物の手応えを具えていないのであれば、なぜそのような現象が起こりうるでしょうか? これは人間の持つ想像力という能力の現象なのですが、端的には、実物の手応えを具えているのは実物とは限らない、ということです。虚であり、虚業であるはずのもののほうが、確かな手応えを自分に与えてくれた、ということがある。それこそ、自分を打ちのめした映画や歌曲のひとつごとが、自分に影響を与え、なんであれば人生を半ば支配さえした、「自分の人生はこれだった」というようなことさえ出てくる。
そこまで到達してしまった虚業こそ、先の「虚実皮膜」なのです。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず。虚であるはずが何より実物の手応えを具えているし、その意味では実であるはずが、やはり単純な実でもないので、リンゴのように腐って終わりということにならない。何か永遠普遍の、不可侵のようなものになりおおせてしまいます。
このようなことは、実業の側からもあります。実業の側から、虚業のほうへ接近し、ついにはその皮膜に接続してしまうというようなことです。たとえば、ある青年が世界を旅して、貧しい国々を見てまわった。その中でふと、「人人の暮らしはもっと豊かでなくてはならない」と、強い思いを持ったとします。彼はそこから、実業家として突き進み、成功してなお歩みを止めず進んでゆきます。ふとしたとき彼に、「あなたは何をしていますか?」と問うたとしましょう。すると彼は思いがけず、自分の職業や業種のことは答えずに、「人人の暮らしを豊かにしているんだ」と答えることがある。そしてそれは、まったくそのとおりだ、という感銘を、彼自身にも、周囲にも納得させるものがあるのです。実業の果てが虚に接近し、その皮膜にまで接続したということですが、これはいわば一つの「物語」を為したと言っていいでしょう。物語というのは言わずもがな虚のものです。ですが彼の物語のどこを指しても、手応えの無い虚だと言い張ることはできない。彼は虚実皮膜に到達して、ひとつの完成を成し遂げていることになります。
さて、こうして虚実両業と、その皮膜という幽玄の現れを示したところで、恋あいの話題へ移りましょう。恋あいというのが、ときには極限までシンプルなのに、ときにはやたらにややこしくなるのは、恋あいというのがそもそもは虚業に属しているからに他なりません。恋あいをする、という言い方はいつまでも奇妙なものですが、もしそれを許すなら、恋あいをするというのは、ひとつの虚業をするということになります。そしてそれが虚業であるなら、それが虚実皮膜に到達して、実物としての――「もの」としての――手応えを返してくれるところまで、ゆかねばなりません。
青春のころというか、思春期のころというのは、多くの人がこれをできるのです。それは、若くてまだ想像力がくたびれていない、あるいは埋没させられていないからです。虚を捉える人間の想像力は、いちばんはじめ、もっとも親しい存在に「おかあさん」という名前をつけるところから始まります。人間の物語がそこから始まると言ってよい。それを受けては「おかあさん」の側も、自分を母という存在にして子との物語を紡いでゆくことになるでしょう。もしこの物語の受け取りをしくじってしまったなら、赤子など終始泣き喚いてうるさい、人生の負担でしかありません。現代は、恋あいが「めんどうくさい」と捉えられる向きがありますが、もし同様のことが起これば、赤子もやはり「めんどうくさい」と捉えられることになるでしょう。ひょっとしたら、そういうことはもう始まっているのかもしれません。
まだ慎重に見てゆきましょう。母と赤子という像はあくまで虚のものであって、実のものではない。なにしろDNA鑑定をしなくては本当にその二者が親子であるかどうかはわからないのですから。そして赤子の成育に必要なものは第一に母乳であり、つまり食餌です。もし、母乳より栄養価も免疫も高い液体食餌が開発され、母体よりやわらかくあたたかいボディを持つロボットが開発され、情操教育を担当するコンピューター・プログラムが出来たとしたら、母親というのは存在する必要がなくなります。子宮より卵子の生育に優れた試験管が開発されれば、わざわざリスクを冒して人間が懐胎する必要もなくなるでしょう。あくまで実業のほうから見れば、そういうことなのです。厳密な実業の立場からは、母と子などという像は偶像でしかなく、実在はしていません。
このようなことは、いかにも行過ぎて、馬鹿馬鹿しい、話はわかるけれども……という類に受け取られるかもしれない。けれども、じゃあこの先の未来で、ロボットを恋人とする人たちは出現しないだろうか? というと、これはもう怪しい、現実に有為にありうるように感じられてきます。恋人というのも、母子と同じで、厳密にはそれじたいが実在してあるわけではないですから。じっさい今すでに、ロボットのペットというのは、一部の狭い遊びでしかないですが、存在しています。そしてもちろん、それらのロボットを開発し、製造・販売するのが実業です。
慎重な見方を続けるとして……たとえば、幼児が自分のベッドにぬいぐるみを置き、それに名前をつけて友人とするとしましょう。このことに不健全な何かの現われを人は感じはしないはずです。というのは、それは純然たる虚業をしているからです。よくよく見てください、ゴリラのぬいぐるみがあったとして、ゴリラはそもそもそんなに小さくありません。本物のゴリラはもっと大きく、獣くさくて、動きますし、危なっかしく、また食餌もたくさん採ります。機嫌が悪くなって暴れるときもあるかもしれませんし、また人間の言葉を都合よくは理解してくれませんし、言葉を発したりしません。
ですから、ゴリラのぬいぐるみを友人とするのは、本当にその実物、物体としてのぬいぐるみをそのまま友人としているのではありません。ロボットのペットとは使い方が違っているのです。幼児は想像力で友人を作り出しているのです。ではそのときゴリラのぬいぐるみの存在は、何の役割を果たしていて、何と呼ぶべきかというと、これを「モチーフ(動機)」と言います。あくまでゴリラのぬいぐるみをモチーフとして、幼児は友人を作り出すという虚業を起こすのです。
幼児がその豊かな想像力において、虚業を虚実皮膜に至らせていないとは誰も言えないでしょう。取り上げて、捨てるなどと言い出したら、心を痛めて泣き喚きさえする、その幼児の様を見て、彼がそのゴリラの○○君を愛していないとは言えるはずがない。ゴリラはモチーフに過ぎないはずですが、そのような言い方は虚と実を冷淡に見放しているから言いうるものであって、虚実皮膜においては、そんな理屈はすべて粉砕されてしまいます。モチーフはすでに実に接続してしまい、切り離せるものではない、すでにその幼児と○○君の間には何かしらの物語がある。それを見ると大人は、もう「そっとしておく」しかない。
話を戻します。恋あいというのは、虚実のどちらかといえば、虚業のほうなのです。たいした違いはありません、何しろ○○君が好きで、愛していて、○○君との間にはすでに何かしらの物語がある、のですから。
よく、恋あいと結婚は何が違うか、というようなことが話題にされます。そのような話題は、あっさり結論を出さないほうが楽しいとは思いますが、あきらかな結論として言ってしまえばこれです。恋あいというのは虚業で、結婚というのは実業なのです。そのことを誰でも薄々知っているから、結婚、という語には、実業としての逞しさを見る一方で、どこか殺伐としたやるせなさを隠し持つように覚えるわけです。
もちろん、結婚は実業なりと言っても、冷淡な実業のみに留まってほしくはないのです。何度も言うように、虚実皮膜に至らなければ何らの完成でもないのですから。それで結婚というのは結婚式という儀式を伴います。先ほど宗教は虚業の代表だと述べましたが、その宗教の場所で宗教的な誓いの儀式をするものです。つまり虚に接続させて、虚実皮膜へ至らせようとする。披露宴では二人の馴れ初めがもっとも大切なものとして語られるでしょう。これは、二人の間にあった「物語」と、これからもその「物語」があるのだ、ということで、やはり虚に接続させるべきだという、誰もが無意識に採る方法なのです。
とはいえ、結婚式の儀式というのは多くは既製品であって、厳しく見れば、二人が虚実皮膜へ至りましたという、体裁を整えるための「手当て」に過ぎない、とも言えます。それでいつまでも、ウェディングドレス姿の花嫁が、式の当日に逃げ出して、本当の恋人のところへ走っていく、という像がどこか人心を捉え続けるのです。本当の虚実皮膜を――恋あいの物語を――人心が求めていることの表れです。
さてでは、我々はどうすればよいでしょうか? まずひとつ、まだ若い少女たる方々に、遠い日の未来に向けて警告しておきますと、あることが、ある日突然にやってくることがあります。それは、恋あいという虚業、虚実皮膜に至れていたそれが、あるとき突然、自分から失われることがある、ということです。恐ろしいことに、それはそうして失われた瞬間から、もう生涯戻ってくることはないかもしれません。ひょっとしたら、死ぬ間際の直前に、それを取り戻すことはあるのかもしれませんが、それは誰にもわからないこと。○○君のことが大好きで、愛している、二人の間に物語があったし、これからもあるのだという、確かなものとしての「手応え」。これが、去年はあり、先月はあり、昨日もあったのに、今日いきなり無くなった、ということが、じっさいにあるものなのです。それは、多くは環境の変化や、ある種の「焦り」によって、想像力の火がフッと消えてしまったことによるのですが、そのことを知っていたからといってどうなるものではない。
僕がこうして話していること自体、虚実でいえば虚です。何しろここには言葉しかない。あなたに恋あいを起こさせる精神の薬物を実として投与できるわけではありません。いま僕の言葉が何かしら、手応えをもってあなたに届いているところがあるならば幸いです。それは何より、あなたの想像力の火が消えておらず、虚を捉え、それの手応えを得るために、言葉を虚実皮膜へ引き込んで読み込む、ということが出来ているからです。僕はそうして言葉が届いているあなたに向けては、どうか抵抗してください、そのときは……と言いたく思います。あなたもやがては就労し、家族や世間から結婚をせっつかれることになる。彼らはすでに想像力の火を失い、世の中の全ては淡々とした実ばかりしかないと思い込んでしまっています。彼らの風を無防備に受けていると、あるときあなたの火までフッと消えてしまいます。気をつけてください。よくよく見ると、この人の話はいつもわたしを実業について「焦らせる」な、ということに気づけると思います。いつまでも若くは無いんだよ、というようなことをもって、妙に嬉しそうに……
我々はどうすればよいか。恋あいは虚業ですから――つまり宗教や芸術に近いものですから――、これを実業のようにアドバイスまみれにすることは無意味なことです。ただ、恋あいが上手くいかない場合、もしくは、こちらの場合のほうがより重要ですが、恋あいというものがよくわからなくなったとき、第一に、<<自分の無能を罵ってください>>。恋あいをするということは、あなたは虚業家であるということです。実業家が常にその力量を問われるように、虚業家も常にその力量を問われます。実業家は豊かな実を生み出しますが、虚業家は豊かな虚を生み出すのです、その豊かさを作り出すアイディアがない自分が、単に無能なだけだと罵ることが、第一にあってよいのです。健全な実業家がそうであるべきように。また、自分の無能を罵るということは、反面、自分の底の能力を信じているからこそであり、そのぶん落ち着くところがあるものです。
自分は虚業家として生きるつもりがあるのに、このテイタラク、この無能ぶりは何であるのかと、勇敢に自己を罵る。そうすることで、本当に自分にはこれ以上できないのか? という、反発の気概がきっと湧いてきます。その気概はやがて、必ずと言っていいでしょう、「ああ、なんだってやってみせるからね」という声につながります。虚業家として、天才のあなたの復活です。
もうひとつ、僕としてとても気に入っている、また大変有効だと信じてもいる、或る方法についてお話しましょう。我々が希求するのはけっきょく、虚実皮膜への到達なのです。虚業からと実業からと、どちらからそこへ至ろうとするのであっても。
ところが、想像力の火が消えた輩は、一方は冷淡な実業ばかりを主張し、一方は手応えのない空想ばかりに耽ります。これについて、おそらくあなたを迫害する者の多くは、実業のみしか見えなくなった徒だと思いますが、どちらにせよ彼らの双方を、「オバケ」と内心呼んでください。
この言い方が、まさか身障者の方々の気分を害するものではないと信じて、表現上のことだと容赦してもらうとして、人間は虚業と実業の両脚を逞しくして進み生きてゆくものです。それが一本しかないと信じている輩は、一本足のオバケです。
オバケはまったくあなたに憑りつきます、ごく自然に……気をつけてください、彼らは自分をオバケだとは露思っていないのです。あなたの両脚が逞しくあると、彼らは無意識にそのうちの一本を余計なものだと見てしまいます。そしてこっそりそぎ落としに掛かる。
虚実皮膜が完成であって、どうやらそれ以外にはなさそうだというのは、ここまでの話でわかってもらえたと思います。それで、その皮膜へ至ろうとするのが我々であるのですから、虚にデーンと構えるのみではおかしいし、実にデーンと構えるだけでもおかしい。虚も実も、たしかに豊かに無くてはならないのが当たり前です。虚実ともに、そこにのみデーンと構えているのはオバケです。しかもたいてい、いうほど豊かなものも持っていない……
勇気をもって、これら「オバケ」たちは、どんどん屠(ほふ)っていきましょう。屠るのは簡単です。何と言われても、自分はオバケではないし、あなたの仲間ではないの、虚のオバケも実のオバケも、オバケはオバケよ? ……という立場を、静かに保っていればよいのです。オバケというのはそういう態度で退散させられます。
「虚にして虚にあらず、実にして実にあらず」。虚実皮膜のその只中に立てば、唯一の現象が起こります。というのは、虚も実も無くなってしまう、ということです。虚に住んでしまうと実がむなしいウソに見えますし、実に住めば虚がむなしいウソに見えてしまう。唯一、虚実の皮膜の中にある者だけが、その諍(いさか)いに無縁であれるわけです。まさに、虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、と。
失敗することや、傷つくということが、一体何であるでしょう。それらは全て「本当のこと」ですが、その本当のことに虚とか実とかがあるわけではない。ただの本当のことです、失敗は失敗で、傷ついたら傷つく。
では成功することや楽しいと思うことはどうかというと、これらもやはり「本当のこと」です。成功は成功ですし、楽しいのは本当に楽しいのです。でもその、ただの本当のことを――それだけで十分すばらしいのに――虚だ実だと分類するからよくない。
成功しようが失敗しようが、傷つこうが楽しくなろうが、全て本当のことってだけだ! 虚実を行ったりきたりする不毛な遊びでもしないかぎりは、そこへのコダワリはまったくよくわからないものです。ですから、「ああ、なんだってやってみせるからね」の声に至ります。全てがただ本当のことであって、<<むなしいというものはこの世に無い>>。
さてでは、オバケどもをどんどん屠って、お互い、なんだってやってやろうではありませんか!
虚業と実業と恋あい/[了]