No.255 オー・フーン
お説教とか、人に口出しするとかは、本当によくない。
何が不幸かといえば、口出しという行為そのものを、されるということが不幸だ。
だから、人それぞれ、好きに自由にいこうぜ……と言いたいし、言うべきなのだが、それだけでは最近、青褪めることがよくある。
誰もが、今この時代を生きているのだから、そのライブの最中(さなか)として、語るべきことがあるように思う。
それで、普段とは逆の心地でこのことを話そうと思う。
なんというか、このことを知らないと、あるいは早く気づかないと、人生がメチャクチャになってしまう。
大きなお世話だ、と我ながら思うが、マジだから困る。
たまにはこういう口調も男らしくていいかもしれない。
いいか、耳の穴をかっぽじってよく聞けよ。
現代の、情緒反応の習慣は、ブッ壊れているのだ。
そのせいで、何もかもがメチャクチャになる。それも、そーっと壊れていく。
マジだ、マジで僕は言っているし、確信がある。
本当に、自分の生きる手応えとか、恋あいとか、触れ合った友人とか、そういうものが一切得られないまま人生が終わってしまうぞ。楽しいふりをして……
なぜ、情緒反応がブッ壊れてしまったか。
それは、ウソの情報を流し込まれすぎたからだ。
入ってくる情報が、あまりにウソばかりだったので、もう初めから情緒反応を起こさないようにする、という仕組みが体内に出来上がってしまったのだ。
そこは、明らかに昔と違うし、いまの思春期ぐらいの少女でも、内心、すごい違和感を覚えている人はいるはずだ。
実際、そういう告白を受けることがある。気の毒に、と思うが、これは気分を前向きにするだけで解決するような話ではない。
この話は、きわめて重要で、かつシンプルに、わかりやすくできる自信がある。
だから耳の穴をかっぽじって聞けよ。
この話を聞かないと、本当にあなたの人生は絶望的に貧しくつまらないものになるぞ。
(うーん柄じゃないが頑張ろう)
「オー」と「フーン」
まず簡単に言うと、情緒反応が「フーン」になってしまっているのだ。何を言われても、聞かされても、全て「フーン」と。それ以外の情緒反応ができなくなってしまった。そこに目新しさがあったら、「へー」ぐらいにはなるかもしれないが、同じだ。情緒は「フーン」だ。
こんなので生きていて、何か滋養が得られるわけがあるか。簡単に言ってこれは不感症だ。それも重篤なレベルの。
たとえば、キング牧師の有名な演説がある。それを引用してみるとこうなる。
「私には夢がある、つまりいつの日か、この国が立ち上がり、『我々はすべての人々は平等に作られている事を、自明の真理と信じる』というこの国の信条を真の意味で実現させることだ」
「ふーん」
「私には夢がある。いつの日かジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子孫が同胞として同じテーブルにつくことができるという夢です」
「へー」
「私には夢がある。今、差別と抑圧の炎熱に焼かれるミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変われる日が来るという夢です」
「フーン」
「私には夢がある。私の四人の幼い子ども達が、いつの日か肌の色ではなく人格そのものによって評価される国に住めるようになるという夢です」
「はあ」
「今日、私には夢がある!」
「ふーん」
こんなもの、もうメチャクチャだ。メチャクチャなのだが、これが現在の習慣的な情緒反応なのだ。
本来は、そこに「オー」が入らなくてはいけない。
「私には夢がある、つまりいつの日か、この国が立ち上がり、『我々はすべての人々は平等に作られている事を、自明の真理と信じる』というこの国の信条を真の意味で実現させることだ」
(オー)
「私には夢がある。いつの日かジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子孫が同胞として同じテーブルにつくことができるという夢です」
(オー)
「私には夢がある。今、差別と抑圧の炎熱に焼かれるミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変われる日が来るという夢です」
(オー)
「私には夢がある。私の四人の幼い子ども達が、いつの日か肌の色ではなく人格そのものによって評価される国に住めるようになるという夢です」
(オー)
「今日、私には夢がある!」
(オー!)
これで成立する。成立するというか、これが当たり前の情緒反応だ。「オー」、つまり「感嘆」だが、ふつう人の話というのは大前提として感嘆の「オー」で受け止められるものなのだ。
話を身近に縮小してみよう。
「わたし、ダイエットするわ」
「ふーん」
これなら身近でわかりやすい。
もうひとつありがちな習慣はこう。
「わたし、ダイエットするわ」
「まじでー」
ここに実は救いがたいモヤモヤがあることは、次の正常例と突きあわせればわかる。
「わたし、ダイエットするわ」
「おー」
こっちのほうが正常だというのは、イメージしてみたらわかるだろう。正常例と比べたら、前者の二つはもう会話として成立していない。
さらにこう連ねてみたらわかる。
「わたし、看護士になる」
「おー」
「それでね、今の人とは別れる」
「おー」
「もっと真剣に生きてみようって思ったの」
「おー」
「本当に好きな人見つけてさ、本当に身を入れて仕事するの」
「おおー」
「ダサくて恥ずかしいけど、やっぱり後悔したくないんだ。わたしの人生だもんね」
「おー」
比較して、正常でない例。
「わたし、看護士になる」
「ふーん」
「それでね、今の人とは別れる」
「まじでー」
「もっと真剣に生きてみようって思ったの」
「へー」
「本当に好きな人見つけてさ、本当に身を入れて仕事するの」
「はあー」
「ダサくて恥ずかしいけど、やっぱり後悔したくないんだ。わたしの人生だもんね」
「ふーん」
こんなもの、議論を俟たず、腐ってるじゃないか。
ところが、この腐っているやりかたが、現在の情緒反応の習慣であり、標準になっているのだ。
冗談でこんなうっとうしいことは言わないぞ。
なぜこんなことになったか? それは、次のような例を挙げればわかる。
「地球温暖化により、五年後にはこの島は水没すると言われています」
「ふーん」
「この副流煙が、あなたをガンにするのです」
「まじでー」
「いま若者に人気沸騰中、○○のカリスマ!」
「ふーん」
「基本使用料0円!」
「まじでー」
「コラーゲンたっぷりでお肌ツヤツヤ!」
「ふーん」
こういう、ウソの情報、役に立たない情報、眉唾ものの情報は、「ふーん」とだけ聞くのが正しい。いちいち「おー」と情緒反応していたら騙されっぱなしになるし、振り回されてかなわないからだ。
それで、防御のために「ふーん」と受け取る習慣になった。
これは冗談でも誇張でもない。こんなうっとうしいことをわざわざ冗談で言うものか。
初めから、ずっと意識しているのだが、この話自体、「ふーん」と受け取られるだけであっておかしくない、というふうに僕は前提している。それが現代の標準作法だからだ。それどころか、前もって、「こういうのは『ふーん』と聞くために読むものじゃないの?」と読み手の側が前提していておかしくないとも思っている。
それに文句を言うつもりは僕には無い。僕の高慢な自意識も、さすがにそこまでデシャバリではないが、そうではないのだ。
「ふーん」じゃなくて「おー」で受け取る態度もあるということなのだ。そして、本来はそっちが「ふつう」なのだ。
このことに、各自がどこかで気づかないと、その人の人生は本当に貧しさを極めてしまう……と、僕は本気でおそろしく思っている。大きなお世話というのはわかっているが、そういう一般論を優先していい事態ではすでにないというのが僕の感触だ。
「ふーん」というのは、リアリティを消す。情緒反応というか、そもそも受け取っていないという反応であって、受け取っていなければリアリティはない。それが防御のために具わった習慣だとはすでに指摘した。「地球温暖化が……」とインチキの情報を聞かされても、そこにリアリティを覚えなければ振り回されずに済む。「ふーん」は、防御としては優れている。
ただ、その防御によって、ありとあらゆるリアリティが消えるのだ。自己の生についてのリアリティが。あなたが好きだ、あなたと話したい、一緒にがんばろうねと言われても、全てにリアリティがなくなってくる。互いに受け止めない、何を言ってもリアリティにならないということになると、もう人同士なにを話していいのかさえわからなくなってくる。
そうなると、ついに、人を無視するしかなくなってくる。<<前向きに、人が好きで、人にやさしくしようとしたまま、人を無視するようになる>>。
そんなことで、何かを楽しいとか面白いとか言ってもウソだ。
何が面白いかといえば、何だって面白いのだ。リアリティさえあれば。
たとえば、僕は小説を書くと言う。それだけで、本来は面白いはずだ。面白味がよくわからないというのは、リアリティが消えているのだ。
「おれは小説を書くぜ」
「おー」
これだけでひとつの面白さが授受されている。
「おれは小説を書くぜ」
「ふーん」
これはリアリティが出現していない。だから何も面白くない。
本当に何だっていいのだ。
「わたし海外旅行にいく」
「おー」
これでもいいし、
「今夜はお酒を飲みたい」
「おー」
これでもいい。
リアリティがあれば何だって面白いのだ、ひとまず。
それを「ふーん」という情緒の習慣で流してしまったら、保証していい、面白いことというのは一ミリグラムも発生しない。面白くないどころか、リアリティそのものがないので、ありとあらゆる「体験」そのものが得られない。
どんな世界に行き、どんな街に行き、どんな人人に触れ合い、どんな音楽を聴いたって、無意味だ。どうしたってリアリティは得られない。いくらウェブツールに体験の写真をアップロードしたってだめだ。その写真だってどうせ「ふーん」としか反応されない。
平たく言って、あなたの声、あなたの言葉、あなたの振る舞いが、どうやったって「ふーん」としか反応されない、そんな世界はいやだろう。そんな中で何をどう頑張れと言われたって無理だ。
嘘でもいいからまず「おー」と言え。
まず習慣を、ゴリ押しでも変えてしまうしかない。
意外に珍しくないこととして、親御さんが、わりとウソツキだったという人はいないだろうか。親御さんが酒に酔い、昔話を膨らまして、自慢話をし、それは説教じみた訓話にすりかわってくる。正直うっとうしいものだ。で、子供心に、こいつのこの話はウソで、こいつは実はウソの話ばっかりして、自分に酔って気持ちよくなる悪癖があるなと、見切っていて、それでもそう指摘すると可哀想だし余計な揉め事になるからと思い、黙って聴いている、というか「耐えている」ということは、わりと誰でも経験する。親御さんだけでなく教師がという場合もある。上司が、ということも勿論ある。彼氏が、という場合もあるかもしれない。
そういうことの中でも「ふーん」の習慣は育つ。ウソの情報、役立たない情報、眉唾ものの情報を大量に流し込まれたら、「ふーん」と反応するしか防御の仕方が無いからだ。環境的にそういう外力が強かったケースは気の毒だが、かといってその「ふーん」の習慣はけっきょく自分の生を失わせてしまう。
説明してどうこうなるものではないので、どこかでもう、鵜呑みにしてもらうしかない。「ふーん」はダメなのだ。「ふーん」なんてのは頭がおかしいのだ。ブッ壊れている。なんでもいいから、その「ふーん」を「おー」に変更してしまえ。
若い人たちが恋あい離れを起こし、セックスからも離れている、というが、それは要するにそれらが面白いと感じられないということだ。面白く感じられないというのは、リアリティが無いということである。恋あいにリアリティが感じられず、「ふーん」と他人事にしか聞こえない。
あくまでも、「おー」と「ふーん」の対比において。予告どおり、シンプルで分かりやすくしたつもりだ。恋あいの場合の例を示して、ひとまずこの段を終わりにする。
ああ、とにかくだ、なんでもかんでも「ふーん」って言うな。あなたを殺す習慣だ。
【フーン例】
「初めて君を見た時から、何か特別なものを感じていて」
(ふーん、わたしに?)
「どうしても話したいと思って呼び出したんだ」
(はあ、そんな、頑張ってもらわなくても)
「ぼくと付き合ってほしいって真剣に思う」
(へー、こういう人もやっぱりいるんだ。すてきかも)
「どうだろう、あなたに近づくチャンスを与えてもらえないだろうか」
「うん……はい、あの、別にいいですよ」
【オー例】
「初めて君を見た時から、何か特別なものを感じていて」
(おー)
「どうしても話したいと思って呼び出したんだ」
(おおー)
「ぼくと付き合ってほしいって真剣に思う」
(おおおー)
「どうだろう、あなたに近づくチャンスを与えてもらえないだろうか」
「……うん、うれしいです、とても。ありがとう。でもね、ごめんなさい、わたし……」
コメント病、インタビュー病
追及の手を緩めるつもりはない。ということで、せっかくなので、引き続きうっとうしさは我慢していただきたい。
ふつう、こういう話をしたときに、自分がその「ふーん」の習慣に染まっているとは思わないものだ。だいいち、そんな人はそもそもこの話を興味深く読んだりしないだろう、というのもある。
それで、おそらくは、と、予測するというか、便宜上キメツケて進めるしかないのだが、多くの場合、その「ふーん」の習慣によって起こる、会話の破綻、リアリティの消失、そのまずさ、というのは了解されると思われる。こういうのって、本当にあるし、本当にだめよね、という感触で。賛同的にというか、同意的にというか。
そして多くの場合(と便宜上のキメツケ)、その話はわかるが、自分はその「ふーん」に毒されきってはいない、<<自分はもっと積極的に人と関わる習慣を持っているからな>>、という感触が伴っていると予想される。
が、僕はその「積極的」という部分にまで、追及を進めたいわけだ。我ながらうっとうしい話だがしょうがない。
耳の穴をかっぽじって聞け。
コメント病とかインタビュー病とか、安直なネーミングを使うことによるゲンナリ感を、僕自身もたっぷり感じながら進めている。
こういう話の構成法は、まったく好きじゃない。
さっき、僕は小説を書くと言った。そして、
「おれは小説を書くぜ」
「おー」
こういうやりとりが成立しえて、それだけでひとつの面白味があると示した。
さてそれで、ここに、「積極的」なる態度を組み込むとどうなるか。
それはいかにもありがちで、想像しやすい、また自分もそうしたとして違和感の無いものが出現してくる。
「おれは小説を書くぜ」
「どういった小説を書かれるのですか?」
こういう流れはいかにもありがちだ。何がまずいとも見えない。
むしろ、「会話」というのはこういうものであると、正しくさえ見える。
あるいは、ありがちなもう一つの例。
「おれは小説を書くぜ」
「そういうのって、いいですよね。人生にはそういうことがないと」
明るく楽しく、健全に聞こえるか。けれども、これはいけない。これも実は、積極的に見えながら、すでに「ふーん」の習慣に陥っているのだ。
こう書けばわかる。
「おれは小説を書くぜ」
「ふーん……どういった小説を書かれるのですか?」
「おれは小説を書くぜ」
「へえー、そういうのって、いいですよね。人生にはそういうことがないと」
明るく楽しく健全に聞こえても、正体は同じなのだ。
こんなのは会話じゃない。何万時間費やしても関係なんか生まれない。
最後まで突っぱねて言い切るしかないが、「おー」なのだ。<<感嘆>>なのだ。大げさなものでなくていい、感嘆は感嘆だ。
感嘆、「おー」だけで留めているのが正常例なのに、どうしてもそれができない。
それができないのは、そもそも感嘆が起こっていないからだし、受け止めとリアリティが発生していないからだ。
かといって、「ふーん」だけで済ませるのは申し訳ないから、盛り上げるために話を継ぎ足している。
その申し訳なさと、盛り上げるためにという継ぎ足しの気配が、積極的に見え、前向きで健全に見えるというだけなのだ。
つまり努力的だが、会話じゃないし、情緒反応は壊れているのだ。
つくづく、うっとうしい話でいやになってくるが、しょうがない。我慢してくれとしか言いようが無い。
だって、このことをどこかで気づかないと、本当に人生がおそろしく貧しくなり、人と話すとか、人の話を聞くというような、きわめて原初的なことさえ消失してしまうのだから。
「どういった小説を書かれるのですか?」
これは、インタビュアーになってしまっている。
「そういうのって、いいですよね。人生にはそういうことがないと」
これは、コメンテーターになってしまっている。
インタビューは純正の会話ではないし、コメントがバンバン返ってくる会話なんてものはない。
たまには僕も、戦わねばならないと思うが、いわゆる聞き上手のテクニックとか、紹介されているのは全部ウソだぞ。ウソに決まっている。そんな重要なメソッドが簡易に伝授されるわけがないし、だいいち、あなたはその紹介をしている人とぜひ話したいなんて思わないじゃないか。そりゃ見たままウソなんだよ。
聞き上手のテクニックなんてのも眉唾情報の一つなのである。そういうものを大量に流し込まれるから、なんでもかんでも「ふーん」で済ます防御が習慣になってしまう。
「わたし、看護士になる」
「すごーい、決心したんだ。看護士って大変なんだってね」
「それでね、今の人とは別れる」
「やっぱりそうなんだ。うん、わたしも賛成」
「もっと真剣に生きてみようって思ったの」
「あーわかる。そういうのって、やっぱり思うよね」
「本当に好きな人見つけてさ、本当に身を入れて仕事するの」
「うん、うん、そうだよ。わたしもそうしたいもの」
「ダサくて恥ずかしいけど、やっぱり後悔したくないんだ。わたしの人生だもんね」
「ダサくなんかないよー。そういうのが本当にかっこいいってことだって、わたし思うけどな」
こういうのを、「コメント病」と呼んだとして、何か間違っているか。これはコメント病だ。
コメント病というのは、本当にいま、一種の病状みたいにある。はびこっている。
これだけは本当に、シャレになってなくて、笑えない。
くどくどしくなるが、あらためて比較のため、感嘆の「おー」だとこうだ、というのを繰り返し示す。
見慣れないかもしれないが、よくよくイメージしろ。この「オー例」のほうが正常な会話だ。
「わたし、看護士になる」
「おー」
「それでね、今の人とは別れる」
「おー」
「もっと真剣に生きてみようって思ったの」
「おー」
「本当に好きな人見つけてさ、本当に身を入れて仕事するの」
「おおー」
「ダサくて恥ずかしいけど、やっぱり後悔したくないんだ。わたしの人生だもんね」
「おー、なんだろ、うん、今日はオゴるよ、呑もう」
今回の話は実にシンプルで、同じ病気になるなら感嘆病になってくれという話なのだ。
もう、とにかく、何についてもまず「おー」と反応しろ。ウソでもいいからまず「おー」だ。「おー」が出ないのは、情緒をもって反応する機能がブッ壊されているからである。とにかく形式だけでも「おー」と反応せよ。
リハビリってそういうものだろう。
コメントしなくていいし、インタビューもしなくていい。つまり、ラクチンだ。で、「ふーん」を「おー」に変えるだけで、人生が丸ごと変わるというのだから、いい話じゃないか。これ以上おいしい話は、僕には用意できない。
「おー」を習慣にするだけで、あなたの手に入れる彼氏も旦那も、二ランク上のイケメンになり、生涯年収も一億円ほど上がります。その上、本当の絆まで出来てしまうのだった。
(「おー」と反応したか? しろよ)
***
おせっかいというか、干渉的というか、何の美もない、押し付けがましい、キメツケに満ちた口調を続けたことを、お詫びする。なかなかいやなものだ。が、無益ではないと信じたので頑張ってみた。心ある人は僕を絶賛するように。溺愛するように。
なぜこんなことを必死こいて話したかというと、根本的には、記憶があるからだ。誰にだって、過去のことは思い出としてあると思うが、僕はどうも性質の一つとして、過去のことを、そのときの体験ごと、丸ごとを覚えているところがある。どこかで話したようにも思うが、僕のもっとも古いその体験の記憶は、母親にまだ口移しで離乳食を食わされていたときの記憶だ。たぶん鶏の水炊きだったと思うのだが、そのときから僕はすでに、ニンジンを食べては「うわつまんね」と感じ、鶏肉が来たら「よっしゃ」と感じていた。ニンジンはつまらなかったが、吐き出したら悪いとすでに感じていたようである。
そういう記憶の保持の仕方で、僕は古い友人や、やさしくしてくれた女性、構ってくれた先輩や、教えてくれた先生のことを、覚えている。そのうちのどの記憶を再生しても、「おー」なのだ。彼らは僕が何を話しても、まず「おー」という感嘆で受け止めてくれた。たとえそれが無言であっても、受け取りの音を当てはめたら「おー」だ。「おう」や「ほう」のときもあるが、まあ細かいことは要らないだろう。とにかく、「感嘆」という情緒反応があった。眼に情緒の光があった。
たとえば先輩に向けて、「正直、あの人のことは好きになれんのですよ」みたいなことを思い切って言う。おー、と、声に出しては言わないが、先輩はくりくりした眼をこちらに向けて、無言で話を聞いてくれた。そこにはやはり、僕の話を受けてのまず「おー」という感嘆がある。
また別の先輩や友人が、とんでもないバカなことを言ったとき。たとえば、「おれって薔薇が似合わない?」なんてことを、不意に、何を思いついたのか、冗談でもなく言い出した人がいた。もちろんみんなで大笑いしたが、まずその彼の語りに全員が「おー」と反応している。もちろん薔薇が似合うとは誰も思っていない。ただ、何か知らん、こいつが突然、自分には薔薇が似合うと言い出した、という奇妙なことについて、「おー」という情緒反応が起こる。別に誰がそんなことを意識していたわけでもない。それがふつうで、それ以外にはありえなかった。それ以外にはありえないと、僕はいまでも思っているわけだ。過去の体験が消えないというのは、過去がぜんぜん過去じみていないということだ。いわゆる、昨日のことのように、というやつ。
ひょっとすると、これまで僕が体験してきたものが、極端に幸福なものばかりだったのかもしれない、とも思う。別に現代の習慣がどうこうというのではなく、ただそのときまでの僕が幸福に閉じ込められていたのかもしれない。まあ、百パーセントがそうだとは思わないが、僕の体験は、過去も現在も、幸福が過剰だろうという自覚はある。それは僕の自慢でもあり、なにやら引け目でもある。
それにしても、「おー」が正しい、ということには何の紛れもない。「ふーん」なんてあってたまるかと思う。「ふーん」なんて反応をしたら、僕は先輩に襟首を掴まれてぶん殴られていたんじゃないか。それも怒りや憎しみというのでなく、「お前どうしたんだ、バカか」と、眼を覚まさせようとした打撃で。「お前らしくない、ふーんじゃねえだろ、な」とか言われそうだ。打撃が済んだら「よし、メシいくぞ」と。それに「おー」と僕は反応していた。
今日も明日も、そういうところは、そういうままでいいと思う。お前も思えよ。おしまい。
[オー・フーン/了]