No.256 結婚への秘密のテクニック
本当に話したいことはもちろん別にあるのだが、キャッチのためのタイトルをつけた。
その責任を取って、まずテクニック部分を抜粋して話そう。
結婚は恋あいではない。結婚・婚姻とは、何かというと、「制度」だ。
制度とは、文化制度であり、法制度でもある。もともと文化的にあった制度を、破綻させないように、法文化して、法律とも馴染ませた形になっている。
そして結婚・婚姻は「制度」だ。つまり、個人の好き勝手には、実はできない。制度の上でしかできない。
だから、同性同士で恋あいはできても、結婚はできない。できる国もあるかもしれない。
ある国では、一夫多妻制であっても、日本の法律・文化の制度上ではそれはできない。
「制度」なのだ。
そして、それが制度であるからこそ、あなたが個人的に努力するだけでは詰めるところを詰めきれない。
結婚という制度に二人を押し出すのは、あなたの力ではなく、実はあなたの母親の力だからだ。
制度を母親が統括しているのである。
なぜか?
それは、日本が母性社会だからだ。
制度を、母親・マザー性が支配している、というのが、母性社会ということの正体だ。
日本人男性の99%はマザコンである。
この数字は、誇張ではなく、リアルなところを捉えた数字だ。
都会と田舎では性質が変わるだろうし、年齢が進むほどマザコンの性質はきつくなるが、それらの全体を捉えて、100人中99人が、というのはまったく現実的だと思う。
そして、それだけのパーセンテージがマザコンということは、これはもう、個人の性向ではないのだ。
この国の文化の特質なのである。
それが良いとか悪いとかいう話はひとまず抜きだ。
あなたの「母親」と、彼の「マザコン」をまず見よう。
意外なことだが、もっとも重要なことは、彼の「マザコン」というのは、何も彼自身の母親だけを捉えてのものではないのだ。
あなたの母親も、彼にとっての「マザー」、そのマザコン反応の範疇に入るのである。
だから、具体的なテクニックとしては、とにかく彼を、あなたの母親の前に引きずり出さねばならない。
ここに、鉄則のようなものがあるのだが、まずあなた自身、なんであれその「マザコン」を否定してはいけない。
マザコンの否定は、ただちに「制度」の否定になるからだ。日本は母性社会だから……といって、他の国はよく知らないけれども、さしあたり日本においてはだめだ。
あなた自身も、マザコンに積極的に与さねばならない。
マザコンが、そのまま、男らしくない、というわけではない。男性的でない、ということはあるかもしれないが、男らしさといえば、日本人男性は「母なるもの」のために命を捨てる男らしさを見せることもある。
まあそのあたりの難しいことは置いておこう。
テクニックの話。まず、彼をあなたの母親の前に引きずり出す。そのとき、あなたもそのマザコン=制度に積極的に与する態度を持つ。
つまり、あなたは母親の所有物として振る舞うのだ。
田舎の(という言い方は失礼だが、便宜上)、女性なら、自分が母親の所有物であるという感覚は、なんとなくわかるのではないだろうか。親御さんの気質によっては、あなたの家にはないかもしれないが、世間一般にはある、身近にある、という感覚がわかってもらえるかもしれない。
あなたは母親と共に、母親の所有物である「娘」としてそこにある。
彼がマザコンだというのは、あなたのその「娘」の状態、「母に所有されている娘」という構図が、それじたい大好きだ、グッときてたまらない、ということである。覚えておこう。
そして、親しくなるべきは、あなたと彼ではない、あなたの母親と彼だ。
平たく言うと、あなたの母親が、彼を「認める」必要があるのだ。あなたの母親から彼に、「うちの娘に手を出してくれてよいわよ」と、許可を与える手続きが要るのである。
彼とあなたの親しさは関係ない。彼とあなたは初対面であってもかまわない。
くれぐれも、「制度」なのだ。恋あいの話ではない。恋あいの場合、彼があなたを愛しているか、あなたが彼を愛しているか、ということだけが問題になるが、それは制度化されたものではない、個人的な体験だ。
それと「制度」はまったく違うのである。あなたが彼にOKを出しても、「制度」は動きださない。あなたの母親がOKを出すことでのみ、「制度」が動きだすのだ。
制度の力をナメてはいけない。ひいては、日本人男性のマザコン度をナメてはいけない。
生々しい話をするとこうだ。あなたがOKを出すより、あなたの母親がOKを出すほうが、彼のペニスの隆起は鋭く固くなり、長持ちするのだ。さらには、あなたに触れる手つきも男らしく大胆に、力強くなるのである。
なぜか? それは彼に「自信」が与えられるからだ。あなたがOKをしたって、あなたからのOKでしかないが、あなたの母親からOKを与えられることは、制度から許可を与えられるということなのである。彼は制度から許可を与えられ、その自分に自信を得るのだ。
これは悪趣味な冗談を言っているのではない。ごく身近な、我々の文化制度の性質について、あるがままを話している。なんなら、この文化制度の性質はあなた自身にも深く入り込んでいる。
たとえば、ある知人の男が、あなたの部屋に入り込み、あなたを強引に犯したとしよう。いわゆるレイプだ。あなたはそのレイプ男を憎み、司法に訴えてやろうと唇を噛む。憎憎しげに、男を睨んで……
でもそこに彼がこう言ったらどうか。
「お前の母親から、素直にさせてくれって頼まれてんだよ」
あなたはエッとショックを受けるだろう。
そこで、再び男に押し倒されたとき、あなたはそれを跳ね飛ばすことができるか?
こうして切り取って捉えると奇妙なのだが、そういう文化制度なのだ。つまり、母親の許可を得て娘をレイプするとき、あなた自身がそのレイプを受けるとしても、何か男の行為に正当性を見てしまうのである。問い詰めるべきは母親であって、この男が悪いわけじゃない、という気がしてしまう。
これが父親ではだめだ。
「お前の父親から、素直にさせてくれって頼まれてんだよ」
というのでは、話は通じない。「ふざけるな」で終わりだ。
あなたを抱いてよいという認可権は、恋あいとしてはあなた自身にあるが、文化制度上はあなたの母親にあるのだ。
「制度」である。
あなたが彼に、あなたを抱いてよいという許可を与えたとする。そのとき彼はあなたにとって「男」と認められたことになるが、これは個人的、生理的、物理的な存在としての「男」に過ぎない。
母親が、「娘を抱いてよい」という許可を与えたとき、彼は単に「男」として認められたのではない、制度上の「男」「殿方」「旦那方」と認められた、ということになる。
「制度」が動き始めるのだ。
あくまで結婚・婚姻を技術的に進捗させるなら、彼にただ男としていてもらうだけではだめだ。制度上の男、として役割を担ってもらわなくてはならない。
なんだかえげつない話だが、しょうがない。僕がえげつないのではなく、制度がえげつないのである。
女性当人も、結婚に焦ることがあるとしたら、母親の顔色からのプレッシャーが、第一にその焦りを呼び起こすのではあるまいか?
えげつなさの続きで、思い切って言ってしまおう。
男性の一部か、大部分か、過半数か、割合はわからない。わからないが、それなりの数の男性が、実は個人的な恋あいには興味を持っていない。かつて興味はあったけれど、自分にその素質が無いということを、人生のどこかで薄々知った、という人は多いものだ。
そういう男性は、いちおう、女性をフレンチに連れていったり旅行に連れていったりホテル最上階のラウンジに連れていったりするが、それは形式をなぞっているだけで、内心では「よくわからない」と思っている。内心では、自分が何をやっているのかわからず、フワフワしているのだ。
そういう男性は、本人もはっきり知っているわけではないが、恋あいに素質が無いのだ。音楽をそこそこ聴くけど、実はそんなに胸に響くということがない、という人のように。良いとか悪いとかの話でなく、素質がないのだからしょうがない。思春期の少女にプロ野球を見せるようなもので、そこに感受性の素質が無いからどうしようもないのである。
そういう男性には特に、この「制度」の仕組み、つまりあなたの母親に直面させるというやりかたがよく効く。えげつない話で悲しくなってくるが、効くのだ。
なんなら、それが効かなくて、僕の説が破綻するほうが僕としても嬉しく思うのだが、実際そうではない、テキメンに効いてしまう。
「制度」だけが好きな男がいるのだ。そういうタイプにはこの方法がテキメンに効く。
あなたはそのシーンで、彼の心底のマザコン気質を目の当たりにしてしまうかもしれないが……
まあでも、文化制度の特質なんだからしょうがない。
なんだこの話は、しょうがない、の一点張りになってきたな。
正統的な根拠としては、たとえば「お見合い」のシステムに依拠できる。お見合いというのは、正統には若い二人が互いの趣味を聞きあうのではない。
互いの母親が、若い二人に向けて、根掘り葉掘り聞くだけなのだ。若い二人同士は互いにコミュニケートしない。まさに「見合う」だけだ。
そのほうが文化制度にピタッと嵌るのである。
実際、そのやりかたのほうが自分の性質にピタッと嵌る、という男女だって、今の若い人にも少なくないのだから。
特に最近は、こっそり、そういう人たちが激増してきた。お前のことだよ、と不意に言いたくなるほどにだ。
なぜかというと、おそらく、日本という国自体が、文化的にも経済的にも危機に瀕しているからだ。
人間は危機に瀕すると、いわゆる「地」が出る。血筋に流れている、もっとも依存しやすいやりかたに流れ、それに頼ろうとするものだ。
これからは正統なお見合いがブームになり、ラップやポップスは「お母さん」を連呼しだすかもしれない。
(頭がくらくらしてきた……おれはそんな歌は絶対に聴かない)
ともかく、「お見合い」の手法をサンプルにして、テクニックがありうる。
彼をあなたの母親の前に引きずり出す。
その理由は、なんでもいいが、たとえば引越しをするとか、部屋の片付けをするとか、電気配線をするとか、わからない書類を見てもらうとか、なんでもいい。とにかく「男の人」が必要だということで呼びつければいい。
父親はどうするのだ、という気もするが、父親にはなんの用事もないので、温泉かスナックか、どこへでも出かけておいてもらおう。
父親は文化制度上、儀式を担うだけであって、それ以外に役割は無い。結婚というと、「お父さん、娘さんを僕にください」みたいなシーンが定番のイメージとしてあるが、あれは儀式だ。その婚姻を認めるかどうかの審議は母親が決定しており、父親はその審議の結果としての許可を下賜するだけである。
だから父親なんぞは、お母さんに頼んで、「あなたも野暮ねえ、呑みにでも行ってらっしゃいよ」と言って追い出してもらっておけばいい。
彼のことを、母親が絶賛したら、父親なんかは折れるしかないが、父親が絶賛しても、母親がノーといえば結局はノーだ。
医者の家系などの、そもそも家に女性が存在しない、女性に人権が認められていない風習の家だと、また別だが、まあなかなかそんな家は少ない。
大体の家は、お父さんなんて、強がっているふうの、晩酌ばかりのヨイヨイだ。
(儀式を担う役割を軽視しているわけではない、重要だ)
さて、それで、あなたの母親の元に彼が来る。あなたと彼は初対面でもいいし、まったく親しくなくてかまわないが、あなたはそのとき、母親の所有物である「娘」としての振る舞いを忘れずに。「制度」をやるのだ。抜かりのないように。
母御さんは前もって、「任せておきなさい、どんな男の人でも、連れてきなさい、○○ちゃんの旦那さんにしてあげるからね」と、したたかに請け負ってくれるぐらいだと理想的だ。
用事なんかはもちろん適当に済ませて、お茶か、会食の雰囲気にする。お酒はやはり呑んだほうがいい。弾みがつくし、杯を交わすということは文化制度上重要だ。
あなたが勧めても呑まないかもしれないが、あなたの母親が勧めたら断りづらいから大丈夫だ。彼がいやがるようなら、「娘」が、まさに娘らしく、「付き合ってあげて、お母さん寂しがりなのよ」と甘えれば大丈夫だ。
そして、とにかく母御さんは、彼のことを褒めちぎる。男性として褒めちぎる。「男前よねえ」「しっかりしてらして」「きょうび珍しい方よねえ」「女性におモテになるでしょう」というふうに。あなたは脇で娘らしく黙っていればいい。「どのようなお仕事をされてるんですか」「将来の夢はおありですか」「どのような女性が好みですか」、こういうのもぜんぶ母御さんが訊く。
なんというか、色気たっぷりに訊くのだ。
大丈夫、彼はオバサンは嫌いだが、マザコンだから、「母親」の場合はいいのだ。まんざらではないという感じで、鼻の下を伸ばしてくれる。
言うまでもないが、「制度上の男」として、認められ、鼻の下を伸ばしている、ということが重要になる。
加えて、母御さんからあなたに、
「ほら、お世話になったんだから、あなたもお酌ぐらいさせてもらいなさいよ、ほんと気の利かないコなんだから」
「あなたも、彼みたいな人にもらってもらいなさいよ、ねえ」
ぐらいを言う。
また母御さんから彼に向けて、
「お手数ですけど、うちの馬鹿娘のことも、よかったら、見ておいてやってくださいね。教育が足りなかったものですから、物事を教えてくれる方がいらっしゃらないと」
「この娘が、馬鹿をしたときは、きつく叱ってやってくださいね。そういうのはやはり、男性が言わないと聞かないんですもの」
と言い、またあなたに、
「ねえ、こういう方に見ておいてもらえたら、本当に安心ですものね。ほんと、今日も助かったわあ」
というふうに言う。
母御さんは酔っ払っていていい。
このようにして、母御さんから彼に「承認」を与えてもらったら、母御さんの仕事は終わりだ。母御さんはどこかに引き上げて、二人きりを残す。つまり、そこを「閨(ねや)」にする。口上としては、
「飲みすぎたわあ、お先に失礼します」
というので二階に上がってもいいし、
「母の、おばあちゃんのね、様子を見に行かなくちゃならないから」
ということで外出してしまってもいい。
これで二人きりになる。二人きりになったら、あなたは、
「ごめんなさいね、母は、馴れ馴れしくて、お酒を呑むといつもあんな調子なんですよ」
というふうに、引き続き「娘」のロール(役割)のまま、彼にお酌でもすればいい。
あとは、風呂の支度や、時刻によっては彼の布団の支度や着替えの支度などもしてよいが、とにかく、彼の「手の届く」距離で、あなたが肉体的な無防備を晒して、ぐーっと背伸びをしたり、肩が凝っちゃったわ、と肩口から鎖骨のあたりを見せびらかしたらいい。
それで、彼の手がニュッと伸びてくる。伸びてきたら、あなたはドキッと驚いたふうで、でも怯えたりせず、ひたすらしおらしく、それを受け入れる。あなたが女らしい反応を徹底すれば、彼はあなたに恥を掻かせないためにキスぐらいはする。何しろ酔っ払っているのだ。
キスされたら、ぐっと感じたように反応し、彼の背中におずおず手を回し、嬉しそうに、女としての喜びがうずきはじめました、ということをアピールする。そうしたらセックスまでいける。
まあ、あなたも女だから、この一連の仕事、セックスを「使う」という仕事は、実はできるという自信がこっそりあるだろう。
それは任せられるとして、それよりここで注目すべきは、その彼の手があなたに「ニュッ」と伸びてくるところだ。普段は、これがなかなか出てこない。いわゆる「いくじなし」というやつ。
なぜ手が伸びてこないかというと、自信が無いからなのだが、この場合は違う。彼はあなたの母親と制度から許可を与えられているので、それが自信になっている。だから手がニュッと出てくるのだ。ここがミソである。彼の心中は差し当たり、「こうして男女で呑んでいれば、それなりに手は出すだろ」ぐらいに逞しくなっている。
そうしてセックスまで行けたら上々だ。あとは母御さんが、そのことを「嬉しく思っている」というアピールを、ぼちぼちにすればいい。「また飲みにいらっしゃってよ」と誘うぐらいで。
母御さんの捉え方は、「あのコも、あなたとお付き合いしてからかしら、ずいぶん素直になってねえ、うれしく思っているんですのよ」というあたりだ。「あのコがあんなに素直になるなんて、あなた、すごいわねえ、もっとガンガン、あのコを鍛えてあげてちょうだいね、ほんとお願いするわあ」というのもいい。「きっと才能をお持ちなのよ」などもいい。
あなた自身は、引き続き娘らしく。まだゴリ押しするのは逆効果だろう。
一番有効なのは、母御さんが嬉しく思っているというところだ。彼はマザコンだから、あなたの母御さんの期待をなかなか裏切れない。次点としてはあなたが、このまま捨てられたら、ただ遊ばれて、キズモノにされて、でも泣いて悲しんで我慢するしかない、非力で憐れな女、今は幸せだけれども……というのを演じていればいい。そうしてマザコンの酒宴とセックスが数回あれば、彼のほうが勝手に、「男らしく責任を取るべきだろう」という発想になってくれる。
テクニックとしてはこんなところだ。えげつない話をしてしまったが、いわゆる婚活というようなものより、えげつないぶん威力は遥かに大きいだろう。風貌がイケメンで、いわゆる高学歴・高収入というような人でも、マザコンはいくらでも多いから、いわゆる上物を捕まえることが、この方法ならできるかもしれない。
ただもちろん、バレてはダメだ。あなたと母御さんが、タッグを組んでこのプロジェクトを進行しているなんてことがバレたら、さすがにマザコンより、えげつなさ・おぞましさが勝ってしまう。バレてはいけない。
バレたら、人間の本能のひとつである、「制度と戦う精神」が立ち上がってしまう可能性がある。そうなったらやっかいだ。そうなったら、彼が戦いに疲れるか飽きるかするまで、きっと半年ぐらい待たされることになる。それで、奪回しても遺恨が残るし、どうせやるなら最後まで徹底して、彼に気持ちよくいてもらうほうがいい。全員の幸福のためだ。
そのためにはやはり、母御さんの技量が優れていることが何よりも望ましい。暗黙の了解で、母御さんが独自に勝手に進めていく、あなたはそれに知らんぷりして任せていられる、というのが一番いいだろう。それでこそ、この「制度」の統括者である「母」だ。
結婚・婚姻は「制度」であり、「制度」は母が統括する。
***
母御さんの気質や体力が、あるいは能力が、この手法に適応でないときは(ひどい言い方だ)、誰か知人を母親役に立ててもいい。マザー的な、要するに、あなたを所有する者、あなたをアゴで使うような関係の人間なら代用に使える。このことは、立場を逆にしてもなんとなくわかるだろう。「彼」が、母性的な先輩や上司に、あるいはその母性的集団に、アゴで使われている。そしてあなたに、「○○ちゃん、ちょっとこいつを構ってやってくれよな」と冗談口にでも言う。そしたら気分は悪くないはずだ。何か独特の、制度的な気分のスイッチが入るはずである。
つまりこの国の母性社会は、個人を個人として愛するのでなく、母性の木に実った果実としてそれを見たときに、安心するのだ。
もちろん個人的な体験として愛することもあるけれど、今はあくまで「制度」の性質について話している。
このような「制度」を、誰も彼もが、しょうがない、ということで受け入れてきたのではなかった。戦おうとはしてきた。その結果として、恋愛結婚というスローガンがある。個人的な体験としての恋あいがあり、そのケジメとして結婚するのだ、という思想。ケジメというのはすでに制度的だが……まあとにかく、結婚・婚姻がそのような冷酷な制度のみで成り立っていると、人人のロマンチシズムは認めたがらなかった。
それで恋愛結婚の思想は、残っているのだが、それが実際に成立している例はごく少ない。実は少ないのだ。そもそも恋あいというのは制度の外に起こるものなので、それを結合することはたいへん困難だ。だから割と早々に諦める人が多数なのだが、これはむしろ女性の側のほうがリアリズムにおいて、内心でさっさと諦めてしまう。思想を長く追うのは圧倒的に男性の側だ。
どう話しても憂鬱な話になってしまうな。
そもそも、僕が制度の話なんかするからいけないのだ。砂漠の民が流しソーメンの話をするような愚挙だ。
数は少ないが、恋愛結婚というのも、本当に無いわけではないし、マザコンでない男性だって百人に一人もいる。だいたい、好きになれる人というのも、女性からみて百人に一人ぐらいじゃないのか。
だから、結婚・婚姻は制度だけど、それについても、99%は制度だ、ということにして逃げを打ちたい。
これも何か、現実的な数字に思えるな。
制度そのものが、悪者であるわけではない。
むしろ、制度がなくては困る。制度というのは、もう社会そのもののことだ。
たとえば、病院には免許を持った医師がいてくれなくては困るし、一一〇番通報をしたら警官が駆けつけてくれなくては困る。兵隊さんは有事に戦ってくれなくては困るし、学校の教師がド変態の恰好で教壇に上がっては困る。
「おれは、父親だから」
ということで、どこかで男が頑張ってくれないと、経済的にも人文的にも人人の暮らしが破綻するところがある。
制度というのは不可欠なのだ。ただ、不可欠というのを越えて、人がそれに依存してしまうというタチの悪さがある。しかもこの依存は根が深く、精神構造の最奥までいく。
よく、夢と現実、という言い方をする。でもこれは、国語的に間違っていて、現実の対義語は理想だ。夢と現実は対義を為してはおらず、夢と現実はむしろ人の生を平行に貫いている。
下道の上にハイウェイが通っているみたいにだ。
制度というのは、その現実というのに近い。「お前も、もう二十歳なんだから」というのは「現実」に聞こえる。
けれども、年齢をカウントすること自体が制度だし、それが二十歳になったら成人というのも制度だ。
制度というのは、人に安心感を与える。同時に、人を包み込んで殺してしまう。まさに母親、ユングの原型論で言うところの「グレートマザー」のようにだ。
どういうことかというと、人は二十歳になったら成人してしまうということだ。本人の意志は関係なしに。選挙権が与えられ、飲酒と喫煙が許され、その代わり不法行為には責任を問われるようになってしまう。
「一人前」になるのだ。本人の意志も性質も関係なしに、勝手に。
簡単に言うと、母親が勝手にそう決めるのである。
それが「制度」だ。
だからこそ反発的な若者は、二十歳になる前に喫煙しようとする。カッコツケ、ということに留まらない。制度・母親に包まれて殺されるのがイヤで、突破口を求めているのだ。
せっかく校舎裏で煙草をふかしているのに、立法府が「十五歳から喫煙可」と施行したら、尾崎豊はガッカリしただろう。
そうやって、制度と戦う本能は、正当なものだ。
制度は、無くては困るし、同時に、制度しかない、というのでも困る。
人の生を、二本、平行して貫いているのだ。下道とハイウェイみたいに。
恋愛結婚というのはその両方を同時に走るような離れ業だ。
何から話せばいいのかさっぱりわからないな。
じゃあ、いきなり核心を話そう。なぜ人は、制度を利用して生きるに留まらず、それに「依存」までしてしまうのか。制度は安心感を与えてくれるが、なぜ人はそこに安心感を得られるのか。
安心感の前に、それに先立つ不安は、何なのか。
それは、これだ。「わたしは何であるのか」という問いかけだ。アイデンティティの問題であり、自己確認の問題だ。
心苦しいが、たとえば、結婚に焦る女性の典型的なタイプを例に採ろう。彼女は何に焦っているかというと、不安に焦っているのである。このままでは、自分の人生が何なのか、わからなくなる、自分の人生が何にもならないまま、全てが手遅れになってしまう、という不安に焦っている。
その不安が、結婚できたら解消される。
なぜか?
結婚したら、「妻」になるからだ。「夫婦」になる。子供を生めば「母」にもなる。
「なる」のだ。二十歳になれば成人に「なる」ように、婚姻届に捺印して役所に提出できれば、妻に「なる」のである。
制度が、保証を与えてくれる。「わたしは何であるのか」という問いかけについて、「あなたはこの人の妻です」、「あなたがたは夫婦であり、夫婦として生きる者です」と。
「わたしは何であるのか」という問いかけに、制度が回答を与えてくれるのだ。だから不安が解消する。
結婚・婚姻が、必ずしも人を幸福にするとは限らないというのは、実例を見て明らか。中には、結婚したことで不幸になったと確信している晩年の人もいるが、その人だって結婚はした。
そして、「妻」になったことで、安心感は、やはり得たのだと思う。
その暮らしが幸福か不幸かとはまた別に、制度が与える安心感、不安の解消はやはりあるのである。
そして、この不安の解消が甘美だから、人は制度に依存する。
この依存は、年齢がいくほど、つまり老人になるほど、強く深くなっていく。
なぜか。
死が近づいているからだ。
死が近づくほど、「わたしは何であるのか」という問いかけは、身近に、説得力を持ち始める。
しかも老人は、その先が短い。問いかけはほとんど、「わたしは何であったのか」という完了形になる。
老人が思い出話を異様に繰り返すのはそのためだ。「わたしは何であったのか」を、人に話しもし、声に出して確認しないと、不安なのである。
「わたし」は、実は何でもなくて、わたしの人生も、何でもなくて、ただこれから消滅してしまうだけではないのか、ということが、恐ろしいのである。
一部の精神科医は、老人が認知症になるのを、死の恐怖から逃れるためだ、と指摘する。
それはつまり、「わたしは何であったのか」ということを、丸ごと忘れ、友人も血縁も家族も全部忘れ、その代わり、それを失う死というものも忘れられる、という処理方法なのかもしれない。
「かもしれない」に、ぜひ留めておきたいところだ。そんなところに興味を持ちたくない。
「わたしは何であるのか」に、制度は回答を与える。おそらく、保育園児にはまだ、「わたしは保育園児です」という自己確認はないが、小学生にはある。子供はある年齢になると、ランドセルを与えられ、教科書を与えられ、文房具を与えられ、小学生になる。本人の意志とは関係なく。
その、制度による、何かに「なる」というのには、「式」という儀式が伴うのが特徴だ。入学式や成人式や、入社式、結婚式もだ。
老人はもう、こうして何かに「なる」ということがない。つまり制度式に言えば、彼の人生はもう終わったのだ。完了したのである。喜寿や米寿を意識しない限りは。
唯一の例外は、きっと孫だと思う。初孫が誕生すれば、彼は「おじいちゃん」になる。制度が彼を「祖父」にする。彼の感慨はきっと、「わしもとうとう、おじいちゃんになるのか」というところだろう。母は初めて彼を子供に紹介するとき、「おじいちゃんよ」と紹介するだろう。
ひょっとすると、七五三のようなものは、子供のためにではなく、祖父母のためにあるのかもしれない。
我々は、制度の上を生きている。老人になるほど、制度の上を「生きてきた」ということになる。「わたしは何であるのか」の回答を、制度によって与えられるということを、積み重ねてきた。
だから老人ほど、今さらその制度を「ウソっぱち」だと捨てるわけにはいかなくなる。依存が強固になるのだ。だからこそ、彼は子供や孫の、入学式とか結婚式とかを、深い感慨において受け止める。制度があると信じたいし、それが信じられる瞬間だからだ。人の生とはこのようである、と、制度が説明するところに、自分も当てはまっていた、ということで、不安から逃れたいのである。
ああ、とんでもなくひどい話になってしまった……
制度が悪いわけではないのだ。
初孫の入学式に眼を細めている老人を悪く言うような鬼畜はいないし、僕だってその意図で言っているのではない。
ただ、それでも、制度というそのものは、虚構なのだ。物理的に存在はしていない。
なぜ日本では一夫多妻制でないのか、ということには、根拠はない。そういう制度ですから、としか言いようが無い。
制度の根拠は、制度ですから、と、制度自身に求めるしかないのだ。制度を信仰するのである。
婚姻制度を廃棄します、と、立法府が法案を施行したら、日本中の婚姻関係は抹消されてしまう。役所に窓口がなくなるから婚姻届が出せなくなる。
我々は実は、そんなあやふやなものに人生を乗っけているのだ。
しかも、それで制度をいきなり廃棄しても、人人が昨日と同じく暮らせば、つまり無理に別居などしなければ、物理的には何も変わりが無いという、そういう中で暮らしている。
一方で、たとえば男女とかいうのは、制度のものではない。
何が言いたいかといえば、これが言いたかった。
男女というのは、ペニスとかヴァギナとかホルモンの問題であって、物理的な差異を根拠にしている。
我々は制度の上に生きているが、制度の上「だけ」に生きているのではないのである。
自己の生や、恋あいや、美といったものは、制度ではない。死亡届を出されても僕は死なないし、観光課のホームページに載っていなくても、美景は美景だ。
恋あいは、制度に根拠を持っていない。恋あいの根拠は、二人の具体だ。具体的に、特別な感触、特別な官能、特別な悦びがある、ということのみを根拠としている。
自己の生、恋あい、美、などは、制度の外側のものだ。
制度の外側のものだから、制度の側から見れば、ただちに全て「悪」でもあるわけだけれども。
それらは制度の外側にあるから、それらは「わたしは何であるのか」ということに回答を与えてはくれない。自己の生、恋あい、美、などをいくら実感しても、「わたしは何であるのか」の回答にはならない。
ただの、愛し合うだけの「馬の骨」だ。
「わたしはわたしなのだ」という実感しか返ってこない。
もちろんそれが返ってきたら、回答なんか要らないのだけれども。
これはつまり、行き着くところ、「わたし」と「制度」が、そもそも相反しているということだ。
その「わたし」が、不安に屈したとき、人は制度に安心感をもらうために、制度に屈従するのだろう。
まだ思春期の男女が、制度なんかクソだという本能をあからさまにして、愛し合っているとする。彼らにおいて、互いの特別な感触、特別な官能、特別な悦びは明らかだ。それは彼らの具体だから、役所に保証をもらう必要が無い。両親は彼らの生をどことなく悪を見るふうに眺めるだろうが、彼らはそんなこと気にもかけないだろう。
けれどもあるとき、どちらかが不安に脅かされて屈従する。制度を求めはじめる。それで、「わたしたち、付き合ってるの?」とか、「ちゃんと彼女にしてよ」とか、求め始める。不安に焦らされた情念は、一気に火のようになることもある。
それで、「うん、ちゃんと付き合おう、彼氏と彼女になろう」と言うと、その夜は安心感に包まれながら、何か重大なものを失ったことも、互いに感じる。
大人になったね、なんてニタニタしている場合じゃないぞ。
そのセリフは老人のセリフだ。
「わたしはわたしなのだ」ということから手を離してしまったのだ。
「わたし」と「制度」はそのように関係している。無関係に関係している。平行する二本として人の生を貫いている。
どんなに愛していなくても、「付き合ってる」は「付き合ってる」だ。
制度の力、人が制度を信仰する、その精神は深い。どんなに愛していなくても、「付き合ってる」か「夫婦だから」ということでセックスを受け入れたりする。逆に、具体として、特別な官能や悦びがあっても、セックスは受け入れず、最後までそれを「悪」とみなすことも、人はする。
「わたしは○○だから」という安心感が勝つ。
人はそれだけ、「自分は何であるか」という問いかけの不安に、弱いのだろう。
***
とんでもない話になってしまった。うかつに制度の話をするものじゃないな。
救いが無いままではいやなので、明らかな道筋を残す。
やりかたはあるのだ。ちょっと根性がいるが。
制度を、既製品として求めるからよくない。
信仰すべき制度ごと、自分で刷新して、作り出せばいいのだ。
それで、人に自分の制度を信仰させればいいのである。
と、こちらのほうが、よりとんでもない話になったか。
まあいいや。
自己の生は、制度ではない。制度の外のものだ。
だから、この自己の生の内に、制度を作り上げればいい。
自分の問題として。
その際に、既製品としての制度に、ヒントを得てもかまわないだろう。
制度依存の連中の一番クソなのは、「そういうものでしょ」「みんなそうしてるでしょ」という発想を垂れ流しているところだ。
安心感にズブズブになって、後には認知症になるのである。
まったくクソだ。
ちょっと行き過ぎた危険な物言いをしているのは自覚しているが、撤回はしない。
僕の生だし、僕の生の内から話さないと、僕の話には何の値打ちもない。
制度の話ならもう冒頭にしただろう。
制度は、一一〇番通報のように、利用したらいい。
信仰していなくても利用はできるのだから。
自己の生、恋あい、美といったものは、制度の外側だ。
感触、官能、悦びは、それぞれの具体に発生するのであって、制度がくれるものではない。
僕は誰とでも、その具体の会話がしたいのだ。
「悪」だし、何の安心感もないけれどね。
おしまい。
[結婚への秘密のテクニック/了]