No.257 軽薄な排泄
鼻の下にチョビヒゲでも描きたいな。
それで、殿様のカツラでもかぶって、女性とファックしたい。
つまり、軽薄がやりたい。
軽薄がもっとも誠実だからだ。
正しいこと、なんて求めている奴はダメだ。そんなものを求めている奴は、うまくいっていないに決まっている。
何かがうまくいっていないから、それをうまくいかせるために、正しいこと、なんぞを求めているのだ。
それは浅ましいと言っていい。浅ましく、不誠実だ。
正しいことって何だ。
正しいことは確かにある。
あるが、それに深刻になるかどうかはまた別だ。
深刻になる奴というのは、暗い。ネクラだ。
そして、この暗いということが、人を傷つける。
暗くない人間は人を傷つけることができないし、傷つくこともできない。
いや、傷つくことはあるのだが、それが深刻ではない、「うえええ」と口を曲げて遊ぶだけで済む、忘れる、ということだ。
たとえば、安ウイスキーをラッパ呑みして、素手でチャーハンをもりもり食っている奴が、
「ああ、ヘヴィメタルは最高だ、わかるかこのブスどもめ? ハーッ」
と言ったって、そんなもの誰も傷つけない。笑うだけだ。
そいつの頭をスリッパでパーンと叩いたって、お、サウンズグッド、となるだけで、誰も傷つかない。深刻になんかなれっこない。
僕は、その程度のこともできないのに、できない人であるのに、またできない世の中であるのに、自由だとか、自己実現だとか、一つになろう日本だとか言っている輩があるのを見ると、腹が立つのだ。
別にチョビヒゲを書かなくていい。
詩を書いたっていい。
が、チョビヒゲを書くのと、詩を書くのとで、チョビヒゲのほうが人に見せるのに勇気が要るなら、そりゃ詩がヘナチョコなのだ。自由に、自己実現として書いていない。
そんなもの、書いてはいけない、ということはないが、ウットリしてはいけない。
ウットリというのは、深刻さの甘美なやつで、自分だけが気持ちよくなる、ロクでもないものである。
「ブス」と言って人を傷つけるとしたら、そこに暗さがあったときだ。
「ブス」に傷つくのではなく、人は暗さに傷つくのである。
こんな、暗い、救いの無い、いやらしいものが、あるのだ、ということ自体に傷つく。失望するのだ。
言葉の暴力ではなく、暗さの暴力だ。
この暗さに対抗しようとして、明るくいこう! みたいなものも、土台が暗いのであって、人を傷つける。
真夏のヴァカンスに、砂浜で肌を灼いてピーチジュースを飲んでいるところ、明るくいこう! なんて言わない。あるていど暗くなかったらそんなこと言わない。
明るく、前向きに、何事にも積極的に、生きよう、みたいに言っているレディを、デートに誘ったら、だいたい断られる。
彼女にデートのOKをもらうためには、そのデートが、ありがちで、無難で、面白くはないが、ストレスがなく、なんとなく前向きな気分になれますよ? という売り込みにしなくてはならない。
アホだ。そんなデートなら生涯しなくてよろしい。
僕がチョビヒゲを書いて、早朝に京都哲学の道を歩こう、西田幾多郎の話をしてやる、と誘ったら、まず断られる。
仮にデートはOKされても、セックスは断られる。
断るなら、僕の額に「NO」と極太マーカーで書いてくれたらいいのに、そうするわけでもない。なにか、ジトッとして断られる。
深刻なのだ。
そんな不誠実を許してはならない。
僕を愛してくれたらいいのだし、あるいは、僕がどうしても気に入らない、ムカツク、全力で死ねと思う、というのなら、それはしょうがないけれど、それ以前に、世の中と、自分を含めた人人が生きることを愛せ、というのだ。
その、肝心なところを愛していないのに、さも自分は清潔に輝いているふうに取り繕うから、ややこしくなる。
まず素手でチャーハンをもりもり食え。そして、うるせえみんな死ね、でもわたしを愛してくれたら、みんな大好きよ、ところでこのチャーハンけっこうおいしいよ、と言え。
懐かしい、そういえば、友人が真夜中の板橋で立小便を始めたのを、その背後に立ち、全力で「Joy to the world」を歌い、衆目を集めさせたことがあったな……
深刻なのは無意味だ。
いや、真に重要なことは、深刻なのだが、それは映画や小説に任せておくのがいい。
映画や小説は、それがフィクションだということ自体で、軽薄さが約束されているからだ。
人はその軽薄さに描かれたシリアスに真実を受け取れるのである。
戦争映画だから何か真実を得られるのであって、本当の戦場の映像を見せられたら、ちょっと別の感じになってしまう。深刻だ。
それが現実の映像だ、なんて中学生みたいに喜んでもいいが、現実というなら、現実はそんなに甘くないぞ。その現実の映像を元に、己が高説をのたまってみたらいい。どの女も濡れてくれないし、むしろ人人の心を戦争開始のほうへ牽引するだろう。
現実は厳しいのである。頭がアホなくせに、これが真実だ、なんて発想をしても、何もいいことは起こってくれないのが現実なのだ。
リアリティというのは現実生活のことではないしね。
たとえば日本の現在の政治状況、政治家に投票させられる状況は、まったくリアリティがない。全てがアホみたいだ。アホみたいだが、やらないともっとアホみたいになるので、やむを得ずやっている。
おっと、いけない、深刻になるところだった。
人は、何に深刻になるかというと、自分に何の迫力もない、ということに気づいたとき、深刻になる。
自分が、自分の生が、時間もコストも心も費やしたのに、とんでもないニセモノの粗悪品に終わってしまう、と気づいたとき、焦り、深刻になる。
若い少年だって、眉毛をきっちり整え、髪色をバッチリにし、服装をキメッキメにし、口調もわざとらしく「おれヨォ」みたいにひねって、「ガキのころはぁ、ケンカばっかりしてったからぁ」みたいに話を膨らませている中、ふと、自分には何の迫力もない、ということに気づくと、死にたくなり、深刻になる。
救いを求めはじめる。
それは、おかしいことではないのだが、それを見つけた、これもまた暗い輩が、救いを求めていやがるよ、と陰口を言って笑う。
暗い人は、暗い人を攻撃して、自分はそれではない、と思いたがるものだ。臨床心理学では、自己防衛機制のひとつ、投影という。本来、自分をサンドバッグにするべきところ、自分はイヤなので、他人を使おうとする発想だ。
そりゃひどい、なんて思ってはいけない。それは深刻だ。「そりゃナイスアイディアだ」と言わねばならない。
他人をサンドバッグにした経験は、じっさい、(以下自主規制)。
僕は騒がしいのはきらいだ。騒がしくしたいなら、ドアを思いっきり閉めればいい。バーン! と、大きな音が出るだろう。それを近年は「元気」と言う。そういうバーンとした声で話す酔っ払いは多い。
そんなのは、ただのやぶれかぶれだ。ストレスが強烈に溜まっていて、もう何をどう動かしても強烈な音を立てずにいないのだ。
それは、同じくドアで言えば、蝶番(ちょうつがい)が錆びきって、潤滑油も足りていないから、押しても引いてもギーギーうるさい、というありさまだ。ギーギーいい、バーン! と閉めれば、人はびっくりする。注目を集める。どうもそれを、自分の声が人に届いていると錯覚する人があるらしい。そんなアホな話があるか。大音量にしないと届かないというのは、届いていないから大音量にしているのだ。あらゆる一流の音楽家が演奏を始めるのを見よ。よくよく見れば、その演奏は音が始まるのではない。表面上、音が始まるのを使って、じっさいには心の内の静寂が始まっているのだ。
デカイ音が始まるのを聞きたければ夫婦喧嘩でも聴きに行けと。
ギーギー、バーン! というドアがあるとき、その解決法は、油を差すことではない。そんなことでは解決しないほど錆びきっているし、だいいち、そんなものに油を差してくれる人は現れない。油を差そうと動きまわって、またドアを開け閉めしてギーギー鳴りたつのが関の山だ。
そんなときはもう、ドアを外すしか解決法はないのだ。要するに黙ればいい。黙って、オープンになればいい。そうすれば、そもそもそんなドアは要らなかったということに気づく。
そのあたりを、取り扱い損なった者は、ギーギーいうストレスドアの音を隠すため、そのドアの向こうにまた防音扉を取り付けるのだ。
そういう人と接触すると、まずそのおしゃれふうの扉に触れ、あれこのドアは妙に重いぞ、といぶかしみ、よくよく見ると、これは防音扉なのか、重いはずだ、と気づかされる。そしてその次には、ギーギーいって、もう力ずくでこじ開けるしかないようなドアに出くわす。そしてその向こうに、ようやくその人の生まの心がある。
神秘的……なわけはなくて、「こんなことやってられるか」でしかない。
黙る、というのは、実は有効なアイディアで、素敵な方法だ。もちろんダンマリを決め込むというのではない。それは引きこもりだ。ドアに施錠までしただけである。「黙れ」と、男に真剣に言ってもらえた女は幸福だ。女を黙らせてまで、聞かせたいこと、聞かせなくてはならない何か、そこまでして求めなくてはならない関係があると、認めてもらえたのだから。
古言、「黙って俺についてこい」という言い方があった。これは「黙って」というのがミソなのだ。ブーブー言いながらついていくというのでは、まるで日本国民である。僕はこれまで、会話における相槌の重要性を、うっとうしいほど言ってきたと思う。相槌というのは、その「黙って」、かつ「ついてきている」ということの反応を示す態度のことだ。黙っているだけなら電柱でも出来るが、電柱はついていくということができない。それでもたまに、酔っ払ったおじさんが、電柱に話していることはあるな。あれはよほど、人生の周りに「黙って」くれる人がいなかったのだ。
男に真剣に「黙れ」と言ってもらえた女は幸福だ。その証拠に、多くの人に断言してよいが、あなたは生涯、男に「黙れ」と言ってもらえることがない。それはつまり、あなたが黙ってようが、寝言を云ってようが、反発してブーブーいおうが、ウンウン、いいや、どうでもいいや、これ以上のものは別に要らないし、としか、彼は思ってくれないということだ。
こんな話を、深刻に聞かないように。内容は確かに深刻だ。だから僕は文章にしているのである。僕そのものの実体は、素手でチャーハンを食っていると思ってもらっていい。鼻にチョビヒゲを書いてもよいが、油性を洗い落とすにはたいへんな時間が掛かるし、お肌も傷むな……
***
人が、仲良くなるというか、認め合い、信頼しあうためには、実は「腹が立つ」ということを経なくてはならない。これは、意外に知られていないどころか、まったく知られていない。
「ロック思想の無い田舎はいまだに幕藩制度だから付き合うな」
「でもうちのおばあちゃんはかわいいよ」
これは表面上、「言い争い」に見える。
でも、この会話が、僕と美しいレディが、キスしながら交わされているものだったらどうか。
その途端、あ、仲が良い、認め合い、信頼しあっている、ということが受け取られる。
「ロック思想の無い田舎はいまだに幕藩制度だから付き合うな」
「でもうちのおばあちゃんはかわいいよ」
「それはつまりだな」
「ね、もういいよ、早く」
こういう具合だ。
腹の立つことを、云われたり、されたりしたら、腹が立つ。当たり前だ。
が、その腹の立つのが、「あれ? イヤじゃない」というところから、人間同士の信頼が始まる。
イヤじゃないというのは、深刻じゃないということだ。「イヤだ」と感じるのは深刻さの心地のものであるから。「うるせえ、まずしゃぶれ」と云われたら、女は腹が立つ。腹が立つが、深刻ではないので、「あれ? 別にイヤじゃない」となる。
それで具体的な言葉は、
「もう、困った人ね」
という、可愛らしいものになる。
もちろんそうなるためには、互いに心が暗くないことが土台として必要だ。初めから暗い二人がどう工夫したってこうはならない。
だから素手でチャーハンを食う必要があるのだ。チャーハンを食うのにスプーンを使う奴の気が知れない、と大真面目に言うぐらいの突破が必要だ。
その程度のこともわからない奴は、考え方の転換とか、パラダイムチェンジとかいう寝言は、生涯口に出してはいけない。そういう素敵なことはお前の一生に一ミリも関係ないのだと、あなたは一生思い込みをガチガチにして生きていくのですと、神父さんに両肩を叩かれて説諭される必要がある。
だいたいだ、「黙れ」とか「しゃぶれ」とか云われたぐらいで、腹が立って「イヤ」になるなら、そんなものは彼氏でもないし、好きでもないし、愛してなんかまるでないので、さっさと別れろ。さっさと別れるか、自分は恋人が欲しいのじゃなく、自分を気分良くしてくれるためにそこそこ搾取できる誰かが必要なの、と思え。そうしたら破綻しない。ただし僕は走って逃げる。チャーハンを食いながら逃げる。
チャーハンを素手で食う、というと、ホンモノのバカのように見えるが、「太陽にほえろ!」あたりのドラマで人がモノを食っているのを見ると、それぐらいの勢いがあるぞ。
「悪の教典」というタイトルの映画が、最近公開されたらしい。悪、という語ひとつで、ちょっと観てみたいな、と思っている。たぶん習慣的に観にいかないことになるが……作中では、シリアルキラーがばんばん人を殺すらしい。シリアルキラーやサイコパスというなら、人を殺したあと、ぜひ素手でチャーハンを嬉しそうに食っていてほしいものだ。誰よりも純粋な歓喜がある、というような。
このように、映画や小説は、フィクションであるからこそ、シリアスな真実を人にうっすら伝える機能を持ちえる。実際のシリアルキラーと出くわしたら、全力で打倒するしかなく、たぶん得るものは何もないだろう。
「俺たちに明日はない」という映画は、実話を元にしているが、ボニーとクライドというギャングスターの話、これはもう、ああ、自己の運命に巻き込まれてしまった二人が、もう引き返せない、血塗られた歓喜の中を無邪気にゆくしかないのだ……という説得力に満ちている。明日はないどころか午後も無いだろこれじゃ、という勢いだ。アメリカン・ニューシネマのお得意とする不条理のモチーフだが、まあそんなカテゴライズはどうでもいい。いろいろあるが、せっかくの名作のネタバレはやめよう。
腹が立つ、というのは、けっこう取り扱いづらい。そこで、感情は排泄物だ、と捉えることにしよう。腹が立った、というのは排泄物だ。僕がこう話しているのも排泄物だし、あなたが女性であったなら、僕は常にあなたに排泄物で厄介をかける。
まあでも、排泄物は排泄物だ。排泄物の、そのものにこだわることはない。排泄物の重要性は、一点、その排泄を済ませた我々がすっきり気持ちよくなるということにある。だからどんどん排泄すればよい。いちいちその排泄物を検分して分析なんかしないことだ。医者じゃあるまいし、それは悪趣味である。
最近は、女性を侮辱するスラングとして「肉便器」というのがあるが、これもバカらしい、彼らは排泄物が大便か小便かしか無いと思っているのだ。愛も尊き感情も排泄物である。これを流通させるにはたしかにそれを受け止める器となるものが必要だ。雨滴と湧き水が流れを持つには河という器が必要であるように。河は水を蓄えず流してしまうが、それは河の刹那性を意味してはいない。河はそういうもので、流すことでしか存在できないから美しいものである。
「肉便器」なるスラングを使用する権限は、美輪明宏が著書でよく言うところ、愛の何事も為さない者の、「人糞製造機」であることに引き受けられる。なるほど人糞製造機にとっては世の中には食餌と便器しかないように見えるわけだ。彼らにはチャーハンは食餌にしか見えないから、それを素手で食うことの愛はわかるまい。どちらがアホかといえば、この話、もちろん僕のほうがアホだ。賢いというのは醜いことだ。
ナイフとフォークのテーブルマナーは、植民地を持ち奴隷狩りをして富を溜め込み、ワインを飲むことの上にようやく成り立つ。われわれの生活にはそういう――不誠実な――側面もあるので、テーブルマナーは必要だ。でもそれと同程度に、素手チャーハンも必要なわけだ。植民地で奴隷狩りをするのは深刻である。その深刻さ、暗さに、吸い込まれないためには、誠実さの表れとして、軽薄さを持ち続けねばならない。
***
自分を傷つけながら生きなくてはならない。傷つけるというのは、消耗させるということである。いわゆる「傷つく」と少し違うのだが、あまり精密さを採らないほうがよいことがあって、工夫としてこの言い方がある。<<自分を傷つけながら生きなくてはならない>>。
なぜかといえば、そのことが、一番自分の軽薄ぶりを試すことになるからだ。軽薄なふうを装って、自分が傷つく、ボクちゃん傷ついちゃう、ということには深刻になるなら、それはやっぱり不誠実で、深刻野郎なのだ。末代まで馬鹿にされていい。
傷つき、消耗し、自分を失いながら、生きねばならない。
なぜなら、そうでないと、本当の音が出ないからだ。本当の音、本当の声、本当の線が、出てこないのだ。
たとえば野球のボールがある。これをコンクリートの壁に投げつける。ボールは壊れない。壊れないが、消耗する。これをバットで引っぱたけば、やはり消耗する。壊れはしないけれども。
そして、高校野球で、金属バットがボールを真芯に捕らえると、カキーンという、素晴らしい音がする。
あの音は、ボールとバットと、あと若者の身体が、消耗することで生まれる音なのだ。
その消耗の証拠として出現する音を、我々は、美しいとか、素晴らしいとか聞き取るのである。
プロの手品師の自宅を漁れば、必ず大量のトランプが出てくる。トランプというか、正しくはカード・デックという。USプレイングカーズ社の、プレイング・カードだ。物置から、トランクから、デスクから、冷蔵庫の中にまで、カード・デックはある。冷蔵庫に保存するのはむしろ一般的だ。カードは消耗品なのである。
野球のボールが、消耗しないようにと、中にセメントを詰めたらどうか。頑丈になるように見える。が、ボールとしての機能を失うし、結果的には、むしろすぐ壊れてしまう。これは、使い方を誤っているのだ。
同じく、プロの手品師が使うカードも、消耗品だが、プロが使っているうちは壊れない。が、これをいわゆるトランプゲームに一度でも使うと、もうダメだ。そのカードは、もう二度と鮮やかな動きをしてくれない。手の脂がつくし、カードの持ち方やシャッフルの仕方が不正のため、傷んでしまう。これは使い方が誤っているのだ。使い方を誤ると道具は壊れる。
人間の場合、リストカットなんかしても、それは身体の使い方が誤っているし、何の用事もないのに必死にランニングばかりしていると、逆に身体を壊す。
正しい使い方は消耗させるということで、然るべき失い方をさせていく、ということだ。
傷つけ、消耗させ、失わせるつもりがないと、必ずその手は萎縮する。腰が引け、おずおずとした、だらしない動作になる。貧弱な女子大生が手料理をするときの包丁遣いがそれだ。ああしていれば、包丁やまな板が傷むことはないだろうが、その分、出来上がってくるものは醜いし、それを作る行程も、何の美も具えないものになる。
プロの板前が使う包丁は、すぐ劣化し、すぐ研いで使うから、どんどんチビていく。まな板だって、出刃を叩きつけるからどんどん傷んでいく。でもそれで壊れるかというと壊れない。消耗はしていく。その消耗が、営みなのだと、彼らは身体で知っているため、彼らが出刃で大きな鯛の頭を割るところには、素晴らしい音と動作の美が具わっている。
ドラマーはドラムスティックを何本も持っているし、リムショットをするからどんどん傷む。スネアドラムだっていつか破れてしまう。けれども、むしろそうして消耗させるためにストロークを打つことで、スティックもドラムも本来の音、本当の「地」の音を出す。出すようになってくる。本来の地が持っている、「ネバリ」の感触が、本来の音を返してくる。
その音の手前で、消耗させないようにポワンポワン叩いてたって、アホみたいな音しか出ない。一度機会があれば生ドラムを誰もが叩いてみたらよいと思うが、本当にアホみたいな音しか出ない。
つまり、簡単には、ぶっ壊すつもりでやらなくてはだめだ。道具の使い方が正しい限りは、壊そうとしても壊れないのである。あなたのことを話している。野球のボールがそうであるように、コンクリートの壁に何百回とぶつけたって、そう簡単には壊れない。
カード・デックを、スプリングに飛ばし、カスケードに落とし、ファンに広げ、スプレッドに振り回したって、壊れない。むしろこなれて、本来の地にある、紙のやわらかい「ネバリ」が表れてくる。買いたてのカードを手の間で飛ばずと、ビーッという、固い、イヤな音がするものだ。これがこなれたカードになると、実に気持ちのいい、素晴らしい音になる。プロマジシャンの中には、使いこんだカードを売るなら一万円ぐらいなら売ってもいい、という人もいる。
消耗させたことで「値打ち」が出たのだ。一方で、カードデックというのは、わずかでも雨に濡れてしまったりするともうダメだ。変質して、使い物にならなくなる。壊れる。これは消耗ではなく、使い方の誤りだ。
素手でチャーハンを食ったって、あなたが男どもと本気で付き合ったって、それは使い方が誤ってはいないので、壊れない。壊せるものなら壊してみろよという話だ。何十年も生きてきて、少々気持ちがヘコむ習慣があります、というぐらいで、じっさいは元気で健康で社会的健全に生きているくせに、何が「壊れる」だ。
壊すつもりで本気でやってみる。すると、壊れないし、壊れないどころか、今まで見たこともなければ、感触したこともなかった、本来の地の「ネバリ」に、あなた自身触れることになる。それは、気持ちのいい、素晴らしい音を返してくるものだ。あなたの、あなた本来の、あなたの「地」の音。
スネアドラムをパンパン叩くとうるさい。それを、本気でブッ壊すつもりで叩くと、すごい音がするけれど、逆にうるさくない。それは「あれ? イヤじゃない」という音だ。その音は、迫力の割りに、むしろ心の内に静寂を与えるように響く。静寂というのは、停止的というのではない、もっと大きな動きを予感させる、恐怖めいた迫力を伴うものだ。地震の地鳴りが騒がしいというよりはこちらをヒヤリとさせるように響くみたいに。まさに「地」の音である。
人間を含めた、モノ、道具は、消耗によって美を放つのだ。消耗が美であり、美は消耗の証拠だ。
消耗することで、美を排泄するのである。高校野球の「カキーン」という音、スネアドラムの突き抜けた音、カード・デックの鮮やかな動き、板前が切った刺身のエッジ、これらは全て排泄物だ。
あなたの日々もだ。
ひいては、我々の採りうる選択肢は二つである。一、消耗を代償にして美を排泄するか、二、消耗を回避する代わり、美のないみじめさをごまかして糞詰まりに生きつつ、どこかでこっそり使い方を誤って壊れるか、どちらかだ。
深刻になっていると、この消耗がやれない。こだわり始める。排泄物なのに、それを忘れて。
軽薄とは、自己の消耗にへらへら笑ってみせることであり、排泄物を水に流してこだわらない、誠実さだ。
ではではこれからも、僕の誠実な排泄について、よろしく。
[了]