No.263 おしゃれとセンスとファッションと
友人からの要請を受けてこの話をします。僕自身は古着と量販品しか着ない者で、装飾もほぼ身に付けることの無い人間ですが、それとは別に、物事の構造・言葉から追及できることがあります。
女性の心理において、おしゃれとセンスとファッションは、最低限のたしなみである一方、単なるたしなみでは済まない、という側面があります。自己の存在の根本に関わるような感触で、女性はこのことにこだわらざるを得ないところがある。
なぜそのようなことが起こるのか、ということも含めて、これは解き明かそうとするものです。お楽しみください。ところで今日は二十四日ですね、みなさま、メリークリスマス。
「おしゃれ」ということ
若者ことばとして、オシャレを「オサレ」と言い換えることがあります。それは、オシャレという語をよりオシャレに言い直すためであったり、あるいは逆に、「本人はオシャレと思っているけれど」と揶揄するためであったりします。それはともかくとして、実は「オシャレ」の語源は「オサレ」です。される→しゃれる→おしゃれと変化してゆき、現在のオシャレの語があります。「お洒落」という字はどうやら当て字であるようです。
しゃれる、の語源である「される」は、「曝れる」と書きます。「曝(さら)される」の字ですが、そのまま、「曝れる」というのは「長いあいだ風雨に曝される」という意味です。長いあいだ、風雨に曝されてきた石造りの建造物などは、ヨーロッパなどが典型ですが、独特の風合いを持ちます。それを古い日本語では、「曝(さ)れているな」と言ったようです。ひいては、それらヨーロッパの街並みについて「オシャレだな」と表現するのは、正しいことになります。
同じような言葉で、「瀟洒な」という言葉があります。この瀟洒という熟語も、それぞれ、[瀟/風雨が降りそそぐ][洒/水ですすぐ]という意味を持っています。「洗練」という語も、「物を洗い、練って良くする」という意味ですし、「垢抜ける」という語も、いかにも水で洗い落とすことの印象があります。
このことに見られる「おしゃれ」の、もっとも直接的な例は、ダメージ・ジーンズや、そのストーンウォッシュ物などに見られるのではないでしょうか。ダメージ・ジーンズは、新品の、出来立て・染め立てのそれを、わざわざ傷つけて、エイジングの風合いをつけるものです。風雨だけではないですが、何かしらに曝されてきたものの様相に仕上げるわけです。
一方、たとえば豪奢な石造りのキリスト教会が新築されたとします。そのとき人人は、習慣的に、それに対する感嘆を「おしゃれ」と表現してしまいますが、ここにはひとつ注意が必要です。人人はそこに、新築の、豪奢な、石造りの建物の印象を受けていますが、彼女たちのこぼす「おしゃれ」という感嘆は、実は新品の建物の美しさに当たっているのではありません。「キリスト教会」という、そのものに当たっています。
キリスト教とその教会は、その建築物の様式も合わせて、長いあいだ、歴史とその風雨にさらされてきました。それが改めて目の前に立ち上がってあるので、それを「おしゃれ」と感じているのです。
このことはもちろん、近未来的な建築物が立ち上がったときにも成立します。それが近未来的であるということは、人人が磨き上げてきた科学技術の精粋がそこに現れているということです。その、かつては未熟であった科学技術が、風雨に曝されて、現代の科学技術になったという、そのことの現れを見て、人は「おしゃれ」という語を紡ぎだしているのです。近未来的なそれが「カッコイイ」として、カッコイイはただちにおしゃれではありません。
だから、子供が憧れるアニメーション作品の中の「かっこいいロボット」は、たしかにカッコイイのかもしれませんが、それを人人は「おしゃれ」だとは言わない。このことは端的に、個人が作り出す純粋なイマジネーションは、創作物として優れていても、「おしゃれ」ではないことを指しています。何かしら、風雨に曝されてきた結果としてのものがそこに現れていないかぎり、おしゃれという語は当たりません。
いくら美しいものでも、たとえば星空であるとかは、風雨も何もあったものではない、何万年も変わらないものなので、それを「おしゃれ」とは言いません。
本来の意味においての「おしゃれ」は、その背後に、長いあいだ曝されてきた風雨と、それによる洗い落としを持っています。
「おしゃれ」の二重性(ダブルミーニング)
やっかいな問題があります。
おしゃれを「お洒落」と書くのは、どうやら当て字のようなのですが、困ったことに、日本語で言う「おしゃれ」は、その当て字のほう、「洒落」の意味も同時に持ち合わせていると言わざるを得ないからです。
いま、日本のファッションリーダーといえば、たとえばきゃりーぱみゅぱみゅさんでしょうか。彼女は全ては、いま「おしゃれ」だと少女らに受け入れられています。
が、ここでこう考えてみる。パリ・コレクションにもし「日本」のプレイヤーを出展させるとしたら、きゃりーぱみゅぱみゅさんのファッションを出すべきか、それとも、ミス・インターナショナルの日本代表に、今年の祇園の和装を与えて出すべきか。
これはけっこう悩みます。一番おしゃれだと思うほうを、もちろん出すべきです。きゃりーぱみゅぱみゅさんが、鼻の下をケガされて、それを逆手にとって、付けヒゲをファッションに持ち込んだことが話題になりましたが、我々は果たしてその付けヒゲファッションをパリ・コレクションに送り込むべきか。
冷静に考えると、どう見ても、日本の積み重ねてきた(もはや途絶えていますが)和装の「おしゃれ」と、きゃりーぱみゅぱみゅさんの「おしゃれ」は、同じ言葉だが意味が違う、ということがわかります。
和装は、日本の歴史の中、その気候や時代、また思想と文化の風雨にさらされてきた末に、現在の形となっているものです。伝統的ではありますが、風雨に曝され続けているべきで、ひいては去年のそれと今年のそれは違うべきです。それは「おしゃれ」です。
一方、きゃりーぱみゅぱみゅさんが、鼻の下に付けヒゲをしたというのは、おしゃれですが、これはキッチュであり、「洒落」なのです。気の利いたジョーク性が、うまい、キュートだ、ということです。
そのいたずらっぽさの説得力についても、われわれは「おしゃれだ」という語を当ててしまいます。
このことはいかにも混乱の元です。
たとえば、いかにも若さの表れている「おしゃれ系」のような人がいたとします。彼があるバーで、身なりの美しい女性を見かけたとして、「超オサレくないっスか?」と話しかけたとしましょう。これは「おしゃれ」なのか。よくわからなくなります。彼は確かに流行からは逸脱していないのですが、疑問符がつきます。
一方で、ダブルのスーツを着た紳士が、バーを去り際に、バーテンダーに紙片を渡す。そして、身なりの美しい女性のところには、「いま去られたお客様からです」と、一杯のカクテルと紙片が差し出される。紙片には、「貴女の洒脱さに見とれていました、古めかしい祝福の仕方を赦してください」と書かれていた。これは、きょうびいかにも流行らない類です。ではこれは「おしゃれ」ではありえないか。
このように、「おしゃれ」という語の意味は、二重性を持ってしまっているのです。「洒落」という意味で捉えたときには、そこにあるジョーク性について、気が利いているかが問われますが、もう一方、洗練、瀟洒、垢抜けているという意味で捉えられたときは、長いあいだの風雨に曝されて、しかるべき様相になっているか、ということが問われるのです。
西洋の女性が教会の結婚式でウェディングドレスを着ると、やはり「おしゃれ」です。それは彼女が、その連綿と続いてきた文化の末端にいるからです。長いあいだ風雨にさらされてきて、今日そこにある文化の風景。日本人女性が着ても、もちろん美しいですが、「おしゃれ」という点ではさすがに本場の方に一歩ゆずらざるを得ません。
けれども、教会の中、文化的風景の中でウェディングドレスを着て歩く姿には、何のジョーク性もありません。「洒落が足りない」という見方ができますし、「洒落でやっているんじゃないんだ」という言い方もできます。
ウェディングドレスを着た女性は、カメラに向けて、足を開いて仁王立ちし、Vサインをしてみせるべきでしょうか。それは「洒落」が利いています。が、本来の「おしゃれ」ではなくなります。
僕は女性のおしゃれについて、口出しをする趣味はありません。ですが、この「おしゃれ」の語が持つ意味の二重性に気づかれなければ、自分が何を目指すにせよ、それはきっと混乱の元になるでしょう。
センス
センスという語は、もちろん「感覚」のことを指します。視覚、聴覚、触覚、味覚……というような、五感などの感覚がsenseです。ところがその他に、「意識」という意味や、ややこしくなりますが、「意味」という意味も持ちます。
英語で、わけのわからない主張を言うと、
Make sense!
と言われてしまいます。意味を為せ、意味を為すように話しなさい、という意味です。
また、
Can you make sense of this letter?
というのは、「この手紙の意味が分かりますか?」になりますし、
see sense
というのは「道理が分かる」になります。意味を見ることができる、ということです。
センスとはこのような語なので、日本語にするのが難しくなります。いわゆる「センスがある人」というのは、意味・道理があって、またそれを感じ取ることができる人、ということになります。
具体例を挙げたほうがわかりやすいでしょう。
たとえば、日本が敗戦国となり、戦後の日本を統治するため、GHQのマッカーサーがやってきました。そのとき彼はまず、いかにも堂々と、コーンパイプを口にくわえて飛行機のタラップに現れたのです。そのときの写真は有名ですから、たぶんあれのことだなと、脳裏に描いてらっしゃると思います。
あれはつまり、ある種の、この場合は統治者としての政治的な、「センスがあった」ということになります。彼がもしコーンパイプをくわえていなかったら、きっと我々はその写真を記憶に残していません。戦勝国として、統治者として、また異文化から来た権威・権力として……そこにどのような「センス/意味」があったのかを、すべて言葉で語ることは不可能です。それが語りきれず、感覚で捉えるしかないからこそ、それはセンスと呼ばれるものです。
対比して、言葉で意味を説明しきれるものは、「meaning/意味」という語が使われます。
先日、お掃除ロボットとして有名になった「ルンバ」の、製造メーカーの特集が、テレヴィでなされていました。社員はオフィスにもルンバを走らせ、それを機能させるだけでなく、いろいろ工夫して遊んでいるのですが、その映像が巧妙だったのは、若い女性社員たちがオフィスの床に直接座って遊んでいたところです。その映像は、社員の口からは説明されませんが、ルンバに掃除させている床はそれほど清潔さを保つのだ、という意味を具(そな)えます。テレヴィの特集にわざわざそういう映像を撮らせたのは、いかにも「センスがある」と言うべきです。
年末の恒例になりましたが、同じくテレヴィの番組で、「人志松本の○○な話」という特別番組があります。お笑い芸人が集って、とっておきの笑い話をするというものですが、あれもよく見ると、発案者である松本さんの「センス」にあふれています。
そこで話される内容が、ではありません。
まず、プレイヤーたちが「正装」しています。正装して、豪壮なテーブルを取り囲んで座っています。そして映画俳優など、ハイカルチャーの人間たちが、やはり正装して彼らの話を聴衆として受け取ります。つまりあれは、場の「格調」を主張しているのです。普段は泥臭い仕事をする者らと捉えられているお笑い芸人たちを、あえて高みにおいて、というふうに。
このことにはきっと、松本さんが以前からボヤいていた、「なんでお笑い芸人ってこんな扱いやねん!」という納得のいかなさが土台にあります。その旧来のありようを揺さぶるための、ニュー・ファッションの在り方を、彼は提出してみせたのです。そしてそれは確かに、どこか人心を捉えたので、人気番組になりました。
「松本人志」ではなく「人志松本の」という企画タイトルになっている点も注目すべきです。姓名の順序が入れ替えられているのは、いわずもがな、西洋式の呼称法を取り入れたもので、場の格調をグローバルスタンダードに基準させようとしてのことです。これらの「センス」が松本さん一人のアイディアとして出てくるので、彼をよく知る人は、彼について「センスがある」どころか、天才だ、と認めるのです。もしあの企画に松本さんのセンスが加わっていなければ、同様の企画に見えても、「年末恒例! お笑い芸人、とっておき座談会」みたいなものになっていたでしょう。
さて、多くの場合、やはり女性は服飾についての「センス」を持ちたいと、望んでいるに違いありません。それについて、僕は服飾センスの人間ではありませんから、直接のアドバイスをすることはできませんが、このようには言い得ます。
たとえば「コーンパイプ」。マッカーサーがそれを口にくわえて現れたことには、政治的な、また人民統治に関わる心理的な意味がありました。センスがあり、効果があったのです。ではそれを、あなたがくわえたらどうか。あなたが学校に行くときに、それを口にくわえていく……それが「意味」を構築しないものであったら、それは「ナンセンス/無意味」になります。
パリ・コレクションのモデルが、コーンパイプを口にくわえてランウェイに現れたらどうでしょう。それはナンセンスになるか、あるいは何かしらのセンス/意味を構築するか。意味を構築するとしたら、どのようになりうるだろうか? それを言葉では説明しきれないので、まさに感覚の問題、センスの問題となります。きゃりーぱみゅぱみゅさんがコーンパイプをくわえてPVに出演していたらどうか。そこにセンス/意味は構築されるか。あるいはコーンパイプでなく、キセルであったらどうか。コーンパイプからシャボン玉が出たらどうか。映像も曲調もダークなものであったらどうか。十年後のきゃりーぱみゅぱみゅさんであったらどうか。
感覚の問題なので、ファクター(要素)は無限にありえます。コーンパイプだけでなく、無限のアイテムが世の中にはあり、着る服、履く靴、髪型、色調、その組み合わせは無限にあります。
「センスがある人」というのは、それら無限の要素の中から、いくつかのものを選び出し、まとめて、一つの意味構築の像を実現させられる人です。
およそ、そのことの専門家、服飾のクリエイターやインテリアのコーディネーター、演出家などは、その意味構築のセンスの専門家です。無限のファクターが組み合わされることで出現する意味構築を、単に「かわいい」という印象のみで捉えるのではなく、「何がどうなってこうなっているのか」ということの道理を、彼らは感覚で掴めるのです。さらには、それが掴めるというのみならず、そこにまた無いものも、想像力で作り出していける、というのが、彼らのクリエイターとしての能力です。
専門家でない、一般人でも、「センスのある人になりたい!」というのは、その意味構築を感覚で掴み取り、作り出していくということを、自分でもできるようになりたい、その感覚能力を持ちたい、ということです。
男性より女性のほうが、やはり服飾の、あるいは全てのことについて、おしゃれ、センス、という点で、秀でたいと望んでいます。それはきっと、女性が男性より機能的な存在ではないからです。男性は、いかにおしゃれでなく、いわゆるセンスがなかったとしても、仕事や体力などの、実用面で機能的であれば、自己存在の確認が出来ます。けれども多くの場合、やはり女性は、そういった面での機能性は男性にかないません。
それで女性は、「では自分という存在は何なのだ?」という疑問を、奥深いところに持っています。特に、自分という「女」の存在は、一体何なのだ? と。
女性は、そもそもの自分の肉体に、機能性の劣等はあっても、センス/意味においては優等があります。女性の、髪、頬、うなじ、鎖骨、バスト、ウエスト、ヒップ、足、これらは、男性においては何の意味も構築しないものですが、女性においては意味を構築するものです。女性のうなじは写真に撮る価値がありますが、男性のうなじにその価値はありません。
女性は、自己の存在を確認するためには、この持って生まれたものを活かしていくべきだと感じ、それで自分の肉体を取り巻く物についての「センス」に無関心ではいられなくなるのです。
ファッション
ファッションは「流行」です。服飾のことではありません。単に語学的なこととして、ファッション=服飾という捉え方は誤りです。現在は、服飾がいかにもファッション性(流行性)のシンボルなので、まるで服飾がファッションであるかのように誤解されがちというだけです。
ファッション/流行が、どこから出現するものなのかは、定かではありません。古くはきっと、王侯か、その周辺の貴族からだったでしょう。現在は、文化英雄、いわゆるタレント・スターのそれが、大衆に伝播していくように見えます。もちろん、その背後には仕掛け人がいて、現代の流行がどこかで入念に設計されたものだというのも、漠然とですが、我々には知られています。
ファッションは流行ですから、常に動くものですし、同時に、流行は繰り返すもの、とも言われます。そのように、常に変化し、常に回帰を目指す流行は、ここまでの話とつなげるならば、その輪廻の中で「長いあいだの風雨にさらされる」と捉えるべきです。ずいぶん昔の流行が、また戻ってきたよ……というとき、その回帰してきた流行は、過去のそれと同一ではありません。過去より洗練され、瀟洒になり、垢抜けています。そうして風雨にさらされてきたものを、「曝(さ)れているな」、「おしゃれだな」と捉えるのは、正しい、と初めに指摘しました。
今年の流行を、付けヒゲと猫モチーフとするのは、いささか偏りがありますので、もう少し確かなものを頼るとしましょう。たとえば過去に、ルーズソックスが流行したり、厚底ミュールが流行したり、バルーンスカートが流行したり、レギンスが流行したり、ボレロが流行したことがありました。これらひとつひとつの流行は、たとえば先の話での「コーンパイプ」に引き当てると、わかりやすくなります。あなたがコーンパイプをくわえて学校に行ったらどうなるか、というのは、いかにもナンセンスになりそうだ、ということが感じられました。これはわかりやすかった。では、それがコーンパイプでなくバルーンスカートだったらどうか。
「あなたはそれを、ナンセンスでないものにできる?」
と問われることになります。
まるで、一つのお題を、教師から作文の宿題に出されたように、それは人人を悩ませます。また、楽しませもします。
きょうび、日本の若い女性で、おしゃれをまったくしていない女性というのは少ないでしょう。それなりに、まとまった身なりをされていて、その身なりは、女性の身体と重なって、必ず何かしらのセンス/意味を構築しています。それが、ハイセンスかどうかは、人それぞれあるとしても。
そこに、流行のアイテムやカラーが、何であれ、飛び込んでくる。それをどう取り入れて、自分なりのセンス/意味の構築を、新しいものにしていくか。そのことに鋭敏な女性は、このことに楽しく悩み、その「新作」を見事に実現している人を目に留めて、「すてき」と喜びます。あるいはライバル心もあるでしょうし、無関心ではありえないですから、「あれは違う」と内心で否定することもきっとありそうです。
女性は街中で、自分と同じ服を着ている女性を見ると、かなりはっきりした「不快」として、何か脅かされる感触を受けます。それは、自分が織り成しているセンス/意味の構築の像が、他の誰かと(一部でも)一緒であれば、自己の存在確認が霧散してしまうからです。
……余談ですが、男性の場合、というか、僕の場合ですが、たぶん目の前に自分と同じ服を着ている人がいても、不快に思わないどころか、多分そのことに気づきません。いかにもヤボテンで恥ずかしいですが、実際そういうものです。それぐらい、おしゃれとセンスとファッションとに、向ける意識レベルの違いは、男女の間でかけ離れています。
「どう、この服、似合う?」と繰り返し訊いて、彼がだんだん疲れ始めても、どうかあまりそのことを怒らないでやってください。男は、それを「かわいいね」ぐらいにしか、ほとんどの場合わかっていないのです。
いわば「センス的自己実現」
いかがでしたでしょうか。僕には服飾のセンスなどありませんが、人人が何をやっているかを捉える感覚/センスはあるはずだとして、慎重に捉えて洗いなおすことをしてみました。
おしゃれという語には二重性があって、その語とにらめっこしているとしばしば行方不明になりそうです。根本はどうやら、女性が自分を機能的な存在ではないと捉え、けれどもこの肉体には男性にはないセンス/意味が具わっていると認めることにあり、自分はいわば「センス的自己実現」に向かうのだと志すことにあるようでした。
この「女」である肉体の上に、どう意味を重ねてゆき、構築していくか……そこで、ナンセンスにならず、センス/意味の構築を実現できるか、その感覚の能力を自分は持つことができるか、ということのようでした。まるでそのための課題のように、次々に、時代のファッションは送り込まれてきます。それに楽しく悩んで、行き着くところ、自分は「おしゃれ」でなくてはならない。自分のセンス/意味の構築には、その背後に、長いあいだの風雨に曝された、その洗い落とされた洒脱が必要なのでした。常に新しく変動する流行・ファッションというものを取り入れて、それがなお可能であるのは、回帰を繰り返すファッション自体が、ちゃんと長いあいだの風雨に曝されてきたものであるからだ、ということのようです。Can you make sense of this column?
ではでは、このお話が、あなたの楽しみか、実用かに、少しでも役立ったなら幸いです。
日付が変わってしまいました。
[おしゃれとセンスとファッションと/了]