No.264 本当に面白いことをしなくてはならない
時間は、帰ってこないものなので、人生を失敗することは、実際できる。
僕は、明るい人が好きで(誰でもそうだ)、顔のつぶれた人がきらいだ。
人生の時間のうち、三十年を失敗し、うしなったら、その三十年はすごく重い。
この重みにつぶされた人の顔をみるのは、どうしても苦手だ。
重みにつぶされた人の顔はどうなるか?
笑い顔になるのだ。
笑い顔が、防波堤として強いからだろう。
それはわかるが、さすがに直視できない。
でも、そういうところへ追い込まれ、何の救いもないというのも、人が生きることの実際で、現実なのだろう。
そういえば、子供のころ、同じく子供が悪ふざけで、とがった石刃を使って、ミドリガメの首を切り落としたことがあった。
血が出るのはもちろんのことだが、見ていてすごく悲しくなったのを覚えている。
首を切られてもミドリガメはしばらくモゾモゾ動く。
僕が切なく感じたのは、
「ああ、もう元には戻らない」
だった。
そのとき、元あったそのミドリガメの形を、実は愛しており、かわいく思っていたのだと気づいた。
ミドリガメが元あった形に戻ろうとしてモゾモゾ探し物をしている。
もう元には戻らない、当たり前だ。
人はおそろしいことをするものである。
明るい顔の人がいいな。
でも、ご存知のとおり、明るいだけで人間は全力を出せない。
全力というのは、その字の通り、自分の持つ全ての階層の力を使うことだからだ。
京都の、清水寺は、千手観音を本尊として観光客に展示しているが、僕はどう考えても、あの寺のあの位置にあのような大きさの本尊が置かれているとは到底信じられない。
宗教には、密教と顕教があって、密教のほうはその教えを外部に公開していない。
密教の寺院の奥で、本当には何がなされているのかは、外側からはわからないのだ。
僕は、あの清水寺のあたり、夜になると、地形の構造ごとがどんどん恐ろしくなるのを感じる。
あまり怖い話はしたくないが、死の恐怖と生の恐怖は、同質で、同一のものだ。
ただし、恐怖というのは、不安とは違い、人をただ食い散らかすものではない。
夜になった清水寺のまわり、人人が、荘厳さの成分を含んだやさしさをもって人に振る舞い、生きているのを、僕は体験した。
不安は人を殺伐とさせるだけだが、恐怖は人をやさしくさせるものだ。
恐怖があり、それを引き受けているうちは、三十年をうしなって顔がつぶれる、というようなことは無くて済むだろう。
いやあ、怖いな、何が怖いって、「三十年」という単語が怖い。
厳しい禅寺に入る人は、懐に短刀を忍ばせていくという。
本当ですかね、と、その筋の人に訊いたことがあるけれど、彼は苦笑いしただけだった。
短刀は、厳しい修行の中で、足の指先が凍傷で壊死するから、それを自分で切り落とすためのものだ。
そういうことをヘッチャラでやるツワモノたちでさえ、恐怖(この場合「ぐふ」と読む)の存在を否定してはいない。
つまり、彼らは全力で、
(やめよう)
年の瀬だというのに、物騒な話をしてしまった。
「本当に面白いことをしなくてはならない」というタイトルにした。
実は、このことの構造化のために、この数ヶ月、僕はこっそり苦心してきたのでもある。
まったくどうでもいいことなので、説明はしない。
「本当に面白いこと」と、あえて言うのは、「本当には面白くない、面白いこと」があるということで、そっちはやめようね、ということだ。
いかにも僕がしそうな話で、ヒネリがなくて残念である。
いや、でも、このことはどうしても考えて、話したい、と思ったのも事実だ。
本当に面白いことをしなくてはならない、という義務は誰にもない。
ただ、それをしないと、三十年後に顔がつぶれる。
ある独特の笑い顔になってしまう。
三十年も我慢できれば、すごく強いほうだ。
人間、その気になれば、なんでもできるというのは事実だけれど、一方、ミドリガメの首はもう元には戻らず、モゾモゾするのが切なかったというのも、やはり事実だった。
***
まあでも、好きにしろ!
と、プレッシャーに負けて、台無しにすることを言うのだった。
でも、まったく好きにしろ、というほうが正しい。
別にあの独特の笑い顔になったとして、それの何が悪いと決まったわけでもないのだから。
ええと、だから、ここからの話は、わたしいい男の女にならなっていいわ、という、例外的な人だけに向けて話す内容になる。
明るい顔を愛する、僕の同志どもに向けて。
まず、本当には面白くないことを、面白いと言うのをやめよう。
それは自分の情緒反応をブッ壊してしまうからだ。
あるお笑い芸人が出てきて、彼を大絶賛しておきながら、半年後には興味を失い、三年後には記憶さえない、みたいなことをやめよう。
半年後に、興味を失って、忘れていいし、そのとき限りで笑っていいのだけれど、それを「面白い」と言うのをやめよう。
「面白い」ということが、何なのかわからなくなるから。
これは訓話として言っているのではなく、生理的な脳の機能のこととして話している。
実はこれは、まったくシャレにならないことなのだ。
脳が混乱するのである。
カラスは黒い、というのは、何年後でも変わらないから、脳は混乱しないけれども、あの芸人チョー面白い、というのは、半年後にはそうではなくなっているから、混乱するのだ。
僕の知人が、レディー・ガガを気に入って、彼女には故・マイケルジャクソンと同程度の才能があるよ、天才だ、と絶賛していた。
でも今になって聞くと、「ああ、ガガね」と、まるで興味を失っている。
こういうのは、当人が苦しむ。
シャレじゃなく苦しむ。「苦」というものが実際にある。
ああ、いやだなあ、「苦」なんて……
彼は、自分の言う言葉が、何のものなのか、わからなくなってくるのだ。
たとえば、
「仕事、やる気が出てきてね。やっぱり体力と気合でしょう。フットサルもやっててさ……あと嫁が海外モノの連続ドラマに凝っていて、一緒に観てるとオレもマイブームになっちゃった。面白いよ実際、超ハマる」
こういう、ありふれた言葉群があったとして、彼の脳内ではもう、手応えが次のようになっている。
「?仕事???やる気???が出てきて???ねやっぱり???体力???と気合???でしょう???フットサル???もやってて???さ???あと???嫁が海外モノ???の連続ドラマ???に凝っていて???一緒に???観てると???オレも???マイブーム???になっちゃった???面白いよ???実際???超???ハマる???」
こういう人は、得てして早口になる。速度を落とすと、「?」が気になって、立ち止まってダンマリになってしまうからだ。
そして、早口なのに、何も実のあることを言わなくなる。
そりゃこんなハテナだらけの脳内だったら、実体のあることなんか言えるわけがない。
ちなみに、「独特の笑い顔」というのは、
笑顔???
ということだ。
うーん、こんなことが、三十年も蓄積してから気づいたというのでは、もう取り返しがつかない。
僕はそういう展開がきらいで、何が好きかというと、明るい顔の女の人の、バストをつついて、明るい顔のまま怒られるのが好きだ。
同じ三十年なら、そういう三十年のほうがいい。
本当に面白いことをしなくてはならない……と、しまった、説得力が無くなってしまった。
***
二〇一二年の夏、僕は友人に、あるひどいことを言った。
「お前の人生に、本当に面白いことなんて、何一つ無いんだよ。お前は、何一つ得られないし、与えられないんだよ。誤解してる。なぜ、勝手にそう思い込んだの。なぜ、自分にもそんなものが与えられるなんて、いつの間に、何を根拠に思い込んだの」
なかなかひどい文言だが、これは逆に、彼を落ち着かせてしまった。
つじつまが整合したからだ。
「そうか、だからか。本当には面白くないことを、面白いと思い込んでいただけだから、力が出ないし、しんどいのか」
「ああ」
「じゃあ、いっそ当たり前というか、それで正しいんだな、俺は」
「そうだ」
この後にはもちろん、じゃあなんでお前だけいつも楽しいんだよズルイだろ、という、愉快なやりとりが続いた。
彼をまったく納得させたのは、次のような僕の例え話。
「たとえば、サーフィンは『面白い』じゃない。やったことないけど」
「ああ」
「でもね、その『面白い』を真に受けて、お前はさ、波の出ない内海で、サーフボードにちゃぷちゃぷ浮かんでいるんだよ。それで、これは面白いはずだから、って、青春みたいな表情を無理やりしてる」
「そりゃアホじゃないか」
「アホだよ」
続く。
「それで」
「つまりだ、お前にとっては、サーフィンは『面白い』なんてのは、雑音でしかなかったんだ。無いほうがいい情報だったんだ」
「じゃあ、お前はひょっとして」
「そうだよ、雑音を、実はまったく聞いてないんだよ」
「ひでえ裏切りじゃないか」
「そうだよ。何が『面白い』だクソめ、と思ってる。全てが退屈、全てが倦怠で結構、と思ってるよ」
「それはまた……」
「だって、全部ウソに決まってるじゃない、そういう話って、初めから」
「全部ウソ、なのか」
「馬鹿馬鹿しい、サーフィンなんか『面白い』わけないだろ」
「それはそうかもしれない、けど、じゃあサーフィンなんか絶対しないっていうことか」
「それは違うなあ。波の出ない内海で、サーフボードにぷかぷか浮いているのが、つまらないとは限らないもの。そういうところに、自分の魂が棲みつくってことは、結構あるもの」
「魂が棲みつく?」
「そう。魂は、倦怠のところに棲みつくんだよ。いわゆる『面白いこと』なんてのは、魂にとってはただの喧騒に過ぎないね。お前だって知っているはず、心当たりが必ずある」
「というと」
「自分の魂が、あそこに残っているなっていう、思い出を振り返ってごらんよ。それがどれだけ騒がしいものに見えても。たとえばナイトクラブやライブハウスなんかでも。怒号の飛び交う合宿でもさ」
「うん」
「思い出は、静かじゃないか?」
「ああ、静かだ」
「うん、だから、魂はその静かな倦怠の中に棲みつくことを選んでいる。喧騒なんてのは、見かけのもの、便宜上のものでね。魂は、倦怠に棲みつく。そこになら、吸い込まれていい、やがて帰っていっていい、と焦がれるんだ」
「それは、どうしようもないことだな」
僕がこの年の瀬に本稿のタイトルをこのように選んだ、本当に面白いことをしなくてはならないというのは、倦怠、その魂が棲みつくようなことを愛し、踏み入っていかねばならない、ということだ。
***
たとえば、異業種交流会、みたいなものは、有意義だが、そんなところに魂は棲みつかない。
パーティを略して、鍋パ、タコパ、みたいなことをしてもいいし、それは楽しいが、そんなイベントごとに魂は棲みつかない。
棲みつくとしたら、その裏側に愛すべき倦怠が渦を巻いたときだけだが、ふつうそういうところは騒ぎたい人が集まってしまうので、中々そうはならないし、何になるかというと不安になる。
不安になるとか、はっきり悪口を言ってしまった。
まあ別に、楽しいことは、楽しいこととして、楽しめばいいし、魂の棲みつくところだけで、人は生きていけるわけではない。
フォローにもなっていないけれど、ああ、僕はフォローがヘタクソだ。
この際だから、全部言ってしまおうか。
こういうとき、大晦日だから、という言い訳はたいへん便利だ。
勉強を頑張り、仕事に一生懸命で、人には笑顔で接し、家族や夫婦の互いを愛そうとし、旅行やスポーツのイベントを豊かにする、趣味にも本腰を入れて、習い事や文化的な方面も充実させていく、夜遊びもそこそこやって、友人と飲むときは飲む、そうして楽しんでいくのが人生の味わいで、報われる……
というのは、全部ウソだ。
大きな太字で書いていい、「全部ウソ」である。
それらの結果がどこに結びつくかというと、三十年後の独特の笑い顔になる。
三十年をうしない、人生を失敗するのだ。
失敗して得られるのは、あっそうか、という合点と共に、
「もう元には戻らないんだ」
という切なさのみだ。
おそろしいことを言ってしまった。
でも本当のことだからしょうがない。言わずに行くほうが、本当には邪悪だと僕は思う。
こまごまと書くのは面倒なので、一連のことは「リア充」の語にまとめよう。リア充の中には、軽薄なそれもあるけれど、真面目に、真剣に、誠実にしている方も勿論いらっしゃる。
僕は、その彼女の顔がつぶれてしまい、もう元には戻らない、というようなところを、見たくないのだ。
「リア充」の全ては、有意義で、楽しいし、建設的だが、そこに魂は棲みつかない。
魂が棲みつくのは、倦怠の場所だからだ。
アバンギャルドを、ちょっと脇に置いておいて、その他の、いわゆる名画の全てを見てみたらいい。全ての絵が、「倦怠」を指し示している。
ミレーの「落穂拾い」の、どこが「楽しい」のだ。どこが「面白い」のだ。倦怠に決まっている。
でも、その倦怠になら、人の魂は、そこに帰っていい、と焦がれるのだ。
「時には昔の話を」という歌がある。その歌詞に、
道端で/眠ったことも/あったね/どこにもゆけない/みんなで
というのがある。
「どこにもゆけない」というのは、倦怠だ。
ボーリングとダーツとカラオケに行っていないのだから倦怠だ。
僕はこのところ、「黙れ」ということを、強く押してきたと思う。
(どうだ、ちゃんと構造化しているだろう、もちろん「美と不安」あたりも、この話の構造を支えている)
「黙れ」というのは、互いにワイワイ言い合ったら、楽しいけれど、いつまでたっても倦怠に至らないからだ。
もちろん、ワイワイ言い合っても、倦怠に至ることは、出来なくはない。
有意義でないことを、ずっと言い合えれば。
ただし、きょうび、有意義でないことを豊かに言い合える人なんて、極少数派だろう。
だから「黙れ」と言った。
有意義というのは、「主張」とか「評価」とかだ。
たとえば、悋気講、女同士で集まって、彼氏の愚痴などを言い合う。「男ってさあ」と、とめどなく。これは「主張」だ。「わかるー」みたいなものは「評価」だ。
それを、酒を飲みながらギャンギャンやると、楽しい。誤解してはならないのは、それは「楽しい」ということだ。楽しいし、面白いし、よく笑う、そしてストレス解消になる。
が、そこに魂が棲みつくわけではないので、その楽しいことをずっと続けていくと、人生がうしなわれる。
「あそこに、あの場所に、あの空間に、人人の中に、帰りたい」
と、いつの日か、突如思う、魂が泣きそぼつ、ということが無い。
お笑い芸人を見て、審査員が評点する、自分も一緒になって内心で評点して……というのは、「評価」だから、楽しい。楽しいけれど、そこに魂は棲みつかない。
だから、こいつら最高だったなあ! みたいな評価を与えても、半年後には興味を失い、三年後には完全に忘れているのだ。
そこに魂が棲みつかず、それどころか、触れてもいないから。
子供のころの、夏休みが、楽しかったなんてのはウソだ。
本当には、「楽しかった」ではないので、それを「楽しかった」と言うのをやめようと、先に言ったとおりだ。
そこにあったのは、本当は倦怠だったのだ。
子供のころ、両親が旅行に連れていってくれる、それには感謝しなくてはいけないけれど、本当は行きたくない、ということはなかったか?
それは子供が、倦怠の中に魂が棲みつくということ、その喜びを知っていて、近所を冒険したり、友達と絵を描いたりプールに行ったりするほうが好きだったからだ。
「楽しい」という次元でみたら、子供なんかより大人のほうがはるかに楽しい。
興味深い情報をインターネットで検索し、大迫力の映画を好きなだけレンタルしてきて、耳からは音楽を流し込みっぱなし、ホロホロ鳥のジビエのコンフィをたらふく食べて、酒を呑み、男なら性風俗をハシゴする、翌日にはまた重要な仕事がある、というのが大人だ。
それに比べたら、子供は冬休みに、自転車で駆け回り、水溜りに張っている氷の造形のうち、特別なものを探して歩き、それを踏んで割ってまわり、迷子になるだけだ。こんなこと、大人はとてもじゃないが、退屈でやってられない。
いつの間にか、人は「楽しい」「面白い」を、善だと思い込む。そう決まったわけではないのに、いつの間にか。その刷り込みにはきっと、産業広告の影響も濃厚にあるだろう。
そして、「楽しい」「面白い」を善だとすると、それが途絶えた状態を、悪だとみなし、その否定的な感触を「退屈」と呼ぶ。
アクション映画を観にいったのに、それがイマイチだったとき、それを「退屈な映画だったなあ」と評する。
そして、大迫力のアクション映画は、激アツで、超楽しい、神作、盛り上がらざるを得ない、のだが、そこに魂が棲みつくわけではないのだった。
***
大迫力のアクション映画が悪いわけではない。
逆だ、アクション映画は、大迫力のほうがいいに決まっているし、大迫力じゃなかったら客を呼ぶだけで罪だ。
大迫力のアクション映画は、盛り上がらざるを得ないし、その盛り上がることにかけては、たぶん僕などは極めて単純で影響付けが早い。
すぐにヒャッハーとなるのである。
が、そんなものは、僕の心という、生ゴミのようなものが元気になるだけなので、どうでもいいことだ。
デートで映画を観にゆき、大迫力のアクション映画だったら楽しい。
映画を観に行ってよかったなあ、映画っていいなあ、という気持ちになる。
でもそこで、僕は、
「楽しかったね!」
と言われたくないのだ。
ぜいたくで、面倒くさいことを言っているのはわかるけれど、あなただってそうだろう。
映画が楽しかったならハイになろうぜ。
どうしてほしいかというと、自動販売機でコカコーラを買って、「ほら」と言って僕に投げつけてほしいのだ。
ビーフージャーキーを噛んで、テキーラを飲んでほしいのである。
酔っ払ったら、静かに僕の襟首を掴み上げて、耳元で、ねぇわたしを傷つけて、と誘ってほしいのだ。
本当に面白いことをしなくてはならない。
という、僕が、何を言いたがっているのか、そろそろ伝わってくれるものだと信じたい。
魂の棲みつく倦怠へ。その倦怠の時間へ。
本当のことを言うと、倦怠、魂がそこに棲みつきはじめたとき、全てのことが、本当にいいぞ。
コーヒーの一杯がどれほど旨いか。
どれほど染み渡り、つまらない電飾がどれほど美しくまぶしいか。
そこで交わされる、眼差し、言葉、仕草、声、また肌を重ねることがあったならあったで、ああ、<<やがて魂はここに帰ってきていい>>と焦がれる。
人生が失敗するというのは、人生が楽しくなくなるということじゃない。
逆だ。
楽しさを追いかけ、退屈から逃げ、魂の棲みつくことがなくなって、人生そのものが失せることが、人生の失敗だ。
人生が、そこにあったなら、魂がどこに棲みついたのであれ、失敗ではない。
顔がつぶれて、独特の笑い顔、なんて、おぞましいことにはならない。
全てが美しいんだから……
だからどうぞ、自信を持って倦怠へ。
自信が無いがゆえに、必死こいて楽しいふり、有意義と充実のふりなんて、いけない、来年はもうそんなことは許されないぞ。よい、お年を。
[本当に楽しいことをしなくてはならない/了]