No.267 恋あい時代染色
春が来ると共に、真相を恢復した。
僕は、見失っていたものについて、たくさんの人に謝罪しなくてはならないが、まあそんなことはいいや。
僕の謝罪なんか気持ち悪いに決まっている。
うずうずしてきてたまらない状態に今ある。
思えばこのときのため、このときに実力が伴うよう、これまでの日々の多くはあったのかもしれない。たぶんそうだ。
うずうずしたときに振り回す剣先が確実なものに仕上がっているように、まあ地味な修練の日々も必要になるわけだよ。
ただし、それは春が来てうずうずするから有効なのであって、春がもう来ないのに地味な修練だけしていても何にもならない。
春が来るのがなぜなのかはわからない。
友人に、「青春が異様に長い」と、揶揄されたことがある。今このときになって、あらためて、否定できないなあ、と恥ずかしく思う。
が、しょうがない。春にせよ青春にせよ、こっちが決めるものではなく、向こうから勝手に来るものだ。来てしまうのだからしょうがない。
僕と同じ年齢の人間が青春なんてほざいたら僕は全力で軽蔑し、いわゆるドン引きをするだろう。そのへんの感覚は僕だってそれなりにまともだ。
でも、来てしまうのだ。
本当の本当には、春というのは誰にでも、年齢も性別も立場も関係なくやってくるもので、それが来ない「もう大人さ」というのは、ただの慢性的な人間の故障だと確信しているが、それだってだからどうしようという気にもならない。
故障だって事実なのだから。春に包まれていく……何がどうなって僕がこんなことを話しているのかはきっと誰にも伝わらないが、そんなことはまったくかまわない。
昔に比べて、僕はちゃんとバカではなくなったということが、今日はよくわかる。驚くなかれ、これでもバカでなくなったほうなのだ。賢くなったわけではない。賢くなるというのはサイテーだ。賢くなるというのは、実は世界で一番簡単なことではないか?
タイトルに「時代」とつけた。この「時代」は、この場合、社会的な時代ではなく、個人的な時代を指している。高校時代とか、僕の場合だと、神戸時代とか、商社マン時代とか。
個人的な時代という、そのものに、語るべき真実がひとつある。あるが、今日はそれはやめておこう。これについては、ある夜に深い夢で教えられた。人が生きて何が残るかといったら、個人的な時代だけなのだ。暗くてハブられていた中学時代……みたいなものがあったとして、そこに何も残らなかったわけじゃない。お前ハブられていたなあ、という時代がちゃんと残っている。みんなでお別れを言い合うとき、お前はそういう役だったなあ、と笑い合うものなのだ。言われた側も、「そうだな」と苦笑して。もちろんどうせなら、個人的な各時代ごと、豊かな時代になればよいのであって、そのことには血道を上げる十分な理由がある。が、それにしても残るのはただ「個人的な時代」。対照的に言えばわかりやすいが、たとえばホットヨガを始めてそれを気に入ったって、それは自分の「ホットヨガ時代」になんかならないってことだ。同じアルバイトをしても、アルバイトをしていたという事実は同じなのに、それが「アルバイト時代」になる人と、そうはならない人がいる。そして、そうならなかった人、個人的な時代を残さなかった人は、何かをしたことにはまったくならないわけだ。それを虚無といい、本当に救いようがない無価値はその虚無にある。これは不思議なもので、たとえばダンスを習いはじめたらハマっちゃって、練習して大会にも出て、すごいよかった、というような人でも、それが個人的な「ダンス時代」を刻まない人がいるのだ。なぜ、ということは一概に説明できない。魂をそこに置いてこなかった、という言い方はできるけれど、どうやったら魂を置いてこられるのかなんてわからない。逆に、例えばいかにも悪例だとしても、僕には「ゲームセンター時代」というのが個人的に確かにある。寝ても醒めてもというやつで、別に燃えていたわけじゃなく、それが当たり前になっていた、そういう時代。朝郵便受けに新聞を取りに行くように、学校が済んだらゲームセンターに行っていた。学校を休んだ日にもゲームセンターには「出席」していた。友人が見つけて、「おい」と言うのも、もう当たり前のことになっていた。
やめようと言ったのに大半を説明してしまった。まあいいか、いくらでも重複して話したらいい。
少し寝言みたいなことを言うので、聞き流してもらう、今僕が感じている、嗅ぎ取っている、ある種の気配、それ以上に確かな真実・真相というもの、それらの圧倒的な官能と快楽と、歓喜、そして何よりやさしさを、もし共有することができたなら、僕は世界中の半分以上の女性と恋人になる資格があるだろう。全員でないのは、さすがに根っからの根暗な人もいるからである。断固としてこんな圧倒的な幸福は否定する、という人もいる。僕は今、そういう人もぜひいていいと思っているのだ。間違いなく思っているので、その根拠や理由なんて必要ない。
でもそれはあくまで、共有できたら、の話だ。共有できたら、無数の美少女が、もっとも無垢な心で僕を愛し、尊敬してくれて、祝福してくれて、何をどうしてくれてもいいよ、と微笑んでくれる。それは、なんというか、わかるのだ。これをもし共有できたら、これから離れたい人間なんていない。だけどその肝心の共有というのが、言うほど簡単じゃない。たまにそういうこともバチンと起こるけれども、甘い考えが通用するようなことでは、これはない。
逆に言えば、僕なんかもともと、女にモテるクチではないのであって、それでも奇跡的に最上の全体的な愛を、奇跡とは言えないほど繰り返し受けてこられたのは、その共有がところどころで起こったからなのだ。それがなかったら、自慢じゃないが、女性にとって僕のもっとも痛快な使い方は軽自動車で思い切り跳ね飛ばすぐらいである。ンなことはわかっている、もう何十年も前から。僕はその事実も嫌いじゃない。なんといえばいいのか、高性能の船が大陸に到達できるのでは当たり前なのだ。そうじゃない、どうしようもないボロ船なればこそ、単に大陸に到達するのではない、奇跡としてそれを体験することができた。順風満帆や当然・必然の類に奇跡は伴わないのである。そして僕は大陸を求めているのではなく奇跡を求めている。高性能の船を所有していたら、とっくに大陸探しなんか飽き飽きしていただろう。
イケメンでもないくせに何を、という指摘はもっともで、僕も同じ指摘をするだろうが、あくまでこれは寝言だと前置きしたので指摘は無効だ。言葉ってまったく便利だな、より使いこなせるようになりたい。美少女も美女も僕に微笑む動機はまったくない、彼女らが微笑んでしまうのは僕に対してではなく春の風に対してどうしようもなくだ。
(いかんな、正直、心臓が破裂しそうになっている。冗談ではなく、これはマジで、僕がする体験というのはそういうものなのだ)
(躁病じゃないぞ。僕はいわゆるハイになるとかエキサイトするとか騒がしくなるのはきらいだ)
恋あい時代染色というタイトルは、今のところすごく気に入っている。「染色」、色を染めること、これが今回の話ではとても重要な指摘なのだ。
人間何をするか、まず、一生懸命とか脇目もふらずとか、必死とか意地とか根性とか、そんなものはダメなのだ。全て間違い、オールペケである。まあ最後まで聞いてもらいたい。その言葉は、言葉自体は、間違っていないというか、正解の三割ぐらいをかすめてはいるのだが、七割は間違いを捉えてしまうので、その言葉を指針にしたら結果的には間違いになる。正しいことの中にいる人は、一生懸命で必死という成分を持っているから、彼は一生懸命だ、という指摘は正しくなる。が、その成分を引っこ抜いて自分に課しても自分は正解に到達しない。
それはなんというか、スポーツドリンクの主成分は水だ。塩や砂糖が主成分ではない。でも人は水の存在を忘れるので、主成分は塩と砂糖だと思ってしまう。それで帰宅して、塩と砂糖を混ぜて舐めるのだけれど、あまじょっぱいだけで爽快感がない、何か違う、となる。何か違うどころかまるで違うのだけれど、そういうことだ。
余計にわかりにくくなったかもしれないが、こうだ。人間のやること、それは仕事でもライフワークでもソウルメイキングでも夢でもなんでもいい。そしてもちろん恋あいでもいい。代表的に恋あいを取り上げる義務がここではあるのでそれを取り扱うが、恋あいをすることの主成分は、実は恋あいではないのである。スポーツドリンクの主成分が塩と砂糖でないように。軌跡の航海が本当は大陸到達のことを指しているのではないように。
恋あいの本当の行為は、「色を染める」ことなのだ。染まった色は落ちない。染色行動をやめたって、そのとき染まった色はちゃんと残っている。その後にいくら荒波にもまれたとして、その色は落ちたりしない。
自分がある色に染まっていること、それは、自分が個人的な時代を生きた「痕」なのだ。そして人間は、そのことが無性に嬉しいのである。恋あいひとつを取り上げても、恋あいそのものに価値がどうこうあるわけじゃない。自分が個人的な時代として、「ある恋あいの時代」を生きた、その時代が自分を染色した、そのこと、染色されてあるということと、染色してゆけるということが、人間には無性の喜びとなるのだ。
さあ、それで染色だ。染色というのは、染色液にずっと浸けておくことが必要になる。寝ても醒めてもとはこのことだ。途中で休憩してはいけないというか、真水に曝すようなことはしてはならない。まだ染まっていないのに。色が落ちてしまう。
休み休みやっても色は染まらない。中途半端に色がくすむだけだ。そして染色液の中で気合を入れてもしょうがない。染まるという現象は勝手にやってくるものであって自力でどうこうできるものではない。
一生懸命やらなきゃ、と、どうしても思うかもしれない。ずっとそう言われてきたのだから、そりゃそうだろう。でもそれは違う、動機は全て、「自分は色に染まれるんだ」という確信的発見の喜びにある。うずうずするのだ。寝ても醒めてもひとつのことを考える、というのではだめだ。考えるというのでは、それは慌てて染色液の中に入れなおしているのであって、それでは色は染まらない。ピンク色に染まるというなら、目が醒めたらピンク色の中にあるということだ。「ああ、これでわたしは染まってゆける、どうなるかはわからないけれども」という幸福の中でのみ、人は個人的な時代を残してゆける。そういうのは、必ず何かになるんだ、自己の。
その意味では、趣味的に物事をやるのが一番よくない。それは染まるという現象からもっとも遠いものだ。しょうもないノウハウや知識だけ身について、よけいに次の染まりが悪くなる。だからといって趣味をやめろとは言えないけれど、自分が染まってゆける何かを見つけたら当人がその趣味など自分からほっぽり出すだろう。
僕が自信をもって保証できるのは、また保証できると、健気な少女らにはごり押してでも伝えなくてはならないことは、「染まる」という現象があること、それは無性の喜びで、あなたにも出来る、ということだ。努力なんか必要ない。「ああ、これね、これなのね」と体験したら、全て僕の言うとおりだったと無条件で理解する、そういうものだこれは。
僕が伝えようとしていることで、よくよく注意して聞いてもらいたいのは、「何に」染まるかではなくて、「染まる」というそのものが、喜びなんだよ、ということだ。「何に」という、ジャンルやカテゴリやテーマなんかは、どうでもいい。こだわるならこだわってもいいが、そのことは本質じゃない。何色に染まったかというのは別に喜びではなくて、染まったということ自体が喜びになるから。事実、僕はゲームセンター時代なんてものが自己にあると話した。それは聞くからにしょうもないものに聞こえる。確かにしょうもないことだ。でも、染まるということにある喜びはまったく損なわれない。あのときは、寝ても醒めても、ときには眠っていてもだった。ずっとそうして生きていけたらよいと思うし、そうすることでしか自分に生きた時間なんて刻まれないというのが本当のことでもある。
ジャンルは、本当に、自分がちょっと熱くなれるものなら何でもいい。利益のあるものにこだわるのはぜひやめたほうがいい。そうそう利益ばっかり与えられるジャンルなんてなくて、実際にそれに触れたら七日のうち二日は楽しく五日は興醒めというふうになるものだ。利益をアテにしていると、その興醒めの五日間ごとに染色液から自分を取り出してしまうので、いつまで経っても染まるということが起こらない。だから利益の無いもののほうが、いいというか、間違いにくい。利益を狙ってもいいけれど、興醒めの時間も迷いなく食べつくす、完食する、ということを覚えておかなくちゃいけない。ハズレの日も「おいしい」というのでなきゃだめだ。(これがやっぱり、利益に下心があると難しくなるわけだ。利益に下心があると、ハズレの日はついペッと吐き出したくなる)
ジャンルは本当に何でもいい。ただその中で、一生懸命に、真剣に、やらなきゃだめだ、というようなことが真面目ぶってちらつくようになったら、いろいろズレてしまっている。そういうときもどうしてもあるし、そのズレているふうが、むしろど真ん中ということもあるから、これは一概には言いにくいけれど。とにかく、ジャンルは何でもいい。見つけるべきは、「あっ」と、自分はこれに「染まれる」ということ。何に染まろうかな、と考えるのはいいけれど、そうして考えてシメシメしたものは、上手く聞こえても実際に染まれるかどうかはわからない。たとえば、資格試験の勉強をしてゴールドカラーになって、誠実で清潔で有能な夫を捕まえる、というのはシメシメするけれど、実際にはタチの悪い男に住み込まれてどうしても離れられない、ということはよくある。そういうときは、そのシメシメした側の考え方が、「染まれる」ということを忘れて虚構になっているんだ。自分が何に染まれるかというのには、きっと素質や才能ということがあるのだろうと思う。でもそれは誰にだって何かしらあるのであって、それよりもっと恐れるべきことは、何であれその「染まれる」ということにずっと気づかずに時間を過ごしてしまうことだ。もう年配になってから「なぜあなたの色にはそんなに奥行きがないの、何もしてこなかったの?」と言われても、なかなか取り返しはつかない。
ちなみに色に染めるというのも、同じ色に何度も染めないと、確かなその色には染まらないものだよ。だから、いわゆる「ちょっとやってみた」、「いい経験になった」みたいなことは、何の意味もない、個人的な時代や染色は決して得られない。当たり前だけど。
人間が本当に、それなりにでも染まるとしたら、やっぱり年単位が掛かるかな。ジャンルによっては、数ヶ月で急激に染まるということもあるけれど。
恋あいというのは、割とその、急激に染まるほうのジャンルだ。だから若者向きなのだろう。思春期の少女が成人するまでに、四重、五重の深い色に染まりあがるというようなことは十分ありうる。そういう女の笑顔は、単に造形がカワイイという女の笑顔とあまりにも違う。
言い方は悪くなるけれど、一生懸命やっています、という気配の人に、尋ねてみたらいい。いま他のことをする余裕が無いので、他のことは要らない、恋あいとかも今はちょっと考えられないわ、と言うだろう。これは、残念ながらハズレだ。一生懸命で、忙しい、余裕が無いというのは本当だし、さしあたりどうしようもないというか、それでひとまずよいのだけれど、あなたがもしその「染まる」ということを求めるなら、そのことへのヒントはそこにはない。わかりやすく言うとこうで、僕には神戸時代もあったし、ゲームセンター時代もあった、商社マン時代もあった、そのどれもそれなりにズブズブに染まったのだけれど、その中で「恋あいは今はちょっと」というのはおかしい。特にゲームセンター時代にそんなことを言うのはおかしい。染まるというのは忙しさではないし、忙しさの中でもその染まるという喜びはまるで得られないことはよくある。だから忙しいというのはそのとき本当につらいんだ。
逆にこう考えてみてもいい。個人的な、「或る恋あいの時代」があったとして、それを「一生懸命やっています」というのはおかしいし、「他のことはちょっといいわ」というのもおかしい。むしろその逆で、或る恋あいの時代の中にいるなら、あの海岸の夕日をもう一度みたいわ、というようなことにも心はぐいぐい引きつけられてしまうものだ。この今、この「恋あいの時代」の中だからこそ。
染まるということの中にいる人は、その染まりゆく色の中で、より多くのこと、たくさんのことを、わたしは目撃したい、確認して残してゆきたい、と、微笑んで思うものだ。何しろ彼女は、自力で頑張って染まっていっているのではない。染まるというのは自力でどうこうなるものじゃない。染色液に浸かって、この喜びの中から出ないわ、どうなるのかはわからないけれど、と涙をこぼして微笑んでいるだけだ。
「染まりたいこと」、見つけた? これを読みながらでも、ぜひ思いついたらいい。考えてもいいし、考えなくても、実は心当たりが自分の内に眠っていた、というようなことはあっておかしくない。「染まるだけでいいなら」と、何か震えるものがそこにはある。性でも愛でも野心でもいい。利益なんかなくてもいい。損をしてもいいし、お金を使ってしまうことでも構わない(でも度を過ぎた借金はしないで)。
誰だって、無色のまま生きていくことのつまらなさと、そのつまらなさが心底恐ろしいということを、薄々知っている。このままでいいのだろうかと。それでこっそり、言われてきたように、目の前に何かがあったら一生懸命の心がけを起こす。でもしばらくして、その一生懸命というのにも、何かおかしい、無理があるような気がする、と思う。弱音を吐いてはいけないと言われているし、嫌われたくないから、ジッと我慢して黙っているけれども。
染まるというのはそうじゃない。何もがんばっていなくても、朝目覚めたときから、わたしはどのような人間だ、ということが、建前じゃなく本当のこととして言えることだ。この、「或る○○の時代」を経て、自分はどうなるのかわからない、でも何かになる、それに染まった者になる、ということが、まだ朝の寝ぼけた寝床の中でも確信されている。
染色の邪魔をするとしたら、それは「賢明な迷い」だ。「冷静に考えてさあ」「現実的にさあ」というようなこと。迷うのはいくらでも迷ったらいいけれど、染色液から出てはいけない。それはもう物事の次元が異なってしまう。「冷静に考えてさあ」ということの、その冷静さが、実は冷静なんかじゃない、無色ゆえの空虚の中から考えてそう見えているだけ、ということに目ざとく気づこう。
未来のイメージなんかなくてもいい。それよりは今日のこと、今日も出られぬこの染色液のことを、ひとしきり「うわあ」と思って朝を起きよう。何しろそれには利益はないんだ、「うわあ」とひとしきり呆れるふうであるのがむしろ正しい。
でも染まっていくんだ、それに。
今日からまた、個人的な時代、「或る○○の時代」が進んでゆく。女性はどうなのだろう、どんなジャンルに染まっていくのかはわからないけれど、義務的に恋あいの話を残しておくと、恋愛的な女として自分を染めていくのもいいし、単純にスケベな女として染まっていってもいいと思う。自分がそれにドキリとするなら、それを裏切るべきじゃない。何しろそれだけが今日から本当に始めてゆけることなのだから。今日も新しい恋人ができる、そんなこと、無色カラッポの人間にはどうしたってわからないよ。それはそういう個人的な時代を生きた人にしかわからないものだ。
じゃあ、きりがないからこのへんで。
またね。僕もあらためて、これに染まってゆこうやはり、というのがうずうずしてあるよ。
[恋あい時代染色/了]