No.270 賢さとは違う次元で
意識がシュッとしぼむ。
まるで自分が賢くなったように思える、それは錯覚で、われわれはその錯覚に、よく慣れている。
それはまったく、ダメなヤツ、違うヤツだというのに、これに慣れてしまう。
いつからそうなったのか、なんてことも、もはやどうでもいいことだ。
意識がシュッとしぼむと、寂しく暗くなるので、対抗して、前向きにやっていこう、という気持ちになる。
こんなもの、ただの「工夫したクソ」だと蹴り飛ばさなきゃいけないのに、何かこう、シュッとしぼんで寂しく暗い状態を、安定的にしてしまう。
それはまるで違うというのに、気づかないのだ。
テンションあげなきゃ、みたいになるが、それだって土台をダメなヤツで安定させているからそんなことになる。
そうじゃなく、本当のことはもっと意外な、奇想天外なところにある。
奇想天外といっても、それに相反する思考が硬直しているから、それが奇想天外に映るだけで、本当はそう奇特なことを要求されることでもない。
どうしたらいいかというと、工夫をやめることだ。工夫の一切をやめる。知恵とかテクニックとかセンスとかに頼らない。アイディアにも頼らないし、考え方とか価値観にも頼らない。
そんなものに頼ってどうこうしようという発想がもともと浅ましいのだ。だから救われない。
どんなものだって、またどんな状況だって、「いい」と思えば、別にそれでいいわけだ。何も、自分や他人、社会や世界がもともと「こう」と決まったものでもない。
工夫を全部やめて、「いい」と思えば、それだけで「いい」。そこのところは、本当は自意識で決定しているのだ。
そして、「いい」と思えば、人はもりもり力が湧いてくるし、希望にも満ちてくる。
何かが、「いい」と思えず、難しくなって、打破に工夫を必要とするように感じられたら、それは複雑化だけど成長でもなんでもないのであって、ただコダワリ始めたというだけだ。
公正な、ニュートラルではないのだ。アンフェアに、自分だけコソコソと、なにかコダワリをもって世界や他人を眺めている。
それで本人の意識がシュンとなって、じゃあ工夫しようなんて、初めから行き倒れが見えている、当たり前のことだ。
二階の窓から飛び降りたら痛いだろう。
足がジーンと痺れて、頭はクラクラ、骨折するかもしれないし、運が悪ければ死ぬかもしれない。
でも、かといって、それで地面や重力を「悪い」と憎んで、感情的になるというのはおかしいはずだ。
その、バン! と足許にくる衝撃が、重力と地面という、この世界の"表情"なのだから、それを憎むというのはおかしい。
二階の窓から飛び降りたら、痛いけれど、それでも別に、飛んだらいけないというルールはない。
むしろどんどん飛んだらいい。それでこそ、重力や地面といったこの世界の表情を知ることができる。
そして、この社会や、人、他人といった存在も、それぞれにそういう表情を持っている存在だ。
その衝撃がどういうものなのかは、飛び込んでみなければわからない。
いくら話に聞かされていたって、それは自分が体験するバン! とは違う。
そして、何がバン! となろうが、あるいはギロッと冷たくされようが、それは世界の"表情"なのだから、何が悪いとか憎らしいとかそういうことではないはずだ。
いつの間にか、相手も人間だからといって、自分の求めているような像が適用されるはずだと、勝手に思い込んでいるのだ。
ひどい甘えである。
逆に、世の中はキビシイものだなんて言う人も、やはり「そういうものであるはず」という像を勝手に適用しているだけで、同様に甘ったれている。自分の体験がこうだったから、誰かの体験もこうであるはず、という甘え。
そんなことをゴニョゴニョすることが、自分という人間にとって重要であるはずがない。
全てあるがまま、それこそ重力や地面のようにだ、あるがままを、なんであれ「いい」とすれば、なんだって「いい」はずだ。
こんなもの、部屋の電灯をオンオフするような作業なので、何の賢さも要らない。
本当は自分で決めているだけなのだ。何がいいとか悪いとかを。
コダワリから始まった「悪いこと」は、複雑化してこんがらかって、最終的に、自分が何もできなくなる、という状態をもたらしてしまう。
全方位が「悪い」に取り囲まれて、将棋でいう詰みのように、詰んでしまうのだ。
僕が全てのことに「いい」と言うとしよう。それで僕が浮かれていたとして、その「いい」を、あなたは破壊できない。
破壊しにくるあなたも「いい」のうちなんだから、もうどうしようもない。
僕の辞書に「悪い」がそもそも載っていなかったら、あなたがどれだけイライラしてみても、僕から「悪い」を引き出すことは不可能だ。
二階の窓から飛び降りて、足許がバン! と痛む。それを、
「いい」
と僕が言ってしまえば、あなたはもうどうしようもない。
それが奇想天外に聞こえたとしたら、あなたが自分で作った「いい」「悪い」の構造がいつの間にかあなたに固着してしまっているだけだ。
そしてあなたはその自分の構造物を自分でちっとも愛してなんかいないのである。
わたしも本当は「いい」と言いたい、と、人は突っ伏して泣いたりするのだ。
「いい」と「悪い」に包囲されて、「悪い」から逃げ、「いい」に逃避していく、それは自由でも何でもない。
賢そうに見えるだけ厄介だけれど、そんなのはまるでダメだ。まるでダメだねと、自分で言ってみればすぐにわかる。どこかフッと、気が楽になるはずだ。「いい」だけに囲まれたら、何がどうなろうが、どの方向にいこうが「いい」、そのときあなたは自由を実感している。
***
頑張らなくちゃだめ、という言い方が、僕は好きじゃない。
この言い方は、ナチュラルなようでいて、実は作為に満ちている。
だから大人ばかりこれを言って、子供はこれを言わない。
「頑張ろう」というのが、ひとつの結論として出てくるのはよいのだけれど、頭が固くなって、免罪符みたいに使いまわされるのが、とてもタチが悪いのだ。
頑張っていればいい、というふうに、物事を固定して逃げようとするのだ。
そんな、正しいふうに聞こえることをガチンと固めて、人が正しいほうに進んでゆけるかというと、そんな甘い話はない。
そんなものは、テーブルをガシャンと蹴って、「ほら頑張ってみろよ」とでもスゴんでやったら、それだけで何をどうしたらよいかわからなくなってしまう。
それでは虚弱だし、実は何も機能していないのだ。
人は一秒ごとに間違えるものだと思う。
僕がいまこうして話していること自体についても、まったくそう思う。
人は一秒ごとに、一歩ずつ進んでいくが、その一歩ごとに間違う。
ところが、そうして歩むことは正しいのだが、このことには秘密があるのだ。
人はなぜ、進まねばならないか、一歩を踏み出してゆかねばならないかというと、自分が正しくないからだ。自分が間違っているので、このままではいけない、だから一歩踏み出さねばならない、となる。
それで、一歩を踏み出す。この一歩は、実に正しい。
が、その一歩が着地した瞬間からが問題だ。その一歩が着地した瞬間から、もう人は間違っているのである。だから人は一秒ごとに間違う。
間違ったままではいけないので、人はまたそこから一歩踏み出さねばならない。それで次の一歩が出る。
そうして人は歩んでいく。
歩くことが正しいのでは本当は無くて、一歩ごと、人は間違うから、その一歩ごとに、また新しい一歩を要求されるだけなのだ。
これは奇妙なことだけれど、僕は、間違っている人ほど正しいと思う。間違っている人というのは、その自覚があって、次の一歩を踏み出さねばならないと、その準備と覚悟をすでに完成させている人だ。
正しい人はこのことをしなくていい。正しい人は、もう自分は正しいと思っているので、次の一歩を踏み出す必要がないのだ。
人が、間違っている自分であるからと、一歩を踏み出す、そのことはやはり正しいし、その正しさは人人によく知られている。
けれど、その一歩が着地した時点から、もう間違っているということはあまり知られていない。正しかった何かはもう終わってしまったのだけど、それが終わったことに気づかず、まだ正しいことの中にあれていると誤解してしまう。
人は高みを目指しているように自分を思っているけれど、何が本当の人間のうつくしさか、どの人間が本当に偉いのかといったら、その高みウンタラの、高さの地点ではない。
高みで立ち止まっている人と、低みで一歩踏み出している人とであれば、低みで踏み出している人のほうが偉いしうつくしいのだ。
高みなどというのは、人がそれぞれ自分で勝手にこしらえた、虚構の価値観でしかない。ハッとさせられる、無条件でこちらに訴えかけてくる、そういう直截のうつくしさではないのだ。
だから、高みを目指しているつもりの人ほど、うつくしさを失っていくことは多いし、ある程度の高みにこれたつもりでいる人が、誰より醜いということがよくある。高みを目指して歩むんだと思っているからそうなる。
そうじゃなく、高みであろうが低みであろうが、一歩が着地した時点から誰であってもクソなんだ。そのクソみたいなままでいるわけにはいかないから、次の一歩を踏み出す。その瞬間だけ、人間はクソじゃない。それがどれだけ高みであっても低みであっても。
うつくしい人間の、何がよいか。
本当にうつくしい人間、その一歩を踏み出しているところの人間は、こちらをハッとさせ、全ての勘違いを超越して、こちらに「自分も踏み出さねばならない」ということを直観させてくれることだ。「高みにいるあなたへ、あなたは間違っています」と教えてくれるのである。
それがいい。
自分が「いやあ、間違っていたなあ」と痛感させられるとき、パッと目の前が啓けて、とても清清しい気分になる。
空に、夜景に、死が満ちてキラキラと迫り、自分が生きていることをズンズン実感させてくれる。
***
恋あいうんぬんというのも、そのうつくしさに根源がある。
間違って立ち止まっているそれぞれが、二人になると、それぞれ新しい一歩を踏み出せるのだ。
男は女に、あなたは間違っていると教え、女は男に、やはりあなたは間違っていると教える。
それでそれぞれ、ハッとして、一歩を踏み出さねばならないと覚悟する。そうすると、互いが互いにとってうつくしく見える。
加えて、自分はこの人といるときうつくしくなれる、と実感するから、自分が正しくうつくしくあるためには、この人が必要だ、とかけがえなく感じる。
空に、夜景に、死が満ちてキラキラと迫り、自分が生きていることをズンズン実感できるのは、この人がいてくれるからなのだと知る。
その激しい気持ちが、自然に男女の性愛と合一として、美と官能が同時に発生するから、これを特別に恋あいと呼ぶわけだ。
何もそう難しい話じゃないし、なにより、恋あいというのも固定的ではないのだ。
お互いが、何か本当のことを忘れ、自分は正しいのだと思っていたら、少なくともその夜は恋あいではない。
その人と会うと、どうしても自分は一歩踏み出してしまう、そういう状態だけが恋あいであって、そうでない安定的なものは交際ではあっても恋あいではない。
だから、総括すると、人は工夫を始めたときに、恋あいをやめてしまう。
自分で「いい」「悪い」を決めているだけなのに、コダワリから「いい」「悪い」を分離してしまって、このややこしくなったもののために工夫を始めるというとき、もう恋あいは得られなくなる。
全てが「いい」に囲まれていなければ、純粋な一歩は踏み出されないからだ。
これは「いい」、これは「悪い」と、分離された上、工夫によって踏み出す一歩は、レール上の一歩であって、純粋な一歩じゃない。
純粋な一歩が出るためには自由がいる。
なんであれ、「いい」のだ、という自由に囲まれていないと、その一歩は出ない。
だから、物事について、いいとか悪いとかいってウームと工夫を凝らす、そのまるでダメなヤツを、まず切断しないといけない。その悪い習慣を無慈悲に踏み潰してしまう。
なんだって、「いい」と言えば「いい」のだ。
そしてなんであれ、今の自分は、まさにこの瞬間として「間違っている」、そのヒリヒリした中にちゃんと自分を立たせれば、純粋な一歩は自然に出る。
工夫の上で、その一歩がデザインされるわけではないのだ。
自分がこの瞬間「間違っている」というヒリヒリが、勝手に一歩を踏み出させるのだ。
何に敏感にならねばならないかというと、そのヒリヒリに、まず敏感にならねばならない。何か落ち着いて、ゆったりとした、いい気分よ、なんてノンキなものは、いやいやおかしい、と。
いい気分というのは、ヒリヒリする自分の実感から、踏み出すことができた、そして光景に死の微塵さえキラキラひしめいて、ゆったりと落ち着く、いい気分よ、というのでなくてはならない。
そのいい気分や、うつくしさ、そしてまたヒリヒリし始めたら直ちに踏み出し始めるということが、一秒ごとに起こってたゆまないのだから、恋あいはやはりうつくしい営みだと思う。
これといって何もないような、ムードがあるのか無いのかわからない、若いだけの、未熟な、ただの一介の男女というような二人が、ただ全てを「いい」と思っていて、自分は間違っているというヒリヒリに臆さないなら、そこにはかけがえの無いうつくしさの連鎖反応がある。
そんな大げさな恋あいが、どこにあるのかといえば、どこにでもある。
知らない人が知らないだけで、そんなものワンサカとありふれている。
これは、はっきり言われてよいと思う。この残酷さにはとてもいい味がするからだ。
このとき、まさにこの瞬間だけれども、世の中ではいろんな人たちが、そのうつくしさの連鎖反応の中で、美と官能の融合を果てしなく味わっているのだ。
あなたがボーッとしているからといって、誰もがボーッとしているわけではないし、あなたが「いい」「悪い」のコダワリで賢く行き詰っていたからといって、誰もその美と官能の喜びをやめたりなんかしていない。
そのことを、泣くほど悔しく思わなくちゃだめだ。自分は一体何をしているのかと。彼らの生と自分の生とで、ただ時間だけが等しく流れていく。あなたが今ボーッとしているなら、あなたは彼らに追いつかなくちゃいけないのに、今この瞬間でさえ、彼らのほうが加速して、あなたのほうがますます減速していくという、二重に不利な状態になっている。
そんな不利も極まる状態にいる自分なのだから、「間違っている」に決まっている。そんな自分が間違っていないわけがない。
自分が間違っているのだと受け止められれば、全てのことはすっきりする。自分は何も得られずに今ボーッとするよりなく、自分の知らないところで誰かが美と官能をむさぼりあって過ごしている。その構図は「正しい」と受け止められるだろう。何しろ自分は間違っているのだから、間違っている側が何も与えられないのは正しいことだ。
こうして、この構図が「正しい」となれば、あなたはもう、全てが「いい」のだ、ということへの理解へ踏み出している。なんであれ、これで全般、バッチリなのだと。何もおかしいことは起こっていない、だからこれで全て「いい」のだということが見えてくる。四の五の理屈をつける気持ちも、動機ごとなくなっていくだろう。賢さとは違う次元で、全て「いい」だろ、そして自分は間違っているだろ、と気づく。
なぜこんなことに気づかなかったんだと不思議なぐらいだ。
じゃあ、どうする? と。重大な答えは一つ、もう得ているわけだ。なんであれ世の中はバッチリだということと、自分が間違っているということを、二つ合わせて。じゃあ、自分は飛び出して、何かを見つけて、飛び込めばいい。
奇妙なことだが、自分が間違っているという確信は、逆に良い安心感があるのだ。自分は間違っているのだから、自分はあれこれ考えなくてもよいのだという安心感である。これが、飛び出し・飛び込むことへ実によい弾みをつけてくれる。
人は、自分が間違っているのに、それをどうにかごまかせないかと工夫するから挙動がおかしくなるのであって、間違っているものをごまかさないというなら、特にたじろいだり挙動不審になる理由が無い。逆に落ち着いたものだ。ちょうど、完全なオンチなら逆に堂々と唄えるのに、中途半端なオンチだとごまかそうとして挙動がおかしくなることのようにだ。
自分は間違っている。それは何も珍しいことではないし、人は一秒ごとにそうなるのだ。いつものこと、常のことだ。
このことに、そうだな、と言えば、その一歩、その瞬間にうつくしくなる。
そして、そういうものなんだ、と納得して、一息ついたとき、もう再び間違い始めたので、うつくしくなくなっている。そうしたら、また自分は間違っている。その繰り返し。
ヒリヒリせずにいられる時間はないのだ。
[賢さとは違う次元で/了]