No.271 それぞれのパンティ
幸福と不幸は、同じなんじゃないか、という気がしている。たとえばいつまで経ってもまともな彼氏ができず、婚活やらをしてもそれらしい相手に出会わない、そして男と別れては不満や不毛の記憶だけ残していく人などは、それがその人の恋あいなのじゃないかという気がしている。当人には不本意なことかもしれないが、その不本意まで含めて、それはその人のその人らしさ、その人ならではの人生なのではないか。よくお酒の呑みすぎで身体を壊し、生業まで失うような人があるけれども、それだって不本意と言いながら結局グビグビ呑んだせいでそうなったわけで、それはその人のその人らしい人生だったのではないかと言わざるを得ない。それと同じように、恋あいで好い思いをする人は実は世の中ではかなりの少数派なのだから、恋あいでただ傷ついたり、疲れたり、絶望したり、中には恨んだり憎んだりする人も、それはその人らしさの恋あいだったのではないかと僕は思う。だから他人がとやかく言うべきことではないし、当人も、自分のそれについてあまりとやかく思うべきではないのだ。仮にやりたいようにやれるものだったら、とうの昔に誰もが自分のやりたいようにやっているだろう。でもそうはなっていないのだから、つまりはそういうことなのだ。
友人がある女性について、あのコはお嬢様で、身持ちが固く、「でもそのぶん落としがいがある」と気を吐いていたことがある。写真を見せられたら美人だったのでつい僕も会いに行ってしまったが、彼女は僕に対してはオープンで、身体をまさぐってもまるで抵抗しなかった。その抵抗の無さ、たおやかな花のようなしなだれかかりはむしろはっきりした彼女の意志なので、これはこれで堂々と受け止めなくては彼女の勇気に対して失礼になる。それでさんざん酷いことをしたが、酷いことをされたことについて彼女もあとになって笑っていた。身持ちが固いという感じもあったのに、なぜなんだろうねと訊くと、なぜなんでしょうねと彼女も笑った。そして、「でもあなたに腰を抑えられると濡れるんです、こう、ぎゅっと」と堂々と言いもした。
このようなことがあるから、つまりは人それぞれなのだ。僕が彼女の腰を抑えると彼女は濡れてしまって抵抗できなくなり、時間の感覚が消し飛んで奉仕の人形になってしまう、一方、友人が彼女を口説くと、落としがいはともかくとして結果的に彼女の身持ちは固くなり、彼はフラれ続ける。どっちがよいとか悪いとかではなく、それぞれがそれぞれの恋あいなのだ。まったく、どっちがよいとかの問題ではない。あるのはそこに当人が本意であるか不本意であるか、納得がゆくかゆかないか、喜べるか喜べないかだけだ。そして、その喜べなさをも含めて、人それぞれの恋あいなのだと実に思う。おれは本意と納得と喜びを重ねてゆく、お前は不本意と不満と疲労を重ねてゆく、
「それでいいじゃないか」
と僕は堂々と言いたい。
だってそれでいいとしなければ、結局誰かに文句をつけるしかないじゃないか。そして往々にしてフラれた男なんて、なんだかんだで女のほうに文句を向けてしまいがちなのだ。
男女を逆転してもそんなもので、そういうふうになると恋あいというのはつまらない。誰も正しいことを発見するために恋あいするのではない。まあ、それこそが目的だというような人も、中にはいるのかもしれないけれど……
僕はあまり真面目に取り合うつもりがない。
幸せになりたいんです、と、僕はよく相談を受ける。相談されるとつい真に受けてしまい、真剣に応えてしまうが、それもなかなか我ながら滑稽だと思う。
・このままじゃあなたは幸福になれない
このことはわかってもらえる。
・おれなんかとりあえず幸福だ、少なくともあなたが求める程度には
このこともわかってもらえる。
が、
・だからこうすればいい
という、ここの部分になると、話は途端にわかってもらえない。エーと思わされるけれども、よくよく考えればそう、これまでその幸福の方法をあえて選ばずに来たのだから、幸福にならなかったのだ。
自明というか、勉強しない受験生みたいなもので、それで不合格になると知っていて彼は不合格になるのである。
だから、彼の第一志望は実は「不合格」を志望しているのであり、これに真面目に取り合うのは、バカとは言わないけれど、やっていることがトンチンカンなのだった。
「幸せになりたいんです」と言われる。で、点検してみると、船はガタガタで壊れている上に、航路図も間違っていれば航法も間違っているというありさま。
で、このままじゃ確実に難破するし遭難するよ、と言い合うのだけれど、ウーンと言いながら、結局そのまま出航するものなのだ。
出航するのである。本当に。
で、出航するというのに、どうすればいいかといえば、友人として見送るべきだと僕は思う。なんであれ、船出は船出だ。
船体には「幸福丸」と書かれているけれど、向かう先は不幸の海だ。全員、見送る側も見送られる側もちゃんとわかっている。
だから、それら全てをひっくるめて、それは人それぞれ、人のゆく道なのだと結局思う。
何も幸福になるばかりが能ではないだろう。
僕は幸福に縁があり、縁がない人は縁がないのだ。そりゃ言いすぎだという気もしないではないが、何しろ、人は僕の真似をできないし、僕だって人の真似はできないのだ。僕は僕の行く道しかゆけない。努力しても幸福になれない人がいるように、僕だって努力しても不幸にはなれないだろう。
これが人それぞれの船出だということなら、僕はせめて、人それぞれゆく海に唾を吐くようなことはしたくないと思うのみなのだった。
幸福と不幸は同じだといったけれども、その同じ船出について、僕は、よくよく観たらみんな同じだね、と言いたいのだ。
僕のような幸運の好色も、一方で気難しい不犯も、実は同じじゃないかみんな、だからギスギスしあうことはないさ、と言いたい。
自分が自分に対してギスギスする必要もないのだ。
すごくいい匂いのする少女が、ひしと僕を抱きしめてくれた。驚いたことに、それは僕が彼女を抱きしめようとしたタイミングと完全に同時だった。
完全に同時、それはもう、宇宙物理的にそういう現象が定められてあるかのような同時性だった。
こういうとき、何がよいかというと、何かすごすぎて逆に興奮がまったく無いのがいい。
そして、僕が女性の身体を受けて何も興奮しないでいた(厳密に興奮ゼロでいた)ことが、彼女は嬉しかったらしく、彼女はそのままぽろぽろ泣いていた。
彼女はきっと安らげる場所が欲しかったのだと思う。ほんの一瞬でも、わずかな時間でもいいから、本当に安らげる場所を。
その気持ちはよくわかる。
もちろん失敗した例もある。ある女性の首筋に、ついつい唇をつけると、細い両腕でぐいっと押し返された。悔しかったので、もう少し頑張って、その首筋に歯を触れさせると、あっ! とものすごい大きな声を出して、今度は細腕が僕を突き飛ばした。
「だから、言ったじゃない」
と、彼女は震えながら、すごい剣幕で怒った。その震えと怒りの衝撃に自分自身耐えられないようで、顔をしかめて泣き始めてしまった。僕はそのとき、こんなにも心を開いてくれていたのか、と、驚いたし感動もしたし、同時にさすがに柄にもなく反省した。さすがに反省も深くなる。
どういうことかというと、説明が難しいけれど、彼女はよく「セックスは好き」と言っていた。そして「割と誰とでもする、いやな人じゃなければ」とも言っていた。「だって気持ちいいじゃん」と、いかにもそれを軽々しく愉しむふうに言っていた。
でもそれはどうやら、あまり深いつながりのない、心を許さず開いていない、そういう表面上のセックスが好きだということのようだった。が、彼女の本性は、そんな器用な女ではまったくなくて、本当は情が深く身体との結びつきも深い、官能のマグマまで到達してしまう素質の女性だった。だからこそ、好きでもなんでもない人としかセックスできないで来たのだ。あえて安っぽいそれで身体を慰めることで彼女はバランスを保ってきた。
彼女自身それを自覚していたのである。だから彼女は僕に対して「あなたはダメ」とだけ言いつけて、一方僕はその意味がよくわからないので強引に襲い掛かってしまった。それで突き飛ばされてからようやく僕も合点がゆき、「こんなにも心を開いてくれていたのか」と感動して、反省したわけだ。
そういうことも少なからずある。愛情が、浅いどころか、深く激しすぎるので、浅いようにしかやってゆけない、という人が。そういうところ、所詮男には無いもので、女というのは美しい存在だと思う。細腕で突き飛ばされたときの、必死のこもった、あの胸を突く痛みはまだずっと残っている。
僕のようなちゃらんぽらんでさえ、そういうまったく一般的でない理由から、「誰とでもヤッていいわけじゃない」と言うのだった。いわゆる一般的な理由におけるそれは、まあ別にどうでもよいのではないかと、つまり真面目に取り合うつもりがない。
人それぞれの恋あいだ。僕は女性のブラウスの胸元を引いてその中の下着と膨らみを覗き込むより、女性の携帯電話を覗き込むほうが失礼だと感じている。実際そのようにしてみて、若い女性(教師をされていた人)にまったく同感を頂いたことがある。少々お酒は呑んでいたけれども、ブラウスの胸元を引いて覗き込むと彼女は「あ、こら」と叱る程度だった。「あまりに自然にされたから怒れなかったわよ」と彼女は笑っていた。「よほど抵抗するとしたら、見せられないような下着をつけていたときでしょう」と訊くと、そうね、と彼女は肯定したし、その彼女が当時の交際相手の男性のことを指して、
「まあ人の携帯電話を覗き込むような人に比べたらよっぽど好きよ、愛せるわ」
と言ったのだった。
恋あいと一言に云っても、胸元を覗き込む恋あいもあれば、携帯電話を覗き込む恋あいもある。人それぞれだ。そしてその人それぞれというのは、そう簡単には変わらない。たぶん一生……
変わることもあるが、変わるのはすごく例外的なことだ。
どれぐらい例外的なことかというと、僕が女の携帯電話を覗き込んで、「女ってさあ」と否定的に言い、常に不幸に引き寄せられていくようになるというぐらい例外的、ほとんどありえないということだ。
***
それでも変わりたいという人はいるだろうし、変わりたいと思っているほうが健全だと僕も思う。変われるかどうかは別にして……
ただ変わるなら変わってしまえばいい。それは大して難しいことではない。人それぞれであり、かつ<<実はみんな同じだ>>と僕は言っているのだから、それが実は同じであるということは、変わるのはさして難しくないということだ。
地味な自分はいやだ、変わりたいというなら、さしあたり派手な下着に着替えればいい。実に簡単なことだ。八千円ぐらいでやれるのじゃないか。
着替えたって、どうせ下着は下着でしかない。同じだ。
が、その派手な下着に着替えるのだって、実際にやるのはなぜか難しかったりする。
でも……今はシンガポールに行ってしまって、もう会えないと思うとさびしいある女性のことを思うと、僕は正直、胸が痛くなるような、熱くなるような、激しい気持ちになる。
彼女はあっさり派手な下着に着替えたからだ。たしか三度目に脱がせたぐらいのときだったと思う。もともと細身できれいな体つきではあった。それがある日、堂々と派手な下着を着けていたとき、僕は胸が熱くなって、抱くより先に泣きたくなった。
女性が、変わりたいように自分を変えることを、僕はなぜか嬉しく感じる。わけのわからない喜びが熱をもってこみあげてくる。
彼女について、僕は最低な男だったはずで、その最低な奴に対して彼女の愛撫は本当にまっすぐ与えられつづけ、かつ最後の最後にまた僕は彼女にやさしくできなかったので、僕は本当に最低だったのだけれど、この場合吾らの恋あいは何だったのかというと、僕が彼女に派手な下着を与え、彼女が僕にひたすらの愛撫と、最低な男という罪の自覚を与えた、ということだと思う。
人それぞれにする恋あいの、体験の一つだ。僕はこれを、何が優れているとも思わないし、何が劣っているとも思わない。みんな同じだ。みんな同じようなことをやっている。それが男女っぽさの間柄で起こるから便宜上恋あいと呼んでいるだけで。
全て僕の本意だったし、納得しているし、喜びに満ちてある。その中で僕は自分の救いがたい最低ぶりと、自分を殺してしまいたい不快な気持ちに駆られたのだが、そのことも僕は僕の本意本懐であると受け止めなくてはならないだろう。
これまでにそういうことがあり、これからもまた、何かあるのか無いのか、わからない。
人それぞれで、かつ、みんな同じことをしているので、その中で何が優れているとか、何が劣っているとか、何がよくて何がつまらないとか、そういうことは一つもないだろう。もしつまらない体験があったとしたら、そのつまらなさがその人それぞれの本意本懐だと思うので、僕は口出ししない。
他人が口出しすべきでないし、当人でさえ、それにあれこれ難癖をつけるべきではないと思うのだ。
どうせ全て取り返しはつかないものを……
うら若き女性が新しく変わるのが僕は好きだ。だから、変わりたい人はぜひ変わってくれたらよいと思う。ただ、アドバイスなんか誰にも無いだろうし、変わるといっても何かから何かへ差別的に変わるわけじゃない。同じものから同じものへ変わるだけだ。不幸から幸福にチェンジするというようなことじゃない。不幸も幸福も同じようなものだ。それをあなたが差別的に見ているというだけで、本当は人それぞれ、着けている下着程度の差でしかない。
僕は何も特別の体験をしていない。これからもしないだろう。僕は昨日から今日にかけて別物になったりしない。ずっと同じ、みんなと同じ、誰とも同じようなままでゆく。
全部同じだよ……という、このことを、僕は、今自分のもっとも偉大で光り輝く発見だと思っているのだ。それでしきりに、あなたのそれを見せてくれ、と。
[それぞれのパンティ/了]