No.272 やさしい高鳴り
<<どうしようもない人人>>のことを考えていた。すると僕はたちまち、彼らが実に完成されたもので、彼らについて考えるということが絶望なのだと、取り込まれるようになって恐怖した。どうしようもなくなってしまった言葉たちについて考えると、ウイスキー、再生機器のボリューム、などが浮かんできた。それらは確かに、どうしようもない語群だった。もっともくだらない人たちは、コップの水を見つめるというようなことを描写するだろう、と考えて、そのいかにもありそうである気配に、いっそ感心した。僕は慰めがきらいなのだ、ということに気づくと、それは絶望に関わる態度と、密接に関連していると感じられた。絶望の淵で、絶望を慰める娯楽……それはまさにどうしようもない結末のものだった。自己の内にもすっかり根付き、いつでも取り出せる形になってしまった、媚びるということの便利な方法がある。これは<<受ける>>のだった、僕への親しさからではなく、都合のよい馴れ馴れしさへの安心感の予感によって。この便利な方法が根付いてしまったぶん、少なくとも僕は完璧に清潔にはなれないのだろうと諦めた。その諦めの心地は、きょうびに至っては些細なことに過ぎないと感じられたので、どうでもよかった。<<どうしようもない人人>>は、媚びることの不潔に気づかないではないが、それを見つけると今度は媚びないことの清潔さを振りまいてこちらに媚びてこようとする。達者なものだと皮肉になる。内心に恐れを抱く人ほど、隠蔽の笑顔を押し出してくるものだ。それも一時しのぎではなく、全ての時間をそれで生き抜こうとしている。彼らは企みに満ちていて、その企みのためにより適した方法を常に探し回っている。彼らはいかなることからも、詩集からも、慕情からも、身近な人の死からさえも、企みの技術を引き抜こうとする。彼らはエッセンスを欲している。こまっしゃくれた態度も、気弱で腺病質をうかがわせる何かも、筋張った筋肉の笑顔を健全さの売りに仕立ててくる何かも、彼らの自然なありようではなく、それぞれの流派というべき企みのありようなのだった。そんなことはとうの昔に知っている、と、僕はつぶやくふうにしたが、口から音声は出てこなかった。<<どうしようもない人人>>のことを考えると、それだけで芝居がかる企みにこちらも侵されてゆくのだ。
ほとんど厭らしさを避けるためだけに過ごすようなやり方は、さすがにそろそろごまかしの利かない、災難の類だと気づきはじめていた。厭らしさを避けるために、正直さの風合いでゆくか、気品の風合いでゆくか。それとも大人ぶって? 寝食を支えてくれる機構である社会を礼賛していく立場に立つことはいかにも有利で便利に思われた。これも<<受ける>>類だろう。けれども企みの全ては厭らしいので、今さら厭らしさを避けることはできそうになかった。結局俯いて歩くふうになるしかないわけか? 出来る限り、生々しいものを視界に入れないようにして……。それはいっそよい方法に思われたし、自己を厭らしさから防御できるのであれば、もはや手段はどのようでもよいというところまで、この問題は切迫していた。自己を反省する方法は、もっとも作為的で不潔だ、という考えがひらめいて、この考えは相応に自分を励ました。
手元に書きなぐられた四枚の原稿用紙があり、これはよくまとまっているので、書いた自分の気持ちをすっきりさせた。掲題部に、「あってはならない」という単純な題が書かれてある。
――文学は、あってはならないし、アニメも、芸術も、あってはならない。
あるというのは、意識のことだから。
僕は、文学があるよ、アニメがあるよ、芸術があるよ、と、教わってきただけで、そんなものは本当は無かったのだ。
教わっていようが、いまいが、僕の生きる実態は変わらなかったものを、よくも余計なことを教えてくれたものだ。
友人、これは、あってはいけないし、恋人、これもあってはいけない。
恋あいもあってはいけない。
どうせ変わらないのだ。寸分も。あっても無くても。
書く、ということは、あってはならないし、話す、ということ、これもあってはいけない。
あっていいのは病院と役所ぐらいだ。
(一頁)
恋あいが、あってしまったら、そのぶん、もう何も起きなくなるのだ。キャンセル、されるのである。
声、は、あってはならない。
季節、これも、あってはならない。
何があれば満たされるか、というのでなく、あるということが、すべてのブチコワシなのだ。
あると言い出せば、もう世の中には多くのことがありすぎである。無限にある。その無限を、全て揃えてはいられない。
ある、ということになると、人は求めるが、それがすでにあるということは、もう得られないということだ。
生命があるところに生命を得られるか?
春夏秋冬がある、ということが問題なのだ。
春の次に夏がある、から、もう暑くなれないのだ。
もう夏があるのだから。おおなんと虚しいことだろう。
(二頁)
書くことがあってはならないし、読むことがあってもならない。読書があってはならないし、本、物語というのも、あってはならない。
物語というのは、特に、あってはならない。
ある、ということの、概念のブラックホール。これが全てのことを吸い取ってしまう。
人生があったら人はもう生きることを得られない。だって、もうあるのだから。
得る、というのは、無いところに新しく届くのを、得るというのである。
明日があるというのは恐ろしいことだ。
もう決して、翌朝に目覚めるということを得られないのだ。
これならいっそ、他人のものを奪ってでも、吾だけ満たされようかと考えたくなってくる。
奪うのはかんたんだ、これこれが、あるよ、と教えればいい。その分こちらは何かを浅ましく得ることがあるだろう。
デカルトは地獄を生きたはずだ。
我在り、と知恵づいてしまったせいで、生涯、自己を生きることを得ることがなかっただろうから。
僕は生まれてこのかた、話したことがないし、語ったこともなく、何かを書いたこともない。
色んなことをしてきたが、それらは色んなことであって、何でもない。
言葉、これは、あってはならない。
好意、これは、あってはならない。
愛、これは、あってはならない。
心、これは、あってはならない。
リズム、これは、あってはならない。
あろうがなかろうが、全ては自然に得る色々のことを、あらせてはならない。
あるということは、自然に得ることの遮断だからだ。
四頁、了)
これらの文言は、明徹に書かれていたため、意味がわかりやすく、意味のぶんの励ましを与えてくれた。励ましが、あってはいけない、けれど。でもこの作用は励ましだった。得たものが励ましだったと言えた。書かれてあることの意味を正しく汲み取れたので、僕はこれを良いものとは内心にも言わなかった。良いものは、あってはいけなかった。
とはいえ僕は、たばこをくるくる巻いたのちに、精神が何かを発見するということの愚劣さに気づいた。これ以上、人間が厭らしくなるのは、もうこりごりなのだ、というのがさしあたりの真実であった。
***
文面が、文面であることを否定するぐらいのつもりで、睨みつけて、車窓の日光が書籍の用紙に高速で通り過ぎるのを網膜にちらちら受けながら、東海道の電車に乗った。友人の、友人を招待する、パーティに混ざるためであった。ここでは友人の名を、たとえばミス・リトルジョーンと呼ぶことにする。それが彼女の特徴と勤め先をよく表している手短な言い方だった。
かつて高架道路の下に独りで暮らしたミス・リトルジョーンは、その騒音がみるみる自分を苛んでいくのを知り、それが取り返しのつかないところまで染みないうちにと、ほとんどそのアパートメントから脱出するためだけに、海辺に住む男の連れ合いになった。印刷関連に勤める彼女は自分の仕事のことを話したがらなかった。彼女には実際、何というほどの特徴はなかった。強いていえば、首の後ろに過去の兄弟喧嘩でつけられた野蛮な切り傷の痕があったが、そこに注目することは平凡な彼女の印象を無理にねじまげることに過ぎなかった。
ここで、ミス・リトルジョーンの連れ合いは、やはりミスタ・リトルジョーンと呼んで差し支えない。日焼けして体躯の鋭い彼は、肉体を斜に構えて自分の無能を隠す悪癖の持ち主ではあったが、性質は好青年であった。彼は予想通り、僕が来訪したときに、僕の来訪をさも知らされていなかったふうの驚きと、その驚きを柔らかく受け止めるふうの芝居を見せた。それは正午の陽光が強烈に白かったので、照らされて、不快ではなく牧歌的な何かに見えた。人が集まるのは夕刻だったが昼のうちからミス・リトルジョーンはしこたま料理をこさえていた。脂肉の味見のし過ぎで唇が淫猥に爛れていた。ミス・リトルジョーンは、その肌のふしだらぶりから、ミスタ・リトルジョーンと、性交の回数を豊かに重ねているように見えた。それが彼女にどのような変化をもたらしたのか、あるいは何らの変化ももたらさなかったのか、僕は静かな興味を覚えた。彼女は以前より、やや疲れたふうにも見えたが……それより僕は、この十分に素敵といえる、高くから海に面した、白小屋めいた家の内外で、パーティというよりは宴会が執り行われるということに、不安と期待を高めていた。強い陽光は余計な思念を奪いとるようで、つまり期待というのは僕が誰かに新しく愛されるかどうかという期待だった。この計画性のない夜に。僕はつくづく、自分が愛されることを求める人間だった。
「料理に余念が無い。ミス・リトルジョーン?」
「この家の問題は、この家にあるのではなくて、隣人なの。隣人が、ガンマニアで、朝っぱらから重たい機械の、空気銃を空に撃つのよ!」
ミス・リトルジョーンは、赤いチェック柄のエプロン(新調した様子)で、手についた湯を拭きながら、笑って話した。使い込まれて見える唇と、その奥の口腔は、すでにミスタ専用の性具に見えるところがあったが、それでも健康的で、僕はミス・リトルジョーンの懐かしいかわいらしさを悦んだ。キッチンのアルミ壁に映り込んでいたミスタ・リトルジョーンは、気張り性のためか、庭で、これからやってくる夜のイメジに向けて集中力と空想上の練習を始めていた。彼は話しかけられたくないときしばしばそうした。
「Qさん、何してる? このところ」
「何もしちゃ、いないよ」
「あなたは、何もしてはいけないからね」
それで彼女は僕の肩を愉快そうに叩いたのだったが、若い頃の振る舞いを思い出してしまった彼女は、すでにその振る舞い方がいささか似合わないふうになっていたので、僕も若いころの振る舞いを、記憶からコピイするようして返したが、ささやかに胸が痛んだ。ささやかな痛みは、今日という時間が無意味ではないのだという錯覚に役立った。
一度、この家には、近所の悪がきが忍び込んで、鏡台にスプレイで落書きをしていったのよ? 8の字を横倒しにした、ムゲンダイの記号が書いてあったわ。迷惑な話ね。という、ミス・リトルジョーンの話を、ほとんど僕は聞き流したが、彼女はその小さな身の丈を利用して、いたずらのように僕の下向きの視界に入り込んできた。ふと距離が近くなると、互いに複雑な気持ちとしか呼べない気持ちが湧いたので……彼女のほうがするりと逃げた。僕は自分が考え事に入ろうとするのを――もしくは、考え事をするふりに入り込むのを――自然に回避することもできたので、狂暴な気持ちについて考えた。誰かについて殴り倒す衝動。それはたちどころに、キャンバスに横から筆を入れられた画家の振るう暴力という、あてはまりのよいイメージに結ばれもした。だが彼らはなお、横から筆を入れるのをやめないだろう。
ピスタチオのクリームを練ったわ。わたし泣きたくなっちゃった。泣けばよかったのに、と僕が応えると、ミス・リトルジョーンは聞いておらず、僕に与える氷水の準備を始めた。背の高いグラスに氷玉が大きな音を立てて転がりこむのを、聴いて僕はびくんとなった。特に使い道のない活発な気持ちが少し湧いた。僕は思い出して、土産に用意してきた米国風のキャップをミス・リトルジョーンにプレゼントし、合わせて、銀色に光る星型のシールを、ミス・リトルジョーンの頬に慎重に貼った。ミス・リトルジョーンが少し笑うので、頬の肉が盛り上がり、貼りづらさに難儀した。彼女の肩からは、やや仕事をしすぎた女の萎える匂いがした。派手な米国風キャップと頬の銀星はうまく彼女に似合ったし、彼女はそれ以上のかわいらしさを出そうとはしなかったので、この思いつきはまったくうまくいったのだった。全てがこのようでずっとあればよいという気持ちが一入した。エビがありますよ、と、不可解な入り込み方をしてきたミスタ・リトルジョーンについても、僕とミス・リトルジョーンともども、十分な理解の上で、恨まずに許すことができたのだった。
ミスタ・リトルジョーンは初めから悲しみに満ちていた。彼はまるで悲しむために生まれてきたようだったので、それが彼の不幸とも思えなかった。どうしようもない自信の無さが彼を包んでおり、またその自信の無さは、周囲からも事実との適合において、正当だと認めざるを得ないものだったのだ。この家は、彼の曽祖父が建築し、祖父と父との諍いから、父がせしめた形になったのを、父の気まぐれによって、現在の彼に下賜されたものだった。彼は長らくそれを僥倖だとシニックな笑いに昇華させる努力をしてきたのだったが、周囲の誰一人それが成功したとは認めなかった。人人はそのことついては途端に残酷さを露わにした。それ以来、彼が歯を出して笑うたび、それは特製の悲しみの記号として、一目瞭然されるようになったのである。彼の茹でてくれたエビにマスタードを塗りつけて喰う間、僕はしきりに、彼に趣味を与えたいと考えていた。彼が朝夕に、好きでもない投げ釣りでもやるようになればよいと考えていた。彼が彼でなくなれる時間がわずかでもあればよいのだった。
「思いを馳せるということほど、つまらないことってこの世にあるかい?」
つまりこのときの三人はつつがなく親交を持ちえたのだった。僕たちにとって、何事も賞賛せずに済む時間というのは、何より貴重で喜ばしいものだった。ミス・リトルジョーンは話が弾むたび股がゆるくなっていった。全てが順調に行くということは不幸で、その不幸はそのときの三人にまったくふさわしかった。このようであってよし、ずっとこのようであっていいのだ。ミスタ・リトルジョーンは航空輸送のことに詳しかったので、そのことの意外な話はひとしきり僕とミス・リトルジョーンを沸き立たせた。僕たちは端倪と応援を同時にした。
「要るものと要らないものがあるわ。なぜ多くの人は、要らないものにまで拍手をするの? あなたなら答えられるでしょう」
ミス・リトルジョーンのありきたりな話は、ありきたりであることの恥と節度を保っていたので、僕を心地よくさせた。僕がそのときミス・リトルジョーンを眺めたのは、真剣さのゆえではなくて、むき出された八重歯が鮫の複雑な口腔を思い出させたからに過ぎなかったが、そのことはむしろ無性に僕を、彼女を抱きしめでもしたい気持ちにさせた。今や要らないものを、誰にも必要とされていないものだと知りながら眺め続けることには、独特の情感があるよ、という僕の指摘は、彼女を感心させるのに成功した。僕はそれなりに得意になることができた。
「このごろはそういうことが増えたわけね」
「それどころじゃなくて、これから数十年はそういうことが続くのじゃないか」
数十年ですか、とミスタ・リトルジョーンが入りこんできたとき、ふと僕は彼ともこの先の数十年を行くのだという気がして、彼に友情を感じた。友情は同時に、やがてごまかしがたく育つであろう憎悪の芽生えをもたらしもした。
まったくこのようでよいのだという気持ちは僕を幸福にしたし、今夕から執り行われるわざとらしい酒宴についても、無意味であればあるほど、僕たちは幸福になれるのだと信じられた。無意味は吾らの本質であったからである。ごく短時間の談笑でもずいぶん疲れた僕は二階を借りて寝椅子で休むことにした。寝椅子の部屋はフロアを張り替えたらしく、溶剤の独特のにおいに満ちていた。ここで眠ればひどい頭痛に陥るかもしれなかった。それでも眠りに落ちる前、僕はしきりに、哀れみについて考えていた。眠りに落ちる直前にミス・リトルジョーンがやってきて、冷水にしぼった心地よいタオルを僕の額に乗せてくれた。彼女の腕でも掴んで引き倒そうとでもした僕の手は、眼を閉じていたため空を切り、僕は全てが面倒になのだと気づき、自信に満ちた眠りに落ちた。
***
反省屋、と呼ぶべき年上の女を一々潰してみることに、僕はパーティの中盤の時間を費やしていた。それは丁寧に並べられた銀盆のクラッカーを一つ一つ神経質に潰していく遊びに似ていた。ひどいつまらなさが神経を苛んでくれて、虜になれるところがある。実際そうして心の痛むのを自分に足してみるでもしないと、他にすることがなかったのでもあった。ひどく練習してきたらしい中年男のウクレレの演奏は、誰の耳にも負担をかけるだけでしかなかったが、テラスに出て余所事になると心地よくなった。彼は明らかに練習をしすぎだったが、誰も制止はしなかった。彼が練習したがることを皆察していた。途中若く美人の女が来たが仕事があるらしくすぐに帰った。差し入れてくれた手土産は北欧のキューブチーズの油漬けで、すばらしい塩分が僕たちを盛り上がらせた。チーズが正しかったせいで彼女は礼儀正しい女だったと共有された。いついかなるときも礼儀は大切なようだった。礼儀はこの世でもっとも美しいものの一つであるに違いない。水平線の彼方で、夕立が邪悪な形の雲を雷撃ごとに明滅させていた。邪悪というのは僕がそう信じたかっただけに過ぎないにせよ。
「陽気なものじゃないか、全て……」
僕が反省屋に向き直り、だらんとした両腕の先に手のひらを大きく開いていたのは、そうすることで、どうかこびりついてものが全て手放されてしまうようにと期待しての、効果のある儀式だった。こびりついたもの、そんなものは、実際無いのだ。そう思うたび僕は夜風に溶け入れそうになるのだった。つまりそれは正しい思念だった。反省屋がいかにも僕の儀式に気づかないでいること、また大切なことの全てを生涯理解しないだろうと確信させる彼女の肉付きは、このとき正しいものに見えた。それぞれの生であってよいと思うのだ。彼女の生が脅かされ、侵害されるようなことがあってはならない。僕が彼女の言うことを一つ一つ潰して遊ぶのは、僕と彼女の組み合わせにおける。僕の係りであった。まったくふざけることなしに、僕はそのようにしなければならなかった。僕は堂々、彼女にこの夜何も与えなかったときのみ、枕を高くして眠ることができるだろう。それは厭らしいことではなかったから。
反省屋のこの二十年は、彼女の自己への思念のみで出来上がっていたので、そこに人の興味を惹く話は何も無かった。僕はその二十年来の作物を全て踏んでいくのである。それは「僕にはそういう思念は無いなあ」と言うことのみで簡単に片付いていくものだった。すると彼女はまた次の思念を持ち出してくるので、また「僕にはそういう思念は無いなあ」と繰り返すことで営々うまくいった。彼女はその顔つきを、不快と依存とで転々とさせたが、依存させては僕は今夜にでも彼女と性交せねばならなかった。そして彼女との性交は何らも愉快でないということは見え透いていた。それでも性交のみを求める激しさが僕自身に残っていないことを、僕は認めるしかなかったし、僕はそのことを悲しんだ。悲しみは反省屋への友情に少し転じた。彼女が快適にこの先を暮らしてゆけることを僕は心の底から祈った。それは涙の滲む空想だった。
「でもどこかで、人は、公共的に、道徳的に、なるよりしょうがないんじゃありませんの?」
「僕にはそういう思念は無いなあ」
人は全て自分のことについて<<放っておいて欲しい>>ものだ。その唯一の例外が青春である。人は青春についてのみは、手を差し伸べてほしいと、本心から膝を折り、頭を垂れることができる……この夜で青春の所有者はリカという十四の少女一人のみだった。反省屋の従姉妹で、長期休暇の気晴らしに、反省屋の居宅に投宿していた。知らぬ家で一人にしておけないので反省屋が連れてきたのだ。自分より下等に映るようにと反省屋が慎重に選んだ黒いドレスを、彼女はまったく着こなすふうではなかったが、つまりリカはその無敵の年齢によって、全てをものともしなかったのである。リカという青春が現れたことは、パーティを華やかにするというよりは、パーティに禁忌が持ち込まれたということだった。パーティの活気の半分は、その青春という爆弾に触れないための注意力として消費されるのである。特に、化粧をしすぎて来た女性らの無言の圧力によって。加齢の本質は喪失であったし、それは喪うともっともみじめなものだった。
僕はもともとがそうであったかのごとく、リカに恋をしたし、誰でもがそうであるように、彼女と距離を縮められるなら金銭を費やそうという気にすぐなった。ただし金銭はもっとも安価なものであったから慎重を要した。僕は自分になんらの恋の手段も無いことをさんざん確認してから――それは必要な作業だ――もっとも弱い態度を正当に心がけることにして彼女に相対した。ご挨拶がまだでしたというありふれた口実しか僕には与えられていなかった。
リカは眼の端にでも僕のことを少しは見ていてくれたのかもしれない。あくまで状況を視認する、好奇心か節度かの程度によって。それで何であれ、僕のことをある特殊性において前もって認めてくれているふうだった。くだらなさすぎたゆえに逆に成功を自負できるような挨拶のあと、どうしようもない間が空いて、たちどころに気まずくなるところ、
「なに?」
とリカは吹き出してくれた。当然の興味と、正当な嫌悪が混じったそれは、何の嫌味もない、彼女の強い声であった。僕は打ち解けることができた。
「僕も同じように言ったと思うよ。その……」
食事があらかた平らげられると、タモ材のテーブル上のカトラリは、ミスタ・リトルジョーンによって手早く片付けられた。ミス・リトルジョーンは酒精と雰囲気にすっかりごきげんになったらしく、人人の輪のいくつかを行ったり来たりしていた。たくさんの料理をこしらえた労苦と、またその料理の大方が成功していたことで、彼女にはまったくその権利があったし、彼女のごきげんぶりは僕をまぶしがらせた。鬱屈の全ては嘘だったと信じたくさせた。肉付いた身体を振り回すことだけで真実が得られた日々は確かにあった。それはなお続いているのだと信じたい気持ちが誰にもあるのだ。
清拭されたテーブルの脇に僕が立っているのを改めて見つけると、ミス・リトルジョーンは、冗談でなくウサギのように跳ねた。みなさん! と、ミス・リトルジョーンは、僕も驚かせるほどの声で人人の注目を集めた。人人の全てはもう、今夜のミス・リトルジョーンを許すと決定していた。
「始まりますわよ!」
いささか煽りすぎのミス・リトルジョーンの文言と調子であったが、僕が受けて立つと周囲は紳士淑女の陳列となった。今宵、人人は確かに集まったのである。僕はもともと奇術を披露する役目として呼ばれたのだった。新品のカード・デックを取り出して封を解くと、懐かしい友人らの匂いがした。
「どうか、眼を離されませぬよう。あなたがたの知ることが、世界の全てではないということが、これから明らかにされるのです」
カードを扇に開いたり、手から手へ飛ばしたり、リボン状に広げたり、天井に貼り付けたりしているうちに、体内の血液は白熱し、下から上に逆流した。そこには純粋が生まれた。ごく一時のことであったとしても、僕ともども多くの人が、現在をのみ愉しむということを取り戻すことができたのだった。
***
つまるところ僕はすでにリカを愛していたし、それはひたすらリカが今その渦中にいる青春そのものへの讃嘆であった。リカも適度な嫌悪を残しながら僕を愛してくれたが、それはリカがリカ自身の青春を最大に愛することのおこぼれに過ぎなかった。僕にはまったくそれだけでも縋りたいほどのそれは美しいものであって、僕がその点に素直であることについて、リカは珍しがって、
「素敵です」
と言った。恰好いい、とも二度言った。年齢にふさわしい多動性でリカが数秒ごとに気を散らすのを、僕はそのたびに歓心を買う工夫をして引き戻した。リカは何にでも興味があり、何にも興味がなかった。僕の苦しさは、大空いっぱいの籠に鳥を飼っていると言い張るような苦しさだ。だがそんなことで自己嫌悪するほどには、僕は落ちぶれきってはおらず、翌日にみじめな昼間を味わうことも、とうに覚悟していた。真に美しいものに跪く以外に何ができよう?
僕は寝椅子に深く腰掛け、その脇にリカが床に、斜めに座っている。時折僕がリカの頬に触れるのをリカは無関心に許した。リカは数度僕の指先に口付けをした。まだ家畜のようなリカの唇の感触はそのたびごと僕をどぎまぎさせたが、その数秒後にリカが口付けのことを忘れるのでそのたび僕は当然の傷つき方もした。
リカは、遠い地方の話や、男同士の友人の話、種種のことがらについて技術を卓越させた人人の話を聞きたがり、一方で酒や音楽の話は好まなかった。リカは虚空に眠るような眼差しを向けて話を聞き、僕が話を中断すると寂しがって不平を言った。こうして出来上がる僕とリカの関係は次第に滑らかになっていったが、そうして滑らかにすることは、互いの居心地の良さと距離の遠さを確実にしていくことでもあった。リカは苛々させられることがきらいで、わずかでもそのようなことがあれば、その途端忽然と煙のようにここから消えてしまうに違いなかった。
虚しく流れていく時間をじっくり愛せるときほど、幸福と充足を、実感できるときがあるだろうか。僕はこのとき、まったくそのような特権的なことの中にいた。友人についての話をしていると、僕は彼らが今ごろどうしているだろうかという気になった。今も大切に思える友人らについて、今はどうか特権的でない、退屈で血管の浮いた、筋張った時間の中にあってほしいと望んだ。僕は友人らを愛すると共に、より以上に、自己の特権の時間を愛していた。
「友人は、いいものだよ。何も得ない。得たような気がしても、気がするだけでね。でも何より良いものだと思うよ」
話の道筋よりも、リカはただ僕が愉快そうに、あるいは大切そうな悦びで、何かを話す、その響きのみを好いていた。リカの身体は誘惑するように次第に寝椅子側へ近寄ってきたが、それはただ声が響くのに身が包まれやすいように距離を近くしただけだった。代わりに僕の指先はだらりと伸ばせばリカの胸元に届くようになり、リカはそれが話を聞くのを妨害しないぶんには鷹揚だった。リカの肌は清潔な衣服と同じ清潔な素材の触り心地のみがした。
夜が深くなるにつれ、リカの背中からは男に腹を立てさせる独特の匂いがした。
リカに接吻を求めると、リカの力の抜けた身体はよりだらんとなり、そのまま頭部を僕の腿へどさっと預けた。リカは拒絶というより、このまま眠りたいというふうに、頭部のゆるんだ重みを押し付けることで、僕への信頼と愛と、興味のなさを伝えることに成功した。リカはまったく眠りたいようだった。そうしてリカが眠りに近接する深い呼吸をしてゆくほど、リカの身体からは身長や発育を伸ばそうとするつまらない成長期の匂いがしはじめた。リカはまだ眠っている間が一番忙しいのだ。それでも眠るのはさびしいのか、リカは僕の足首を掴んで爪を立てたりして眠気に食い下がった。
階下から、そろそろ帰るわよと、ひとしきりの興奮と飽きが充足された満足げな声で、反省屋が呼びかけてきた。リカは面倒そうに身体を固くし、のそりと頭を上げたが、立ち上がるのは素早かった。少女から娘に切り替えられたリカはやや突き飛ばしたくなるほどにありふれていた。
乱れた衣服を整えなおしてリカは階下に去ろうとした。僕はそれを座ったまま目線で見送るだけの構えであったが、立ち去り際、リカは忘れ物を思い出した様子で振り返り、大きく踏み寄ってくると、バスケットボールをそうするように、僕の頭を胸元に抱えた。視界を閉鎖され、僕の視界は暗がりになった。
そのまま胸の中央に僕の耳を押し当てさせた。するとリカの心臓は、落ち着いており、静まりきってはおらず、やさしい高鳴りがあった。まだ何も上手く言えないリカの言い残したいことがそれであった。リカは愛情深くそれを十数秒もじっくり僕に聞かせると、何事もなく階下へ足音を立てて去っていった。リカの後姿が数歩も離れたとき、すでにリカが僕のことを完全に忘却して明日にも思い出さないことを認めた僕は、改めて全てのことは取り返しがつかないのだと鋭く思い知らされた。まったく鋭く。それはひとつの感激である。僕は感激を抱えたまま素直に眠った。後片付けをまるで担当しなかったことを心の内でミス・リトルジョーンとミスタ・リトルジョーンに詫びながら。
***
気の利いた誰かがベランダへのガラス戸を開けておいてくれたおかげで、僕は良い香りと風の循環する中で眼を覚ますことができた。ガラス戸が四角形なので風景と差し込む光も四角形だった。吸う息に潮風の香りがあり、吐く息にはまだベルモットの匂いが残っていた。快適さの中に、けれども朝であるということ自体の不快がある。この差す光の暢気さは常に生きるを無くさせ、かといって死ぬ気も無くさせる。鬱陶しいものだ。それでも風でも浴びてたばこを巻きたくなったのでベランダへ出ることにした。こうしたことがまったく朝は憎らしかった。
ベランダからは人の姿が見えないのが喜ばしかった。陽光が強くてまだまともに眼を開けていられない。今日が何であるのか、昨日が何であったのかは、決して考えないようにする意識的努力が必要だった。朝は特にその努力を強いられる。厭らしいことはごめんなのだ。僕は遠くどこかの人人が苦労していると空想し、彼らに全ての罪をなすりつけるふうにした。健やかであるためには、誰かを犠牲にする勇気が要った。
「うまくいっている」
視界に走りこむ人影があり、覗き込むとミス・リトルジョーンだった。昨夜から着替えていないワンピース姿は、ひょっとしたら眠っていないのかもしれなかった。米国風のキャップは脱いでいたが、頬に銀星がまだ貼られている。庭で仁王立ちになりいきり立っている様子のミス・リトルジョーンのところへ、追ってミスタ・リトルジョーンが走りこんできた。
そしてミス・リトルジョーンは、ミスタ・リトルジョーンを振り向くと、
「この、くず!」
と裂帛に怒鳴りつけたのである。
ミスタ・リトルジョーンの姿は、こちらからは背になり、その表情は見えない。けれども僕は彼のそのようなときの表情について確信があった。彼はすでに特性となった悲しい笑みを表しているに違いなかった。僕はその背中を眺めていた。眺めながら僕は、ミスタ・リトルジョーンが、昨夜の酒宴で自分の貧相さに傷つき、その慰撫のために卑劣な仕方の性交をミス・リトルジョーンに求めたのだと決め付けた。その架空の筋書きで僕はミスタ・リトルジョーンを眺めた。彼はそういう決め付けを面白がられることにまったく適したところがあったから。
昨夜、傷ついたミスタ・リトルジョーンは、ミス・リトルジョーンとの婚約を発表しなかった。元々そのための会合の催しであったのに。
睨みつけられて硬直したままであったミスタ・リトルジョーンは、こちらには背を向けたまま、その姿を半透明にしていった。青や紫の光が特に透けて見えた。やがて足先から、光学的な何かで削りとられていくように、ミスタ・リトルジョーンの姿は消えていった。足先から、膝、膝から腰へと。
それは科学的な、生真面目な現象だった。下半身までが無くなると、あとはさっさと消えろという気がした。ミス・リトルジョーンは、彼の姿が頭のてっぺんまで完全に消えるまで、またその数十秒後まで、睨みつけることをやめなかった。僕は自分が鷹揚であると思いこみたかったので、僕のほうは鷹揚に眺めていたよという話を、後にミス・リトルジョーンにしようと決めていた。
「やったじゃないか、ミス・リトルジョーン。お前、この家を手に入れたな」
ベランダから僕が呼びかけたのは、ほとんどまだ怒りの中にあるミス・リトルジョーンを和らげてやるためだけだった。呼びかけられたのに少し驚いたミス・リトルジョーンは、弾みで怒りと和解できたようだった。気分を入れ替えたミス・リトルジョーンは、
「わたしも、ちょっとしたものでしょう?」
と、爛漫の笑顔を表してよこした。久しぶりの、ミス・リトルジョーン。
僕はふと全てが無上に嬉しく感じられたので、自分を測るのに自分の胸に手を当てた。見ていたミス・リトルジョーンもわけもわからずその真似をした。互いに敬意を払うような構えだ。隣家から散弾銃が遠く海の空に向けて放たれると、バンと空気が割れて鳴り響き、数千の海猫が浜から影となって飛び立っていった。
[やさしい高鳴り/了]