No.274 恋あいをまともにする方法
たまにはまともな話をするぞ!
まず、人々はおおらかでなくてはいけない。
つまり、僕がそのへんにタバコをぽいぽい捨てても、「まあ別に」というぐらいの反応でなくてはいけない。
こんなことでキリキリしているようでは初めっから落第である。
冗談でも誇張でもなく、本当に落第だ。
そんなことでいちいちキリキリするような人間はいない。人間らしくない。
神様が人間を作ったとして、「どうぞ小さなことでキリキリしますように」と設計したとは思えない。
だからキリキリしている奴は何かしら人為的にそう作りかえられてしまったのである。
どうだ、この、珍しくまともな話は。
そうでもないのかな。
もちろんタバコのポイ捨てはいけません、という、PTAのおばさんの正義は不変だ。
不変だが、いちいち真に受けていいとは誰も言っていない。
ヒント、漫画「NANA」に出てくる歌い手ヒロインの大崎ナナはタバコをポイ捨てしている。
レナード・バーンスタインという偉大なアメリカの指揮者がいるが、彼は「わたしの愛したオーケストラ」というドキュメンタリー映像でインタビューを受ける間、ずったタバコを吸いながらインタビューに答えている。
「あの戦争の最中、空襲警報がホールに鳴り響いたのをよく覚えています。わたしは演奏を止めて、逃げたい人は逃げてくださいと言いました。しかし、赤子を抱いた一人が最後列から抜けたきり、誰も身じろぎもしませんでした。団員も、聴衆もです」
「わたしはよく前線の兵士たちの慰問のために演奏会をしました。ホールなどないので、洞窟の岩の上にピアノを置いて……これが意外な形で戦況に影響をもたらしたそうですね。数千人の兵士たちが集まるのを見て、敵軍はこちらの軍の動きを見誤ったのです。彼らは想像もできなかったでしょう、兵士たちはただモーツァルトを聴きに集まっただけなのでした」
みたいな話をする。
ロマンチックで、ロマンチックすぎて、尊敬に値する。
サミー・デイビス・ジュニアなんか、ライブの舞台の上でシガーに火をつけて、プカプカ吸いながら歌っている。
サミー・デイビス・ジュニアは、アメリカの歴史に冠絶したエンターテイナーの一人で、趣味はどうあれ、彼の歌がヘタクソだと言える人は世界中に一人もいないだろう。
日本では、ムツゴロウさんとか桑田佳祐さんとかがヘヴィスモーカーだ。桑田さんはもう禁煙しているかもしれない。そういえば僕はムツゴロウさんがタバコをポイ捨てしているところを直に目撃もしている。自分の「王国」でだが……
その他、シガーといえば、007のジェームス・ボンドとか、「刑事コロンボ」とかが印象的だ。
ここまできてもなお、PTAのおばさんがする嫌煙の思想は間違っておらず、不変の正義である。
が、果たして自分のことに限り、バーンスタインやサミー・デイビス・ジュニアから遠ざかり、PTAのおばさんに接近するようなことでいいのか、という問題がある。
もちろん、それでいい、という人がいるからこそ、PTAも組織として存続が可能なわけで、どちらにいらっしゃい、と僕は勧めるつもりはない。
勧めるつもりはない、というのはもちろん大嘘で、男女ともブスは向こうに行ってくれていいが、美人は行かないでくれ、おおらかでいてくれ、というのが僕の切なる願いである。
おおらかなのは大切なことだ。
少なくとも、おおらかでないと、恋あいは永遠に成立しない。
もし、おおらかさの無いままに、それでも恋あいを求めている人がいるとしたら、やめろとは言わないが、きっと全ての労力は無駄になる。やめろとは言わないが、やりながら、内心で諦めていたほうがいい。
おおらかになろうとしても、本人の素質というのがあるので、おおらかになれない人だっているだろうし、そういう人まで無理しておおらかぶることはない。
求めても得られないものがあるというのは誰にとっても同じだ。お互いがんばろう。
恋あいは、ロマンチックでなくてはならないが、ロマンチックというのは誤魔化されやすいので、堂々と「ロマン主義」と捉えたほうがいい。
ロマン主義とは何かというと、合理主義への反発、古典主義への反発、教条主義への反発、で成り立っている。
つまり、きちんとしたお付き合いでないと女が損をするし、とか、やっぱりお嫁さんになりたい! とか、男性はその女心を読み取らなくちゃいけないのよ、とかいう、合理と古典と教条を全て否定する立場に立つことだ。
無理にロマン主義に立つ必要はないので、いえ自分は合理と古典と教条を採ります、という人は、そちらを採ればよいわけだが、そちらを採る限りは、もう何をどう間違ってもロマンチックな時間は一秒も得られない。
何もロマンチックだけが全てではないと思うので、それはそれでよいと思う、というのも、やはり僕が言えば大嘘で、本心では「くたばれ」としか思っていない。
それは、それぞれの立場だからいいだろう。
いやしかし、僕の性格は置くにしても、合理と古典と教条をむさぼりながら、同時に「ロマンチック、うふふ」と言いたがるというのは、さすがに虫が好すぎるというか、単純な脈絡において間違っているだろう。
君には燦然たるPTAへの道があるじゃないか! と勧めたいのだが、こういうとまるで悪口のように聞こえてしまう。
ちゃんとした仕事をして、ちゃんとした機能を持っている、ちゃんとした人たちは、PTAの側であって、僕の側ではない。
なぜこうややこしくなるかというと、こじれているからややこしくなるのだ。
このコジレを直すためには、とりあえず、僕がどこかにドッカと座って、タバコを吸ったり投げ捨てたりするので、あなたはキンキンに冷えた冷やしあめを、僕に口移しで飲ませてくれたらいいのじゃないか。
セミがジージー、ジョワジョワ鳴いているところなんかで。
夏だし……
冗談ではなく、一人一人、少女はそうして自己を乗り越え、ロマンチックを手に入れていくのだと思う。
恋あいをまともに手に入れた女の子たちはみんなそうしていったように、冗談ではなく思う。
何もなしにロマンチックになれるかよ!
男のほうはというと、キスしてもらうか、唾を吐かれるか、どちらかだが、どちらでもいいよ、と、無関心に、女の子の勇気の自由を、認めて許すぐらいしか、することがないのだった。
唾を吐かれて当然のところを、不意に最上のキスをされるので、「ああ……」となって、いい女だなコイツ、と思うのである。
「ディズニーランドでも行くか」
「行かない」
みたいな感じになる。
唇が冷え冷えで……
余計なお世話だが、そうしてロマンチックを手にできる、その素質のある女の子は、ぜひそれを手にする、正当な機会があればいいと思う。昔はそんな機会はゴロゴロあったが、今はかなり少なめだ。
街中で見かける殴り合いのように、昔は週一であったが、今は探しに行っても運がないと見つからない。
素質の無い人は、別にここにこだわることは無いので、冷やしあめは一人で飲んでいたらいいだろう。
もともとはそちらのほうが正統派の飲み方だ。
素質の無い人は、と、これも余計なお世話だが、何か「カッコイイ」ことをしたがるので、それがすなわち、素質が無い。
「カッコイイことをしたがる」という時点でもうロマンチックではないのだ。
麦藁帽子をかぶった少女が、自分を抱いてもらうために駆けていく、今日の午後には去ってしまう旅人のところへ、という、そのときのワンピースの揺れと少女の無表情がロマンチックなのであって、それをビシッと指差して「cool!」とか言っている側はカッコイイがロマンチックではない。
合理に反し、古典に反し、教条に反し、目的を持って駆ける少女の無表情はそりゃあ美しいだろう。
無表情というところがポイントで、無表情というのは仏頂面のことではない。
顔面に記号の仕事をさせるのは悪い習慣で、ロマンチックのためにはぜひ排除されなくてはならない習慣だ。
記号はわかりやすいから便利なのだが、わかりやすいというのは深く伝わるということではない。信号機と同じだね、というだけだ。
おっと、難しい話になってしまうのでやめよう。
とにかくおおらかであればいいという話。
素質のある人はある人でいいし、無い人は無い人でいい。そんなことにガタガタ言わない、無理のなさがおおらかさだ。
意外に、勉強なんかにも関係していて、受験勉強をするのに「こんなことが何の役に立つんだよ」というのはおおらかさが無い。
実はおおらかさが足りないだけなのだ、本当に。
オーバードライブ!!
今無意味なことを書いたがあまりめくじらを立てないように。
僕とデートしてくれた女性の、OKの理由は、90%が、ただおおらかだったからで、セックスの関係となると、99%が、ただおおらかだったから、ということによる。
今でも、ずっとそうだが、どうだロマンチックだろう、ということで、わかってもらえるだろうか。いやわかんねーよそんなの。
***
「週末、ヒゲを剃るから、デートしようぜ」
「はあ」
なんというか、頭の回転は早くなくてはいけない。
僕は、フラれるのはかまわないし、男は誰でもラブコールの95%をフラれて生きるのだが、そうして生きていないヤツは死んでいるのであって、悪口になってしまった、それはともかくとして、頭の回転は速くなくてはいけない。
フラれるという以前に、何を言われて何をどう誘われているのか、頭の回転がついていっていない、というケースをよくみかける。
そんなことではいけない。最低限、僕よりはいくらか、世間一般の頭はすばやく回転するものでなくてはならない。
だって、誰もおれより頭悪いと思って生きてないんだから、そのぶん実際に反映されていないとだめだろ!
頭の回転は速くなくてはいけない。
頭の回転が速いというのは、だいたい僕は無意味なことばっかり言っているので、すばやく、「あっコイツ意味の無いことばかり言っている」「それでつまりコイツはセックスしたいだけだ」とすばやく理解するということだ。
その上で、お断りする、そして僕がフラれる、というのは、まったくかまわない。当然の権利というか、当然の行為だろう。
僕が女だったとしても、なんだこいつアホかと思うのみだったろう。
アホと付き合うためには相当ハイな気分が保たれていなくてはならず……
それはいいとして、フラれるとか断られるとかは、いいのだが、頭の回転がついてこなくて、不気味な空気で終わるのはよくない。
それは、なんというか、不気味、ということしか残らない。
それはもう、フラれたとか色恋沙汰とかと、もう次元が違うじゃないか。
壁に張り付いて動かないガをつついていたら急に飛んだ! みたいな不気味さだ。
ド田舎のド老人ならしょうがないと思うが、都会のティーンでもそんなコがいたりするので、それはさすがに嘆かわしいと思う。
都会でありティーンだというのは、本当に貴重な資源なんだぞ。
頭の回転を早くするにはジュディ・アンド・マリーのベストアルバムをヘビーローテーションで聴くのが有効だ。
という、根拠のない説は、今僕がそれを聴いているから言っているのである。
久しぶりに聴いたらまっ黄色の官能が背筋を突き抜けてぞくぞくする。
それはともかく、頭の回転の速さは大事だ。
切り替えの早さといってもいい。
切り替えが遅いというのは、映画の予告と本編の見分けがついていない、というような状態だ。
「えっもう本編なの、えっ、いつから、えっ、巻き戻していい?」みたいなもので、これは万事について話にならないということが起こる。
僕があなたをナンパして、急にバディ・リッチの話をして、急にビーチ・ボーイズの話をして、急にアベラワー・グレンリベットの話をし、急にセックスの話をして、急に歎異抄の話をしたとしても、それに頭の回転はついてきてもらわなくては困る。
それは、ナンパの可否とは別のことだ。
これは、僕にしては珍しく、それぞれのレディの身の上のためを純粋に思って、老婆心から申し上げている。
なぜ頭の回転が速くなくてはいけないか。
なぜ切り替えが早くなくてはいけないか。
それは、そうでないと、自分の世界が「不気味」に満ちてしまうからだ。
不気味というのは、先ほども言ったように、「オトロシヤノー、わしらの宿命はこの水車小屋を守ることやった! 三十年、ギー兄さんが逃げてから!」みたいに言っている文学的なババアに、最新のユビキタスを教えるときに起こるような不気味さだ。
頭の回転がついてこないというのは怖いのである。
仮に、男が、あなたに「やらせろ」といい、あなたが「いやよ」と言う。それで男がムッツリと黙り込んだら不気味で怖い。
それは、男が怖いのではないし、性欲が怖いのではなく、実は、「いやよ」と言われたことでもう男の頭がついてこられなくなっている、その回転の遅さが怖いのだ。
「やらせろ」
「いやよ」
「人生にはいやでもやらなくてはならないことがある」
「人生には満足してる」
「好き嫌いをしてはいけないと両親に教わったはず」
「ところでクレープが食べたいわ」
「竹下通りに行けばいいし、おれもクレープを食べることには異存ない」
「タクシーで行く?」
「タクシーで行く、クレープ食いたいな実際、ところでやらせろと言っている」
「クレープは?」
「まあそれは食べてからのことになるが、何クレープにする?」
「イチゴ」
「おれとかぶってんじゃねーよ」
と、こう頭の回転がついてくる分には不気味ではない。
ジュディマリをガンガン聴けというのも間違っていないとわかってもらえるだろう。
逆に、回転が止まっていて不気味な例を、作文すれば、
――……コノ……キモチ。……コレハ、……オモイ? ……オモイダ。……オモイ。……オモワレタイ。……オモワレタイ、オモワレタイ、オモワレタイ、オモワレタイ。オモワレタイオモワレタイオモワレタイオモワレタイオモワレタイオモワレタイ。オモイ……ワタシノ、オモイ。……ユルサナイ
と、こういうのが不気味だ。
不気味さというのは、グロテスク・リアリズムと言って、もっとも安直な異化を起こすので、追い詰められた人間は喜んでこの不気味さにすがるのだが、これはめちゃくそ簡単なことなので本質的につまらない。
また悪口になったぞ!
とにかく、頭の回転が遅いのはいけないし、まして頭の回転の遅さを自慢するようであっては救いが無い。
恋あいをまともにするためには、おおらかで、かつ、頭の回転が速くなくてはいけない。
人は人の笑顔が好きだし、人が笑うのが好きだが、おおらかでないし頭の回転が遅いのに笑えというのは無理だし、そんなので笑われたらますます不気味だ。
今回は割とまともな話ができているんじゃないか? と思えて、我ながらご満悦だ。本当にはそうではないかもしれないけれど……
***
すっごく現実的な話をすると、女の子は、誰かにいろいろ教えてもらなくてはいけないと思う。
男女差別みたいになって恐縮だが、それでも、現実的に考えてだ。
若い女性って、何もなしでいきなり日経新聞の情報が読めるか?
これは、男性は悲しく自慢してよいことだが、どんな窓際のおっさんでも、まともな仕事をしてきたおっさんなら、日経新聞の情報はちゃんと読めている。
もちろん女子高生だって、文面は読めるし、書いてあることは理解できるが、それが「読み取れる」かどうかは別だ。
「NY円、対ドルで100円台に下落 1カ月ぶり、米金利上昇で」と書いてあれば、意味はわからなくないが、なぜ「NY円」と書いてあるのか、なぜ米金利上昇で円安が起こるのか、それで円安が起こったらどうなのか、ということまではわからない。
だから、結局何を読み取ったらいいのかわからないので、読めているようで読めていない、ということになる。
そりゃ素人がレントゲン写真を見るようなもので、そのものを視認することは誰にでもできるが、「だからどうなんだ」ということまでは、みっちり教えてもらわなくてはわからない。
若い女性が、「世の中カネでしょ」というとき、日経新聞の記事を読みながらは言っていない。
だから彼女は、自分の信仰するカネが縁遠くなってしまうので、当人が損をするというか、当人が不本意だ。
ところが、今やそんなことを女の子に教えようとする男はいないし、それはもう男にそのような立場を採る権利が与えられていないからなのだが、女の子のほうもそもそも「あなたは教わるべきだし、教わってよいのです」ということを教わっていないから、このことは機能していない。
誰が損をしたかというと全員が損をしている。
まずい仕組みで、これを作り出した奴は、きっとすごくまずい奴だったのだと、これは堂々と悪口を言おう。
もちろん、人は、すでに自分の知っていることを教えられると、腹が立つので、知らないことを教わる必要があるのだが、世間は女の子に「あなたはすでに全てを知っています」と刷り込んであるので、もう何をどう教えようとしても腹を立てられるだけだろう。
しまった、なんか難しい話になってきたぞ。
元に戻して、すっごく現実的な話をすると、女の子は、誰かにいろいろ教えてもらわなくてはいけないと思う。
平たくぶちまけて言えば、恋あいも、セックスも、遊ぶことの楽しさも、誰かに教えてもらうしかない。
別に傲慢で言っているつもりはないのだが、これを言うだけで傲慢に聞こえてしまう世間のほうが、これはさすがにおかしい。
ついでに自白すると、僕がこれまでにどれだけ、人の就職のエントリーシートを指導したり、代筆したりしたか、もう数えられない。
そして現在までのところ、僕が代筆してやったエントリーシートで内定が得られなかった人は一人もいない。
それは別に、僕がインチキをしているわけではなくて、僕がその当人にロジックの形成を教えているのだ。あなたはこう言っていいし、こう言うべきだし、これが伝わらないといけないよ、というのを、文面にしてやるだけである。それで当人が「なるほど」と膝を打って、面接で自信を持って語れるようになるというだけだ。
ロジックの形成などという、難しいことを言ってしまった。この線はやめよう。
もっと話を簡単にしてだ……その、僕の経験上から、今も続くそれに合わせて、話をすると、女の子はおよそ恋あいとかセックスに入り込むとき、けっこう、何も「わかっていない」状態で、それに引き込まれていくのじゃないか?
僕が今までに言われた、それに関連するセリフの中で、一番感銘を受けたのは、「おまかせします」だった。自分の判断を持ち込まないと彼女は言う。
つまり、自分が何かを「わかっている」という前提に、彼女は立たなかったのだ。
「あなたがわたしを、抱くというのなら、それが正しいのだと思います」と。
そんなふうに言われて、久しぶりに真剣にならない男はさすがにいない。
あ、いや、だめだ、もう時代が違うので、それでも真剣にならない男もたくさんいるよ、と言っておかねばならない。
いやな時代だな! ちなみにおれは違うからな!
冗談ではなく、セックスがどういうものかを知るのに、風俗嬢になってそれを体験する、という人は、実はけっこう少なくない。
誰も教えてくれないなら、防犯上、そうするしかない、ということのようだ。
防犯上というのは、お店を通してセックスするなら、男がやっかいな人間であっても、店が安全保障にはたらいてくれるので、まだ安全だ、ということだ(だから風俗嬢は店外での売春をいやがる)。
安全保障なしに見知らぬ男に抱かれまくるわけにはいかないし、同級生や同僚の中でヤリマンの噂を立てられたら生活が汚損するし、ということで、実際的にはそういう職業で学び取るしかなかった、ということがしばしばある。
冗談でも誇張でもないし、そのことを一度も考えたことがないという女性のほうが、むしろ少ないんじゃないかと思う。
逆に、恋あいもセックスも、たくさん教えられてきたし、もともと才能があった、というような女性は、あまりホステスや娼婦になることに興味を持たない。
わかるし、できると思うけど、そこで新たに知ることがあるとは思えないから、要らない、と感じるらしい。
昔から腕っぷしが強くて、よく殴り合いをしたよなあ、という人が、今さらボクシングジムに興味を持つことが少ないみたいにだ。
それで、風俗嬢になって、セックスを学べば、技術的には教われるだろうけれど、それは技術の半分方だけが達者になるだけで、もう半分の技術はカラッポのままになる。
音階と声量はスクールでバッチリになったが、どう歌っていいかわからない、という歌手のようにだ。
だから、なんと言えばいいのか……
あなたは、男に、「セックスを教えてください」と、言ってよいのである。
奇妙な言い方だが、そうなのである。
今、現代、あまりに流行らないというだけで、言い方は間違っていない。
彼氏と最近マンネリです、という人は、これを試してみてもいいかもしれない。
「セックスを教えて」
と、改めて言えば、本当の抱き方と抱かれ方を、教えてくれるかもしれないし、彼はそんなもの持っていないかもしれない。
この人とセックスしてもいい、という覚悟の上なら、恋あいを教えてください、と言ってもいい。
それでお説教話になるだけだったら、彼はセンスがないのでやめておこう。
女性が、初めての人としてセックスする人と、セックスを「教わる」人とは、たいてい別だと思う。
別でない場合もあるし、そのほうが幸福なのかもしれないが、現実的にはかなり希少な例になる。
きっと、自分はこの人に教わったなあ、という人がいなければ、その人は、まだセックスを知らないでいる。
あ、わかったぞ。
とても重要なことが今見つかった。
別にセックスに限らず、何か自分の「好きなこと」が無い人というのは、それを誰にも教わらずに来ているのだ。
自分の人生の中に、「教わる」ということで構築され始めるものがあるということを知らず、教わることなしに全て自分がもう知っているものだと、刷り込まれている誤解によって、何かを好きになる権利を与えられずにきているのだ。
人が好きじゃないという人は、人を教わったことがないし、恋あいなら恋あいを、セックスならセックスを、仕事なら仕事を、人に教わったことがない。
だから好きになれないのだ。
すっごく現実的に考えてそうだと思う。
いいよおれが教えてやるよ、といって、十夜廿夜と、いじりたおされたことがないので、そもそもセックスを教わっておらず、セックスが好きになれないのだ。
もちろん、今時「おれがセックスを教えてやるぜ、うひひ」みたいな奴は、ひどく時代錯誤しているおっさんだし、実際そんな人を探すほうがもう難しいだろうが(いや意外にいるのか?)、そのこととは別に、やはりセックスを教わるということは女の子にとって必要だ。
自分の好きなことの背後には、誰かへの感謝があると思う。
僕自身、僕の好きなことを思い浮かべると、その背後に、それを教えてくれた全ての人が浮かび上がっていて、そこには当然の感謝がつきまとっている。
たぶん、セックスが好きな女性、恋あいが好きな女性、その他○○をするのが好きな女性というのは、その好きなことを思い浮かべると、今でも感謝する、消えない誰かの影像を持っていると思う。
話を戻して、すっごく現実的に考えてみる。
女の子が、恋あいだのセックスだのいうとき、たいてい「よくわかっていない」。
これを読んでいるあなたも、そうなのだ、と仮定したらいい。
そして、よくわかっていないので、どこかで誰かに、教えてもらうしかない。
教えてもらうのは、悪いことではないし、教えてほしい、と、申し出ることも、してかまわない。
ええと、ここまで確か、「おおらかで」「頭の回転が速くて」という話をしてきた。そこに、「恋あいとセックスを教えてもらう」が加わる。
これはなかなか、恋あいをまともにするためにという、タイトルに沿っているなあと思うのだが、どうだろう、そうでもないのかな。
***
あと何があるかな(と、誰かに投げたがっている)。
体力が要る、みたいな話は、当たり前すぎて言いたくない。
自意識が、とか、プライドが、とかは、難しくなるので話したくない。
うーん、だいたい終わったので、これで終わり、ということにしてしまいたい。
してしまいたいのでしてしまおう。
だって、まあ、これでいいじゃないか。
おおらかなので、教えてほしい、と素直に言えて、教えてやるよ、と言われたら、教えてくれるんだ、と頭の切り替えが早い。
バッチリだ。
文句のつけようがない。
でも、これでは何かまとまりがないので、あえて一つの言葉に結び付けてまとめる、というふうにしてみよう。
それにはきっと、「女の子らしい」というのが適当だ。
いかにもダッサいが、別に間違ってはいないからいいだろう。
女の子は、おおらかである。
そんなことはないか?
いや、でも、「女の子はキリキリしているものだし、心が狭いはず」とは決して言いたくないし、そんな国はもう男女まとめて核攻撃で焼くべきなので、女の子はおおらかである、ということでいい。
女の子は、頭の回転が速い。
これは、これでいいんじゃないか。
女の子は、頭の回転が速く、オバハンは、遅い。
これは間違っていないだろう。
女の子は、教わらないといけない。
これも、古くさいが、逆にさわやかでいい。
教わらなくてもできますけど? みたいな、うっとうしいものに比べたらずいぶんいい。
別に僕のことが気に入らなくても、女から女の子を見たって、そっちのほうがずいぶんかわいいはずだ。
だから、彼女は女の子らしいね、ということに結び付けて、
「彼女は、いかにも女の子らしくてさ、おおらかで、頭の回転が速くて、いろいろ教えてねって、貪欲なんだよ、いやあ女の子だよねえ」
と、そういうことならよいわけだ。
恋あいをまともにする方法としては、唯一とは言わないが、けっこう最善の類だと思う。
もちろん、このご時世に、この女性観はありえない、ふざけるなよ、と言われるのもわかるのだが、そうじゃない女の子だってやはりいるのだ。
こちらが何かを教えようとすると、うっとうしそうにする女性もいるし、でもやっぱり、ガバッと起きてきて食いついてくる女の子もいる。
本当にいるし、それが僕にとって一番身近なのだから、ウソをついてもしょうがない……ということで、いよいよ本当に終わり。
じゃあ、またね。
[恋あいをまともにする方法/了]