No.275 まず自分をぶんぶん振り回すこと
受験生は何をしているかというと、自分の「使い方」を探しているのである。
この膨大な参考書の中身を自分の脳みそに突っ込むには、どうすればいいんだろう? というのを、手探りで、なんとかこじ開けようと、しているのである。
ここで、いわゆる勉強法というようなものは、半分は正しいが、半分はひどいウソである。
「コツコツやれば必ず伸びる!」というのはひどいウソだ。
「要領アップする方法!」とかいうのも、たいていひどいウソである。
問題はそういうところにあるのではない。
自分だ。自分の脳みそが主題である。
この、自分の脳みそに、いったいどうやったら、ふんだんに情報が吸い込まれていくのだろうか?
それについては、本当は、「正しい方法」と呼ぶべき方法があるのだが、これを持ち出しても役に立たない。
いや、役に立つこともあるのだが……
役に立たないというのは、それをアドバイスで教えたって、必ずそれを誤解するからである。
その場合、それを教えるためには、正しい方法を知っている人間が、「密着」の状態で教える必要がある。
たまに、相談されることがあるので、僕はそのとき、アドバイスをしない。
とりあえず参考書とノートを出して、今ここでやってみろ、という。
そして彼女が、参考書とノートを広げて、「えーっと……」とやり始めたところで、
「遅っ」
と言う。
エッと驚かれるが、
「そんなところで遅くしてたら、めっちゃしんどいだろう」
「はい、正直、すごくしんどいです」
「はよやれ」
こんな感じになる。
僕は第一の誤解について彼女を説き伏せる。
「まず参考書から聞こえてくる説明は、くそ女の愚痴だと思え」
「はい」
「まずその声の感触を、うわクソだ、と無視すること」
「無視すること」
「くそ女のぶつくさ言うのを聞いたって意味ないからね、しんどいだけで」
「はい」
「あなたは一つ誤解をしている」
「……」(このへんで彼女は真剣に聞き始める)
「問題を解けるようになりゃいいだけで、問題が解けたらもう参考書なんて要らないの」
「……はい」
「だから、そのくそ女のぶつくさ言うみたいな、説明のところは、読まなくていいの。ウッセエなあ、と思いながら、さっさと問題を解けるように覚えてしまって、このくそ女と別れよう、と決意する。断固たる決意」
「はい」
「最善の方法で最短で済ます、そして別れる」
「最短で済ます、別れる」
「問題文を読んで、解答の手順を書きうつせ。できるだけ汚い字で」
「はい」
「そしてそれを繰り返せ」
「はい」
「やってみ。ゴー」
……
「書きうつしました」
「うん、それで休憩しろなんて言ったか?」
「いいえ。繰り返すんでした」
「そう、繰り返して。ゴー。あともっと汚い字で」
「はい」
「もっと速く」
「はい!」
「ノートが最大速度で無駄になっていくように速く」
「はい!」
「とにかくスピード、スピードと繰り返し」
「はい」
「そこをゆっくりやると、料理みたいに、一品目から順に冷めていくの」
「はい、冷めていく」
「アツアツのまま繰り返しひたすら食えたら問題ないとだけ思え」
「アツアツのまま繰り返し、ひたすら、なら問題ない」
そうして五回も十回も同じものを最高速で書きうつしたら、さすがに覚える。
意味がわからんまま覚えるのだ、強制的に。
渋谷の街で、「神南から文化村へ行って宮下公園に行って戻って来い」というのを、ダッシュで10回も繰り返させたら、さすがに道を覚えるに決まっている。
それを明日もあさってもやるのだから、渋谷の街の構造を覚えるのに、絶対に一週間も掛からない。
同じルートを走っているように見えても、「じゃあ今度は神南から直接宮下公園に向かえ」と言えば、「つまりあっちだ」というのは、考えなくてもわかるようになっている。
なんでって、人間の脳はそういうふうにできているからだ。
これを、地図を見ながら歩いたら、逆に頭に入らない。
地図があるなら脳はサボるのである。
そうして、とにかくスピードと繰り返しで、解答の手順を書き写しで覚えたら、今度はその自分で書いた解答手順が、「さっぱりわからない」かというと、そうでもない。
人間は自分の頭の中に入っていることならば理解できるのだ。
神南から宮下公園へまっすぐに行けるように、脳は勝手に、全体の構造をある程度つかんでいるものだ。
「そうして解答の手続きを丸暗記してからなら、解答の説明文を読んでもいい」
「はい」
「今度は説明文の意味がわかるだろ」
「はい」
「解答の仕方を説明してみ」
「はい。えーっと、これはつまり、二次関数で、グラフを書いて、そのグラフを書くためには……」
そうして自分の口で説明するのも、「もっと速く」「繰り返して」というのを強要する。
そして強要されていると、シドロモドロになりながらも、最終的に、
「問題文見て! 説明繰り返して!」
「二次関数! グラフを書くのに因数分解が要ります! エックスの二乗が正なので下に凸、この関数は最小値を持ちます!」
と、勢いよく断言するところまで行き着く。
実際、こんなことをやるのに、時間にして三十分も掛からない。
でもその三十分があれば、少女は数学の一分野の基本を、もうマスターしてしまうことができるのであった。
ご存知のとおり、二次関数の最大値・最小値は、大学入試で最頻出する問題のひとつである。
こんなことを一年間も続けてりゃ、そりゃ大学にも合格するだろう。
ただ、実際には、なかなかそう上手くはいかない。
なぜ上手くいかないかというと、そういうふうに教えてくれる人がまずいないからだ。
加えて、より本質的な問題としては、そうして教える側と教わる側が、そんなに密着はできない、ということがある。
こちらの言うことに、「はい」「はい!」と、無条件で答え、ひたすら吸い上げていくという、完全な密着具合と、邪念のない素直さがないと、これは成立しない。
「よろしい、次にいくぞ」
「はい」
「遅えよ」
「はい!」
というふうでないと、そうして教えるということは成立しない。
密着というのは、言わずもがな、あなたの側に、密着を「許す」という構えがいる。
「エーだってさアー受験とかってアレだしぃ、大学とかって今時ーところであの先生超ウザくねマジで? 超ウケるんですけど」
みたいな人は、密着を許すつもりが根本的に無いので無理だ。
それが別に悪いことだとは思わない。
が、誰とも密着は無理だし、教わるというようなことは無理だ。無理なことはするものじゃないから、僕はそういう場合に、これという意見を持たない。
アドバイスぐらいはするかというと、アドバイスという行為がきらいなので、僕はそんなことをせず、「マジあいつ死んだほうがいいぜ笑えない」という感じで一緒にゴチャッと言い、どうするかというと、何をどうにもしないのであった。
教えるとか教わるとかいうのは、まったく時代錯誤なものなので、そもそも、教えるというときに、そんな気合で向き合う人は、すでに極少数派だ。
その気合に、密着で呼応できる人は、少ないかというと、これは案外そうでもない。
心の底で泣きながら、そうして教えてくれる人のことを、本当にずーっと待っていたの、という人は、実はけっこういる。
そういうとき、たとえばある男が彼女に密着で教えたというとき、本当は、彼は数学を教えたのではない。
彼女自身の「使い方」を教えたのだ。どうしたら、その脳みそに、参考書の内容がぐいぐい入っていくのかという、そのための「自分の使い方」を。
彼女は、彼がそうして密着して教えてくれるまで、きっと自分の使い方が一生わからずじまいだっただろうから、彼女にとって彼は「かけがえのない人」になる。
つまり、僕がすぐ美少女に密着させろと言い出すのは、そうして互いにかけがえのない関係を持つためで、と主張しようとしたが、これはあまりにインチキくささに無理があるので、ごめんなさいウソです、と言うことにした。
あ、あと、そうして密着うんぬんというのも、それができる場所や環境が無い、というのもあるな。
具体的に、あなたがガリガリ勉強するのを、横から僕がひどい口出しをするというのに、伸び伸びと声を出して気にせずやれるというような場所は、なかなか存在しない。
そして環境というのも、たとえば周りに誰かがいれば、イヤラシイ冷やかしの眼で見られるに決まっているからだ。
それは、僕は気にしないが、これを気にしないというのは、もうそうとうヘンタイの領域に踏み込んでいることだから、おすすめできない。
なんというか、そういうのは、うらやましいのだ。
うらやましいので、そっとしておけず、ある種の人たちが、熱心に足を引っ張りにくる。
それは、彼らにとっては必死なことなので、あたたかい目で見てやる必要がある。
本当に付き合ってもらえている、本当に密着してもらえている、そして、このままでは本当に自分の使い方をメキメキ身につけてしまうということが、本能的にわかるので、それを断固として妨害せずにはいられないのだ。
それは、本当の友達じゃないから、とも言えるかもしれないけれど、トモダチのままでいてほしいから、という、悲痛なことにも聞こえる。
密着というのはだ……
神奈川の葉山で、女の運転で高級車に乗せられて、レストランに連れて行かれ、「あなたのことは、全然好きじゃないんだけれど」と言われたことがある。
「サイテーなんじゃないの、と思ってたし、今もそう思っているのか、なんだかもう、わたしよくわからなくなっちゃった」
と、彼女は視線を横にして色々言うのである。
「でも、わかるわよ、あなたが冷たい人じゃないっていうのは。何かあたたかいっていうのは、わかるわよ、さっきわたしわかったもん」
と言い出して、彼女はテーブルに突っ伏してウワーと声を上げて泣き出してしまった。
明らかに、彼女は何か、時間的に近い彼女の思い出によって、泣いている様子だったが、そんなところにウェイターが「仔牛肉のローストです」と運んできやがるものだから、僕が衆目に、「ウワアあの男、女の子を泣かせているのに自分は牛肉のローストなんか食べるんだ、サイテー」みたいな目でなじられるのである。
そんなこといったって、仔牛肉が冷えてしまったらもったいないし……
「エー今彼女は僕のことで泣いているのではありません、エー」と、まさかアナウンスするわけにもいかない。
たぶん彼女の好きな人が冷たかったんだろう。
あたたかいとか冷たいとかは、ほとんど物理だからしょうがない。
そして仔牛肉も冷たくてはいけないので、と話を結ぼうとしたが、たった今やめた。
女の人は、なんだかんだで、男より感覚が鋭く、感覚を絶対に重視してしまうところがあるので、好きな人が冷たかったと、感覚的に認めなくてはいけないとき、きっととてもつらいだろう。
代わって、目の前のクソ男が、こいつは冷たくないんだなということでは、泣き出したくなるのもわかる。
でもちょっとはおれにもやさしくしろよな……自分だけ解決してきれいさっぱりというのは、ちょっとさびしい。
まあでも、そういうものか。そこでどんな要求があっても、やっぱり、男は決して言ってはならないんだろうな。そんな根性は持っていないので、どこかで根性売ってないかね……
話が逸れた。
密着というのはそういう感じのことかもな、ということだった。
冷たさが現代の思想と信じ……その実、冷たい自分で自分を防御してきた人にとって、今さら密着とかいうのは、キツイしイヤかもしれない。
僕だって誰かに「密着宣言」なんかされたら絶頂にイヤだ。
そういうことではなくて、とにかく、「自分の使い方」という話だった。
受験生は何をしているかというと、勉強しているというのではない。
この参考書の内容を頭に叩き込むとして、どうすればそれができるのか、「自分の使い方」を、必死で模索しているのだ。
教えてくれる人がいなくてもだ。自分で見つかることも勿論あるだろう。
深夜までデスクの白灯が点きっぱなしの彼女は、がりがり、がりがり、「自分の使い方を知らなくちゃいけないの」という、本能に押されてそれをしている。
「結局こういうこと」と、彼女は見抜いていて、同時に、「今を逃したら、もうこんな機会は与えられないかもしれないんだ」とも感じている。
自分の使い方を知らずに、モヤッとして生きていくのは絶対にイヤ、と感じている。
それで外向けには、「自分に対する挑戦かな」と答えるようになっている。
彼女が、その自分の使い方の発見と体得に、成功したら、その先ずっと、何かひとつのことを自分の頭にブチ込むのに、「わたしできます」という自信を持っている。
自分の使い方を知っていることに基づく、まったく正当な自信だ。
話がヨレヨレに聞こえるかもしれないけれど、そうじゃないの、これで割と、まっとうに話せているので、信じるように。
***
「いやあ、おれってさあ、相対性理論とかに、興味があってね」という男がいたら、女性は、爆笑をこらえるのに必死になるだろう。腹筋が刺激されて、「逆にきらいじゃない」ということになるかもしれない。
これは何の話かというと、ただの悪口で、本筋には関係ない。
僕は最近、「勝てない人に出会いに行きなよ」と、人に言うことが多い。
なぜかこの話はスンナリ届くことがあるからだ。
人が人に出会って、「あ、勝てない」と悟るとき、痛快で、気持ちいいものだ。
勝てない人に出会うと、何か知らんが笑けてくる。"わらける"って大阪弁だろうか?
痛快で、何かツマランものの全てが音を立てて壊れていくので、可笑しくて笑いが湧いて止まらなくなるのだ。
先日、後輩に、何年かぶりに呼び出されて、会ってみると、「やはり勝てる気がしません」と言われた。「自分も少しは伸びたかと思っていましたが」と。
それは過大評価というやつだが、僕は過大評価でもおいしく召し上がるので問題ない。
そんなことより、「勝てない」「勝てる気がしない」というのは、いい捉え方だと思う。
誰かと直面して、まざまざと、「あ、勝てない」と直感するというのは、まず当人に、人間として勝負する構えがあるということだ。
この、人間として勝負する構えを持っていないと、その人は何にも負ける気はしなくて、「全部あたしの勝手じゃん」という正論に落ち着いたままになるので、つまらない。
人を健やかに伸ばすものがあるとしたら、ひたすらこの、「勝てない」という痛快さの体験だけかもしれない。
さっきからの、受験生の話に重ねていえば、少女は進学の動機について、「勝てない人に出会うために行くんです」と答えてよい、ということになる。
こんなにまっとうで爽やかで青春じみた答え方もないだろう。
勝てないというのは、平社員が社長に勝てないとか、日本がアメリカに勝てないとかじゃないよ。
それは、立場とか権力とかが違うので、勝てるも勝てないも、勝負する前に初めから決まっている。
お笑い芸人がいて、あなたが審査員席にいたら、構造上の立場として、エライのはあなたのほうだ。
あなたに一ミリの芸も実力も無くても、立場の設定でエライ側に座れるのである。
こんなことも、話の本筋に関係ないかもしれない。
「勝てない人」に出会いに行け、ということだった。
それもやはり、「自分の使い方」に、関連したことで……
あなたが「勝てない」と感じることがあったら、その人は、「自分の使い方」を知っていて、自分をそのとおり使えている人だ。
その証拠に、誰だって、「小中学校も国立でしたし、高校は灘高でしたから、そのまま自然に東大に入りましたよ」という人には、あまり「勝てない」という感じがしない。
かといって、「苦学して、五浪もしましたが、なんとか東大に入ったんです。人間やっぱり努力ですよ」という人にも、あまり「勝てない」という感じはしない。
「女子大生が大好きで、東大の女とヤリたいと思って、そう思い出すと止まらなくなって……勉強してそれに接近できるってなら勉強なんかいくらでもしますよ。うは、つぎはケンブリッジかもしれない。それはそうと量子力学って面白いですよね、こないだ手をレーザーで焼いちゃいましたよ。あれ、どうかしましたか」
こういう奴がいたら、「あ、勝てないかも」と感じる。少なくとも、ある分野においては、「だめだ自分はこいつに勝てっこない」と感じる。
昔、日本拳法をやっていた、Fという三段の先輩は、喫茶店で、隣の席のチンピラの三人がうるさいのを、数秒で見咎めて立ち上がり、「お、しばくぞ」と、まるでお誘いするように軽やかに呼び出し、路地裏に連れていって、一人で三人を叩きのめして、何事もなかったように戻ってきたが、そのときも僕は、「あ、勝てない」と感じた。F先輩は、どちらかというとレモンスカッシュに浮いているチェリーのほうに「うひょー」とテンションが上がっていたので、つくづく「勝てない」と感じたのである。
このFさんは、そうして路地裏でチンピラを叩きのめすときにでも、「ついクセでな」と、技術指導しながら叩きのめす人なので、もう勝てるわけがないのである。
M先輩は、文科系の人だが、新入りの後輩に「大きい声出せ」と、ケラケラとしつこく強要した。それもまあ、果てしなく軽快に、果てしなくしつこく強要した。そのうちその新入りの後輩がキレて、手元にあった濡れ布巾を投げつけたのだが、その濡れ布巾は先輩のテーブルとビールを注いだコップを直撃したのに、M先輩はいっそう落ち着いたまま、「そうだその元気でやるんだ、オラもういっぺん」と笑った。
これも、「あ、勝てない」と感じたし、これは今でも思い返して、僕のほうが青褪めるのである。痛快さに改めて笑いながら、腹の底がどんどん青褪めていく。
そいつは明らかに、大きい声なんて出せそうにない奴だったのに、実は周囲の全員がそいつのことを諦めていて、M先輩だけがそいつのことを諦めていなかったのだ。人間の度量の違いである。
M先輩は、始めっから、そいつを激発するところまで追い込んで、攻撃に転じてくるところまで含めて受け止めて、「そこからだろ」と捉えていて、つまり何もかも全てわかった上でそうしていたのだ。軽快に。
恐ろしい人だな!
それと比較すると、僕などは、なんと人間の小さいチンカスであるだろうと、いつまでも青褪めつづけるのであった。
それで、何の話をしてたっけか……
「自分の使い方」という話だ。
「自分の使い方」を、知り抜いて、使えるようになっていなければ、人間何もできないぞ、という話だった。
割とまっとうな話であるはずが、僕はいつも話のチョイスがおかしい。
自分を使いこなしていくためにはどうすればよいか?
これには、二つの方法があって、それが順繰りするのだが、第一段階は決まっている。
まず自分を振り回すことだ。
自分をぶんぶん振り回してみる。
自分を振り回しながら生きてみる。生活してみる。
基本的に、いっときもそれを休めない。
そりゃそうする以外にないだろう。
物の「使い方」って、とりあえず、手にとってぶんぶん振り回してみるしかない。
いきなり正しい使い方を習おうとする手口は、上品に見えるけれど、ヘタレで、説明をはぶくと、とにかくそんな奴は何をやっても決して上達しない。
習った型をなぞるだけの、「お前何やってんのさっきから?」という人に、なるだけである。
説明は面倒くさいな。
あなたに例えば、トンファーとか、ヌンチャクとか、ナギナタとか、スンテツとか、カリスティックとか、フランベルジュとか、へんちくりんな武器を与えてみよう。
それで、「来週、実戦な」と、殺し合いを予告して僕は去っていく。
あなたはどうするだろうか。
当然、武器を一つ選んで、ぶんぶん振り回してみるに決まっている。
そんなへんちくりんな武器の使い方を教えてくれるところは、簡単に見つかるわけがないし、youtubeで動画なんか探したって無駄だ。
一週間なら一週間、ぶんぶん振り回し続けた、とりあえず手には慣れたよ十分、というほうが、まだ戦える。
誰だってそうするだろうし、「使い方」というのはそういうことだ。
第二段階には、その使い方を、教わる、発見する、というようなことがきっとある。
たとえば、マハトマ・ガンジーは、すごい人で、歴史に冠たるタフガイだが、そのガンジーがエライのと、テメーのこととに、何の関係があるんだよ、という問題がある。
それは、
「おれはここ数年自分を振り回して生きてきた、でもその中で足りないものがあると感じていて、未熟でヘタクソでこれ以上は自分では伸びられないと焦っていたところ、そこを教えてくれたのがガンジーだったんだよ!」
ということなら話はわかる。
彼はきっと、自分を振り回しながら生きる中で、ガンジーの残した何かに触れ、「あ、勝てない」と感じたのだ。それで自分の振り回し方の甘さ、未熟さ、欠点などが、メキメキと浮かび上がってきた。
それが、教わったとか発見したとかいうことで、そういうことなら、ガンジーのスゴさは、彼にとって関係ナシではなかったのである。
F先輩に叩きのめされたチンピラさんも、ひょっとしたら、「勝てない」と感じて痛快に笑い、何かを教わり、何かを発見したということが、あったかもしれない。
「あんなに静かにケンカ売って、あんな静かにキツイ蹴りって打てるんだね、すげえや!」みたいに。
物の使い方というのは、ほとんど物理的なことなので、ぶんぶん、とにかく振り回してみるしかない。
自分というのを、ちゃんと考えようとかで、棚の中に大切にしまっていても、それでは使い方に熟練はしない。当たり前だ。
自分を、ねっとりと、研究としては知ることができるかもしれないけれど、それで結局「使えない」のでは、それはどうなんだろうな。
最終的には、人が差出口を出来ることではない。
が、僕は直接の友人には、お前はクソか、煙草買ってこい、という調子になるから、本当のところはまあ、そう思っているんだろうね……
冒頭に受験生の話をしたのは、わかりやすいからだが、それだってやはり、自分を振り回すことだ。
本当には、頭に学問を詰め込むのではなくて、自分が学問の森に入り込んでいくことなのだ。学問の中で自分をぶんぶん振り回してみる。
それを学歴と捉えるなら、学歴の構造の中で、自分をぶんぶん振り回してみる。
まずはそういうことなのだ。毎日、毎日、ぶんぶん、ぶんぶん。振り回し続ける。休まない。
「使い方」を知ろうとするのに、それ以外の方法があるわけがない。
第一段階にその振り回しがあって、その「おっ、やる気あるな」というところに、誰かが密着して、教えてくれればいいのである。
教わるというのも、そのぶんぶん振り回すことをやめることではない。ぶんぶん振り回しながら、「ワキ締めて!」「はい!」というような呼応を続けるだけだ。
逆に、あなたが内心で、こっそり見放している誰かのことや、見放しているタイプの人々について、考えてみよう。
性質の悪い話になるので、こっそり考えればいいし、人に訊かれたら、「そんな人はいませんわ、みなそれぞれに可能性のカタマリ」とか適当に言っておいたらいい。
(これじゃまるでおれが性格最悪だ)
とにかく、そういう、実は見放してるなあ、諦めてるよなあ、という人のことをイメージしてみる。
するとその人が、自分をぶんぶん振り回しておらず、自分をまるで使いこなしている感じがしない、ということが、改めてわかるはずだ。
逆に、どれだけ未熟でヘタクソでも、「この人は自分をぶんぶん振り回しているわよね」という人に対しては、苦笑はしても、見放すとか諦めるとかいう捉え方は、あなたはしていない。
「あいつバカだよね」
「そうだね、間違いない」
「彼に可能性は無いかな」
「……いや、可能性は逆にあるんじゃない。その点は、ちょっと見習うべきというか、わたし尊敬してるところあるよ」
と、そんな捉え方になっている。
つまり、どういうことかというと、
・まず自分をぶんぶん振り回して生きて休むな
・その中で「勝てない人」に出会え
・そしてその人に密着をお願いして教えてもらえ
ということになる。
それで、自分の使い方というのが身についていく。
はずだ、と言いたい気持ちがあって、僕はこんなお説教くさい話をしたいのではないのである。
でもなぜか、僕の与太話から、受験勉強を始めたという人は、異様に多いようなので、こうして夏休みなどがくると、僕の気が焦るのである。みんながんばってるかなあ、と。
書き写せ、とにかくスピード、ひたすら繰り返せ! などと言い張るのは、それがさしあたり、受験生として自分をぶんぶん振り回すことだからだ。
そうしてシャーペンか鉛筆をぶんぶん振り回し続けないと、「自分の使い方」は決してわからない。
そのことは、書きなぐってつぶしたノートが積み重なって、置き場に困るなあと感じ始めたころに、ようやく分かり始める。
といっても一ヶ月ぐらいだけどね。
言うまでもないと思うが、僕は受験生だった時代、一年間だけだが、ガンバったという時間は一秒もない。ぶんぶん振り回していただけだ。「とにかく問題に解答できりゃいいんだろ?」と。
勉強時間は、一日に十五時間で、一日も休んだことはないが、その中にガンバった時間なんか一秒もない。
そんな長時間、毎日、ガンバれるわけがないのだし、だいいち、僕みたいな人間が、そんなことで一秒だってガンバったりするわけがないだろう。
今だって、こうして与太話を書いているときも、僕は一ミリもガンバったりしないし……
僕のような奴は、シンドイと感じたら、その途端に一目散に走って逃げ出すのだ。
あ、今気づいたが、あなたが出会って「勝てない」と感じる人には、ある共通項がある。
同じだけの分量をしているのに、その人がまるで疲れていないということだ。
この人は自分の倍やっているはずなのに、なんでまったく疲れていないの、これは「勝てないわ」、と感じるのである。
あるいは、自分がモジモジ、モゴモゴと、その前で立ち止まっている壁があったとして、その人は遅刻してやってきたのに、「あらよっと」と、壁を蹴り破って鼻歌まじりに進んでいくのである。
あなたは、立ち止まって、哲学的になって、ヘトヘトなのに、あの人はぜんぜん疲れていないじゃないの、負けたわ、勝てないわ、と感じるのだ。
なんだこのつまんない話は、という気がしないでもないが、僕だってガマンして話しているので、あなたもガマンして聞くように。
あなたが、「考えの浅い男って好きになれないわ」「もっと深い話がしたいのよね」と思っているところ、あなたのチマチマしたところをブッちぎっていく男がいて、お望みどおりのその深い話をしていく中、
「もう十五時間も話しているのに、この人逆にイキイキしてきたわ、もうだめ、許して、勝てないわよ、わたしの負け、ちょっと休ませて」
というふうになれば一番いい。
それであなたが、不覚にも眠りについていくところ、彼は熱心にプレステのゲームをやりはじめて、燃えている、それをあなたは「元気すぎるでしょ、勝てない……」と認めて眺めながら、すうっと眠っていくのが一番いい。
その後あなたが、アゴのとがった眉毛造形男と会い、彼が、
「おれってさあ」
みたいに話し出したら、あなたはその落差に、ハーと、きついため息をつくだろう。
悪口になってしまった。
自分をぶんぶん振り回しつづけた奴に、そうしてこなかった奴が、勝てるわけがない。
彼は、自分をぶんぶん振り回し続け、こうか、あるいはこうか、うりゃあ、もっといけるだろ、と、ずーっとやっていて、さらに彼に密着して、その「使い方」を教えてくれる人までいて、その振り回し方は、ついに芸術的なレベルにまで到達する。
あなたは彼のことを、「すごい、なんて人なの」と言うが、彼はそれについて、「? おれはおれを振り回しているだけだぞ」と言う。ますます勝てない。
そうして、ぶんぶん振り回す同士、出会って、同時に教えあう同士にもなり、そういう二人が男女だったら、密着も含めて、自然に恋仲になるのではないだろうか。お互いに、「かけがえのない人」になれるのだから。
ではでは、またね。
[まず自分をぶんぶん振り回すこと/了]