No.277 祝第二十五回パーティ盛会追想
無事盛会でした!! 参加してくれた方々、ありがとうございますm(__)m!!
(2013.8.17 @Harajuku Bar CLIMB)
第二十五回Quali's Partyの各賞受賞者を発表いたします。
(ドラムロール)
◆MVP受賞者
撃墜不能の最新鋭機「けんた・マザーラヴァー」!
この受賞に誰が異議を差し挟もうか? いやあ、こいつは、なんというか、惚れ惚れした。
最新鋭機は撃墜されないのである。小回りが利くのである。煙を噴いたりしないのである。緊急に離着陸ができ、加速性能も速度性能も高く、視界が広く、コンバットラジアルも大きく取れるのである。常に先陣の誉れの空を飛ぶのである。
そして何が国を守っているかというと、最新鋭機が国を守っているのであった……つまりこいつがいなければ今回のパーティは成立しなかった、と、これは参加者の全員が知っている。
すげえよ!
もうおれがいなくてもこいつがいればいいんじゃないか? と冗談でなく思った。
イケメンでさわやかで頭がクソ良くて判断力が高くて物怖じせずプロポーションが好くおしゃれのセンスと程度が佳くいかなる状況にも対応できる上に積極性の切れ味がダントツにいい。そして当然の如く学歴もあっていいところに勤めている。しかも、それで鼻につく感じがゼロというのだから信じられない。アホか、お前は逆にアホなのか、と言いたい。お前もうゴールドコーストでサーフィンとかして暮らしていていいと思うぞ。
「マジになるのだけは」というフレーズをパーティに背負わせて遊んだところがあったのだが、その「マジになるのだけは」の文字が、まったく、お前の機体尾翼に光っていたぜ……
MVP受賞者には賞品としてQuali's Partyの永久参加義務権が授与されます。おめでとうございます。
◆グッドマン・グランプリ受賞者
原宿を死なせない男「オーナー・コバヤシ兄貴」! お店の人!
この受賞にも異議などありえようはずがない。いやあ本当に、素敵な場所と時間を過ごさせていただきました、本当の本当に。感謝! 一同で感謝!
パーティなんて、場所と会場がダメだったら100%ダメになるので、今回の成功は半分以上がコバヤシ兄貴の高配によるのである。
あの場所であの雰囲気であの価格で、って、それだけでけっこうありえない良さなのに、ちょっとここでは明かせないけれどドエライ融通まで利かせてもらって、って、ますますありえないでしょう。コバヤシ兄貴、まさかのソーメンはたいへん旨かったし、パスタのほうも本職のイタリア料理屋の如く旨かったです。今後参加者の誰かが宝くじでも当てたら全額貴店で使わせます。
またしかも原宿だからファッショナブルで垢抜けていて、仕事ぶり含めてめっちゃイケメンなんだよなコバヤシ兄貴……多くの女性が「うわまた片思い専用と出会ってしまったわアタシつらいわ」と嘆くこと請け合い。
ところで参加者の全員は自白したらよいが、「原宿って好いところだなあ」と思い込んで帰ったことだろう。それ、念のため言っておくが、地域全域の全部がそうじゃないからな。何もなしに場所柄だけで成立しているようなことじゃないからな。よく覚えておくように。コバヤシ兄貴みたいな人がいるから、場所が場所として死なずにいくものなんだ、感動して尊敬するように。人が作ってるんだぜそれ。その「原宿って好いところだなあ」というやつを。
先立ってロケハンのため十数件の店舗を巡る中で、僕は受付に出てきたコバヤシ兄貴をパッと見た瞬間、あ、ここだ、と思った。それで率直に言うと、この場所が見つかったからパーティの「復活第一回」も開催決定できたのだった。そこのところ、おれが直感で一瞬でそれを見抜いたこともそこそこに賞賛するように、と、たしか当日も言ってみたはずだが、ほんのりすべったような感じになり、そのことについて、僕はハイボールを十杯飲んだぐらいでは記憶が飛んだりしないのである。まったくお前らというやつはどうかしている。
今後も場所はここでやります。当然。この宇宙には他にパーティ会場と呼んでいいところはないのであります。
◆審査員特別賞受賞者
アドリブが呼吸する装置「となりのテーブルにいらした・ごっついい感じの方々」!
この受賞も満場一致。当日はロクに挨拶もできずに申し訳ない。こちらたまたま「復活第一回」ということである種の緊張感が実はありまして。そうでなければもっとゆったりできたのですが、いやはや申し訳ない。
受賞者には「けんた君って本当にそんなイケメンなの? 見てみたいなあ(イジリたおしてみたいなあ)確認権」を差し上げます。大変な粗品で申し訳ない。
以上で受賞者の発表を終わります。いやあ、お互い、何か受賞できるように、がんばろうね、けっこう難しいけど、大事なことって全部難しいよね、また遊ぼうね……
(終電組と、結局朝まで飲んだ組と……)
[世界一必要でない撮影データ/ニコンF3マニュアルフォーカス 露出オート FPS1600NATURA(フィルム撮影) 55mm-マイクロレンズ f2.8]
(どう考えても暗い店内でパーティ風景を撮影するセッティングじゃないだろ! どう見てもスナップを撮るセッティングだろ! でもこれしかレンズ持ってないんだもの!)
次回は2013年9月21日(土)、19時、原宿、つまり今回とまったく同じ。相変わらず、内容という内容は、特にないのだけれど、メンバー含め、今回の「丸写し」が土台になれぱ、差し当たり最高だ。それこそが必要だとつくづく思う。
急にマジメになってしまうのだけれど……
参加してくれた方は、思い切り楽しかったと、思ってくれているだろうし、そのうち多くの方はきっと、「単に楽しいというだけじゃなくて、なんというか……」と、感じてくれていると思う。
まだ、これが読まれる日時的には、大丈夫だろう。あの夜の体験性が、まだ失われてはいないと思う。
が、これを「記憶」にしては、いけないのだ。と、急に難しい話になっていってしまう。まあこんなことは、僕だけが把握していればいいことなのだけれど、体験性のものを体験性のまま、記憶で保持していくということはできないのだ。なぜならそれはもう終わってしまったものだからだ。
終わってしまった以上、もう忘れてしまわないといけない。
それで、忘れてしまったら、記憶から消え去るかというとそうではなくて、それはちゃんと「思い出」として残るのである。
そして、思い出というのは実は、記憶そのものではないのであった。
と、いかにも難解極まる話を切り出してしまって、それなりに後悔もしているのだけれど、まあしょうがない、本当のことだから本当のことを話そう。これはあくまで、僕だけが把握していればいい話で、他の誰かにとっては、「なにか知らないがすげえ考えがあるんだな、とりあえずそれはわかった」と受け取られればよいものである。
逆の言い方をすれば、「忘れてしまっても思い出に残るもの」を生じさせるために、僕はこのパーティを再開させたし、そこにドシンと、或る居座り方をしている必要があった。
それは、意図的にそうした、というのではないのだけれど、意図的に、「そうでない方向へ流れていかないように」はした。
何を言わんとしているかは、たとえばきっと、あなたが別の用事で竹下口を通り過ぎたときに、理解されるかもしれない。
今でもすでに、その前を通ったとき、「あ、懐かしい」と感じるところがないか?
もしそれが参加者に得られていたら、それだ、それをそうしたかったんだ、ということになる。
逆に、それが無いかぎり、どんな盛り上げ方をしても、必ず記憶から消え去ってしまうのだ。純粋に消失してしまうのである。
あなただって経験としてご存知のはずだ。「めっちゃ面白かった」という映画と、ジャケットを見たときに「あ」と懐かしく思い出される映画というのは、また別のはずだ。それは人間関係や、ときには恋人関係でもありうる。すごく盛り上がったはずが、後になって、「正直全然覚えていない」とか、「思い入れというのは本当にまったくない」とかいうようなことが。
それは、記憶や習慣といったものと、獲得した体験や思い出というのが、実は機構としてまるで違うからなのだ。
(おいおい本当にこのムツカシイ話を続けるつもりか)
思い出というのはだ。
体験を無限回再生できるというようなもので、また、想像力の機能にそれを与えるということなのだが、要するに、「思い出を得た」ということは、「この思い出を"描き出せる能力"を得た」ということなのだ。
記憶が思い出ではないのである。
思い出は実は「創作機能」によって生じているのだ。
思い出を得るとは、きわめて限定的な、或るシーンの創作への、「能力の獲得」なのである。
原宿の記憶が思い出になっているのではなく、「原宿」という一滴から或る体験を描き出せる能力が想像力に宿されているということなのだ。
あなたは、すぐれた映画や小説やその他の物語を受け取ったとき、自分はその作品を「鑑賞した」という立場でしかないにも関わらず、実際のところは、その物語自体を「思い出」として持っていないか? その映画の前で、打たれて、しゃがみこんでいた自分の影像と合わせて。
記憶といえば、僕はあなたに記憶なんか与えたくないのである。そんな、どうせ消えるだけのものを。
それよりは、胸が痛むものを与えたい。大げさか。まあでも、自分はこれを見ると、想像力がどうしても或るシーンを描いてしまう、思い出なんだね、というのは、そこそこにいつも胸が痛い。
あまり難しく言ってもしょうがないので、一つ予言をしておこうか。
今回、パーティの最中に、「次回も参加してくれるか」と訊いたら、全員がイエーイと手を挙げてくれた。まあそりゃそうだろうし、その振る舞いは決してウソ偽りではない。
じゃあまた次回も全員参加でな、それなら来月にやれるから、お前らついてこいよ殺すぞ、と言ったのだが、そうして和やかである一方で、僕はあることを腹に括っていたのでもある。
超楽しい、し、楽しい以上のものがある、絶対次回も参加します! というのは、時間経過と共に、必ずリアリティが抜けていってしまう。これは予言だ。記憶というのはそういう性質のものなのである。だからこそ、人は手帳のカレンダーに○印を打つのでもあるわけだ。忘れちゃうから。
その、何か忘れてしまう、リアリティが抜けていってしまう、「リアリティの脱精」と呼ぶべき現象は、思いがけない早さで起こる。一週間ぐらいは粘れても、十日も経てばもうあやしくて、二週間以上を過ぎればほとんど真っ白になってしまう。記念撮影でもして、その写真を振り返れば、まだ少しはぶり返すかもしれない。が、それでリアリティの脱精を引き止めることまではできない。
リアリティの脱精が進むうち、「すっごく楽しかった」という記憶は、すっごく楽しかった「はず」という、記憶というよりはもはやメモワールとしての「記録」でしかなくなってしまう。それは記録されているので確認はできるのだけれど、それで「すっごく楽しかった」という胸がジンと熱くなる不安定とよろこびのようなものまでは戻ってこない。
だからだ。
まあ、割と冗談でもなく、僕としてはそこまでの仕手を含めて、パーティの仕組みをつないでいこうとしているのであった。
いかにも、「よくわからないけれど、そんなに難しくしないでも」と言われそうだが、僕は難しいことをしたいのではなく、本質的なことをしたいのである。何しろ本質的なことでないと途端にやる気が出ないのだからしょうがないのだ。
僕はああしてガッツンガッツン飲んでいても(あれ結局おれが一番飲んでたんじゃないか、まあそれはいいとして)、いくら酔っ払っていても、そこのところをあいまいにするアルコールの入り方はしないのであった。性分というやつだ、たぶん。
思い出というのは、実は「能力の獲得」で、しかも自己の想像力という、根幹的なところでの能力の獲得なのだから、これを大切に思わない人はいないだろう。誰にとっても思い出は大切だというのはこのことによるのである。まるでそれは、自分が生きてきたことの証そのものだから。
「前回のパーティからどれぐらい期間が空いていますか」と、何度か聞かれた。が、僕も覚えていないので、答えられなかった。
そうして何年間も空白にしなくてはならなかったのは、僕自身の、なんというか、感覚性能を、現在の時点まで引き上げる必要があったからだった。
感覚性能を、あるところまで引き上げないと、ずっと昔からあった疑問、「人は、本当には、いったいどのような仕組みで、"出会って"いるのだろう?」ということに向けて、進めなかったから。
参加してくれた方々へ。先ほど申し上げた予言を楽しみにしていてください。リアリティの脱精が起こります。が、それは消失ではありません。ともすると、まったくの消失に感じられがちなのですが、それは誤解です。
予言……つまり、あなたがこのパーティ直後に僕に送ってくれたメール自体、あなた自身が後日にそれを読み返しても、「なぜこんなメールと書き方があるのだろう」というのが、ややわからなくなっているのです。それがリアリティの脱精です。あなた自身、それを読み返してもリアリティが無いと感じられます。
が、その脱精されたものは、生きたものとして復活させることができます。そりゃそうだ、元々脱精すると知った上で仕掛けてるんだ。復活に必要なのは「一滴」。その一滴はたぶん、「場所」になるのかな。どの時点でその一滴が加わるのかは定かではありません。が、その一滴が加われば、あなたはその一滴から、体験したことの思い出を、自身で再び描き出せるようになっています。その「能力」を、あなたは実はあの夜に持って帰っている。
この「能力」は、人間の根幹的な能力で、大切なものだけれど、さすがにこのパーティうんぬんについてはまだ生まれたての能力なので、ずっと枯らしていると、さすがにそのまま死んでしまう。だからさしあたりパーティの日時は隔月にできず毎月にせざるを得なかった。
二回目の参加は、一回目の参加に比べて、気持ちに余裕がある。だからそのぶん、緊張感が減って、ときめきも減ってしまう、というのは、ごもっともに聞こえるけれど、もし本当にそうなら、それはとてもつまらない。そんなことなら、僕はわざわざこんなことをしようとしない。
二回目の参加で、あなたが体験することは、そのリアリティの脱精されたものが、「不思議だ、こうしてここに踏み込んでみたら、本当にあのときの気持ちと同じになった、思い出した」という体験であり、それはより骨太のおどろきです。
これは別に妄想やオカルトや神秘主義によって話しているのではなく、単に科学としてそういう現象が人間にはあるのだよ、ということなのだが、それを実際にできるかどうかは別。おれの責任は重大だ。絶対にやれるさなんて自信はまるでない。が、本当にできないか? というのは、正面向かって問われたら、できないとは限らんな、と僕はすぐに挑発に乗る性質だ。
もしそんなことが、絶対にできるさなんて自信があったとしたら、逆に僕はやらないだろうな。もう出来るとわかっているならそのことをわざわざやる必要がない。出来るとわかっていることをやりだしたらそりゃもう業務じゃないか。そうではないから、さあ、来月も飲むぞ、ということになる。
どれだけ難しそうに言ってみたって、当日の実際は、「マジになるのだけは」なんだからな……来月もまた乾杯、それが具体的・物理的な一滴。
次回はもっと横着をするぞおれは、お前らは代わりにもっとビンビンに働くように。あと急に思い出したけどつかごん、腹にグーパンチとかしすぎてごめんね。ウケたほうがおいしいかと思って、ついね。
「意欲」ってのは、ほどほどに「満足」して、オワリになっちゃうじゃない? そうではなくて……
満足をさせてはいけないのである。人は読み終わった本に対して「満足だ」とつぶやいたとき、もう二度とその本を開かなくなる。それは、本は満足だったけれど、何かしらの時間をその本と共に歩んでいくということにはなっていないわけだ。人は温泉旅行をして「すっごい満足した、また来ようよ!」とときめいたことを言っているとき、その「満足」は誤用で、本当は満足なんかしていない。だから「次は二泊三日で来ようよ!」と拡大を提案したりする。
「満足」というのはどこに出現するかというと、おおよそ「用事」のあるときだ。何か用事があって役所に問い合わせると、「満足な回答が得られた」とか、あるいは空腹でとにかくメシが食いたいというとき、「あー食った、満足」とか。突き詰めて言えば満足というのは「用事が済んだ」ということである。これは素敵でも何でもない。もし華やかな披露宴の後、新婦が新郎の脇で「あー満足した」とまったく満足そうに言えば、新郎はゾッとするであろう。
そのように、「満足した」というのはよろしくないし、厳密に言えば(あくまで厳密にだが)、「楽しかった」というのも言葉だけ見たら実はよくないし、納得したとか、感心したとか、得るものがあったとかもよくない。果ては「感動しました」というのもよくないことがある。どれにしたって、「用事が済んだ」ふうの響きがあったらもうオワリなのだ。用事を済ませて、最後に感想文を書いている響きがある。いけない、いけない。
わかってもらえるだろうか。たとえば、
「すごく満足しました」
「すごく楽しかったです」
「たくさん発見や納得することがあって」
「まったく感心しました」
こうして並べてみると、これらは全部「マジ」じゃないか。
それで、これをやってはいけないから、禁忌だから、パーティの背負うフレーズは「マジになるのだけは」なのである。
保証していい、マジになればなるほど、物事は急速にオワリになってしまう。だからマジにする必要はないし(礼節の部分を除いてはね)、マジになる理由は本当はどこにもないのだけれど、それでもなぜマジになるかというと、それはただの悪い習慣なのである。習慣。ただの習慣。いや本当に。
なぜその習慣が幅を利かせているかというと、何かしらん、すぐマジになるばっかりの人が、世の中には多いからだ。それでそれが通用しやすいから、自然に伝染しているだけだ。と、これは悪口になってしまったが、だって本当なんだからどうしようもない。世の中に「マジ」と「ぶっちゃけ」の二種類しか無いのではとてもイヤだ。誰だってイヤだろう。ちなみに「ぶっちゃけ」というのもある種の「マジ」のひとつである。
人間は精神が墜落に近づくほど、マジなことを言うようになる。本当だ。あなたは試しに、「この人はヤバイな」と思える人と何かを話してみればいい。その人がまったくマジのことしか言わなくなっていることがよくわかるだろう。男に「将来の夢は」と訊いてみて、「小池栄子と不倫すること」と答えないようではそいつはマジになっているからやめたほうがいい。マジというのは墜落もしくはその寸前なのだ。ちなみに僕の夢は健康志向の人が早死にする病床を見舞って煙草を思い切り深く吸いながら「グッバイ」と告げ、ただちにクラクションを鳴らしながらTボーンステーキを食べに行くことだ。もちろんジョークではないけれどもかといってマジに取らないように。夢が溢れるなあ、とだけ応えるように。われわれは墜落してはいけないのである……
"復活第一回"のパーティ、その開始が、どれほど静かで、なんとも言えない感じで始まったことか。あれはとてもよかった。その瞬間は「こんなんでええんかい」と焦る感じもしたが、振り返ってみればまったく最高だった。そのときはわからんものである。紅色のわずかな照明にそれぞれが照らされて、何がよかったかって、うかつな「話題」というようなものが現れて振り回されたりするというようなことが初めからありえない状態だったということだ。そして全員が、話をするどく聞き取る耳を持っているのである。そりゃそうだ、何かしらを「読み取った」上で参加しているのだから、まあ簡単にいえば精神的聴力のすぐれた人が実は集まっている。それをあまり表面に出すわけではないというだけで。
満足させてはいけないとか、得るものがあってはいけないとか、何を言っているのかについて、ちょっと正直にバラそう。突き詰めていえば、「意欲」が要求されること自体がイヤなのである。たかが夜会ひとつに混じるだけのことに。たとえば、電車で老人に席をゆずるのに、いちいち「善意」が要求されるとしたら、それはうっとうしくてかなわないじゃないか。た・か・が・席・を・譲・る・だ・け・で、と、ねっとり強調して言わずにいられない気持ちになる。
意欲病にかかってはいけない。自分が何をしたいか、何をすればいいのか、何ができるのか、見えなくなると、意欲でそれを無理やりひねりだそうとしてしまう。そしてそれは習慣になってしまう。もちろん意欲を持って参加してくれてもかまわないのだが、本当は夜会ひとつに参加するのに意欲なんて必要ない。あなたが家の玄関先に出るときのように、そこに意欲なんて必要ない。
意欲なんてのは、自分のやりたいことが見えていないから、意欲に頼っているのだし、何しろ僕がいつもこうやって書き話すようなことも、別に意欲があってやっているわけじゃないというのは伝わっているだろう。
「意欲」ってのは、ほどほどに「満足」して、オワリになっちゃうじゃない? そうではなくて……
一応、僕には見えてはいるのだ。それを無理やり説明すると、パーティだのなんだのということはどうでもよく、ただ、いかにもふさわしい人が、一滴一滴というように、挨拶も要らないというぐらいで、溶けて入ってくるという影像である。挨拶なんかする前にぐっと近づけて座り込む、それがどうしたって一番馴染む、というぐらいがいい。究極の究極で言えば、その中で誰もまともに話していなくたっていい。誰もまともに話していなくても、そこは何かしらの「音響空間」のようだ、という影像が僕には見えている。何かしらんが或る日時に或る人たちはその夜会に溶けて集まるのである。楽しかったりもするが、別にその楽しいというのも一部分に過ぎず、どうでもよくて、和やかな表情だけが"奥まって"あればいいし、誰も一人でむっつり考え事に入っていたりなんかしない、というのであればいい。受験勉強の合間だけど来ちゃった、という女の子が、ちょっと参考書を広げたりして、音響空間の中で少し話したり少し聞いたりしながら少し勉強をしたりしてもいい。なぜ彼女が友人らとモスバーガーで出来ることが夜会の暗がりではできないというルールになる必要があるか。ちゃんとそんなことまでうまくやれる方法はある。方法はあるというか、もう見えているのだ。
場所をもっともっと広く占有できて、さらにさらに自由に使えたら、そういったこともどんどんできるようになるのだが、それがどこまで出来るのかは今後のことだ。みんなとりあえずあの会場の貸切を目指そう。これはわかりやすく夢が溢れるだろう。店内のすべてを、自分の溶けて入る場所として歩く……
本当は、これをパーティと呼ぶのはおかしくて、夜会と言い換えたほうがまだましだけれど、それにしたって当てはまるわけではなくて、もう既存の語にはイメージが貼りつきまくっているからどうしようもなくて、本当にやろうとしていることは、「この書かれてある日時にそこに行けば、そこでそういうふうになっている」ということをしたいだけなのだ。
これについては面白いのでもう少し話そうか。僕は、このようなものがあればいいと思い、それを思うというか、どうしたって「見えて」いて、それは何も僕がやりたいとか僕がやらなくてはいけないとか、そういうものでもないのだ。ただ「このようなものがあればいい」と見えてやまない、それだけで、なんとかならないかなと、やってみているだけだ。すでに、「これが無いほうがおかしい」と感じているというのが本当のところだろう。別に僕がやらなくても他の誰かがやっていればいいのだが、そんな都合の良いものがそう周辺に見当たるわけはないのだった。
このパーティはネビスリングのパクリである
パーティに「参加」というのは本当はおかしい。パーティには「出席」するものだ。「参加」するのはたとえば「大会」などにである。じゃあ参加者じゃなくて出席者を募るのか、ということになると、それもおかしい。パーティというのは本来は招待を受けて出席するものだ。メンバーを「募る」ものではない。
じゃあ言い換えて、「夜会」に「エントリする」みたいにしたって、別に根本的に解決するわけではなくて、ただややこしくなるだけだ。ややこしくなるぐらいなら「パーティに参加」のままでいい。それで今、「パーティ参加エントリはこちらから」という文言になっている。ひょっとするとこの先、「夜会」への言い換えはあるかもしれないけれど。
そんな言葉尻などどうでもいいんじゃないか、と言われそうだが、言葉というのは、そういう甘いものではないのだ……言葉が構造上の問題をはらんでいる場合、それは必ず実態に構造上の問題を持ち込む。じわじわと。とはいえ現状は、パーティに「参加」を募るとしか言い方が無いので、この構造上のズレを修正していくはたらきかけを、仕手側としてはやっていかねばならないのである。
なぜこんなことになるかというとだ。そもそも、ここで僕が開催しているパーティというのは、実は過去に既存の形式が無いのである。既存の形式が無いからどの言葉にも当てはまらないのである。パーティに参加してくれた人にはわかると思うが、あれはいわゆる「○○さん主催のパーティ」だったか? それは明らかに違ったと思う。
こんな得体の知れないシロモノはヨソには無いのである。考えてみれば当たり前で、まず僕が意味不明に大量にウェブ上に投下している個人的な書き物・読み物ということ自体からしてヨソにはほぼ例が見当たらない。広告のひとつも入れていなければ、他サイトにつながる情報のひとつもない、デイリーで話題を追いかけるポータル性もなければ、インタラクティブ性もないしアカウントログインのシステムもまったく無いのである。
「一体何をやっているんだこれは」という話なのだが、それに合わせて、読み手の側もだ、もう何年か数えられないというような年単位でずっと読んでくれている人が少なくない。おかしいのはおれだけじゃない、お前らもたいがいだぞ、ということだ。さてそれで、そんなどうかしている互いが集まってそれを「パーティ」と呼んだって、よくよく見れば「何か違う」となってくるに決まっている。一応ごまかしながらやっているが、僕自身はそこの言葉の構造のズレをミエミエにしながらやっている。
該当する既存の例が無いのだ。同好会でもないしオフ会でもない。合コンというのもさすがに違うし、そもそも現代にもう合コンというのは死語である。ファンクラブかというとそれもまったく違っていて、そもそもファンクラブ自体が存在していない。おれが当日必死にガラケーでメールを送っているのにそれのどこがファンクラブイベントなのだと言いたい。
じゃあ参加する人たちのコンセンサスは何なんだよと言われたら、さっき言ったみたいに「見えて」いるもの、みたいな話にしかならないのだが、さっき話したのは僕に見えているだけで、参加してくださる方々がそこまで知った上で来てくれるわけではない。じゃあ何がどうなって参加者が来ているのかというと、もうほとんど、「おれが来いと言ってるからこいつ来たな」という感触なのが実態だ。パーティってどういうもの、とかあまり考えず、つまり「よくわからないけど来いと書いてあるから来た」みたいな感じで来ている。それはつまり、なんとなく来たと言いながら、やはり、僕の脳に「見えて」いるものが向こうの脳にも何か「見えて」、参加してくれているのだ。本当にそうなんだからすごいよな。だから僕は会う人会う人、いわゆる「初対面」という感触はまるでなかった。思い出してみればそこを不思議がる参加者の方もきっと多いだろう。
まさにそこ、そこのところがまったく貴重なことで、素晴らしいこと、いっそ精髄と呼ぶべきところなのだけれど、それとは別に、さすがにもう少し立ち位置みたいなものを固めないと、いくらなんでも不安定すぎる。
まあ、よくよく考えれば、僕が執拗にやりたがるということは、それが過去に例のないことだからに、決まっているのだ。
「なぜ土曜日の夜に書き手のいるところに集まってお酒を飲んだりしないの?」と聞かれたら、あなたはどう答えるだろう?
たとえば、大西洋レブ・ポートランドという小国のエクスクラーフェンであるハバス州のネビスリングという街では、毎月の一日に、書き手と呼ばれる人のところに人々が集まって酒を飲む習慣がある。これは、もともとこの地に隠れ住んでいた詩人がいて、初代の大統領が毎月一日に彼のところに人を集めて、彼と一緒に酒を飲むということを秘密にやっていたというのが始まりだ。ネビスリングの人にこのことを聞くと、「人々がばらばらで飲むのはつまらないことでしょう」と答えるし、「何かで綴じられていない賑やかさは、喧騒に過ぎないのです、特に酒は人を喧騒に掻き立てます」と答える。もちろん全部作り話のウソだが、そうかそういう地域と文化があるのかということになれば、ふうん、なるほどね、素敵ね、ということになる。過去に既存の例があれば一発なのだ。今僕が話したのはフィクションなのだが、それがフィクションだからという理由で急に通用しなくなるのはまったくおかしい。なるほど素敵ねと言ったのはあなたじゃないかということになる。
ご存知のとおり僕はそういうことに大変ムラムラする性質だ。いいじゃないかウソ話で。素敵ね、と言ってしまったなら、別にウソ話でも。情報系番組で、新橋のサラリーマンたちに街頭インタビューをする。「今若者に流行する、ネビスリングってご存知ですか?」「いや、知らないですねえ。何かの、装飾品ですか?」「装飾品!?」みたいにテロップを出す。そうなればこちらのパーティも「Quali's
Nevisling」で話は一発で通るのだ。
こんなしょうもない仕組みでまんまと騙されるわれわれの意識って……と、考えたらムラムラしてこないか? こないか。まあでも僕はムラムラしてくるのである。
この世界に初めから既存であるものなんか何一つあるか。何だって初めの初めは既存の例なんか無しに誰かが「見えて」「描いて」やったのである。
別にパーティうんぬんのことに限らず……既存のイメージにポコンポコンとハマってしまう性質に、自ら騙されてはいけない。なんだ、プラトニックと言われたら安心してプラトニックをやり、付き合うと言われたら安心して付き合うをやり、ソウルメイトと言われたら安心してソウルメイトをやるというような、まんまとハメられっぱなしではいけない。彼とはどういう関係でと訊かれたら「彼とはネビスリングだよ」と答えろ。それで、「ちょっと説明が難しいから、調べたほうが早いと思う」と言い足してしまえば完璧だ。ネビスリングについての説明はさっき僕が書いた。ここまで調べが到達しなければそれはそいつの検索能力の問題だ。
次回のパーティは、またみんなノコノコやってきてくれて、また新しい人も来てくれて、何人かはこっそりと、「ネビスリングに憧れて来ました」と、言ってくれたりするのかな。それだと、話はバッチリ通るなあ。
次回は第二十六回、2013年9月21日(土)です。どうぞよろしく。
どういう人なら参加して楽しめて、どういう人はいまいち不向きか
言わずもがなだけれど、こうして僕が話したことを、いちいち理解して溜め込んだりはしないように。まあそうしてくれても結構だけれど、これらが理解できていないと参加できませんとか、そういうクレイジーな話じゃない。とにかく、割と冗談でなく、僕はそんなことを考えているのだということで、面白いでしょ、もしくは、面白くなるかもしれないでしょ、ということだった。
最後に肝心なことを話しておこう。肝心なことなら初めに言えよという話だが、もうタイミングを逃してしまった。
肝心なこと。パーティの、或るあきらかな「特徴」について話そう。つまり、どういう人なら参加して楽しめて、どういう人はいまいち不向きか、ということについて。
参加して楽しめる方というのは、
1.感覚のファンであること
2.言葉のファンであること
3.目撃のファンであること
この三つだ。
1.感覚のファン
感覚のファンであるとはどういうことか。たとえば、ある男性は、あるマスターの淹れたコーヒーの味にショックを受け、マスターに弟子入りし、三日三晩、憑り付かれたようにドリップ湯を注ぐ練習をした、と話した。お前かなりアホだな、ということなのだが、これがグッドなのである。
「やっぱりドリップで違うわけか」
「違いますね(断言)。今は二十杯ぐらい淹れれば一杯ぐらい、これはというのが出来て、師匠はその点、二十杯淹れれば二十杯とも……あとその上級訓練は夜中に喫茶店を閉めきってやるのですけれども」
「やり方が真言密教と同じじゃないか」
「どの太さの水量で垂直に湯を注げはどのようにコーヒー豆の粉末が水流で攪拌されるかということなのですが、それがつまり(以下略)」
たとえばこういう題材の語りかけがとても喜ばれて受け取られていく。「湯の注ぎ方一つで味に天と地の開きが出てくる、そのことをすべて感覚だけが支配する」ということのロマンチックさへのファンなのだ。彼はきっと今日もコーヒーを淹れていることであろう。
あるいはたとえば、僕が割り箸を持ち、それを指揮棒として人に向けてみる。そして直後、ただの割り箸として人に向けてみる。
「な、違うだろ」
「違う!」
と、こうした遊びが発見的体験を伴って喜ばれる。
人間の「感覚」って、一体どうなっているんだろう、そしてどこまで鍛えることができて、どこまでのことができるんだろう、すごいなあ、ということへの、ファンであれば、きっとも最も楽しんでもらえる。
具体的にはきっと、レクチャーに書いた「現代と恋愛」、そこにある「脳と自意識」ということの現象の差を読み取ってくれば、「ああみんなこのことへの憧れがあるんだ」と、きっと空間の底に流れるものがわかりやすいだろう。
2.言葉のファン
言葉のファンであるとはどういうことか。今回はわかりやすく、「マジになるのだけは」というのが、言葉としてよく遊ばれた。けんた君はまったく神がかり的な次元でマジになるところが皆無だったので今回のMVPである。たぶん次回もMVPである。正直勝てる気がまったくしない。
途中、「付き合う」ってどういうことなんだろう、というような話が出た。それで僕は、「恋愛というのは死語になってきたし、付き合うというのも実際どうでもよくて、本質は結局、誰もが特別な体験を得たい、持ちたい、ということだけだ。ただ恋あいの中で、その特別な体験が得られることが多い、もしくは多いはずだ、ということが、これまであっただけで、そのジャンル自体は今や主題としてはすっかり弱まっているね」と話した。
そう話すと、「特別な体験」という言葉が、するすると、その場の空間に新しく吸い上げられていく。もちろん、土台として、自分の「感覚」があって、その感覚に対して「特別な体験が得たいのだ」という言葉が、うまく整合する、「そう、それなんですよね」と、そのことを新しく楽しむという、言葉のファンというのはそういうことのファンだ。
わかりにくかったらごめんね。サンプル、「マジになるのだけは」というのを、何度か噛み締めてみて、「いいところを突いているなあ」と面白く感じられたら、それは言葉のファンです。
3.目撃のファン
目撃のファンであるとはどういうことか。これはちょっと、説明が難しい。
とりあえず、こちらのパーティでは、「ではまず初めに自己紹介を」というのが無い。何も言わなかったが、初めから自己紹介だけはナシだと決めていた。たぶん僕がそうデザインしていることを、多くの人が感じ取っていてくれただろう。もし自己紹介の提案がなされても、それだけは主催者権限でつぶすつもりでいた。
それはなぜかというと、自己紹介をして、たとえば「ゴルフをやっていまして、一応シングルプレイヤーです」と言われても、そのことをパーティで「目撃」できるわけではないからだ。さすがに自己紹介性がゼロのまま進行はできないが、最低限の範囲で、注目されなければいい。
自己紹介をして、情報を提出すると、その情報からその人へのイメージを形成して、そのイメージに向けて話さなくてはならなくなるので、台無しなのだ。異業種交流会などではそのようであっていいが、こちらは目撃のファンなのでその場で目撃できないことについては情報などよろこばれない。
とてもいい話をすると、たとえばピアノを長く続けていますという人がいたのに、誰もそれについて、好きな作曲家はとか、得意な演目はとかを訊かない。それはそんなこと訊いたってその演奏をそこで目撃できるわけではないからだ。そこにある綺麗な音色はピアノではなく彼女の声だ。それは目撃できる。
トム君のコーヒーの話が面白かったのは(あっ名前だしちゃった)、それを語る彼の口調の突然の男らしさを目撃するのが面白かった、ということである。
あとは僕がつかごん君にひどい暴虐を振るうのを、たくさんの人が目撃されて、みんな目撃のファンだから、楽しかったよね。あと言葉がどう展開していくのかということの目撃や、ボケとツッコミがどう織り成されていくのかということの目撃。女の子が角席で三角座りしていい顔で笑っていることの目撃。
話の内容が面白いとかではなくて、人がどう話すのかということの目撃ばっかりが楽しまれる、そういう目撃のファンなら、きっと楽しんでいただけます。
もし今後も、あまりに目撃性の無いところへ白熱が向かいそうなことがあったら、僕が権限でそっとつぶしにかかることがあるかもしれないけれど、もしそのときがあったらそのときはごめんね。
仮想上のものが、脳に見えないというわけではない
パーティに前後して、やっぱり、レクチャー形式で書いた「現代と恋愛」が、大きな役目を果たしているんだな、と感じた。僕自身にとっても、またそれを読み取った人についても。あれは本当にたくさんの反響をもらったものだったから、何かきっと、今このときに、直接の誰かにとって、ビタッと必要なものだったのだと思う。
その、「現代と恋愛」から言い方を引っ張ってくるのを許してもらうとして……「脳には脳が見える」という話。
人は自意識からではなく、脳から振る舞いを起こすことができて、その振る舞いは相手の脳に見える、自意識に「確認」されるよりも時間軸上で先行してそれが起こる、ということだった。
ムラサキスポーツ看板下の、集合場所で、僕はずっとしゃがみこんでいた。参加者の方々が次々に集まってきてくれる、その喜ばしさと浮き立つ気持ちに、まるで反発するようにして。あれは、立ち上がらなかったのではなく、立ち上がれなかったのだ。ふつう、主催者なんだから、来てくれた人たちに積極的に呼びかけて回れよ、と思ったのだが、そうしようとするたびに、僕は僕自身に向けて首を横に振るのであった。何かわからないけれど、そうしちゃだめだ、と強く抑えつけられている。それで僕自身、よくわからないがそれに従った。
そういったことって、誰も意識はしていないけれど、脳にはやはり何かが届いているのだ。やはりそうなんだ、としか言いようがない。なぜしゃがみこんだままなのか理由は僕にもわからない、が、わからなくても何かがどうにかして伝わってはいるようである。
それで、しゃがみこんでいる「僕のところ」へ、わざわざ踏み入るようにして、挨拶しに来てくれる人がいた。先ほどの、集合場所への挨拶としての会釈とは別のこととして、二回目の、今度は個人的な挨拶。表面上はマナーとして挨拶しに来てくれたとも見える。が、それだと、こうも「思い出」にそれが残っているのはおかしい。
それはなんだか、胸がしきりにあたたかくなったのだ。なぜあたたかくなるのかは知らない。われわれに起こることはやはり、自意識で確認・監督ができることばかりではない。
僕の仕事と責任は結局、別にパーティに限らずだろうが、脳で何かを捉え続けていること、何かが「見えて」いる状態でありつづけることだろう。それは四の五の言わなくても、僕の脳に見えてさえいれば、相手の脳の健全な部分へ向けて、勝手に届く。そうして届いているものがあれば、それが全体の作りあげへ自然な作用を及ぼす。そこはもう、結局、僕がどう思うか、ということではないのだな。僕の脳に見えているものが全体へ作用するだけで、僕が何をどう思っているかは関係ないのだ。だから「マジになるのだけは」なんだ。僕が何をどう思うかということと、全体への作用は、実は無関係だというのだから、マジになっても意味が無い。
さてそんなわけで……参加者の方々は、初めてお会いさせていただいて、衝撃を受けられたことだろう、僕のベタベタの大阪弁ぶりに。身体はデカイし酒はぐいぐい飲むし、もし才能の断片が見えたとしてもそれはひたすら漫才のツッコミ役というのでしかなかったはずで、なんやこいつ、どこがどう文学志向やねんと、それは衝撃的な夜だったと期待したい。
参加者の人数は、増えていってくれたらいいな。もちろん、人数だけが膨張してただの喧騒になっては台無しになるわけだけれど。
僕は、自分の書いているものが、どれだけの人に読まれているのかわからない。まして年単位で、自分の生活の一部として、読んでくれるということをしている人が、具体的に何人いるものなのか、わからない。神様でもなければわかりっこないだろう。アクセス解析すれば、サーバーにこれだけこういうアクセスがありますというのは表示されるが、それは誰がどういう頻度でどのような営みとして読んでいるものなのかまではわからないのだ。今これを読んでくれているあなた自身がまさにそれだ。僕は「あなた」がどこかにいるのだろうと思って書いているのだが、どこにどのようにしていらっしゃるのかは知りようがない。ただわかるのは、そういう人がどうやら確かにいてくれているらしい、ということと、そして、その人数は有限だ、ということだ。
その有限の全てを呼び寄せられたら理論上の最大となる。そんなことできっこないが、仮にもしそんなことが起こったら、それはきっと「ネビスリング・シンドローム」と呼ぶべきだろうな。ネビスリング・シンドロームは、別に僕のことでなくていいし、仮想上の夢でしかなくていいのだけれど、たとえ仮想上の夢であっても、それはやはり夢があるな。多くの人が、本当は欲しがっていたものを、いっぺんに手に入れてしまうんじゃないか。
仮想上のものが、脳に見えないというわけではないからね。
ではではそんなわけで、長い話になってしまった。次回、第二十六回は、2013年9月21日(土)です。時間は19時、場所は原宿、何もかも同じ、そこは変える必要が無い。
そして、「マジになるのだけは」で……ところで、よくよく考えたら、おれが一番飲んでるって、どう考えてもおかしいよな。若い奴もっと飲めよ。システムは飲み放題です。プラス軽食。
皆さまのご参加を心よりお待ちしております。
[祝第二十五回Quali's Party盛会追想/了]