No.278 幸福の香水
ちょっと緊急的な気分に駆られてこの話をする。
ルールを曲げて、この話は一方的に聞けよと言いたい。
暗い気分になったらだめなんだって。
死んでも構わないが暗い気分になるのはだめなんだって。
まずクソなものにはクソと言わなくてはならない。
あなたそのことをまず思い出してね。
犬がしゃがみこんで尻から落としたものは何かというとそれはクソだ。
別に感情的になる必要はなくて、その態勢からワンちゃんが排出したものはまず間違いなくクソだ。
「わたし知ってる、あの茶色いのはクソよ」ということでいい。
警官が歩いているのを見て「あれはオマワリよ」というのと同じだ。
見たままの事実である。
そして今の日本の現状を一言でいえばクソである。
別にそれが正しいかどうかなんてどうでもいい。
あなたがそうは思っていなくてもいいからとにかく言われたとおりクソと言え。
「わたしの尊敬する人が、今の日本はクソって言ってたわ」でいい。
それで、もし、クソ呼ばわりの一言で本気で機嫌を悪くするような奴がはびこっていたら、そのときは本当にクソなんだ。
そのときは猛烈に残念がっていい。
なんであれ感情的になるのはよくない。
感情的になるというのは、つまり、弱りきった精神が最後にクラッシュに向かうときの現象に過ぎない。
赤潮で腐りきった海岸が最後にヒトデを大発生させて生態系をクラッシュさせるようにだ。
ラムネを飲みながらそんな海岸を見下ろしたとき、人の言うべきことは決まっている。
「うわクソだな」
これ以外に無い。
一方、アルバイトの女の子が、きれいなバストを揺らして、健気に店のガラスを拭いていたら、それは「サイコー」と言っていい。
はっきりしたことじゃないか、そんなものは。
西川きよし先生のバカ正直ぶりに胸を打たれたらそれは「サイコー」でいい。
そんなところまで曲げて考え込んでいる奴は、考えているのじゃない、脳みそが曲がってしまって、もうまともに流れる水路が無いのだ。
後輩を、花火を買いに走らせて、その間にこちらは二人か三人かの女とキスをして、その後花火の緑色の光を見て「きれいだなあ」と言う、夏はそういう具合でいいじゃないか。そういう夏はクソではない。
気がヘンになるとか、ネクラになるとか、人生を暗黒コースにジョイン・インさせるとかは、全てその、クソに微笑みかけるというような愚かしい行為から始まるのだ。
なんでクソに微笑みかけるんだよ。
こんな少々の口の悪さにいちいち戸惑っていてはいけない。
僕はスラム街の出身ではないし、歌舞伎町で麻薬も買っていない、それどころか国立大学を出ていて、行かなかったが大学院の入試にも合格しているのだ。
DVDを本棚に並べる趣味があるなら、必ず一枚か二枚は、トム・クルーズ主演の映画が入っていなくてはいけない。
まあ「トランスポーター」か「ボーン・アイデンティティ」でもいいが、とにかく、芸術映画ばかり並べていたらネクラだ。
そういうネクラに耐え切れる精神の人間はそんなに多くないのだ。太宰治などは、「人間失格」を書きながら、たぶんチュッパチャップスでも舐めていたのだろう、そういう精神の厚かましさが無い奴は、自分の環境をネクラにしてはいけない。
センチメンタルなミュージックを流すぐらいなら、植木等でも流しているほうがマシだ。
人は誰だって幸福を求めている。
が、これはドのつくネクラだって求めているので、アテにならない。
幸福を求めるのは、当たり前のことなので、そんなことはどうでもいいのである。
問題は、そいつから幸福の匂いがするかどうかだ。
幸福の匂い、幸福の香水だ。
幸福の香水を、頭からかぶったのか、それとも一升ぐらい飲んだのか、あるいは体内で自家生産でもしているのか、というような女にならなくてはいけない。
もちろん男もだ。
最近の流行モノは、わけもわからず、とにかく主人公が不幸タラタラという前提が多い。
不幸といっても、十歳のころから少年兵でした、とかいうのではなく、コンビニでは好きなカップラーメンにぼちぼちこだわるくせに、気分だけ不幸気分にしがみつくようなヤツだ。
これはクソなのだが、このクソに気分で付き合ってはいけない。
感情的になる必要は何もないのだ。
ネクラな人を見たら、まず、「あっこの人は一生に一度もデッカイ車を運転しないのだろうな、でもがんばってね」と思え。
がんばってね、というのは本心だ。一番安物でも、本心は本心である。
週末に、何をしたらよいかわからなくなったら、「とにかくカニが食べたいの」と思え。
松葉ガニの高級なやつは三万円ぐらいするから、むつかしいかもしれないが、別にタラバガニでもいいし、「かに道楽」でもいい。
ちゃんと働いている男がいて、友人であるか口説かれているかしているなら、「どうしてもカニが食べたいの、連れて行って、そして申し訳ないけど、あなたはオゴりながら、一言も話さないでいて、わたしが話しかけるまでは」とお願いしろ。お願いはちゃんと心の底からかわいくしろ。
それで、「わかった、当然、上等、よろこんで」と快く受け入れてくれないなら、その男はあなたの友人ではないし、そいつに口説かれたとしても、そいつはあなたの幸福について真剣に考えてくれてなどいないのだ。
何も言わずにカニを食べに連れていってくれる、そして当人は週刊誌でも読みふけっているという、そういう男性が身近にいてくれたら、それがあなたにとってどれほど幸福なことか。
マジメに言うと、色々と、考えたいことがあるにしても、カニをたらふく食ってからにしろ。
つまり、体中の毛穴という毛穴から、まず幸福の香水が出てくる、あっコイツ幸福になるやつだなという気配がいかにも信じられるようになってから、そこからようやく考えるようにしろ。
幸福の匂いがしないというのは、一番ヤバイ状態なので、あなたもそれについて、「それはヤバイ、そこだけは本当に絶対にヤバイ」と思え。
芸術的とか真実とか迫力とかロマンチックとか、そんなのは幸福の匂いのずっと後にしろ。
ひとつ、いいことを言っておくと、幸福の匂いというのは、幸福アピールをするとますます減退するのだ。
「わたしこんなに幸福なんです」と、誰かに大量の写真を見せられたら、あなたどう思う? 「うわこの人、ごめんなんでもない、がんばってね」と思うだろう。
それでいいのだ。それが正しいのだ。
「嫁さんができてから毎日が地獄っすわ」という男はなかなか悪くないから友人になったらいい。
そいつがそう言いながら、まあ本当に地獄は地獄なのだろうけれど、かっかと笑っている、その笑いの波長の中に、幸福の香水を嗅ぎとれ。不幸になれない素質の奴の匂いを。
結婚していることが幸福なのではなく、幸福かどうかはそいつの毛穴の問題だ。
幸福の匂いがしない奴というのは、たとえば、プレステにハマる奴であったり、プレステにハマらない奴だったりする。
禅問答ではなく、そのまま、ハマる奴というのはヤバイし、ハマらない奴というのもまずい。
つまり、やりだしたらハマるが、手放すとコロッと忘れるような奴は、なんとなく幸福の匂いがする。
「こんなライブ死ぬほど興味ないんだが」と言いながら、会場に入ればウヒョーとなっており、出てきたらすっかり焼肉に行こうぜということに夢中になっている奴は、幸福の匂いがする。
そして言うまでもないが、幸福の匂いがしない奴とわざわざ特別に付き合ってはいけない。それはなんだ、「この地域はブキミな感じがするわね、よしここに住みましょう」と言っているような状態で、どうかしている。
現在、大変な問題に感じていることがあるのだが、それについて理解を共有してもらいたい。
情報端末やメディアから拾う情報のことごとくに、幸福の匂いがまるでしないことだ。
漫画「ドラゴンボール」を読んでいるような気持ちにまったくならないのである。
それで、まあいい、しょうがない、かというと、そうはいかない。
幸福の匂いがしないものと付き合ってはいけないのだ。まあ全部が全部そうとはいかなくても、「幸福の匂いがしないものばかりと付き合っている」という状態はよくない。本当によくない。
別にデートでサイゼリヤに行ってはいけないということではない。そんなことはどうでもよくて、ただ、誰とどこにいるにせよ、そこが幸福の匂いに満ちているかどうかが問題なのだ。
あなたは女なんだから、感性は鋭いはずで、その匂いを感じ取れないことは絶対無いはずなんだから、あとはそのことに気づかなくちゃいけない。
たとえどんな高級店に行っても、そこに幸福の匂いがなかったらダメだ。
幸福の匂いなんて、そこにいる人たちの、ほとんど素養で決まってしまうのだから、幸福の匂いの素養が無い人たちが作り出している高級店に行ってはいけない。
日本は現在、超々高齢化社会だから、ただでさえ、幸福の匂いがする空間を見つけるのは難しい。
それは、ご年配というのは、どうしたって死ぬ準備へ向かわなくてはならないからだ。
そうでなくても、つい年金の話や持病の話や「○○さんはもう亡くなったって」みたいな話をしてしまうので、これはどうしようもないのである。
十六歳の女の子が、「原付の免許取ったのー! ほらー!」というような幸福の匂いとはどうしたって比べようもない。
そういう女の子を遠い目で眺めている奴も、幸福の匂いはまるでしないので、そういう奴になってはいけないし、付き合ってもいけない。
十六歳の女の子に大人の男性が向けうる幸福の態度は、唯一、「うわあオレはお前にオゴってから死ぬわ」ということぐらいしかない。
「ドラゴンボール」の話をしたが、その主人公である孫悟空は、まるで不幸の匂いがしない、幸福の匂いばかりがする奴なので、ナイスだ。
が、大昔のそればっかり眺めていると、そのこと自体がもう幸福の匂いがしないので、そういうことばかりもしていられないのである。
幸福の匂いが毛穴から出てくる条件は何だろうか?
それは意外なことに「怒り」である。
人間には、「怒り」の力があって、これが人間を浄化しており、幸福の香水を生産させている。
だから岡本太郎も「美しく怒れ」という言葉を残している。
怒りだ。たとえばアントニオ猪木からは不幸の匂いがまるでしない。
猪木からは幸福の匂いがするから、こぞって彼のビンタを受けようと男どもが行列を作るのだ。
その猪木の決めゼリフといえば、ご存知、「バカヤロー!」である。常在する怒りと共に「バカヤロー!」。
その他、たとえば、おばあさんが、スピーカーでエミネムを聞きながら編み物をしていたら、そのおばあさんからは幸福の匂いがする。
オレオレ詐欺を仕掛けてきた奴はとんでもない目に遭わされるだろう。
あなたがアマチュアのバンド・マンだったとして、ライブハウスに出演した、そしてたまたまあなたが舞台に出る直前のバンドが、全盛期のジューダス・プリーストだったときには、もう演奏をする前から自分が「不浄」だと気づいてしまって落ち込むだろう。
もし、自分の内に、怒りの能力が無かったり、消沈していたりしたら、それはかなりヤバイと、焦ったほうがいい。
怒りというのを誤解している人が多いが、そういう人はきっと金剛力士像や不動明王像を見たことがないのである。
あなた自身、よくよく周りを観察してみればいいが、純性の怒りを持っていない人間に対して、あなたはついに清潔感を認めていない。
そしてそういう人からは幸福の香水が漂ってこないはずだ。
怒りというのは、単純に言って炎なのだから、もし炎がなかったとしたら、大量に発生するゴミをどうやって処分するのだ。
そしてゴミを焼却するのは、低温ではダメなのである。有毒物質が発生してしまう。高温で焼き切ってこそゴミ処理になるのだ。
ゴミ処理場では、1000℃近い温度でゴミを焼却しているから、野焼きなどと比べてぬるくなく、何もかも燃やして灰にしてくれて、浄化されるのだ。
怒りの温度が300℃しか無い奴と、何千℃もある奴とでは、浄化能力が違うので、それぞれ漂ってくる匂いも当然違うのであった。
幸福の匂いがしないというのは本当にヤバイ。
周辺から手に入れられる情報は、いくら手に入れても構わないが、そのことごとくに幸福の匂いがしなかったら、それはそうと知った上で受け止めねばならない。
つまり「クソだ」と。
クソだクソだとしきりに言うのは、そのいちいちを、高温の怒りで燃やさないわけにはいかないからだ。
クソなものはクソだと言え、と、僕などは穏健なもので、尾崎豊のように「夜の校舎窓ガラス壊して回れ」とまでは言っていない。
あなたの家にピアノがあったら、弾けなくていいので、一度怒りのまま鍵盤を指でガーンと叩くように。拳で叩くのはさすがに道具として用法が違う。
そして指でガーンと叩いて、その後薄着でお出かけすれば、あなたの首筋から出る幸福の香水によって、健全な男どもがウヨウヨ寄ってくるであろう。
マジメな話になってしまうが(しまった!)、よく、ヘンな男にばっかり好かれる、つきまとわれるという人がいるが、そういう人は、幸福の匂いが失せているのである。それで、アンモニアに寄ってくる蛾みたいな男ばかりが寄ってきてしまっている。
とりあえず、「ショーシャンクの空に」とかオシャレなものばかり観ていないで、「バックトゥザフューチャー」の三部作をヘビーローテーションで再生しておくことだ。
「ショーシャンクの空に」が名作なのは僕も知っている、が、今のあなたに必要なのは名作ではないのだ。
ヘンな趣味や修業を始めたりしないように……あなたはすっかり、ダラけるということの上手いやり方を忘れてしまっている。
ダラけることにだって指導者が必要かもしれず、きょうび、ダラけることが上手という人はかなり貴重な存在だ。
ダラけるということは、ダラけることに熱心になってはならず、そうではなくて、人生の重要な課題を、ことごとく先延ばしにすることだ。
堂々たる現実逃避なのである。
その現実逃避にある独特のダラけた味わいに精通しており、それをよろこび、エピクロスを先生とあがめる、が、そのエピクロスも別に「読みたくはない」という。
それこそエピクロス先生はよろこぶだろう。
幸福の匂い、幸福の香水、哲学を嫌悪すること、実学も嫌悪すること。
哲学を嫌悪することは哲学の素質の第一であり、これがわからない奴はいくら哲学になんか触れても無駄である。いやこれは本当の話。
煙草も吸わないのに哲学をやっている奴は心底バカにされた、というのは、僕の話ではなく、昔にあった文化としての事実の話。
まあそんなことはいいや、とにかく幸福の匂いの話である。
現代における最大の問題は、あなたがオフィスでぱたぱた駆け回るのに、幸福の匂いがしないことである。
どうすればいい、という解決法は特にないので、どうすればいいかというと、とりあえず花柄の下着を身につけて、好きな男とホテルに行って、その周りをぱたぱた駆け回ればいい。
その人のことが好き、と、むつかしいことを言わずに、その人をしゃぶってあげて、イカせてあげるのが好き、というほうがいい。
それで、そのあと、チョコレートパフェを食べて、少し残してしまって、話が弾んでしまって、遅くなってしまい、電車の中でウトウトする、そういうのが好き、やる気は万全で、「急に映画観たくなった!」と言い出すのがいい。
まあ、表面はどうでも、匂いがどうかまでは、決められないけれど……
少なくとも、わたしは幸福の匂いを第一のアテにするわ、というのはとてもいいし、幸福の匂いがするから尊敬するの、というのはとてもいい。
ではでは、そんなわけで、緊急でこんな話をしたくなるほど、いろいろとヤバイところはヤバイ。おれはヤバくないけどな。
人それぞれ、色んな状況があるから、それにウソをついて、幸福なフリをしてはいけない。幸福アピールをすると幸福の香水は減退する。
幸福でないというときには、さっき言ったろ、浄化するのは「怒り」だって。
怒って、気が咎めるなら、その気が咎めることさえ、自分への怒りとして燃やしつくす。
幸福の香水は、幸福な者から漂ってくるのではなく、幸福に<<向かう者>>から漂ってくるんだから、安心したらいい。
おやすみなさい。
[幸福の香水/了]