No.281 突然来た、それは「奇跡」だった
入力の弾みで「奇跡」と入力したのだが、その途端「そうだよな」と感じた。
まったくそうなのだ、奇跡でないものは全て、なーんにも楽しくないのである。
奇跡、奇跡……僕のこれまで過ごしたすばらしい時間の全ては、それらが奇跡だったからすばらしかったのだ。
奇跡でないものの何が楽しいわけがあるか。
(いきなりとんでもない話をして恐縮はしている)
おれの時間が楽しかったら、それは奇跡のおかげだし、楽しくなかったら、それは奇跡の責任で、おれの責任はなーんにも無いのである。
奇跡は明日起きないだろう。起きるとしたら今日だ。だから今日のことに集中する。
役所の手続き等、奇跡がまったく期待できないシーンもあるし、そのことに費やさねばならない時間量も必ずあるが、それにしたって、そんなことは何ら楽しさに関係なく、楽しいといえば全て奇跡の一点張りなのだ。
なぜこんな当たり前のことに、なかなか気づかずにきたかというと、これは普通気づかないことだからだ。そしてなぜ急に気づいたかというと、それに気づいたこと自体、偶然の奇跡なので、なんともいいようがない。
今さら、すばらしい提言が出来るのだが、自分に与えられる奇跡を諦めた奴は、もう人生を諦めたらいい。
それ以外にありえない。これはとてもすっきりしていて、良い提言だと思う。
僕が麻雀に入れ込まなかったのは、僕はどうも麻雀で奇跡を起こせるタイプの人間ではないようだったからだ。自分の奇跡は麻雀賭博でばかり起こってしまうという人は、それしか楽しいことがないので、堂々と雀士になるしかない。その中で、自分の奇跡の器量がどれぐらいあるか、試したいというのはよくわかるし、それぐらいしかやることがないというのも、とてもよくわかる話だ。
奇跡を信じて生きるということは、奇跡を期待して生きるということではない。奇跡を期待して練習せずにリングに上がったボクサーはまずタコ殴りにされるであろう。
奇跡というのは、そういうボクシングのリングのように、人為のルールで縛り付けられた中には発生しない。ルールを越えたところにだけ発生する。
タコ殴りが場内の爆笑を買って、「ぜひ次の試合も」という人気者になるような奇跡は、無いとは言い切れない。
あるいは、そのタコ殴りが妙におかしくて、対戦相手の肩の力がフッと抜けて、そいつが親友となり、肩の力が抜けることで才能が開花し、そいつが世界王者まで行ってしまうかもしれない。
奇跡を信じるというのは、「奇跡を信じてるの、うふふっ」という、おばちゃまの得意満面をイメージすることではない。
奇跡というのは、当然だが、科学的ではないのだ。原因−結果という因果律として起こるものではなく、信じがたい偶然の重なり、のようにして起こる。
だから、奇跡というのは、「こうすればこうなる」とか、「これだけやることをやったなら奇跡だって起こるさ」とか、因果律に結んで期待はできないのだ。
奇跡は、強制的に、「突然」来る。原因の結果としてでなしに、いきなり偶然として飛び込んでくるのだから、それは「突然」に決まっている。
だから、期待なんかしようがなくて、こちらの持ちうる態度としては、信じるか諦めるかのどちらかでしかないのだ。
ただ、経験的には、奇跡慣れしている人のところにばかり、奇跡の幸運は舞い込み続けるように感じるが……
世の中に奇跡が無いとは誰も言わない。
奇跡は、常に、「信じられない」という感触で与えられるが、そういう奇跡が世の中に存在しないかというと、存在する、と誰もが知っている。
先日、幸福の香水と題して、「この人は幸福に向かう、と信じられるある種の匂い」について話したが、それはつまり、その人が何かしら奇跡に接続しうるという、直感のことを指している。
いやあ、いいねえ、「奇跡」。これしかないもん、という一点張り。
もちろん小ざかしいサイズの奇跡とか、奇跡「ふう」のことがチラチラあったって、どうせ何にもならないので、そうではない、「人には結局説明できないけれど」ということで、背後にずっと大きな奇跡があった、というのがいい。
まあ正直に言うと、僕のような不努力の人間が、振り返ってみたらうらやましいばかりのイイ思い出を敷き詰められて生きてきているのは、背後に膨大な奇跡がひしめいているからなのだ。
そりゃそうでなきゃ……正直、奇跡が毎日やってきてくれないと、僕は朝に胸を張って家から出ることも出来ないだろう。
奇跡が無いなら、今日も一日楽しくないぜと、わかりきっているようなものなんだから。
今日も一日、楽しいに決まっているわなと、そう決めつけられるだけ奇跡と親しくなければ、毎朝どのように出かけてゆけばよいものか、僕などにはわからないのだ。
あまり言うと怒られそうな気がするが、正直に話さないと意味が無いので、お許し願いたい。
僕が占いの結果をまるでアテにしないのは、どうせ占いババアのババア力より、おれの奇跡力のほうがはるかに強くて、その占いの札をビリビリに引き裂くに決まっていると、余裕の自信を持っているからだ。
あなたは本当は恋あいがしたいのではなく、結婚がしたいのでもなく、奇跡がやりたいだけなのだ。奇跡を体験したいだけ。
アドバイスすると、奇跡を体験したいというなら、奇跡のいちいちに、神秘的に眼を細める、みたいなことを決してしないことだ。奇跡の神様がいたとしたら、その神様はそういうわざとらしいことを「うっとうしいわ」と嫌っていらっしゃる。
その神様はきっと、「感謝は要らんから、そうじゃなくておれのこと信じろよ! 腹立つなあ」とモヤモヤしていらっしゃるだろう。
奇跡の神様は、神様として、信徒を増やしたいのであり、その説得力を持ちうる人間のプレイヤーを探している。
だから、こいつあまり信徒を増やしてくれないだろうなあという人には、あまり興味をお持ちになってくれない。
もっと、「信徒を増やしたければ、あたしにもっと奇跡を与えればいいよ、グズグズしてないでさあ」と、説得力があるほうがいい。
神様も「それならよっしゃ」と、粋に受けてくださるだろう。
愛しき教えを抱き……(これは今そういう声がたまたま聞こえたので書き残した、気にしないように)
あ、今ちょっと調べたのだが、これは本当に日本語で歌っているのか。びっくりした。
今、クイーンの、フレディーマーキュリーのアルバムを、聴きながらこれを書いていたのだ。
それでフンフーンと書いていたのだが、「愛しき教えを抱き……」と歌ったように聞こえたので、それを書き残したのだが、今調べてみたら、彼は親アジア家らしく、この歌曲の半分は本当に日本語で書かれていた。
[手をとりあって(Let us cling together)]日本語部抜粋
手を取り合って、このまま行こう
愛する人よ
静かな宵に
光を灯し
愛しき教えを抱き
奇跡の、神様だの、信徒だの、信徒を増やすだの、話していたところに、こうして、「愛しき教えを抱き」という文言が、イギリス人ミュージシャンのCDからたまたま聞こえてくるというのは、偶然だ。
そしてさっき言ったように、「突然」としか言いようがない。
本来、フレディーマーキュリーはまったく僕の趣味ではなく、それをツタヤで借りてきて今手元にあるのもたまたま偶然なのだが、これもふと、以前にある人がDon't
stop me nowを歌っているのを聴いて、「やっぱり独特の、ハイにさせるものがあるよなあ」と感じたのを思い出し、わざわざ借りてきたのだ。もちろん初めて借りたものだし、その中に日本語混じりの歌曲があるなんてまったく知らなかった。
それが、今こうして書いているところの内容に、符合するなんて、因果律で説明できるわけがない。偶然だ、ただの偶然。
そして、僕は経験上、こういう偶然があるときは、むしろ一種の警戒心を持つのである。偶然というやつには、独特の、何かしらの警告が含まれていると、いつも感じる。何に対する警告なのかはもちろんわからないけれど。
「好事魔多し」といって、僕はそれを、「好事には魔も一緒についてきている」と、経験上捉えている。世の中には因果律の他に偶然という柱があると捉え、それを共時性と呼んだのはもちろんユングだが、この共時性と自分が接続するということは、同時に魔性の何かとも接続することだと感じるのだ。それで何か「危ない」という予感も覚える。
そんなことを今話すつもりではなかったのだが……まあいいか。
僕がオカルトの一切を信用しない度合いはとてもひどいものなので、オカルト好きの人は僕にその話を持ちかけてこないように。僕にそのつもりがなくても僕はあなたを必ず傷つけてしまうだろう。
僕はユングの言う共時性を認めてはいるが、それを安易に「利用」できると思っている奴については、ただのアホだと断じる性癖なのである。ムツゴロウさんのようにプロ雀士の大会で最強位を獲ってからなら、「自分は共時性を利用できる」と言っていい。
が、そうでない場合、特に東日本大震災をどの占い師も予言しなかったことについて、占い師たちの負い目はまだまだ払拭されていないので、僕はその点ばかりを攻撃して傷つけてしまうだろうから、そういう話を僕に持ち込んではいけない。本日のラッキーアイテムを抱えたまま津波に飲まれて亡くなられた人にどう言い訳するつもりなのか用意してからにしてくれ(見ろこのひどい言い方)。
フロイトは、ユングに対して大先輩・先生に当たる存在だが、フロイト先生はユングの言う超心理現象をまったく信じようとしなかった。だがフロイトはユングと長く話しこんでいる部屋で、ユングと一緒に超心理現象を実体験している。本棚がドーン! と巨大な音を立てたのだ。そしてユングはこう言った。
「先生、これが超心理現象です。見ていてください、もう一度同じことが起こります」
そしてユングの言うとおり、本棚はもう一度ドーンと巨大な音を立てた。そのことについてユングは日記に、「なぜあのとき、もう一度同じことが起こるということを、わたしがわかっていたのか、それを知っていたのかは、わたし自身にもわからない」と書き残している。
そのように、厳格なゲルマンであるフロイト先生立会いの中でも起こった現象について、僕は超心理現象や共時性を認める立場だが、それを占い遊びに転用して安易な類については「アホ」としか言わない。占いはきっと何事かを指し示すだろうけれど、それが何を指し示しているかがきっと凡人にはわからないだろうよ。そしてそれが「わかってしまう」ような状態は、危険なのだ。自我精神がゴリゴリに強化されていないと、もう戻ってこられなくなるので、凡人が真似してよいことではない。
まあそんなわけで……あれ? また何か、逆にいいことに気づいてしまったな。
奇跡しかないぜ、奇跡以外に楽しいことなんかあるわけないだろ、という話なのだが、その奇跡の楽しさだけを信じていくためには、自分の自我精神をゴリゴリに鍛えぬく必要があるのだ。
例えば、「お話は伺いましたがこの実質ゼロ回答というのは御社の掲げるコンプライアンスを鑑みたとき御社の本意にそぐうものと考えられません。今一度その点に一層のご高配を賜っての再検討とご回答をお願い申し上げます」というクレームは、奇跡とつながっているということだ。
奇跡のために理知的であれと。
潜水艇や宇宙船には安全性が詰まっているべきであるように、奇跡的な女には理知が詰まっているものなのだ。
奇跡や魔に触れても正しく戻ってこられるだけ頑強でなければそもそもそれに触れに行くこともできないのである。
想像するに、宇宙に出たら、「イヤな予感」でひしめていることだろうな……その中で動転したらオシマイなので、宇宙飛行士は精神的に鍛えぬかれていなくてはいけない。娯楽も、それなりに必要だろう。
奇跡や魔の圧力に、へしゃげてしまったらいろいろオシマイになる。
幸福の匂いがしない人というのは、そのへしゃげてしまっている人のことを指している。そんなふうになるぐらいなら、団地に暮らしてパチンコをやりつづけるほうがずっと楽しいだろう。
いやあ、とてもよい話で、お酒が飲みたくなってきたな。
奇跡に触れる方法の一つとして、セックスがある。
あなたが、恋あいをしたいのでもなく、結婚がしたいのでもないように、同じく、あなたはセックスがしたいわけではない。
何がしたいかというと奇跡がしたいのだ。
奇跡が得られるとはもちろん決まっていないが、そのアプローチになら身を捧げたい、飛び込みたい、という気持ちがあるのだ。
だってそれしか本当に楽しいことって無いんだからね。
それで、だからだ。
理知的でない人間は、セックスがまともにやれないのだ。
これは、絶対にそうだ、と、僕は経験から申し上げることができる。
理知的でない女性と寝ても、何か、空間が「ガタガタ」になるだけで、気持ちよくも何ともない。イヤな予感ばかりがひしめいてしまう。幸福の香水どころか……
子供がセックスをしてはいけないのは、身体的な負荷よりも、こちらのほう、自我精神がまだ鍛えられておらず、そちらが負荷に耐え切られないので、やめておきなさい、ということなのだ。
だからもちろん、オナニーはいい。バイブレーターでクリトリスをブイーンとやると、女の子はいってしまうが、そのことは、単なる生理現象であって、奇跡だの何だのという危なっかしいことには接続していない。
だからいくらでもやればいいし、といっても本当にアホになるまでやるのはどうかと思うが、でも何もしないでいるよりは、予行演習としてやっておくほうがよいと思う。いざ本番というときに、理知的な自分を保っておくための訓練として。
理知的というのは、「人を殺してはいけません」と声高な人のことを言うのではない。
たとえ人を殺したとしても、その証拠隠滅を、動揺なく的確にやれる人のことを言う。
怨霊が、化けて出るかも、そして地獄行きになり……というのは、宗教的にあってもかまわないが、「でもそれと、証拠隠滅は別だわな」として、的確にその"実務"をこなせるということが、理知的ということだ。
古くから「小人閑居して不善を為す」と言うが、そのとおり、理知的でない人間が一人ぼっちでモンモンしていると、単純に言って気がヘンになる。
それならまだ、週一でもいいからコンビニのアルバイトに行けよ、というのは、まったく正しいのだ。コンビニの棚入れやレジ打ちは、理知的にしかやりようがないから。
そんなささやかなことでも、失ってしまうと、人はどんどん、とんでもない精神状態に引きずり込まれていくのである。鍛えていない自我精神というのは思いがけず貧弱なものだ。すぐ穴が開いてしまう。その穴は開いたらそう簡単に塞がるものではない。
人の死に際して、仏教であれキリスト教であれ、宗教者が寄り添って儀式をするのは、そこに侵しがたい理知のシンボルが必要だからだ。
仏教の僧侶は、人の死に寄り添って、「この方は仏になるために浄土へ往生されました」と説明するのみならず、「そしてあなた方も死ぬのです、必ずこのように」とも説明する。そのために葬式に寄り添うのだ。「あなた方も必ず死ぬ」というのは理知的だ。愛する人の死に悲しみ嘆いていた空間に、「そう言われたらそうだった」という、理知による変質が起こる。
そうだった、人が死ぬのがとんでもないことではなく、もし死なないとしたらそちらのほうがとんでもないことなんだ……ということが理解されてくる。
「そっか、自分って本当に死ぬんだいつか、じゃあ……」といって、そこから立ち上がってくる心のことを、菩提心という。
話が逸れてきたな。
でもきっと、菩提心ということと、奇跡とはつながっているだろう。菩提心というのも、それだけある種の「危ない」ものだと、警戒する必要があるが。
話を変えよう。
ずばり言うと、僕は理知的でない人間がキライだ、大キライ、ということである。
そして僕だけでなくみんな大キライだよそりゃ、ということである。
なぜか?
このことに、今新しい一文を足せることに、僕は本当によろこびを覚えている。
理知的でない人間は奇跡に接続しようがないからだ。
ああ、すっきりした。
ここの文脈がつながるのは、僕にとって、長い時間を必要とした、とっても大きなことなのである。
理知的でない人間というのは、例えば、「ありとあらゆるデータを入力し、核燃料がどのようにメルトスルーしたかを、物理エンジンでシミュレートして外挿する必要がある」ということの意味が信じられない人間のことだ。
あるいは、交通裁判で無罪になったものの警察判断としての免許停止処分はありうるし、緊急避難は刑法総則であって道路交通法に適用されないということがわからない人間のことだ。
もっとわかりやすく言えば、ワンクリック詐欺に引っかかるような人間が、最も理知的でない。PCでうっかりクリックしてしまった……として、それを「誰がそのPCでクリックしたかわからない」のに、契約が成立するわけがない。
速やかに悪口になってしまったようだが、とにかく、理知というのは、勉強と思考の訓練で向上しうるものなのだから、勉強をすればいいのだ。勉強を「みっちり」やればいい。銀アセチリドの構造式を見ただけで、「うわこんなの触れただけで爆発するんじゃないのか」とわかるようになるまで勉強すればいい。理知的だ。
奇跡のために勉強するのだ。とても素敵な話じゃないか。
さっきムツゴロウさんの話をしたが、氏がいかにも奇跡を呼び込む人ではあれ、その土台は東大出身の学者であって、単なる動物好きのおじさんではない。
ところで、こうしていかにも話がグダグダになるときというのは、書いている側が、もう必要なことを書ききって、満足してしまっていることに表れる典型的な症状だ。
ちょっと区切ろう。
***
「奇跡がなければ楽しいわけがないだろ」というのは、やはりいい。
この言い方自体がとても理知的で、有無を言わせるところがない。
僕は神様に祈る習慣を持っていないが、一方で、「今日も頼むぜ」と、神様に奇跡を頼む当然の心地は、どうやら毎朝持っているようだ。
話してなかったっけ?
多分話していないな、うわあ、ずいぶんなことを言い忘れてきたものだ。
毎朝、さあ奇跡ヨロシクな、と、両手を広げてそれを待ち受けるのは、なんというか、正道でいいじゃないか。
自力で何か本当に楽しいことを作り出せるなんてとんだ思い上がりである。無理、無理。
かといって、こちらが何もしないというわけでは、もちろんなくて、こちらはこちらで、理知的にやれることの全てをやる。
ただ、重要なことは、そんなことしたって「何にもならないけどな」ということだ。
マナーの限りを尽くしたところで、女の子がこちらのことを好きになってくれるわけではない、ということのように、「何にもならない」のである。
が、それでもマナーを尽くす奴は尽くすであろう。
女の子が、男を好きになるのだって、一種の奇跡なんだから、それなしに好きになるなんて……そんなことがあったら僕は余計に警戒するだろう。そんなのウソに決まっている、危ない危ないといって。
そういえば、「あなたのせいで、身の回りにどんどん奇跡が起きるわ、もう驚かなくなっちゃったわよ」と言ってくれた女性がいた。
僕はそれについて、うん、そうだろうなあ、と言い、
「いちいち、人に言っていられないだろ、そんなのしょっちゅうだから」
「まさに、そうね」
というやりとりをした。彼女は笑っていた。
楽しくなるにはどうすればよいだろう、というと、これは奇跡を体験するしかない、日夜、ということで、明らかな決着がついた。
じゃあ、どうすれば、奇跡にそれだけ親しくなれるかだが、この方法はよくわからない。
自信を持つことじゃないかな、と、世界一無責任なことを言いたくなるが……
奇跡に親しい人を、周りに見つけて、その人とまず、親しくなることじゃないかな、とは具体的に思う。
思うが、多分だめだな、そんな方法では。
奇跡に感心するようにはなるけれど、自分が奇跡に浴することはきっと起こらないだろう。
ただ、そのことを含めて、生き方を変えることだと思う。
おお、なんという、ざっくりとした話だ。
でもなぜか、この言い方のほうが、力を持っているような気がするのだ。
生き方を変えることですよ。
ある種の、覚悟が要る、ということもあるけれど、それも、生き方を変えることに自然に含まれるだろう。
奇跡が日々あるのが、好調なのではなくて、無い日々のほうが、スランプなのだ。
奇跡の無い日々なんて、つらすぎて、まともに生きていけないだろ、と、僕は本音の本音で、思っている。
自分の力量を過大評価するのじゃなくて、神様の力量を過小評価しないことだ。ほうっておいてもちゃんと存在するのが神様である。
あくまで理知的にね。奇跡というのは「ある」んだから。そして、それが多い人には多いんだから。事実として。
奇跡の神様に、見放されたら全部オシマイ、自分じゃどうしようもないから、そんなことあってたまるかよ、というのも、奇跡の信徒として、正しい信仰心だ。
理知的に言って、奇跡はあるし、おれにはそればかりなのだ、ということで、これ以上は話しようがないので、ではでは、またね。
[突然来た、それは「奇跡」だった/了]