No.282 占いを信じる女の全てはくすんでいる
タイトルでほとんど話は終わってしまった。
占いや、オカルトや、霊的なうんぬんについて話すのは、それだけで気が滅入るので、初めからやる気を失っている。
それでもなぜこんな話をしているかというと、先日に書いた話があまりに気まますぎたために、バランスを取るために、平たくいえば償いとしてこれを書いているのだ。
頼むから、占いなんか信じるなよ、と言いたい。そう叫んで全てを終わらせてしまいたい。
占いなんかウソに決まってるじゃないか。
何度も言うように、3.11を予言した占い師は誰もいないし、占い師が言うところの運勢絶好調のまま津波に飲まれて亡くなられた方もいらっしゃるんだろう。
霊がどうこうとか、霊感がどうこうとか、言う人もあるけれど、ブッダもキリストも、霊を重視しろ、とは一言も言っていない。
僕は実家が寺で、つまり帰省すれば自宅の敷地内にお墓が並んでいるのだが、僕の知る限り、寺の関係者で「霊を見た」なんて人は一人もいない。
ウソに決まっているだろそんなの……
トヨタでも電通でもキヤノンでもいいから、面接で、霊感があります、というのを売り込んでみたらいい。100%落ちるから。
霊とか占いとかいうのを、信じたいのはわかるけれど、本当に信じたら、それはただのアホだぞ。
なぜこんなことをわざわざ言うかというと、オカルトを一ミリでも信じると、人はそれによって「くすむ」からだ。
「くすむ」ということ、これほどに、女性にとって恐ろしいことはないんだろう。
オカルトの成分が一滴でも肌に入ってしまうと、その女の肌は一気にくすんでしまうのだ。誇張でも冗談でもなく事実である。
そんなもの、占い師を見ていたらわかるじゃないか。あなたは占い師を見て、「ああいうふうになりたい!」と思うのか?
あなたの信じるところの先は「アレ」だぞ、と、当たり前のことを言いたい。
占い師や、なんだかんだオカルトにハマってしまっているところのある、女性100人を集めてきて、彼女らを、卓球選手・石川佳純と比べたとしたら、どちらがどれだけ「くすんで」いるかは明らかになる。
あなたはどっちになりたいんだよ、と、こんな愚かしい話を、もともとしたくないものだ。
誰もが知るように、占いを信じる女の全ては、ドンくさい。というのは、そんなオカルトを信じていたら、脳が「くすんで」しまうからだ。脳の機能がくすむのである。
石川佳純は、中国トップのプレイヤーの、ドライブスマッシュを懸命にカットレシーブで返そうとしているのに、アンタなにをやってるんだ、そんなくすんでいて何をやっているんだ、という話になる。
体内にオカルトを入れたら、「くすむ」って。あまり僕が言わなくても、よくよく見れば、誰だって実例としてわかることのように思う。
ああ……でもちゃんと話そう。
占いというのはだ。占いだけでなく、霊的なうんぬんについてもだけれど、それを「お話」の中で留めておくぶんには、何も間違いではない。
石川佳純だって「パワースポット」に行って遊ぶかもしれないから、それはいいのだ。
問題は、そういったオカルトに、遊ぶのではなく、何か「すがる」ところがあったり、何か「マジなもの」があると思い込んだりしていたら、それはダメなのだ。
そんなことをしたってアンタの無能と無力はごまかされないよ……ということなのだが、これがまた寄り集まって、互いに慰めあいの機能を持ったりするから、ますますタチが悪い。
いいけど、じゃあ、占い師が自分を占って、絶好調のカードを引き当てたとしてだ。
そこに、じゃあどうぞと言って、実弾の入った銃でロシアン・ルーレットを要求したら、占い師がそれを本当に受けて立つと思う?
そんなわけないじゃないか。占いの結果がどうあれ、ロシアンルーレットをしたら、六分の一の確率で死ぬのだ。
それは言い換えれば、大半は生き残るということだけれど、それでも有為な確率で死ぬから、引き受けられないんだろう。
大半は生き残るのに、何それ、自分の占いを全然アテにしていないんだな、ということは明らかだ。
別にそれが悪いと言っているわけじゃない。それで本当に引き金を引く奴はただの狂人だ。狂信者だ。
占いは、占いという「お話」の中で留めておけということで……
いくらあなたが占いに精通したって、どこかの役員会議や株主総会に呼ばれたりはしませんよ、ということに過ぎない。
オカルトというのはだ(ああこんな話したくない)。
一種の、精神的な貨幣なのだ。
ある絵画について、十億円という値札をつけたら、「すげえ!」となるが、500円という値札をつけたら、フウンまあね、となる、それと同じ現象で、遊んでいるだけなのだ。
仮に、「霊/レイ」という通貨単位を設ければ、このパワースポットはプラス100レイですねえ、この心霊スポットはマイナス100レイです、といって、遊んでいるだけなのだ。
でもそれだって、値札だから、「すげえ!」というような遊びはできるじゃないか。
ただ、それをマーケットに出したらアホだというだけで。
そして、名画の横に価格が書いてあったら、絵画そのものの絵は「くすむ」。くすんで見える。貨幣価値で眺めるようになるからだ。それと同じように、パワースポットを眺める人の眼はすでにそれを「くすんで」しか捉えられない。
人間が、パワースポットと呼んで喜んだとして、そのパワーなるものを嗅ぎつけて、動物たちが集まってくるわけではない。
それは、札束が積んであっても、動物は集まってこないというのと同じだ。
そして、それが精神的な貨幣であるからこそ、こだわる人はこだわりつづける、ということなのだ。貨幣にこだわるのは人間の業というものだろう。
ただ、それならせめて、通常貨幣のほうにこだわればいいのに、と僕などは思う。通常貨幣は、通常に使えるのだから。
占いとか霊とか言っているのは、実体の無い「鑑定士」みたいなものだ。実体は無いから好き勝手言えるし、自分なりにはそれなりの整合性を持っているのだろう。それは遊びとしてはかまわない。が、その遊びの「お話」から逸脱して真に受ける奴は単なるアホだ。
そのアホは本当に自分を「くすませる」からやめろ。誰だって、駅前でブキミな宗教の勧誘みたいなものを受けたことがあるだろう。そして、第一に、圧倒的な印象として、「こいつらくすんでいるなあ」という印象を受けたはずだ。
あれは何も教徒だからくすんでいるのではなく、オカルトの侵入を許したからくすんでいるのだ。ウォール街でトレーダーとして活躍する女性には無いくすみである。
みんな、映画「プリティ・ウーマン」の、あの主題歌が好きじゃないか。あれが好きなのに、あれがオカルトから最も遠いということが、なぜわからない。
プリティウーマン、ウォーキンダウンザストリート……と歌われながら、「今日の星占い」みたいなものに見入っているなんて、絵面として成り立たないのは誰だってわかるだろう。
オカルト、占い、霊的なうんぬん、おまじない、ジンクスというやつは、遊んでもいいけれど、侵入は一ミリでも許してはいけないのだ。
せっかく、この物質世界があり、その人自身も物質として存在しているのに、その事実の全てがくすむからである。
選択肢として、1.占いとして相が良くなるのと、2.物質としてクスミが取れるのとでは、あなたはどちらを選ぶんだ。
よっぽど自分に絶望している場合は、もういっそクスミでボカシをかけていくというのもわかるが、そうでないかぎりは、物質としてクスミが無くなるほうが、いいに決まっているだろう。
突然だが、人は家庭環境が悪かったり、幼少期・青少年期にイジメなどを受けると、暗くなると思われがちだ。
でもこれは間違いである。おおよそそうなる、が、そうなるとは決まっていない。
それは、家庭環境が悪かろうが、イジメを受けたことがあろうが、本当には、自分は物質としてクスミを受けるわけではないからである。
イジメを受けたからといってタンパク質が変性するわけではない。
僕自身、幼少期は、姉からのヒステリー暴力を受けて育ち、母親からは「生まれてこないはずの子だった」と言われつづけ、家庭内は不和も不和、姉はシンナー中毒で警察のやっかいになりいつも夜中に引き取りにこいと警察から電話があった、というのは僕の過去の事実で、僕はその中で女性不信や女性への恐怖を宿されて行き、そのせいで小学校の二年間で女子生徒のグループから典型的なイジメを受けていたというのも事実だ。
が、そんなことで、僕のタンパク質やヘモグロビンやリン酸カルシウムが変性するわけではない。物質として僕は変わってしまうわけではない。僕はガキのころから科学的な奴だった。
僕は血液型がA型だが、血液型を当てられたことが無いし、過去がそのようだったというのも言い当てられたことがない。
当たり前だ、現在の僕のタンパク質から、僕の過去なんかトレースのしようがあるか。
もし、現在の自分として、自分が「くすんで」いたら、それは全て自分の責任である。なぜ「くすんで」いるかといえば、一点、オカルトに侵入されているからだ。
過去のトラウマが……みたいなのもオカルトである。過去のそれは現在のそれではないのだから。過去のそれが、自分にある種の「習慣」を残してしまった、というのはわかる。が、その習慣を自分の現在の事実だと捉えているのはただの誤解でオカルトだ。
これは別に、僕が誰かをなじっているのではなくて……むしろ励まそうとしているのだ。こっちが本当のことだから。
映画に出演して、映画監督に、「テメー、くすんでんだよ! さっさと、くっきりやれや! テメーの昨日がどうだったとか、今日の撮影に関係ねえんだよ!」と、殺されるぐらいの勢いで怒鳴り続けられれば、恢復するか、自殺するかのどちらかになるだろう。そしてこの映画監督の指摘はどう見たって正しいのである。
誰にだって、気のせい、という現象はあるけれどね、その「気のせい」を真に受けるのは、ただのアホじゃないか。自分の身は、あくまで物質としてしか存在していないのに。
そして何をするのだって、どんな声を出すのだって、その物質としての身でやることだろう。物質そのものがくすんでいることはありえないので、くすんでいるとしたら、それは内側で操作している奴の責任だ。
思いがけずマジメな話になってしまった。
どうする?
順序が逆になったが、とびきりの美人で、くっきり際やかな人に、眼を丸くして驚かれて、
「……へえ〜っ。あなた、占いなんか信じてるんだ!? 霊とかも、ひょっとして信じているわけ? へえ〜っ、すごいなあ。あ、ごめんなさいね。わたしの周りで、そういう人って、これまで一人もいなかったからさ。なんかびっくりしちゃって。あ、でも、うちのひいばあちゃんが、明治時代はそんな人もおったでって、たまに言っていたわね。あはは。人それぞれ、やっぱり信じる人もいるんだねえ」
なんて言われたらどうする。
それでさらに、
「ねえ、ねえ! みんなちょっと来て! 彼女、占いとか霊とか、信じているんだって! ちょっとみんなで聞いてみようよ、みんな興味あるでしょ?」
と大声を出されて、それでわらわら元気な人たちが集まってきたら。
どうする。
どうする、といって、それで高邁なる占いと霊の世界を話せなかったとしたら、そりゃあなた自身が本当はまるでそれを信じられてもいないし、それに救われてもいないのだ。
あなたも本当はそれをウソだと知っていて、何をどうしているかというと、ただ自分をくすませてよくわからなくなっていただけなのである。
それで、大声を出されて、人がわらわら集まってきたら、彼らのくすんでいないことと、自分のくすんでいることが対比されて、色々明らかになってしまうので、ウワーッとなるだけなのだ。
どうする。
それで、後になって、「あのう、ボクも」と、いかにもくすんでいる男が、「ボクも、占いとか、霊とか、信じるンですよね。感じるンです……」と、あなたに親しげに言い寄ってきたら。
「実はそれで、ボク、あるサークルに入っていて、顔が利くンですよね。あなたのことも、彼らは喜んで、受け入れてくれると思うンですが?」
さあそんなことになったらどうする。
いかにも自分が、ダメなゾーンに入り込んでいることを、さすがに自覚するだろう。
「信じているわけじゃないけれど、ちょっとまあ、気にはしているわよね」というのも、ダメだよ。それはいかにも、典型的な入口だ。
「その、わたしって、くすんでますか?」
「えっ、それって、そういうこともわからなくなるわけ? それって好きでやってるのかと思ってた」
なんて言われてしまうぞ。
***
物質世界である。自分の身も物質である。幸福なことだ。
自分の身が物質じゃなかったらオバケだものな。
このところ、どうも、世の中(あいまい)全体に、わけのわからない「不安」が立ち込めている気がする。
将来の不安、というのは、誰にだってあるし、国家にだってあるが、それとは違う、わけのわからない不安だ。
不安になるのが特に得意、というような不安さだ。
不安というのは、パニック性癖のある人なら、何の根拠もなく、独自に不安になれるのである。
独自に作り出す不安は、根拠の実体が無いので、いっそ無敵という具合に、いくらでも不安になれる。
またそこで、不安がパニックとして伝染するから、よりわけのわからない不安が増大するのである。
そして、パニックが伝染してしまう素質の要件は、やはり同じ、オカルトの侵入を一ミリでも許してしまう人だ。
「こっくりさん」で失神する女子生徒らのように、パニックの伝染と集団催眠に掛かってしまう。
おばけ屋敷でキャーという金切り声がすると、女子生徒らは震え上がるが、あのキャーという声はよく音大の声楽科の女性がアルバイトでやっているのである。
それはおばけ屋敷なら遊びと「お話」の範囲内でいいのだが、それを墓場でやられて「霊が」と言い出すのはアホである。墓場でキャーとやっても音大生は音大生だ。
まあそれはいいとして、とにかくだ。
オカルトに侵入されて、不安性癖になって、くすんで、しかもそれが伝染するなんて、誰も一ミリもトクをしない。
この、周囲を取り巻く、わけのわからない不安に巻き込まれそうになったら、「もうこいつらはダメだ」と思え。
実際もうダメなんだから、そういうのは。
毎朝の、「報道」と銘打たれたテレビ番組に、堂々と「今日の星占い」が入り込むようでは、いろいろとおかしいのである。報道は「お話」ではないのだから。
そして、意外なことに、「オカルトの全てはウソだ」という捉え方は、いまいち有効でない。
なぜか?
それは、オカルトというのは、ウソとかどうとか言う前に、実体をそもそも持っていないからだ。
本来、それがウソか本当かを検証する余地さえ持っていないのである。
だから、「オカルトの全てはウソだ」というのは、理屈では正しいのだが、そこに理屈を向けること自体が間違っているのだ。その時点ですでに、オカルトの罠に取り込まれているのである。
それよりは、不安に取り込まれがちな人は、「物質、物質、物質……」と、ひたすら事実を唱え続けるほうがいい。
「必要なのは、わたしという物質が活躍することだわ」と、当たり前のことを当たり前に捉えていればいい。
石川佳純がくすまないのは、ラケットという物質を、ピンポン玉という物質に、精密に当てなくてはいけないからだ。
物質、物質……自分の身だって物質で、履いて歩く靴だって物質だ。物質として、この物質世界を行くのである。
このことを行く限りは、幸福か不幸か、成功か失敗か、どちらであったとしても、くすむ、ということにはならない。
そして、不幸とか失敗とかいうことは、あなたという物質を、そこまで不安に陥れるものでもないはずだ。なんであれ、戦えるだろう。
ではでは、またね。
[占いを信じる女の全てはくすんでいる/了]