No.283 考え方に動け
「考え方」と「動き」の接続をよく見ろ。あなたはよく、自分が佳人になるにはどうすればよいかと僕に訊いた。それについて今も正しく答えるから……聞き漏らさずにゆけばわかる。決定的な違いは、些細なところの違いにあると、僕はすでに話してきたし、あなたもすでにそのことはよく知っている。
自分の良人が電車で老人に席を譲った。良いことのはずが、何か違和感が残った。そのようなとき、その些細な違いを見落としてはいけない。違和感が残るのは、「考え方」と「動き」が接続していないため。考え方と動き……このことも冷静に捉えなおせばわかる。人は動くものだが、動くためにはその行為行動と動きの「原理」が必要になるはずだ。
外人さんがオジギの真似事をしたとき、それは気持ちよくは見えるけれど、日本の良人がするお辞儀とは違う、そこには違和感があるはず。それは外人さんがその動作・動きを習ったとして、その習った動きを真似しているに過ぎないからだ。お辞儀、「低頭」ということへの「考え方」に、動きが接続していない。だから何か違うというのがわかる。
あなたが噛み締めるようにして覚えておいて間違いないのは、「考え方」とは人間の行為行動の「原理」だということ。この「原理」なしに、動きだけが勝手に発生していたら、それはやはりおかしい。彼が荷物を持ってくれた、うれしい、やさしい、というだけでなく、そこに違和感があるときは気づくこと。手をつないできたということにも、その手指に伝わる感触に違和感があるなら気づくこと。「動きが考え方に接続していない」という正しい捉え方は、あなたの感じ方を正確にするし、違和感を認めるのにも励ましになるだろう。
違和感が起こるのには二種類ある。ひとつには、「考え方」そのものが無いということ。もうひとつには、「考え方」らしきものがあるとしても、それが「動き」に接続していないということ。たとえば人に失礼な態度を向けてしまったと後になって自覚するときは、きちんと謝るべきだ、という考え方がある。あるはずだが、これがそもそも「考え方」として"無い"という人も、実のところ少なくない。自分でも気づかず、目立たないように紛れ込んでいるだけで実際の数としては少なくない。そういう人が「先ほどはすいませんでした」と謝ったとしても、それは動きが考え方に接続していないので、先ほどと同じ、外人さんがしたオジギの真似事のように違和感が残る。「謝っている感じがしない」という違和感が残る。
この違和感を認めるのには勇気が要るけれど、認めること。十人が十人とも、そうして謝って、でも謝っている感じがしなかったとしたら、十人ともがそうなんだと、勇気をもって認めること。「考え方」は誰でも持っていると、みんな思っているし、そう信じ込まれている。でもそれは錯覚だし、嘘だ。十人を集めて、十人とも、その「考え方」なるものを根本的に持っていないということは、今まったく珍しいことじゃない。考え方を持っていないどころか、これまでに一度も触れたことさえもない、という人も、まったく珍しくない。一生のうち一度も、その「考え方」という人間の現象を知らずにゆく人もいる。珍しくないし、少なくない。そういう素質の人間もあるのかもしれない。でもそこを難しく考えるのは、真実から佳人になりたいというあなたの思いに役立つものじゃない。気にしなくていいから、ただ違和感が百あれば、その百を全て勇気をもって認めていくこと。
もうひとつの場合には、「考え方」らしきものがあるにせよ、それが動きに接続していないという場合。動きに接続せず、その「考え方」らしきものは初めから実は死蔵することが内定してあるというような場合だ。先ほどの場合は、考え方そのものが無いということだったけれど、こちらはそうではなくて、もう少し器用な立ち回りが利いている。あなたはこのことについても、勇気を持ってその違和感を認めていくしかない。
「人に失礼な態度を向けてしまったと後になって自覚するときは、きちんと謝るべきだ」という考え方。それがあるにも関わらず、当の謝るべき対象が目の前にいるのに、謝るかというと謝らない。彼が歩いていってしまうとしても、その後背まで数メートル、小走りすれば三秒で追いつく距離にあるのに、そこへ駆け寄って「あの」と呼びかけ、「先ほどはすいませんでした。反省しています。醜い態度で、わたしの失態でした」と一方的に頭を下げるということを、やるかといえばやらない。迷っているふりをしながらも、初めからそれをやらないということはすでに強固に決定されている。
あなたはそこにある違和感を、勇気を持って認めていくこと。先ほどとは逆になる。先ほどは、動きがあるにも関わらず、それが考え方に接続していないので、その動きが実質を伴っている気がしない、という感じ方があった。それが違和感だった。こちらは逆に、考え方があるにも関わらず、それが動きに接続していないので、その考え方が実質を伴っている気がしない、という感じ方が起こる。それが違和感になる。どちらにせよ、表面だけ上手く見せているだけで、実質は「空虚」だと確信される、それは違和感だ。くれぐれも、この違和感を認めるのには勇気が要るから、あなたは内心にでも、このことに引き下がってはいけない。
「考え方」というのは、その人の行為行動の「原理」だ。だから、もし「考え方」がなかったとしたら、その人は選挙で投票所に行き投票してきたとしても、「考え方」なしに、どう選んで投票するかという原理なしに、ただ投票という作業だけをこなしたことになる。そのような有様は、あなたの求める佳人というものから対極に遠いはずだ。いろんなことを表面上上手くやっているのに、その全てについて、実は白状したら「よくわかっていない」というのだから。冗談に笑うとか人に笑いかけるとかいうことも、実は「よくわかっていない」から、ずっと表面上上手な作り笑いをしている。あなたはこのような人から、表面上上手な愛の告白を受けて、表面上上手なセックスをし、表面上上手な充実を重ねては、やがて表面上上手な夫婦生活をするというようなことへ、進んではいけない。それら全ての、彼から自分に向けられる動きの一切は、「考え方に接続していない」と、このことの正しい捉え方はやはりあなたを励まし続けるだろう。
じゃあ、「考え方」はある、行為行動の原理はあるのだといって……それがその人の動きへ「接続していない」なら、それはやはり、よくよく見たら、その人の行為行動の原理ではない。「接続していない」のだから。コンピューターの中に機械が詰まっていても、よくよく見たら「接続していない」というのなら、その機械はコンピューターの中身だとは言えない。羊頭狗肉というんだ。あなたはその接続されてもいない機械部品について滔々と説明されて、そのコンピューターを購入してはいけない。「あなたをずっと笑わせていきたい」と、立派な「考え方」を説明されて、あなたが実際には彼に笑わせてもらってはいないということを、見失ってはいけない。「立派な考え方がそのままの動きに接続されていないなら」と、このことはやはりあなたを励まし続けるだろう。
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あなたが面接を受けることがあったとしても、やはりあなたはこのことを思い出せばいい。面接官は質問の回答が得たいのではなくて、あなたの「考え方」と「動き」を確認したがっている。あなたの考え方がどのようであり、それがどう接続されて、今のあなたの動きを作り出しているかというのを知りたがっている。
たとえばあなたが、「リーダーの立場だったので、役目はムードを高みへ引きずり上げていくことでした」と、自身のこれまでの考え方を暴露する。その「考え方」はよくわかる。面接官はそのとき同時に……あなたの「動き」が、その面接の場所の当事者たちをも、そのようにムードの高みに引きずり上げていくところが実際にあるかというのを確認している。つまりは考え方と動きの接続だ。あなたの身振り、声、人に向ける表情といったものが、考え方から接続したそのままの動きになっているか。確かにそうだと十分に受け取られたとき、あなたは面接に成功する。
人間は本来、じっくり見れば誰でもそうなのだが、「考え方」と「動き」の接続というのを、いついかなるときも厳しく問われている。<<それがその人の正体であり、正味そのもの>>であるからだ。あなたの考え方と動きの接続こそが、そのまま「あなた」だと言っていい。
例えば誰でもがやるように、金曜日に居酒屋にゆき、女性が男性に愚痴をこぼす。それで彼はあなたに、「いつでも強い気持ちでいなくてはいけないよ」と話した。その「考え方」は、あなたにも理解できるところだ。けれども直後、彼が店員さんを呼びとめようとしたとき、そのタイミングや声や振る舞いの仕方が、いかにも強い気持ちのそれではなかった。このときあなたは、彼自身について、考え方と動きが接続していないということを目撃している。あなたはそのとき失望しているのだ。彼に対してではなく、今自分は色々話したけれど、彼の正体や正味に何ら触れているわけではなかったのだ、この長い時間……と思い知らされるつらさとしての失望だ。
このことは、「考え方と動きの接続」ということをよく知り、勇気をもってシビアに見続けないでは、見落とすことなのだ。違和感に気づかずに通り過ぎてしまう。そうして気づかずに過ぎたふうでも、知らず識らずのうちに失望はやはり蓄積していっている。その蓄積は次第に重くなってゆき、いつの日かあなたの膝を屈してしまう。
人間は本来、「考え方」と「動き」の接続というのを、いついかなるときも厳しく問われている。人間の品質の優等劣等を問われているのではない。そこにある自身が正味正体のそのままかと問われ続けているのだ。
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あなたは愛において、愛する人へ、実際にはあなたの動きとして、触れることになる。それは手指や口唇を伴うこともあろうし、そうでなくても、眼差しや声や表情もそうで、言葉というのもそうだし、突き詰めていえばメールの一通だってそうだ。
その、愛する人へ触れる「動き」が……「考え方」に接続されていなかったとしたら。そこに起こる、具体的な感触は"おかしく"なる。ごまかせるものじゃない。違和感、違和感と、ずっと言ってきた。それは形而上の違和感ではなく具体的な感触としての違和感だ。あなたの乗りなれた自転車のサドルをこっそり別のものに入れ替えてみよう。見た目にはよく似ているそれでも、あなたは跨った途端、「えっ?」と、その違和感に気づく。具体的な感触して「おかしい」と。自分の自転車に跨っている感触がまるで無いから。
そのことのように、そこでの違和感というのは、「何、これ?」という、きょとんとした自然な疑問に人を立ち止まらせるような、はっきりとした感触の違和感として生じる。恋人同士という建前で手指をつないでみるとする。そしたら「えっ?」と。「何、これ?」と。そこに人間の指先があるのは確かなのだが、その指先が、<<その人のどこにもつながっていないように>>感じられる。なにしろ、「考え方」への接続が切れているものだから。その指先の感触は、正味正体の何物とも接続していないと感じられる。
そしてそれは、指先でなくとも、眼差しでも表情でも同じで、声でも振る舞いでも同じ、言葉でも交合でも同じだ。<<何ともつながっていない>>と感じられる。
最も切実な面に触れてこの話を結ぼう。その<<何ともつながっていない>>と感じられるものと交合をしても、得られてくるのは官能ではなく違和感からの「不安」である。その不安感はまったく得体の知れない巨大なものだ。何かの本能から、「自分はとんでもない凶事に引き込まれているのでは?」という、そら恐ろしい胸騒ぎが立ち込めてきて止まない。いくらそれで強引に摩擦を繰り返して射精やオーガズムを得ても、なんら官能の手応えは残りはしない。むしろ直後にも、――自分はこの恐ろしい感触のものを早く打ち切りたくて無理やりにでもそれを急いで完了させたのではないか? と感じられてくる。
そのような恐ろしさのことを、する側になるのもされる側になるのも、ましてそれを繰り返すようになるのも、あなたの求めた佳人ということからはほど遠いはずだ。
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あなたは僕に、自身が佳人になるための指導や指針をよく求めた。今日それを一言に結んだら、「考え方に動け」ということになる。あなたは「考え方」を獲得せねばならないし、その考え方を真に獲得したとするためには、同時にそれによる「動き」がそのまま自分に起こるということも、獲得されていなければならない。考え方が無くてはならないし、あなたはそれに拠って動きを起こしていなくてはならない。――あなたの実際的な日々に突き詰めて向ける言葉として僕はこれを選んだ。「考え方に動け」。考え方を獲得せよ。そして、たゆまず、<<必ず>>自分から動け、誰よりも早い一番乗りのタイミングで動け。
その分……あなたが考え方と動きを接続して、愛する人に触れるとしたら。あなたの手指が、愛する人に与えるぬくもりや官能はとんでもないものだ。はじめ、ほんのわずかな考え方でもよいし、そこからほんのわずかな動きが起こるのでもよい。たとえばあなたが、ただ「女だから」という考え方で、そっと彼の頬へ指で触れる。あなたにその動きが起こる。あなたの側から、自発的なこととして。その指先ひとつは、あなたの偽りない正味正体の感触として伝わるのだ。その官能は何倍とか何十倍とか呼べる次元ではない。さびしさやつまらなさを駆逐するという一点においてもう次元が違う。
「考え方」が「動き」に接続していて……
勇気を持って告白するなら、今、「考え方」と呼びうる何かを持っている人は実のところ少ない。<<きわめて少ない>>と言わねば僕はあなたに対して誠実でありえないだろう。ましてそれを「動き」に接続させている人といえば、さらに少なく篩(ふるい)から落ちていくと言わざるを得ない。
それでつまるところ、何もかもについて、「実はよくわからない」という状態が、水面下に蔓延しているのだ。同時に、得体の知れない不安、「何かが恐ろしくてたまらない」という不安も、やはり蔓延している。誰の声も指先も眼差しも、自分に真に官能を与えてはくれず、さびしさやつまらなさを駆逐してはくれない。その中でひたすら、内実としては不安から逃れたいという一心に駆り立てられているところも大きくありながら、表面上上手な営みだけが続けられている。
ひとつ、あなたが僕の話すところから、むしろ離れていこうと決意する場合、僕にはそれを引き止める権利はないが、最後にひとつのことを忠告として言い渡さねばならない。あなた自身が考え方と動きの接続を完全に失ったとき、それ以降は、もうあなた自身も、誰かの考え方と動きの接続を、感じ取ることはできなくなる。自分への違和感を無くせる代わりに、それは本来の感受性の一切も失わせるのだ。自分の正味正体を不可逆霧散させたとき、代償として、誰かの正味正体を感じ取ることもできなくなる。だから、「いつかそういう人がいたらそのときに」という上手く見える発想は採用できない。あなたが考え方も動きへの接続も難しくて面倒くさいと投げ出したとき、それ以降は、あなたの計画している「そのとき」というのを、もうあなたは知覚できない。それは「きれいな景色が来たら眼を開けるから」という発想に似ている。その後もうきれいな景色が得られる可能性は二度とない。
あなたにとって、自分が女であるということや、人を愛するということは、どういったことだろう? そのことについての、あなたの「考え方」! これが百人の聴衆に聞き取られることがあったとしたら、そのときのあなたが、ごまかしの照れ笑いや、投げやりな語り口に逃避することが、どうか無くて済みますように。そしてそういったあなたの語る姿の動きの全てが、あなたの考え方としての、女であること、愛するということに、まったくそのまま動かされてありますように。豊かな考え方を獲得してゆき、そのまま動きに接続してある、正味正体のままのあなたがありますように。<<動けよ>>。
[考え方に動け/了]