No.285 ゲルニカ
正しく頭で考えればわかるようなことを、わざわざ見落としてはならない。あなたにはわかってもらえると思う。人はときどき、自分以外の誰かと向き合うことに恐れを抱くものだ。それが何を怖がっているのかは、はっきりしなくて、自信のなさであったり、人間そのものへの怖さであったりする。それにしたって、やはりよくわからないというのが誰もにとって正直なところだ。特にその不安と恐怖は思春期あたりに一つのピークを迎えるだろう。でもそこに不安や恐怖があるからといって、眼を背けてはいけないし、それは常に人の、自分の、乗り越えていなくちゃいけないことだ。あなたにはわかってもらえると思う。それで僕はあなたに向けてこうして話している。
人がそういったことへ、不安と恐怖を抱きがちだからということにつけこんで、人々を、ただつぶやくだけの装置であるような、人間にしてしまってはいけない。そういう、好い顔をしたふうの、悪辣な装置が今は身の回りにひしめいている。それらはまるで、僕らから夜のさびしさや人へ向き合うことの不安と恐怖を取り除いてくれるように見える。不安と恐怖を乗り越えることなく、それらは何か自分に物事を、メッセージを、発信させてくれるように思えるものだ。だから人々はそのつぶやきの装置に取り込まれていく。本人はただ遊んでいるだけのつもりでも、いつしか本当に吸い込まれきってしまう。人と向き合うことの不安と恐怖に一度も勝ったことのないまま、自分は人にメッセージを向けるのに豊かな手段を持っている人間だと、勘違いしてしまうんだ。
近代的装置の、全てが悪いものじゃない。装置は、道具なのだから、全ては使いようで決まる。それぞれの装置の向こうに、誰か人間がいることは疑いないのだから。ただ、肝心なところを機械にゆだねてはならない。自分の気持ちの一番しんどいところを、便利に代行してくれるからといって、それを機械におまかせしてはならない。多くの人々が、自分はただ遊んでいるだけだというつもりで、つぶやきの装置へ逃げ込み、それが習慣になって、吸い込まれてしまい、もう戻ってこられなくなる。彼らはいずれ、「もう飽きたよ」といって戻ってくるかに見えるだろう。でもそれは違う。彼らはそうして戻ってきたとき、もともとの、不安と恐怖も含めた、溌剌とした人間らしさのものまで、一緒に持ち帰ってきてはいない。一つの、起こってはならない完成を起こして、彼らは戻ってきてしまう。まるで用事は済ませてきたんだというように。つぶやくだけの装置としての、自分が完成してしまったんだ。だから彼らはもう、そういった機械に頼らなくてもやっていけると感じている。まるで、わたしはどこでだって自力でつぶやいてみせる、と、奇妙な自信に、眼差しが動かないようになって。
人に向き合うのには、不安と恐怖がある。それを乗り越えるには勇気が必要だ。そして、その無謀な勇気の向こうに、何かいいことがあると決まっているわけじゃないが、いくつかの幸運に恵まれれば、あなたは人のやさしさに触れることができる。あなたが、不安と恐怖を乗り越えて、勇気をふりしぼって、人と向き合おうとしていることを、向こうの人が感じ取ってくれるんだ。たとえ、装置を間に挟んでいる場合であっても、同じようなことが起こる。あなたにとって、その勇気をふりしぼることは初めてのことで、あなたには色々とみっともないところがあるだろうけれど、いくつかの人は、そのことまで含めて、それはあなたのことだと認めて、そのまま受け止めようとしてくれるだろう。あなたはそのとき、人のやさしさというものを、自分の体験として確認する。
つぶやきの装置に通暁することは簡単だ。まして、まだ思春期だったり若い年齢であるうちの、いきいきとした生まの脳に、それを学ばせることは簡単だ。本能によって、そのころの人間は、人と触れ合いたい、語り合いたいという気持ちを強く持っているし、同時に、そのことへ向き合うのが怖い、人と向き合うことに不安と恐怖があって、背を向けてまぬがれたいという気持ちも強く持っているのだから、その両方を満たしてくれるものとして、つぶやきの装置に通暁することは至って簡単だ。自然な熱意が湧くだろう。まるで憑り付かれたように。一旦そうなれば、もう装置の側があなたのことを手放してくれない。
でもあなたが本当にしたかったのはそんなことじゃなかった。あなたは、自己に一定の完成も得ていないのに、完成した後に得られる果実だけを先取りするような、旨味に満ちて思えることを、本当にしたいのではなかった。あなたはそれを、本当には醜いことだと知っていて、そのような醜さに肉を太らせた人間になりたいのではなかった。あなたは本当は、どこまでも自分に胸を張れる人間で、本当はずっといたかったんだ。世間に向けてじゃない。たとえ世間につまはじきにされたって、何もないだだっ広い世界に向けて、自分は何も不当な手段を選んできたわけじゃないって、胸を張っていたかったんだ。
あなたは、自分の生命が一回限りしかないということを知っていて、幼い時間も若い時間も、そしてこれからの時間も、一回限りで、戻ったり引き返したりできないということを知っている。それであなたは、その一回限りの中にいる自分を、強い自分でありたいと思ってきた。強い自分でありたかったし、人にやさしい自分でありたいと思ってきた。どうせ一回限りのことなら、他人にとやかく言われたとしても、自分で納得のできる、自分でこうだと思えるような自分として生きていきたいと思っていた。あなたは油断をしていると、これから先、いくらでも装置に吸い込まれてしまい、その一回限りのものを台無しにしてしまう。僕たちは今誰もがそういう環境の中を生かされているんだ。装置の誘惑は強烈で、年々、その狡猾さを増していくよ。まるであなたを憐れむような、嘲弄するような、残酷なつぶやきが、装置の悪辣な交渉術として仕掛けられてくるだろう。たとえ実際にはそのようなつぶやきが為されていなかったとしても、すでに装置の側は、あなたにそのような幻聴が聞こえるように、周到に状況を包囲している。
あなたは元々、人にやさしくありたいと思ってきたのだから……あなたはしばしば、このことを思い出したらいい。あなたが勇気をふりしぼって、人と向き合うことの不安と恐怖と戦おうとしても、肝心の向こうの側が、あなたの勇気に応えてくれないかもしれない。それがなぜなのか、あなたは少し頭を使って考えればわかるはずだ。相手が応えてくれないとき、相手だってやはりそのことが怖いからだ。人と向き合うことへの不安と恐怖。本当には、そうして自分と向き合おうとしてくれる人が現れたとき、それを見過ごしたり、そこから逃げ出したりして、自分に向けてもらえた勇気を無駄にしてはいけないって、知ってはいるのだけれど、それでも不安と恐怖は、人からそのまっとうな真心さえ奪い去ってしまう。それが、最もやってはいけないことだと知りながら、ひたすら自分のためだけに、自分に向けられたものを無視し、逃げてしまうということをするんだ。それが人をどれだけ傷つけるか、そして失われて帰ってこないもののどれだけ大きいことか、本当には知っているのに、そのことにも眼を伏せて、もう何もかもから耳を塞いで、とにかく自分を不安と恐怖から救ってくれる巨大な甘やかしの装置に帰りたいと発想してしまうものなんだ。
あなたはそのようなことをしてはいけないし、そのような人間になってしまってもいけない。なぜならあなたは、人にやさしい人間でありたいと望んできて、そのことだけは最期まで譲らずにいようと心に決めている。じゃあ……さっき言ったとおり、あなたが勇気をふりしぼれば、あなたは人のやさしさに触れるかもしれないというようなこと。これが逆の立場でだってありえるんだ。誰かがあなたに向けて勇気をふりしぼってきたとき、あなたはそれに、やさしさで応えられる人でなくちゃいけない。やさしい人間というのはそういうことだから。必死でふりしぼって向けた勇気が、見過ごされ、背を向けられるということが、どれだけ人にとって傷つくことか、あなたは知っている。あなたはその、最大に人を傷つけることを、平気にやってしまったり、「つい」というのでもやってしまったり、する人間になってはいけない。
勇気をふりしぼることに決めた人間は、まるで勇気を必要としていないかに見える。本当に、自分はそれをふりしぼって生きるのだと決めてしまった人間は。彼にとっては、何事も気楽にやれるように見えるし、人と向き合うことや触れ合うこともまるで勇気の要らない容易なことのように見える。
でもあなたはそのことに誤解をしてはいけない。「ああした人が、あのように気楽にやっているのだから」と、自分にとって気楽な何かを追いかけまわして、その気楽さだけをなぞってはいけない。彼はもしかして、今のあなたでは想像もつかないような、深い勇気への覚悟を、どこかで自分に背負わせてきたのかもしれないじゃないか。そのせいで……つまり彼の勇気が大きすぎるせいで、あなたにはそこに勇気があると気づけずにいるだけかもしれないじゃないか。子供が港で巨大な客船を見上げて、それをずっとたわいないビルだと思い込み、船なんて見たことないよと思い込んであったときのように。
すでに大きな勇気を得た人は、一つ一つのことに、今さら勇気を必要としていないかに見える。でもそれは、あまりに大きな絵画が、それが大きすぎることによって、まるで人の手を使わずに描きあげられたように見える、ということと同じでしかない。でもそれは誤解であって、本当には隅々まで、人の手が汗を掻きながら描ききったものなんだ。そのことは確かに、十センチ四方のキャンバスに絵画を塗りこめるというような、小さなサイズのせいでわかりやすくなる勇気と比較して、何かよくわからないことだとあなたに思わせてしまうかもしれない。けれどもあなたは、誤解してはいけない、あなたがその小さなサイズにも勇気を出せるか、不安と恐怖に戦っているところを、そのはるか二七三〇倍の勇気をもって、不安と恐怖に戦った人もいたということなんだ。
あなたもどうせなら、今より以上のことを、その勇気がどこまで出せるんだろうと、次々に自分を更新していかなくちゃいけない。どうせ、人と向き合うこと、その不安と恐怖とに戦いながら生きるんだ。それならいっそ、もうあなただって、小さなことにはいちいちの勇気などふりしぼる必要がないというほどに、大きな勇気を背負っていく、その覚悟をしたらいい。
あなたがかつて望んだように。そして、実は今だって、変わらず望んでいることのように。あなたは、今よりもっと強い人間になり、もっとやさしい人間になれる。そして、あなたに出会ったと言えるだけの人は、今より二七三〇倍にでも増やしていくことができる。あなたがその全てと向き合っていくという勇気を覚悟できれば。あとは多くの人が、つぶやきの装置の実体について、それが自分をひたすら虫の好い人間に育てつつあるということに、なるべく早く気づくようなことになってゆければ。
あなたが第一にできるのは、あなた自身についてのことだ。他人のことをどうこうできると、誤って軽薄な考え方をしてはならない。ただ、あなたがどうありうるかによって、あなたの周囲の人々も、自身がどうなりうるかについて、影響を受けることができるんだ。つまりあなたがそばにあることで、やがて勇気をふりしぼって向き合える先として、あなたがずっとそこにいつづけてくれれば、それは多くの人がやがて道筋を修正するのに役に立つんだ。
[ゲルニカ/了]