No.286 恋あいとエネルギー
僕のところにはなぜか「表現」を志す人が多く来る。
僕みたいなスケベのところに来てもしょうがないと思うのだが、まあ来てくれるのだからしょうがない。
もっとちゃんとした先生のところに行ってみっちり習いなさいよ、と言うのだが、言うだけでもちろん信用しているわけではなく、表現なんか人から習えてたまるかと思っている。
鍛えてくれる人はありえても教えてくれる人なんているわけがない。単純な技術については教えられたとしても。
そして鍛えてくれるものというのは、人であれ環境であれ、自分をボッコボコにしてくれる何かである。
鍛えてくれる人はきっとあなたに「教えても無駄」と言ってくれるだろう。
岡本太郎は、「芸術は本質的に、けっして教わることはできない。弟子になろうなんてやつは、それだけで芸術家失格だ」と言っている。
まあだから、その意味では、弟子になんかなりようのない、僕のところに遊びに来るのは割と正しいのかもしれない。
が、何か最近、とんでもない誤解をされているのではないか、という気がしてきた。
先日、或る二十歳の青年が、「僕も文章を書けるようになりたいのです、真剣に」と言って相談してきたので、申し訳ないがそれを例に採ろう。
申し訳ないも何も、すでにボッコボコにしてしまったので、もう今さらいいだろう。
僕がその手口でボッコボコにした人はこれまでにとても多いのである。
それは、別に僕がそのことに優れているのではなくて、何か知らないが、僕が呼吸していたらそいつが勝手にボッコボコになるのである。
色々、苦心して話してみたのだが、結果、
「だめだ、あなたはひどい勘違いをしている」
ということになった。
「僕とあなたとで、持っているエネルギーが違いすぎる。僕のエネルギーは、たぶんあなたの四〇〇倍ぐらいある」
「僕はそのエネルギーを、何とか読める形に整えているだけである一方、あなたのやっていることは逆だ。文章を書くことにエネルギーを足そうとしている」
「同じ道を行くのに、ママチャリは必死で漕ぐ、速い車は必死で速度を抑える、ということがあるかもしれない。同じ道だが、やっている作業は真逆だ」
はっきりさせようか、という話になったので、今回はこのタイトルになった。
はっきりさせよう、これは何度も聞かれることだが、
「なぜそうして文章を書いているのですか?」
ということについて。
僕は、エネルギーをもてあましているので、余っている分をそこに投げ込んでいるだけだ。
エネルギーを貯蔵していたって腐敗するばかりだから、循環させて新しいのを湧かせないといけないので、そこに向けて無駄遣いに放りこんで燃やしているだけだ。
「なぜそうして文章を書いているのですか?」
「エネルギーが余っていて邪魔だからだ」
これ以上に正確な言いようはありえないと思うのだが、このことがどうしても彼にはわからなかった。
彼にはそもそも、その「エネルギーが余る」という状態がわからないのだ。エネルギーというのは彼にとって常に不足しているものだから。
それでも、どうしても、自分で抱っこしている自分と、目の前の僕とが、同じものだろ、と見えてしまうらしい。それでどこか笑顔である。
アホだ。
ここの誤解が解けない限りは、どうしたって僕から彼へ話は通じようがない。
通じなくてまるで構わないし、ところで万事楽しいよな、という話さえ通じないだろう。
それで、もう面倒くさいので、とにかくかわいくて従順な女の子のことばかり考えることにした。
エネルギーが不足しているくせに紙面に言葉を連ねるなんてエネルギーの浪費をやるものじゃない。ひどい誤解だ。
それをやるには、エネルギーが四〇〇倍要ると言ったのは、何も誇張ではなく、じっくり考えてそのあたりが妥当だろうと思ったのだった。
お金を道楽に浪費できる金持ちというのは貧乏人の四〇〇倍ぐらいのお金が湧いているものじゃないか。
はっきりさせておく、と。「なぜ書いているか」は「エネルギーが余ってしゃあないから」だ。それ"だけ"だ。
だから僕は常々、一ミリも頑張らないと言っているし、「人のためを思い」なんてことは一ミリも考えていないと言っている。別に表現上の工夫として言っているのではない。ただの本心だ。
「人のためを思って」なんて言い出したら、工事現場の忙しい人たちでさえ、手を止めて、ギャハハハそれは無いわ、と大笑いを始めるだろう。
僕はうれしくなってしまうだろう、そんなの……
「人のため」って、心底からのバカしかそんなこと言わない。言わないし発想しない。
彼など、エネルギーが僕の四〇〇分の一しかないのに、同じことがしたいというのは、まあ当人の勝手だが、論外だ。ママチャリでサーキットを走れると思って笑顔でいるのだが、論外だ。
諦めろと言っているのではない。諦めろなんて僕は決して言わないだろうが、その誤解のところはさっさと眼を覚ませよと言いたい。
さっさと眼を覚ましてもらわないと、こんなことは本来僕が偉そうに言うことではないので、こんなことを言っているのが他人にバレたら恥ずかしいのだ。
いや、彼の志は高かったので、エネルギーを四〇〇倍にするだけではまったく足りない。
僕の軽く三倍はエネルギーが必要なので、現在の一二〇〇倍のエネルギーが、最低限として要るだろう。
まさか、そう言われて諦めるような奴は、もう病気でしかない。六十歳ならともかく、二十歳で諦めたら病気だ。
こんなことを言い出すのは、とても恥ずかしいことなので、さっさと終わりにしてしまいたい。
僕はこれまで、無数の、「あ、もう二度とやれないな」というような思い出があるが、それらの全てに「なぜそのようなこと」と問われたら、全部「エネルギーが余っていたから」でしかない。そのこと以上の理由は一ミリもはみ出ないだろう。
そこを、何というか、エネルギーが少ないタイプの視点から、何か特別な理由や動機や思想があるというふうに、なんとか捻じ曲げて理解しようとしないように。
エネルギーの少ないタイプの人と比べて、僕が腹の底から、四〇〇倍笑ってきた、そして、四〇〇倍泣いてきたのかもなコイツ、というのは、数字として割と現実的なラインだと思う。
余っているものはふつう捨てるもので、エネルギーが余っているなあどうしようなあということで、今だってこれを書いている、いつもどおりだ。
エネルギーが余っているなら、それを何に使うか、何に使うべきか、という発想がある。
ように思えるが、そんなのはウソで、「何に使うか」なんて考えたこともない。
どんどん捨てるのみだ。
たとえば就職活動にエネルギーの受け皿を見つけて遊んでいたらいつの間にか総合商社に入社していただけだ。
僕は、老人に媚を売らなかった、という理由以外で面接に落ちたことがない。
別にどんな企業を受けるのだって、立派な志望動機を、小説としていくらでも作れる性質がもともとあった。
僕は自分のエネルギーを何かに利用するために生きているのではなく(なんだそのみじめな生き方)、ただ生きていたらエネルギーが余るなあというだけで、発電所じゃあるまいし、このエネルギーでボクに出来ること、なんてかわいらしいことはまったく考えていない。
そんなことを僕が言い出したらただちに全力で気持ち悪いだろう。せっかく笑ってくれていた人も途端に興ざめするというものだ。
エネルギーというのは、余っている人にはわかることだが、何かに向けてならやる気が出るとか、そういう類のものではない。
自分でヨッコラセと作り出したものではないので、そう都合のいいようにできてはいないのである。
別に何か物事にやる気があるわけではなくて、やる気といえば人生を通して基本的にゼロだろう。エネルギーが湧いているうちは「やる気」なんて工場で自家生産する必要がない。
それで、エネルギーといえば捨てるしかないのだが、かといっていくらなんでも駅前で毎日ぶちまけていては迷惑なので(楽しそうだが)、まああまりそういう迷惑にならないようにと、選んで僕は文章を書くことにしている。
僕は、こうして文章を書いているような人間のことを、基本的に全力でイタいと思うし、手品が出来るとかいうのはただの変人だし、大学で合唱団に入るような奴は単にキャンパスライフの輝きを失ったアホだ、と思っている。
つまり、一言でいえば、僕のやってきたことや、現在もやっていることの全ては、「いやあ、こんなもんはまったくクズだなあ」と思っているのだが、このことはどうしてもエネルギーが不足している人間にはわからない。
不足というのも生ぬるくて、エネルギーが四〇〇分の一しか無いのだから、そんな大欠落ぶりでは、何をクズだと言っているのかまったくわからないはずだ。
僕がもし、「文章を書くのが大好きなんです、うふふ」と言い出したら、その途端、僕の書くものはひたすら生ゴミになるのは、読み手のあなたとしてよくわかることだろう。「人のためでもあり、自分のためでもあって」「励ましあえる、わかりあえる」「これなしではもう生きていけないかな」、と、ほらこんなもの全て生ゴミだ。
僕はさすがにそうはならないだろうし(いやわからないな、怖いなあ)、とにかくエネルギーが大欠落している人にはこの生ゴミが燃料に見えるようなのだ。生ゴミがどんどん出ることを、エネルギーがどんどん湧いてくることだと誤解しているらしい。
中東の原油暮らしと、日本の観光資源としての炭鉱を同格に並べると、話がメチャクチャになるのだ。
はっきり言おう、と、これもまた彼に言ったのだが、エネルギーが不足しているタイプから、僕みたいな奴の本当のところをチラッと見てしまったとしたら、エネルギーの程度として、完全にキチガイの領域だ。
「その意味では、あなたから見たら僕なんかはキチガイだよ、そう見えないのは、そういうところは見せないようにしているだけで」
彼とはそんな話をした。
そういうところを見せてキチガイ扱いされないために文章を書き、そちらをエネルギーの捌け口にしているのだが、説明しても、どうしてもわかってはもらえなかった。
今みたいに、お前みたいな奴とも調子を合わせられるように、に399のエネルギーは文章に投げてるんだよボケ、とまでは、さすがに言う気になれなかった。
表面上、エネルギッシュに見えるのはむしろ彼のほうだったろう。
何しろ常にエネルギーをぐいぐい搾り出しているのだからエネルギッシュである。
が、もちろん、話していて脳みそもスタミナも声も追いついてこないのは彼のほうだ。それも、二時間も話していないのに、もうヘロヘロになって、ついてくることさえできなくなっている。
それは何も悪いことではなくて、彼はただキチガイでないというだけなのだ。
だから、さっさとキチガイにならないと、あなたの言うようなあなたの楽しさは決して手に入らないよ、と言うのだが、どうもその四〇〇倍というところに、リアリティがもてないようだった。
まあそれはそうだろうなと改めて僕も思った。
四〇〇倍というと、まるでハイパーインフレのようで、想像がつかないよな……と思いながら、でも四〇〇倍というあたりがリアルなところだと思った。
ここで、ひとつの提言ができるかもしれない。「何か人と違うことがしたい」「人と違う何かを示したい」「ありきたりでないことを持ちたい」というとき、それが何か本質的にうまく行かないというなら、
「エネルギーが現在の四〇〇倍要ります」
というのは、多くの場合正しい指南になる。
諦めろと言っているのではなくて、諦める奴の神経が僕にはわからないと言っているのであった。たった四〇〇倍で。四〇〇億倍じゃない。
どうも最近、とんでもない誤解をされているような気がしてきたと言ったが、こうしてあなたがアハハと笑って読んでくれる文章って、どういう精神状態で書いていると思っているの。あなたの想像しているのと違うよ。あなたなら、人生に一度あるか無いかの大爆発、みたいな状況を、さっさと踏み越えて、気が狂っているという領域で、もう慣れっこで煙草吸いながら書いているよ。もしそこのところに気づかないままずっとあなたの受けている印象だけ真似してたって、それって絶対何にもならないからね、時間の無駄をやらないように。
***
ただ、僕にも、いくらか謝らなくてはならないところがあって……
エネルギーと言えば、あなたはきっと、四〇〇倍とは言わなくても、人の三五〇倍ぐらいは持っていると思う、とひそかな自信を持っていて、同時に、
「でもまともな受け皿が無いんだもの」
と思っていると思う。
そのことはよくわかる、のだが、それを言うなら僕だってそうなのだ。お互いにつらいところである。
どうしたらいいのかは僕にもわからない。僕はただ、何であれやめずに行ってしまえ、ということに決めてしまったが……これはなかなか、おすすめする気にはなれない。
星の明るさはn等級という数字で表され、はっきり見えるなという星が1等星で、ぎりぎり肉眼で見えるのが6等星だ。6.5等星になるともう肉眼では見えなくなるが、ちょうどこの1等星と6.5等星の明るさの差が、計算すると四〇〇倍だ。
まあそんなことはいいのだが、謝らなくてはいけないというのは、僕だってその受け皿が無いなという問題で、最近はエネルギー状態を意図的に下げがちである。「丸くなりましたよね」と後輩が数人安堵している。怪しからん話だ。
だが、実は最近でも、いくつか試しているのだが、別に僕からエネルギーが失せたわけではない(後輩ども震え上がれ)。あまりに現代の環境下で通りが悪いので、伏せているだけだ。僕がキチガイ扱いされるのは構わないが、それによって他人が緊張を強いられたり、どうしても話がわからなくて時間を無駄にするということをさせたくない。
もし僕の、本来のキチガイぶり――つまり、書いているときのあなたってどういう状態なの、みたいなこと――を知りたい人がいたら、その人には、そう言ってもらえたら、機会によっては、それをお見せすることはできるかもしれない。
自分をそういう見世物にするのは趣味ではないが、まあいいか別に、と最近は思えてきた。面白ければ。
ただまあ、僕が本来のキチガイぶりを示すのはかまわないのだが、それで目の前の人がペッチャンコになるようでは、僕は気が咎めて引き下がってしまうだろうので、最低限、ペッチャンコにならないようにだけは、気合を入れてもらわないといけない。
(ところで人前で平気にペッチャンコになる奴って、いったいどういう教育を受けてきたんだ、マナーの精神が皆無である)
正直に話すと、過去の一時期は、常にそういう自分が丸出しの剥き出しだったので、しばしば、すでにペッチャンコのやつの胸元を掴んで壁に押し当ててウイスキーの瓶で頭を殴るというようなことが日常的にあった。もちろん男性に対してだが。
でも当時は、割とそれをみんな飲みながら見物していて、あまり咎めるような人は誰もいなかったように思うが、あれは全員が酔っ払っていたからだろうか。僕を含めて全員、盛り上がるのはきらいだった。
そんなクソガキ状態のままさすがに生きてきたらバカすぎるので、今はすっかり大人である。いや本当はもちろん、あんまりそうして人の頭をウイスキーの瓶で殴っても意味がないなと、経験的にわかりはじめたらからでもある。
まあでもな……と思い、はっきりさせようと思った、今回の話。ある人と僕とを比べると、根本的なエネルギーの差が四〇〇倍もある。人から人を見た時、その姿が見えないというか、「この人」というのが見えないときは、そこのエネルギー差の問題なのだ。平たく言えば先ほどのとおり、6.5等星の人間は肉眼では見えないのである。望遠鏡を使えばもちろん見えるが、それは本来の意味で「見える」とは言わない。特別な恣意がなければそこに望遠鏡を向けたりしないのだから。
どうだろうこの話、「そうか単にエネルギーの差なんだ」というのは、わかりやすくて良いと思う。そしてその差が四〇〇倍というのは、エネルギーについての感覚が根本的に違うのでは、という発見へ人を呼び込むのに単純によいと思ったのだ。
「エネルギーを出していこうと思います」みたいなのは、エネルギーを三倍にしたら足りると思っているからそういうアホみたいな虚しい発想になるのであり、四〇〇倍必要なんだと知れば、もう少しマシな顔つきになるだろう。
僕にだって、僕のことを分かってもらいたいという、実にしょうもない気持ちがあって、かといってガンバって理解してもらえるように努力するなんてことはするわけがないから、エネルギーが四〇〇倍になればわかるよ、ということを言えばいいのだと思った。
このことはまったく事実の正鵠を射ているとも思う。
勘違いしてはいけないのは、僕の話を聞いてくれて、あなたが何か感じてくれたとして、その感じてくれたようにしてくれたとしても、それで僕の持つような怪しからん体験や能力を得るわけではないよ、ということだ。
あなたが何か読んで感じてくれたことがあったとしても、それは今のところのあなたの持つエネルギー分と、後は少しのプラスアルファでしかない。ママチャリにブースターをつけたってサーキットを走れるようになるわけじゃない。
それよりは、僕に向けて「このクソが」と言うほうがまだいい。そのほうが、僕の所属するエネルギー順位のところに近い。このクソがと言いながらも、労り、愛してあげるというのが一番ナイスだ。
といっても、そんなことも、エネルギーが四〇〇倍の順位に来るまでわかりっこないのだった。何を話しているのかということ自体がわからない。
生身の僕が直接触れたら、エネルギーを与えるというよりは、単にペッチャンコにさせてしまうだろう、だからそういう迷惑をかけないように、大半はこうして文章に投げ込むのは、公益上とてもよいのであった。
難しい話になってしまった。ところで今僕はこれを、猛烈な眠気の中で書いている。
昨夜、友人の引越しを手伝いに言ったのだが、新居のがらんどうぶりがあまりにつまらなく、深夜のドン・キホーテに行って大きめのスピーカーを買い、それで新居でジェームスブラウンを聞いていたのだが、いつからか猛烈に踊り始めてしまい、気がつけば何も手伝わなかった、朝が来てしまった……ということで一晩が過ぎ、そのまま眠っていないので、今猛烈に眠いのだ。
このように、僕などはまったくクズであるので、何も学び取るべきものはない。楽しいし、幸福だし、一緒に幸福になってはもらえるし、愛してはもらえるけれどな……
新居が途端に愛せるようになった、自分の新しい家なんだと、今感じられた、よく眠れそう、うれしいありがとう、と言っていた。
エネルギーというのはだ。
いわずもがな、勉強も試験も学問も研究も、仕事も趣味も遊びも自己研鑽も、恋あいもセックスも芸術も、何もかもについて、目の前にあるぶんには、全部ぶちこみますよ、余ってしょうがないんですから、というものだ。
そこに、こそこそエネルギー配分の算段をする奴は、エネルギーが枯渇しているからそんなことをするのだし、そもそもそのエネルギー量が衝撃的に少ないから、「どこに向けるか」なんて安直な管理が可能なのだ。
エネルギーがあるという状態は、エネルギーの少ない人から見て、「対象が増えるたびに、一つあたりのエネルギーが増していっている、気が狂っている」と見えるのが正しい状態だ。
そうでけなければ四百倍も差がつくはずがない。
これはひさしぶりに、ずいぶんいいことを言ったように思う。
エネルギーがあるというのは、周囲の手当たり次第にどんどんエネルギーを投げ込んで、それでも余るな、むしろ余りが増えたな、まいったなどうしよう、という状態のことだ。
このエネルギーが、枯渇するほどに減少するということはまず無いのだが、あるとすれば、環境的に首根っこにバルブをかまされて、もうエネルギーの脈路自体が腐敗している場合だ。
もちろんそれは、バルブ程度で制御されるエネルギーの量が細すぎるのではある。
が、実際のこととしては、そういう哀れなケースはよくあることなので、そのことについては、まあ気の毒にと言うしかない。
バルブをふっとばすまで内圧を上げるか、バルブを締められる環境から脱出するか、どちらかなのだが、本質的な問題はきっと、そのバルブがあろうがなかろうがエネルギー量の根本が少なすぎる場合である。
エネルギーが日本の原油のようにチョロチョロ〜と、「あ、出てはいるんだね」というようでは、プッと笑われるばかりなのでよくない。
エネルギーは、その四〇〇倍必要で……という、その話ばっかりしてしまったので、そのことはもういいだろう。
エネルギーが無いと、人は自分でideaを手にすることができない。
エネルギーは基本的に、余っているなら何にでも投げ込んでしまうものだが、だからといってそれはその人間がno
ideaであるということは意味していない。
次回はエネルギーとideaということの話をしよう。
ではでは、またね。
[恋あいとエネルギー/了]