No.287 絶望を愛してideaを育む
ideaというものについて話す。
全てに先立って、あなたはひとつの決意をしなくてはいけない。
それは、「アイディアのある人になる」という決意だ。
「あのコはアイディアないもんね」と、言われるわけにはいかないのだから、当然だ。
自身の、ideaの能力なしに、生きることは、とてもみじめになってしまう。
ideaというのは、「思いつき」と思われているが、これは正確でない。
思いつきというよりは「ひらめき」で、ひらめきというよりは「考え方」だ。
考え方の発明。それをideaと言う。
この発明品は、新しく生まれるものだから、新しく生まれ出たばかりのものとして、常に熱と光を伴っていないといけない。つまりエネルギーだ。
ideaはエネルギーによって生まれている。知能によって生まれてはいない。
エネルギーを伴っていないideaは、形骸のものに過ぎず、生まれ出たように見えても、それは死産だ。
死んでしまってすでにideaでないものを喜んでいてはいけない。
生きたものが生まれてくるからこそ、希望であり、同時に、厄介なものを背負い込むのでもあるのだ。
ideaというのは、じっくり考え込んで生まれるものではない。考え込んでもよいが、そのうちにエネルギーが冷えてしまったら、どうせideaが出現する要件を失う。
一つ二つのideaを、こねくりまわして合成しようとせず、毎秒ごと、無限に自分はideaを生み出すのだ、という覚悟でいないといけない。
その覚悟がなければ絶対に自己からideaは出現しない。
誰かideaはないかと問われたら、どれだけキツくても、まず自分は手を挙げるのだ、という覚悟でいないといけない。
そうして手を挙げてから、立ち上がって、ようやくその瞬間に、ideaはひらめくものだ。
ideaが出来てからなんとかしようと、のんきに構えていたら、ideaは決して生まれてこない。
これは人間の性質みたいなもので、ideaを真に必要としていない限り、人はideaなんか生み出さない。
ideaを問われて、無理やり手を挙げて、立ち上がり、さあいよいよideaを生み出さないわけにはいかない、という、のっぴきならない状態になってこそ、ようやく人はideaを生み出す。
追い込まれる、という言い方は僕は好きではないが、ある意味では確かにそうして追い込まれた場所に立たないとideaは生み出されない。
でも何かに追い込まれたって、人は「投げ出す」ということができてしまうので、そうじゃなく、自分で自分を追い込むことが必要だ。
その追い込みのために、決して引き下がってはいけない決意、誓いとして、「自分はアイディアのある人間だ」と宣言することがどうしても必要になる。
まだ誰も立っていない場所に、自ら歩み出て立ち、自分が自分のidea以外の何にも頼れない、その中で「どうぞわたしに注目して」と、むしろ全てを引き受けて立つほどでないと、ideaというのは出現しない。
その、のっぴきならない場所に立つことで、自己の中に炎が起こる。その炎について、炎の中に立ち続けて、ideaを生み出すのか、それとも走って逃げ出すのか、人間の性根が問われる。
もっとも卑怯なことは、媚びた笑いでごまかし、人にありふれたパターンの同意を求め、お茶を濁してごまかしきろうとすることだ。
自分がその場所に立ち、自己からのナマのもの、斬新なものが生み出せないということの、いかに屈辱的なことか。
でもこのことから逃げたら人は一生を狂わせてしまう。
冗談でなく、あまり個人的な事件については話せないが、ここのつらさから逃げてしまったせいで、立場も未来も健康さえも、取り返しのつかないほど失ってしまった男を、僕は知っている。
そのようなことになるなら、初めからそこに立たなければいいという、そのことにもいくらか説得力を認めたくなるほど、それは凄惨なことだった。
ただ、自分が生きるうちに、ごまかしでない何かをやろうとし、ごまかしでない何かを得ようとするなら、やはり、ジャンルは何であれ、自ら歩み出て、そこに立たねばならない。
恋あいというのもまったくそれだ。自らの身を焼く、のっぴきならない炎の場所に自ら歩み出て立ち、ideaを生み出し続ける試練に真っ向勝負すること。その真っ向勝負をする人間に対し、その勇敢さと美しさを認める人間が向き合って受け止める。一人はそこから生み出そうとし、もう一人はそこから生み出されるものに従うわ、と立っている。それはどちらとも壮絶な立場だ。お互い、その壮絶さを引き受けることで、お互いを認め合うことができる。真剣で真摯な、互いを全身で認める眼差しが重なり合う。もうそんなときは、恋あいがどうこうなんて余計なことは考えていない。
単に、あのコかわいいなあとかで浮かされて、頭がカーッとなっているようなことは、楽しいけれど、本質的には大したことじゃない。壮絶さの炎はどこにもない。ideaと言ったって、どうお近づきになるかな、という、知恵比べ程度のものしか必要とされない。
そんなときはむしろ、恋に進むより、引き下がることのほうが、試練の炎が用意されている。あるとき、彼女の幸福を真剣に考えたとき、「おれよりあいつと付き合ったほうが彼女は幸せになる」と認め、自分はなんとしても笑顔を保ったまま、何事もなかったように引き下がってみせる、という決意をする。自分への誓いだ。甘やかな愛の夢を失って、みずから退歩し、身を焼く業火の中へ沈んでみせる。血が出るような思いをして、それでも自分は笑ってみせると誓う。そのようなときこそ、「所詮我が身がかわいいだけか」とか、「どうせいつかは死ぬ身なのだから、一生に一度ぐらいは誠実な自分を生きればいい」というようなことを、まざまざ考える。
幸福な場合は、そうして身を引いたとき、その壮絶さのことを、彼女がちゃんと気づいてくれていて、最期の最期まで認めてくれて、見送ってくれたときだ。そのようであるなら、自分はこのような選択をしてよかったと、むしろ晴れやかな気分で死んでいける。生命を失うわけではなくても、今日までの生きがいだった全てを失い、それは今日までの自分を殺すことだ。
こうして死んでいける男は幸福なもので、より厳しい試練は、そんなことまるで気づいてももらえないというときに起こる。つまり血の出るような思いも苦しみも全て無駄死にになるというような苦しさだ。このどうしようもない、やり場のない苦しみは、彼をひどく打ちのめす。精神を深くやられるし、具体的な生命もぐっと死に近づく。それでどうなるのか、さらに立ち直るのかどうか、さらなる無駄死にの未来へ向けてそれでも笑って立つことができるのかどうかは、もうほとんど本人の生命力次第となる。冗談ではなくそうなる。人を愛するとか誓いを立てるとかは、本来それぐらい危険な行為だ。きっとこれまでに多くの人が、そのように打ちのめされて、廃人のように残りの時間を生きるか、もしくは何かしらの手続きで死んでいってしまったのだろうが、そのことは語られないだけで、その気になればいくらでも身近に潜んでいる。
人を愛するということは、容易に、そのように自己の生命や人生まるごとを直接の危険にさらす。けれども同時に、本当のideaというものも、そのようなギリギリの危険性である、炎の中からしか生まれてこない。最悪の状況、完成しきっているような絶望の中、どう考えても立ち上がるような理由はないというときに、それでも立ち上がらせるideaが出現したら、それこそが本当のideaだ。自己が絶望の中に静かに封印されていこうとする、その封印の完成間際、本人の生命力、残っている本当のエネルギーの全てをそこにぶつけ尽くしてみようとする。そしたら、過剰に過剰を極めたエネルギーが、その絶望の封印を、本来ありえないような物理法則で突破することがある。
人はこのideaに恋をするのだ。絶望に封印されたはずのものが、しれっと戻ってくる。そうして戻ってきた者の手には、一般の法則を無視してしまうideaが秘宝のように握られている。それは誰にでも手にできるものではない。エネルギーの極限を尽くして発生した、それはideaだから、それは延々と熱と光を放ち続けている。この熱と光が人を日常から離脱させて、「これこそが本当に信じるべきもの」と眼を覚まさせる。
互いにそうした、熱と光を伴ったideaを持っていて、その二人が寄り添えば、その熱と光はさらに互いを高めあう。互いの秘宝が重ねられて、二人の共有する、さらにとんでもない秘宝へと育っていく。
ideaとはそうしたものだ。間違っても、単なる「思いつき」などではない。
そしてだからこそ、人のideaをただ借りてきたって、それは自分では役に立たない。それはコピー品で、表面上はまったく同じであっても、肝心の熱と光を伴っていないからだ。エネルギーの秘密が伴っておらず、その形骸のコピー品には、なんら奇跡や信じるものを引き起こす力が宿っていない。そうなると、「これは立派なものなんだ」と、持ち主はせいぜい説明して、高値に見てもらおうという努力ばかりをするようになる。それはくだらないことだ。
あなたは「アイディアのある人になる」という決意をしなくてはいけない。より絶望的な状況に向き合って、自分を焼き殺しにくる炎があれば、それにこそ望んで踏み込んでいく、ということをしなくてはいけない。予定通り絶望に包まれていくので、それを予定通りだなと堂々と受け止めねばならない。甘い非常口を残さずに、絶望に包まれていくのを認めながら、脱出が不可能となったら、その不可能をエネルギーで吹っ飛ばす。そこにideaが生まれる。あなたはそういうことを経て生きていくということを、自分に決意しなくてはいけない。脱出不可能になり、本当に神様の助力が要るときまでは、決して神様のことをいやしくも論じてはいけない。
***
ideaというのは何を指すか。これは日本語には無い言葉だ。だから英語圏の人がその語を使うとき、われわれ日本人には思いがけない使い方をする。
外国人に手品を見せて、伏せたカードを一枚示す。そこで「このカードは何だかわかりますか」と訊くと、I
have no idea.といわれる。これは、そのカードが何であるかということについて、「考える方法がない」「考え方が見当たらない」ということを意味している。
そこである男は、「このカードはクイーンだ」と言うかもしれない。なぜそう思うのかと訊けば、「この先に何があるのかわからない、なら、おれは常に、美しい女がいると信じるのさ」と答えるかもしれない。そう答えるなら、彼にはひとつのideaがあるわけだ。「考え方」をひとつ持っている。
実はこういったこと、こういったideaが、一人一人の、生きることを支配している。気づきにくいがまったくそうなのだ。ある男は怪しげなバーの扉を見て、なんだかわからないけれどやめておこう、と判断した。でも彼は、なんだかわからないからその扉を開いて中に入った。彼はその扉の向こうにあるものについて、「わからないなら、その先に美しい女がいると信じる」のだから、そのわからない扉を押し開いたのだ。こうして人の生きることは、思いがけず、こうしたideaの有無によって、閉じたり切り拓かれたりしている。
こんなところに、「何事にも積極的に」「前向きに」なんて、聞こえのいいことを持ってきても無意味だ。それはどこかで聞きかじってきて、何か自分を上等で上品に見せる、都合のよいものだと味を占めて、自分にぶらさげているだけだ。何のエネルギーも伴っておらず、熱も光もない。第一、そんな標語みたいなものには何の「ひらめき」もない。自分が絶望のふちでエネルギーの格闘をして掴んできたものではないから、力を持っておらず無意味だ。人はそんなものに恋をしないし、そんなものを振り回している人と恋あいはできない。
ideaといえば、ひらめきであり、熱と光のエネルギーを伴った、何より「考え方」だ。そして、その代表例として、たとえば有名なのは「フォーディズム」だ。経営学で大学生が真っ先に習うものだ。フォード社はもともと大衆向けの自動車を生産する会社だったが、それについてヘンリー・フォードは、「フォード社の従業員こそが、フォード車を買えるようにならなくてはいけない」と考えた。じゃあ次に、自動車工場の従業員が車を買えるようにするにはどうすればよいかと考えて、「自動車はなるべく安く」「賃金はなるべく高ければいい」と考えた。実はこれは偉大な発想の転換だった。ideaでない、ごく当然の考え方をするならば、企業が利益を出そうとするとき、「より高く売り」「より安く賃金を叩く」というのが当然だからだ。ヘンリー・フォードはその逆を考えた。「より高く売り、より安く賃金を叩くなら、マーケット自体が魅力を失い、マーケット自体が死滅する」と考えた。ヘンリー・フォードは、ベルトコンベアを用いて生産性を上げ、大量生産をすることで自動車の製品単価を安くし、同時に従業員の賃金を高く支払った。それでフォード社は需給の規模自体を爆発的に変化させ、躍進することになった。現代に続く大量生産と企業の社会貢献の理念はこのフォーディズムからほとんど始まっているのだ。高度成長の成功モデルとして永遠に無視できない、これは経営学の初等の常識だ。
ideaには、悪い例、おそるべき教訓もある。その最大の例は、ヒトラーが作り出したナチズムだっただろう。ヒトラーは自身が兵士として出陣したとき、人々が、仲間が、まったく無意味に死んでいくことを目撃して、深く嘆いた。その中でどうやら彼は、ひとつのideaに行き着いたようだった。「ドイツ民族こそが世界で最高の民族であり、その民族は立場にふさわしいだけの営みをする領地を獲得する権利がある」と。
現在の我々は、このナチズムを、馬鹿げて誤ったものだと見ることができる。けれどもそれはすでに歴史に教訓を与えられてあるからに過ぎない。それまではまだそういった教訓もなかったのだ。ヒトラーのideaは、第一次世界大戦で敗北したドイツ市民の苦しい暮らしの中に強烈に響いた。何しろそれは、単なる思い付きのものではないのだ。ヒトラーの強烈きわまるエネルギーが伴っていた。人々はこれに熱狂してしまった。最高民族であるドイツ人を差し置いて、ユダヤ人が金融を牛耳っている、そのことは許されまじきことだとして、ユダヤ人を民族ごと世界から消すべきだとした。そんなことまで、実際に手にかけながら、それでもヒトラーのideaは人々を掴んで放さなかった。
ヒトラーのideaは、まったくたちまちというように、ヨーロッパ全土をほとんど飲み込んでしまった。もしその後、ロシアがあれほど寒い国でなく、温暖な国だったら、はたしてどうなっていたのか、現在の世界地図は大きく変わっていただろう。
ideaというものは、時にはそこまで強大化する。今でこそ、ヒトラーのナチズムは間違っていたと気軽に言えるが、それはヒトラーがドイツを防衛しきれなかったからこそ、今になって言えるだけだ。ヒトラーがideaとして唱えたナチズムは、理屈ではなかった。理屈ではなかっただけ、それは理屈によって間違っていると訂正されるものでもない。ideaはエネルギーなのだ。熱と光を伴っていることがideaの本質であり、それは一般の法則を平気で打ち破る、ただそれだけのものであるからこそ、ときにはそうして危険を極め、同時にいつでも人々の希望になりうる。ヒトラーを理屈で否定しきることはできないように、フォードだって理屈で肯定しきることはできない。
あなた自身のこととして考えれば、あなたはフォードになるつもりもなければ、ヒトラーになるつもりもないだろうけれど、それでもideaという人間の現象そのものには、あなたは無縁ではありえない。あなたが何かを為し遂げるとき、何かを為し遂げたとしたら、それは恋あいでも仕事でも遊びでさえもそうだけれど、必ず何かのideaがそれを貫いている。ideaのエネルギーだけがそれを成り立たせるのだ。何かごまかしでないものがあったよというとき、そこには必ずideaがあったのだし、逆に言えば、ideaなしには、ごまかしのないものは一切できない。
ideaは人間のエネルギーであり、根源的な絶望の中で、人が生命力によってひっ掴んでくるものだ。それは一般の法則を打ち破るような力を持っている。ideaは、そのエネルギーを持った「考え方」だけれども、その「考え方」こそが、あなたの存在そのものとなる。
あなたとは何であるかという、そのこと自体が、ideaというところに集約されるのだ。人があなたに触れ、あなたを理解し、あなたを知り、あなたと出会って生きるというとき、それらは全てあなたのideaのことを指している。あなたのideaに触れ、あなたのideaを理解し、あなたのideaと出会って生きるということ。人があなたのエネルギーに触れるというとき、それはあなたの熱心なジョギングに人が感心するということではない。あなたのideaのエネルギーに触れたとき、人はあなたのエネルギーに触れたと感じるのだ。あなたの熱と光、あなたの「考え方」。あなたに触れるということはあなたのideaに触れるということだ。
逆に言えば、あなたがいつまでもあなた自身のideaを獲得せず、どこかで借りてきたコピー品や、やっつけの間に合わせでごまかしていくとするなら、全ての人はあなたそのものにずっと触れることができないということになる。あなたの存在が誰にも認められず、あなたの存在は誰にも触れられずにゆくことになるのだ。それはあなたにとって耐え難いことであるはず。
だからあなたは、第一に、そのideaのある人になるという決意をしなくてはいけないし、そのideaがどれほどのところからようやく獲得されるものかということを、改めて見つめる必要がある。ここまでの話で、ideaとはどのようなものかという、理解もいくらか深まったはずだ。
「そんなに難しく考えなくてもいいじゃん」「思いつめることないよ」と、多くの人は言うだろう。けれど、あなたは本当にそういう人たちのことを、心の底から喜ばしく感じているわけじゃないはずだ。本当は誰でもわかっているようなこと。ありふれたように時間を過ごすことを勧める人たちは、ideaを未だ持たない自分に基づいて、知らず識らず人の足を引っ張る習慣に囚われている。そしてあなたが、彼らのことを心の底から喜ばしく感じないのは、あなた自身、彼らのエネルギーや熱や光、その「考え方」に、触れるという感触を持てないからだ。「言っていることはわかるし、ありがたいけれど」とあなたは感じている。あなたは彼らについて、その存在を感じ取るとか、その存在にありありと触れるという実感を持てないということを、薄々でもすでに知っているはずだ。
***
今、便利になった世の中は、手軽な癒しや、手軽なつながりを、我々に与えてくれている。それは日常的にはありがたいものに感じられるけれど、よくよく見ればおそろしい装置の状態でもある。それは我々から絶望を失わせているということだ。ideaというのは、自分で絶望と向き合って、それを一般法則ごと打ち破るようにして、自分の手で獲得するものだった。そうして、ideaを獲得する要件に、厳しく襲ってくる絶望というものが必要なのだから、そこにいくらでも中和や緩衝の「癒し」の娯楽が入り込んでくるというのでは、いつまで経っても人はideaを獲得できない。今我々を取り囲む装置の環境が、甘やかしに満ちているということを知らない人は誰もいないだろう。
これによって、新種の絶望が、いつの間にかしのびよってきている。すでに多くの人が実感していることだ。つまり、「何かと楽しい」「充実している」「いろんなつながりがあって」という中で、「でも誰に触れるという感触もない」という絶望。誰に触れるという感触もなければ、同時に、自分の存在が誰にも触れられていないというのもわかっている。しかも、自分に触れてもらいたくても、その自分なるものがあやふやで、触れるところがどこにもないということも、真剣に生きる人には自覚されるのだ。自分は人に触れられたいと思うのに、人が自分に「触れようがない」ということのほうが、リアリティをもってわかってしまう。これはとてもつらいことだし、つらい上に、どうしたらよいかというヒントはまったく与えられていない。どれだけ人と触れ合う機会を増やしたとしても、その機会によってむしろ、どうやっても自分は人に触れられるわけがない、触れるべきものが無いのだもの、ということばかり確信が深まってしまう。
誰だって、二十年も生きてくれば、一般の法則にはそれなりに詳しいものだ。そして、その一般の法則をばかり語ったって、そこには何のエネルギーもなければ、熱も光もない。少々工夫をすれば、なんとなく面白がらせることはできるが、かといってそれで何かに触れたとか誰かに触れたとかいう感触を得られるわけではない。ひどい人になると、そもそもその「人に触れる」とか「人のエネルギーに触れる」とかいう、その感触を、生まれてこの方知らない、ということだってあるのだ。こういう人はむしろ、どこかあっけらかんとしている。居直っているわけではなく、初めから与えられてもいないので、何かが足りていないという感覚の焦りも無いのだ。
癒しと楽しみと、機会と充実ごっこばかりがあって、互いに誰にも触れられないというようなことは、もちろん喜ばしいことではない。ただの、新種の絶望だ。あっけらかんとしているふうの人でも、目の光を失って、自分で自分が苦しくないわけがない。真剣に生きようとしている人は、人に触れるということがどのようなことがわからずとも、何とか触れようと、自分なりにもがいている。その中で、自分の生活範囲を広げてみたり、色んなことに積極的に参加してみたり、恋愛や人の気持ちをなんとか受け止めてみようとするのだが、そうして努力した末にやはり何にも触れられないのだから苦しい。逆に最大限に苦しいだろう。
触れ合うといって、殴り合いをすれば痛いだろうし、重荷を背負わせればしんどいだろうし、セックスをすれば気持ちいいだろうし、競争をすれば興奮するだろうが、そうしたことだけを積み重ねていくと、ますます苦しさが増していく。自分というのは一体何なんだ、こうして痛かったりしんどかったり、気持ちよかったり興奮したりする、ただそれだけの存在でしかないのかと。それは自己へのひどい不快感に育っていくし、その不快感をさらに足してくるのに熱心な人々については、まるで自分を侮辱するためにやってきているように感じられてくる。
こんな状況は正しく打破されなくてはならない。もちろん打破するのは自分の力でしかないが、力の入れどころ、試しどころを間違わないように、正当なガイダンスはあってよいし、あるべきだ。それで今こんな話をしている。
人が人に触れるということ、互いに認め合ったり、互いのエネルギーを与え合ったりするというのは、全て"idea"ということに集約されるのだ。思いつきなんかじゃない。ひらめきであり、考え方がひらめくことだが、その考え方がひらめくということの、実際のすさまじさが問題だ。自分を絶望が取り囲んでくる。それは絶望だから、そのときは必ず自分は「一人だ」と寂しく感じるものだ。そうして孤独を実感することは、自分がこの世に生まれてきたことの真実のひとつを伝えている。確かに我々は誰しも、一人で生まれてきたし、一人で死んでいくほかない。
じゃあ、そんなもので、どうしようもないのかというと、そうではない。もちろん一般法則としては、どうしようもないことなのだ。一般法則は、生きるうちを上手くごまかすようだけれど、結局その宿業としての孤独や、やがて必ず死んでいくということまで含めると、すぐにそれを虚しいだけといって、対抗する方法がないということを自白する。一般法則というのは初めから屈服している代物なのだ。じゃあ、何も自分に限っては、それに準じきる必要もない。他の人がどうであれ、と。自分は一人なのだから、その一人に限っては、何をどうしようが自分の勝手であるはずだ。
そのように、絶望が人を取り囲んだとき、人は逆に孤独になることで、爆発的な本性を表しはじめる。心底から、「自分のことをどうするかは自分の勝手だ」と発見しきったとき、人は無条件で、自己のエネルギーを燃やし尽くそうとするものだ。そうして過剰を極めたエネルギーが、一般法則と絶望の包囲網を、とんでもない形で打ち破るのである。その包囲網を打ち破る、蟻の一穴が、その人の生きるideaとなる。
絶望を打ち破って、戻ってきた人は、ケロッとして戻ってきたようでいて、すでに過去の彼と同じ人ではない。どんなものでも貫きとおす、彼のideaを持って帰ってきている。このような人には、「触れる」ということができる。そのエネルギーの感触、熱と光、その「考え方」に、触れるということができる。彼は大人になって帰ってきたのだ。そのideaのエネルギーは、自分をも貫いてくることを実感する。人はその確かな感触に触れてこそ、「この人」と、その感触を、愛することができる。
あなたもそのときはきっと、その人が与えてくれる、確かなその人の感触と、エネルギーと熱と光を、あたたかく感じて、自分もその与えられたもののぶんを、彼に与え返したいと思いはじめるはずだ。あなたはその思いを胸に、改めて、これまでごまかしてきた自分を取り巻く絶望について、本当に向き合って対決するかもしれない。そうしてあなたも戦って、帰ってきたならば、そのことについてあなたはずっと、「あの人がいてくれたから」と思い続けることになる。恩人という以上に、自分にとってかけがえのない人だったと、誰に語らなくても、自分の中に残り続ける。
ideaというのは、そういうものだけれど、万事について、大きくもあるし小さくもある。小さな絶望には、それでもきちんと向き合って打破するならば、そこには小さな、しかし確かなideaが生まれる。あなたはその小さなものも大切にすることだ。それこそ、ピクニックの予定が雨になってしまったというときでもいい。ごくごくささやかな、小さな絶望。小さな傷口でも痛みはしっかりあるものだ。楽しみにしていたものがつぶれてしまうというのは。でもその出血の先に自分は笑えるのかどうか。一般法則で言えば笑えるわけがない。でもその一般法則をideaが打ち破る瞬間がくれば、そこには特別の美しさの笑いが生まれる。
いついかなるときも、自分をideaということから引き下がらせないこと。それはやはり誓いだ。ideaを問われることがあれば、必ず自分が真っ先に手を挙げること。まだideaが無いのに手を挙げてしまうということ、それがいい。そして何も持たずに起立したら、注目が集まって、どうすることもできない。これだって一つの絶望的状況になる。そこでごまかして逃げるか、本当にideaを生み出して打破するか、そういう自己への試練を、人は何度も繰り返す。そのこと自体が生きるということかもしれない。
そうして、まずはどんな小さなideaでもいい、どんなに小さくても「打破できた」と、その特別な笑いが得られることがあれば、小さくても確かな自信がついてくる。誰に頼ったのでもない、どこから借りたのでもない。どこにあったわけでもない。ただ自分がそのとき生み出した、自分のidea。自分のエネルギーが、小さくても結構、とにかく確かにそこには自分のエネルギーが伴っているということが疑いなく信じられる。そのときには、人はこれに触れることができるということ、またそれによって人が自分に触れることができるというのも、疑いなくわかるものだ。ここに、ささやかで小さくても、確かに触れられる「わたし」があると。それはきっと、あなたがずっとやりたかったことなんだと思う。そのぶん、これまでずっと怖がってきたことであったかもしれない。
でも、こうしてやり方は示した。あとは僕からは、やってごらんよ、と言うだけだ。失敗したらどうなる、って、恥を掻くだけだ。でも恥を掻いたからって、本当に何か損をするわけじゃない。うまくいかなくて、恥を掻くばかりのクセがつくというなら、いっそのそのクセがつくぐらいのほうがいい。逃げグセ、ごまかしグセ、表面上だけお上手に見せるクセがついてしまうことの恐ろしさに比べたら、はるかに良いどころか、素晴らしいことだ。
恥なんかどんどん掻いたらいい。むしろ、この三日ほど恥を掻いていないと気づいたら、なんて怠慢だと自分を叱るぐらいでないといけない。どうやったら恥を掻けるかなんて、簡単なことで、その最もわかりやすい例を、たとえば今僕が示している。僕は今こうして、誰も訊いていない話を、勝手に語りだして、時代の風潮の空気も読まずに、なんだコイツといかにも笑われそうな調子で、続けてきている。こんな程度のことには、さっさと慣れっこになればいい。僕だって、何の根拠もないくせに、「話すべきことがある」といきなり手を挙げて、手を挙げてからさあどうしようと冷や汗をかいて、そこから考え始める。じっくり考えてから、万全の態勢で挙手するなんて、卑怯きわまることはしない。お上品さの底に卑怯さをひた隠しにするより、年がら年中恥ずかしい奴であるほうがよっぽどましだ。あなたがもし、自分に何か足りていないとか、自分は出遅れていると感じるなら、僕なんかより、日々恥を掻いていくペースに遅れてはいけない。
そしてまた近いうち、あなたの生み出したideaについて聞かせてください。
[絶望を愛してideaを育む/了]