No.290 コミュニケーションエネルギー論
まず自分みたいなものはクソだと思え。
思え、ということもないが、僕は常にどこかでそう思っている。
そうでも思っていないと、息苦しくてたまらないからだ。
自分がクソでなければ、万事、何もやる気になれなくて困る。
やる気というのもクソの一種だが、まあこのようにしか話せないのだ。
なぜ自分がクソなのかということについては、理由は特に無い。
別にいいだろ、おれが自分をどう思おうが、おれの勝手だろ。
自分をクソ呼ばわりしなくなると、どうなるかというと、自分が自分に見えなくなり、他人にも僕のことが見えなくなる。
なぜなのかは知らない。知っているが、別に知らなくてもいい。
自分を可愛がっている奴なんか眼に映るわけがないだろ、というキメツケの話で構わない。キメツケが正当だろうよ。
自分がクソというのは、自己卑下とか自己嫌悪とか、そういうことではなく、「クソにそんなことを思いわずらう権利があるかよ」と思っている。
これが一番愉快なのだ。
快楽状態を保つにはこれしかないから、自然にそうしているだけであって、別に頑張っているわけではない。
頑張って自分をクソ呼ばわりするようなのはマゾヒストであって、やはり気持ちの悪いものである。
何事についても、まず「おれのことを抜きにして」と考え始めないと、一切のまともな思考が始まらない。
いや、考えが始まらないというよりは、爆発が起こらないのである。
爆発が起こらないところにはideaが無く、ideaの無いところには、何も「見える」ということがないので、そんなヒサンなことになるぐらいなら、クソでもideaが湧いてくるほうがましだ。
ideaは知能によってではなく、エネルギーによって出現している、と、先日話したと思う。
そしてエネルギーは何から出てきているかというと、自由への望みによって生まれてきているのだ。
これを僕は、性善説とか性悪説とかのタワゴトになぞらえて、性自由説と呼んでいる。広めるつもりはもちろんない。
ただ、自由への望みからエネルギーが生まれ、エネルギーはideaを生じ、そのideaだけが人に「見える」のだから、この仕組みは僕にとって重要なのだ。
僕が自分をクソ呼ばわりせねばならないのは、僕が自由を得るためである。
何しろ自分というのは自分についてのこだわりが一番大きいものであるから。この自分を第一にクソだと思わないと、その一番大きいこだわりから離脱できない。
そして一旦クソだと思ってみれば、割と事実で、事実としてクソなのだ。それで割とすっきりする。
だから、わたしもコミュニケーションがしたいな、というような発想があったら、その発想をまずゴミだと思え。
テメーの利益のためにそれをコソコソやろうという発想が一番エネルギーが無いのである。
そのコソコソした奴は、何をしたい人間なのか、そのideaがまるで「見えない」ので、この見えない者とはコミュニケートなんかできない。
実は、この話、もっと整理して、秩序立てて話すこともできるのだけれど、今の僕にはそれをするつもりがまるでない。
整理してどうこうとかいうのは、何かオレサマの話がヒトサマに役立つとか、そういう気持ち悪い傲慢を土台にしていないと成立しないのだ。
おれから人に伝えられることなんか何一つないし、おれから人に何か伝えるようなことがあってはならない、とさえ思っていなければ正常でない。
よくよく見よう、そっちのほうが明らかに正常だろう。何かの先生でもないかぎりは。
僕が「人に勇気を与えるため」とかヒドイことを言い出したら、さすがにもうミンチマシーン行きはまぬがれないのである。人々はとっくに勇気に満ちているのにお前は何を言っているんだと、みっともない限りだ。
そんなわけで、できるだけ誠実に話しているつもりだが、ここまででも、読み進めてもらえていたら、それはあなたに僕のideaが見えているということだ。idea、つまり、「自分はクソ」というideaが。
それで、こいつは何か知らんが、エネルギーを伴って、そのideaの中を生きているらしいな、ということは、何となくわかってもらえるはず。
自分で解説するのもアホらしいが、そういうものなのだ。「見える」ということは。
ここであなたは、例えば、
「この九折さんという人は、自分をクソだと思っているらしくて、人に伝えることなんか自分にはないし、伝えるようなことがあってはならないって考えているの、そういう考え方の人なの。そうでないと気持ち悪いし、快楽の状態が保てないんだって。その快楽とかエネルギーとかいうのは、自由への望みが源らしいよ。自分へのこだわりが一番強いから、そのこだわりから自由になるためには、第一に自分をクソ呼ばわりするしかないんだって」
と、一応友人に説明はできるはずだ。そしたら友人も「ふうん」と言ってくれるかもしれない。
ただそれだけのことだが、ただそれだけのことでさえ、人間にとって「見える」という状態を得るためには、何かヤケッパチみたいにならないといけないところがある。
僕は、自分でもわかっているつもりだが、僕の話は、いつだってわけがわからない。
わけがわからなくていいし、わけがわからないようでないとだめなのだ。
わけがわかるような話だと、読むあなたが疲れてしまう。
土台、わけのわからない話だからこそ、「まあ別に読まなくてもいいし」ということで、あなたは気楽に、肩入れもせず読むことができる。
肩入れしなくて済むというのは、その逆の、必要以上の反発もしなくて済む、ということでもある。
ここを、整理して秩序立てて話すと、話はわかりやすくなるのだが、役には立たないのだ。
おれには人に伝えることなんか何一つない、というほうが、肝心なところがわずかでも伝わる可能性がある。
このわけのわからない話をしている奴のことが、気楽にしていても、何か「見える」ということが、わずかでも生じることがありうる。
そうするほかないし、それ以上に、僕はそれ以外のことをする気にまるでなれないのだ。
ところで、本当に、ウソではなく、「コミュニケーションエネルギー論」と呼んでよい理論は、僕の中にバチバチに整理されて収まっている。いくらでも整理して話すことができるし、その整理の時期はとっくに済んだのだ。
が、それを整理して話すことは決して僕のすることではない。
僕は自分がクズであることはへっちゃらというか、そもそも自分で合意していることだが、その僕が何かを伝えねばならないとかで壇上に立つふうを想像すると、虫唾が走るのだ。
僕がもし壇上に立って、僕のideaが何か「見える」ようにするためには、唯一、教壇みたいなものを蹴飛ばして、「こんなとこに立つのは虫唾が走る」と言い立てることぐらいだろう。
そしたら、聴衆は、「ああ、こんな人もいるんだ」ということだけは、少なくともわかる。そいつのエネルギーとideaは見えるだろう。
本当は、ここまでの話で、もう必要なことは全て話してしまっているのでもある。
人間には、生来的に、自由を望む心があり、これがエネルギーを生み、エネルギーはideaを生み、ideaは人から「見える」ので、「ああこの人はこういう人なんだ」というコミュニケーションが成立する。
コミュニケーションにエネルギーが必要だという仕組みもすでに含まれているだろう。
ちょっと真面目な話をすると(唾を吐かないでくれ)、一般にコミュニケーションというのは、実は二種類が同時に起こっているのだ。
・話がわかる
・人がわかる
ということの二種類が。
それで、人がわかるというほうは、先ほどから言うように、人が見えるとか、人のideaが見えるというようなことだ。
旧来、コミュニケーションには常にエネルギーが伴っていたので、こんなことはいちいち注目するまでもなかった。
が、テクノロジーは、このエネルギーを省略させることに成功した。メールを送れる、というだけでなく、店員を呼びつけるのにチャイムボタン一つで済む、とかいうようなこともだ。
そうして、コミュニケーションからエネルギーを引っこ抜くのが、現代の人間の芸風になってしまった。
くじけてはいけない、「便利だな!」と、そのこと自体は喜ばねばならないけれど……
コミュニケーションからエネルギーを引っこ抜くとどうなるか? 当然、
・話がわかる
・人がわからない
ということになる。エネルギーやideaがそこに「見えない」のだから。
そして、この状態は、実は人間にとって恐怖なのだ。「怖い」のである。周囲の人々について、人としてはまったくわからないし、見えないのに、話だけはわかる、そのわかる話だけが周囲を大量に取り巻いているというのは、人間にとって恐怖なのだ。
それで、知らず識らずだが、現代の人々は、常にどこか怯えながら暮らしている。その表情をよくよく見てみればわかる。
怯えているか、その怯えに反発して強がっているか、あるいは強硬に無視を決め込むかの、いずれかの顔を、ものすごく多く見かける。
もはや、通りすがりに道の一つを尋ねるのだって、「無害ですよ、怪しい者じゃないですよ」というようなお粗末な演技を、これでもかとテンコモリにしないと、まともに通用しないような状況がある。
まあそのことは、事実として現代は物騒で、世の中には正気でない人であふれかえっているというのは、やはり事実かもしれないので、本当に注意しながら暮らさねばならないところがあるのだけれど……
僕だって十代の青年と話せば、何か知らないが青年が勝手にガクガク震えだすことがあるが、その恐怖は、スキを見て逃げようとかいう、危険を察知しての恐怖ではない。何が恐怖なのかは僕は知らん。
ただ、何か、明らかに見えるもの、そのideaとかエネルギーとかを突きつけられると、自分として対抗するものや受け止めるものをまったく持っていないので、震え上がるのだろうか。
まあそれは僕が考えてもしょうがないことだ。僕はそうして震えだす人のことを、みっともない人とは思っていない。僕がモヤモヤするのは、
・話がわかる
・人がわからない
ということの中で、本当は怯えを抱えているのに、表面上だけばっちりというふうに、際限なく取り繕ってゆく習慣のほうだ。
まあでも多分、その習慣の中にいる人が、その習慣を自覚してやっているわけでもないのだろう。
僕だって別に自分が何をしていて何をできているのかはまったくわかったものではない。僕の場合は、自分がクソなので、万事自分のことはどうでもよろしい、考える権利がない、と思っているだけだ。
コミュニケーションの同時に起こる二種については、逆のパターンもある。つまり、
・話がわからない
・人がわかる
という場合。これは単純に、外国のシンガーが外国語で歌っていても、それが好き、その人の声が確かに聴こえる、というような状態を指す。別に言語的に意味がわかっていなくても、歌い手と聴き手のコミュニケートとして、本質のほうは成立しているからいいのだ。いちいち歌詞を全て翻訳して理解しなくても。
僕がわけのわからない話をしなくてはならないというのもそれだ。僕は整理したり秩序立てたりして話してはいけない。それでは「話がわかる」ということばかり勝ってしまう。
話の内容なんて、全体の1%でもわかってもらえて、持って帰ってもらえたらいいのであって……(今回の内容は100%持って帰れ)
まず自分をクソだと思え、といって、その僕のやり方に倣うようなことはしなくていいが、とにもかくにも、エネルギーだ。僕は性自由以外にエネルギーの源になるものを知らない(あ、この「性」は、性別とか性的とかの意味じゃないぞ、さっきまでの話をよく読め)。
まあ他にもエネルギーになるものがあるなら何でもいいのだ。ただ、エネルギーが無いと、ideaが生まれないし、エネルギーから生まれたideaがないと、あなたのことは人に何も「見えない」よ、ということを、今回は話しているのだった。
エネルギーというのは、日本語に無い概念だし、いつも誤解されやすい言葉だ。
エネルギーというのは、思いつめることではないし、それによって手首を切ることではないし、血みどろの夫婦喧嘩をすることではないし、かといって砂浜で夕日に向かって叫ぶことでもない。いや、叫びたければ叫べばよいが……
ひとつ面白い話をしよう。あなたが深夜、公園を横切らねばならないとする。あなたは次のうち、どちらとすれ違う道を選ぶだろうか。
・高校野球部のピッチャーが、深夜まで一人で真剣な投げ込み練習をしている脇
・行くあてのなさそうな、動きの鈍い、目のにごった浮浪者の座り込む脇
これを、わざわざ後者のほうを選んで歩く人はいない。
でもこの両方を比べてみて、エネルギーの高いのはどちらのほうだろう?
女性として、レイプされる恐怖の可能性を考慮したとき、あなたにレイプという凶行を仕掛けてきそうなのはどちらだろう。単純に膂力や性欲という面では、やはり高校野球部のピッチャーのほうが強いはずだ。
エネルギーというのは、暴発力ではないのだ。むしろ暴発とか凶行とか、そういった汚らしい衝動に打ち克つための力がエネルギーなのである。だからエネルギーの無い人のほうが怖い。元気に野原を駆け回る犬より、隅っこでうずくまっている犬に手を差し出すほうが危ない。ヒステリックな夫婦喧嘩は、エネルギーに満ちあふれた夫婦がやることではない。夫婦喧嘩というのはその逆で、自由も希望もエネルギーもヘシ折られた夫婦が、お互いの人間が「見えない」ということに苛立って衝突するのだ。
夜中まで真剣に投げ込み練習をしているピッチャーは、エネルギーにあふれているのみならず(まあ人によるが)、そのideaがどのようであるのかも、あなたは同時に目撃している。何のideaも無しに人はそんなことをしない。あなたは彼が「何をしているか」が、直感的に「見える」はずだ。
そして、「見える」からこそ、あなたは彼に安心できるのだ。コミュニケートが成立しているのである、彼のその姿だけで。
逆に言えば、僕が何か趣味とかストレス発散とかで、夜中で一人でヘロヘロのピッチング練習をしていたら、その挙動も眼差しも、漂う空気も、何をしているのか「見えない」ので、それはただの不審者になる。
先日、自分と恋あいを根こそぎ変えようという話で、「ジョークとユーモアを」という、一点にしぼって話をした。
それは、ジョークとユーモアというものの良い点で、エネルギーとideaが無ければ、ジョークとユーモアは、それとして成立しないからだ。人に向けたときに、ジョークとユーモアとして機能しないので、一目瞭然となってわかりやすい。
誰でもが知るように、ジョークとユーモアにとって一番大切なことは、それが「ジョークとユーモアだね」と、直感的に「見える」ことだ。僕が友人に第一声で「死ね」というと、彼も周囲も笑うというようなとき、それがジョークとユーモアだねというのが「見えて」いるから笑える。見えていなかったら笑えるわけがない。それで、何が見えているかというと、その発話者の、しつこいがエネルギーとideaなのだ。
「死ね」というのに、話がわかるもヘッタクレもない。話の内容なんか皆無で、ただ「人がわかる」から、コミュニケートが成立している。
何か真面目な話になってイヤになってきたが……
引き続き、ウヒャーコミュニケーション能力が無いぜマズい、と苦しんでいる人は、しゃにむに、ジョークとユーモアに身を投げるというのは、きっと最善の方法だ。僕だってかつてそういうやけっぱちの時期を過ごしたことがある。
かといってもちろん、流行物のネット・スラングを振り回して、妥協的な笑いを誘うのは卑怯でよくない。それは自分のエネルギーやideaで発明したものではないんだから。
というような話は、以前に済ませてあるはずだ(と思うが、覚えていない)。
それで、今回の話は、さらに精密に観たらどうなんだという話だ。世の中にはお葬式とかオペラハウスとかもあるので、いつもいつもジョークとユーモアだけに耽ってはいられない(かな? わからない)。
精密に観たら、人間には生来から自由を希求する心があり、これがエネルギーとなり、このエネルギーがideaを生む、そのideaは人にようやく「見える」ので、この互いのideaが「見える」ということ、そして「見える」同士で見せつけあって、互いに磨きをかけていくというのが、コミュニケーションだね、ということなのだった。
それを成立させるのには膨大なエネルギーが要るとも、以前に話している。でもそれも、土台、テクノロジー暮らしが長くなり、そこのエネルギーをほとんどゼロに省略するのが現代の芸風になってしまっているからということであって、一個人に不可能なエネルギー量を求められるものではない。
エネルギーとは思いつめてのものではないし、エネルギーとは何なのかというと、僕は「自由から来るそれ」としか言いようがない。
騒がしいものがエネルギーではなく、騒がしいといえばたとえば夫婦喧嘩や、品のない酔っ払いの集団だ。同じ大きな声でも騒がしいというのは違う。騒がしさというのはそれだけで一種の凶行だ。エネルギーが無いほうが騒がしくなる。正気を失った人はだいたい騒がしいし、静かにしていてもその存在だけで何か騒がしい空気があるものだ。
energyというのは、これは説明が難しくなるので読み飛ばしてもらっていいが、例えばガソリンが燃えているのが「エネルギーがある」というのではなくて、まだ燃えていないガソリンが、火をつけたらコレ燃えるんだよねということで、「エネルギーがある」というのだ。燃焼はむしろガソリンにとってエネルギーの喪失である。
ガソリンを燃焼させるエンジンルームだって、それを静かに閉じ込めてあるからエンジンパワーとして使えるのだ。エンジンルームに穴でも開いた日には自動車はどれだけ騒がしくなるか、そしてエンジンパワーはゼロと言ってよいほど得られなくなるだろう。パンパンに膨らませた巨大風船をあなたの部屋においておけば、その風船自体が「エネルギーを持っている」。それに針を刺してパーンとなった状態は、むしろエネルギーが失われて拡散した状態である。
このことは、どうしても我々の日本語にエネルギーという語が無いので、わかりにくい。エネルギーを日本語に訳すと「勢力」になってしまう。とにかくエネルギーというのは静かなもので、穴が開いてギャーギャーうるさいのはエネルギーが漏れてエネルギーを失っているのだ。いわゆる「エネルギーが出ている」というのは、「エネルギーがあるという状態が見せつけられている」ということなのだが、もうこれは説明すれば余計にわかりにくくなる。
コミュニケーションとはそういうものなのだが、つまるところ、これは技術なんかでやれないことだ。むしろここに説明したのは、間違った技術の成熟なんかに進んでいかないように、と、余計なお世話を申し立てたくて話したようなものだ。技術的には、そのコミュニケーションを起こす・起こさないというような、曲芸的な操作はできるだろう。が、それが出来る・出来ないの根本的なところは技術ではない。「エネルギーの無い奴が何を言っても」ということだし、「ideaが見えないものは見えないんだよ、それをどうしろと」というほうが正しい。エネルギーがある人間はほとんど「見えてしまう」だけであって、見せようという意図が特にあるわけではない。
コミュニケーションには事情は無い。事情というのは、話せばわかるものだけれども、それは先ほどの「話がわかる」のほうであって、「人がわかる」のほうではない。事情を話すなということではないし、事情を話すべき側面だって当然いくらでもあるが、そうした話で了解を相互に得るというのは、コミュニケーションとして本質ではない。
「コミュニケーションには事情は無い」というのは、これはこれで、なかなかよい言い方だと思った。確かに、「話がわかる」なんてことは本質ではないのだから、事情なんてどうでもよろしい。僕の事情は、他の誰かにとって特に重要ではないだろう。そんなことは、僕の話やideaやエネルギーといったところに関係ない。僕が誰かに見てもらえるということに何ら寄与しない。
(ここで僕も、何か「事情」を話してみようかと思ったが、さんざん考えた結果、特に話すべき「事情」が無かった)
どうしても整理して秩序だった話が欲しいという人、つまり「この話をわかりたい」という人は、すまないが自分でメモ書きでもしてみてくれ。とても簡単な話しかしていない。矢印で書くと、
自由 → エネルギー → idea → 「見える」 → 人がわかる → コミュニケーション
ということだ。ideaというのは、「意志であり、考え方」と捉えていい。
もしあなたがこの機構に不具合を起こしているなら、
不自由、こだわり → 思いつめる、エネルギー無し → no idea → 「見えない」 → 話だけがわかる、人がわからない → 怖い、恐怖、怯えている
という具合になっている。
それでどうしたらいいか、というのは、僕は知らないが、僕はそうならないために、自分はクソだと常に思っている。騒がしくはならないように。別にクソであってもなくてもどちらでもよいのだけれど、とにかくクソなら注目する権利もないのでよいことだ。なぜクソかというような、「事情」は無いよ、念のため。
ではではそんなわけで、これ以上はもうどこを探しても無いぞたぶん、あとは自分でなんとかしろ、というわけで、またね。
[コミュニケーションエネルギー論/了]