No.291 祝第二十六回Quali's Party盛会追想
三々五々、新しい人たちが、どこか頼りない面持ちで集まってきて、酒宴が始まるにしても、その空気は重く固まっている。誰も力んでいるわけではないはずだが、かといって……逆に、このようなほうが自然で当然のことだ、という了解がよぎっていく。見知らぬ同士が一箇所に突如集まったとして、いきなり打ち解けて和むというようなことがそうそうあるだろうか。そうではなく、初めの数分だけでも、それは出口のない固さからまず始まるのが当然だと思えた。これは不思議なことに、軽食でも食事が運ばれてきて、それを取り分けて口に運んでいるうち、数十秒という勢いで揉み解されていく。僕は例によってそのようなところばかり見ている。幹事役だからというのもあるが。人と人とが打ち解けて進むというのは、ほとんど当人らの意志によらず生理による。店内は毎度の暗がりで、毎度の紅色の照明であるが、奇妙なことにはまだこの場所の利用は二度目だというのに、すでにそれは毎度のことであるように錯覚するのだ。
前々回の、第二十五回に引き続いて、この第二十六回も、やはり独特の空気を生みながら進んだ。この空気の感触は、およそ持ち帰って保存することのできないものだ。寄り集まった人々は、特別に仲が良いわけではないが、それでもよくよく見ると、切っても切り離せないような穏やかな縁で結ばれている。それは別にどうでもいいような縁で、だからこそこだわりを持たずに済む。いちいち気づかずにゆける。そうして独特のものがやはり根を張っていくのを見ると、不遜ながら僕は「やはり」という感触を確かめて一息をつくのでもある。そういった独特の何事かを、強制的にでも引き出してしまうというところが、僕になかったとしたら、僕はもう何をしているのでもないし、何をすることの力も失ってしまったと自覚するべきだろう。独特の……というのは、誰もあの夜の中で携帯端末のカメラ・シャッターなど切ろうとしなかったということだ(ここに示してある写真は僕がフィルム撮影したもの)。よもや、そうした空間に参加した時間があったとして、それを自分の「つぶやき」のシステムにアップロードしようと発想する人はあるまい。そういった日常のことから切り離されてある。僕が自慢するとすれば、そういった独特のことがすでに起こっている中、意外と気づかないものでしょう、自分がその体験の当事者となってみても、ということだ。どことなく固まった緊張感のある中で、けれども誰もきりきりするところを持たない。きりきりするきっかけもないからだ。
あのような中で、誰が馴染みきるということもなかろうし、かといって、馴染めないという人も今までのところない(そもそも馴染むという言い方そのものがいかがわしいとさえ気づいてくる)。ああいったものを、はたしてどう説明したら、宣伝広報にも役立つものかと、毎度思案するが結局当ては無い。参加した複数の方から、「ある種のショックを受けた」という、そのままの驚きと、喜ばしさを抱えた報告を受けている。説明はできないが何か他に無い初めての体験をした、と彼女は言いたがったが、それは喜ばしいことにしても、では結局説明はできっこないなと苦笑する思いにもなる。土台として体験の無いものを説明で心当たりに至らせられるわけがないのだった。体験してもなおよくわからない類のことだというのに。
参加者の諸君へ。あなたにあの夜のことを思い出させるためには、こういう言い方が有効なのじゃないのかね。たとえばあなたが小説を書くとしたらだ。その書き出しにいくら悩んだとしても、あの夜のあの交差点の、あの雑居ビルの四階を書き出しの舞台にしたら、書き出しはすんなりいくし、またそうして書き出してみたい気持ちに駆られるのじゃないのかね、改めて……と。そういった、いわゆるフィクションという馬鹿げた遊びに結びつけるほうが、理解のしやすいものを、体験してゆかれたはずだ。フィクションとは仮想ということだが、仮想がいわゆる現実でなかったとしても、仮想のない時間が現実としてあなた自身を豊かにするという保障はまったくない。外向けに説明するには、単なる夜会、酒宴ですと説明せざるを得ないけれど、実際にはだ、あなたが日々僕の与太話の小文を読む習慣を持っているとして、そのフィクション遊びの続きを、今度は飛び込むようにしてやっている、ということに過ぎない。なぜ開幕から伸びやかに話すことができなかったか? それは開幕から空間がすでに現実的なそれではなかったからだ。そして思いがけず、「現実的」という習慣から離れてしまっては、自分がその中で伸びやかに息をしてくつろぐということは、そうそうはできないものなのだ。ちょうどあなたが、小説を書こうとしたら、その書き出しにも固くなって苦労するだろうというのと同じで。
これは、何も僕がそのようにしようと企んでのものではなく……もちろんそのようになればよいだろうと思い浮かべてはいるのだが。しかし僕が改めて意図をしなくても、僕がその空間のシンボルとして居座る以上、ほとんど強制的にそのような空間になってしまうわけなのだ。僕がずっとそのように生きてきたからであるし、また参加した人々も、それに合意して読み進めてこられた方々であったから。
ここにおいては、頭を掻きたくなるが、追想というのはしにくいな。いかにも現実的な、時間の経過を持つものであれば……たとえば一昨年の大震災のことならば、誰だって追想がしやすい。あのとき自分は何歳で、社会的にどういう身分に所属していたか、といったようなことと結びつけて、追想はしやすい。
けれども、あの夜、交差点のビル四階の、暗がりの紅色の部屋でだ。それは誰がどこに所属しているのか、現実的・社会的なものとどう結びついているのか、明瞭に把握しがたい。僕はもろちん、そういった結びつけというのは、ほとんど習慣的な括り付けにすぎず、物事の真相ではないのだ、ということをいつも言いたがっているのだ。現実的な空間からみれば、それは徹底的な休憩に見える。それは僕のもっとも好むところの、まったく休憩と呼んで差し支えのない、休憩だ。あの空間の夜気から脱け出るまで――あるいは、再び現実的というやつの、幻想に囚われなおすまで――、何事かを力んで頑張ろうという発想には至れなかったはず。だからこそ、それは休憩だ。休憩も必要さという、努力の一部ではないそれとして。休憩自体に実体があるそれとして……
しかしまだまだ、愚痴を言えば、僕自身がでしゃばりすぎで、僕の曲芸じみた見世物ぶりが、注目と場所の面白さを担っているところがある。こういったことは、行過ぎては健全ではないし、何より僕はもっとサボりたいのであって、その意味での参加者らの向上は強く待たれる。参加してくれた方々は、まったく自由に、素直なときめきをこめて、「もっと人を増やしましょうよ」と言ってくれるし、「これに来ない人がいるなんて、すごくもったいない」と言ってくれるのだが、そう焚きつけられても僕としては、誰かが参加しようと気まぐれを起こしてくれるのを辛抱強く待つしかなく、また参加者数の拡大をもくろむなら、最早僕ではなく参加者らの積極的なエネルギーの増大が必要だ。つまり、もう僕がいなくてもほとんど成り立つというふうになればこそ、規模の拡大が見込めるだろう。今のまま人数が倍増になったら、僕が倍だけ働かねばならず、それでは根性の無い僕のこと、僕が先にダウンする。もっと誰もが(参加者らのほうが僕などよりはるかに若いのだから)、僕などよりエネルギーを倍ほどももって、ああいった空間に住み慣れた名代としてだ、しれっと活躍してくれれば、この企画は長生きするだろうし、この先も楽しみが増えるだろう。
パーティ追想といって、やはり僕は、単なる過去の記憶の確認ではなく、それの物語じみた再定義というようなことを、せずにはいられない。いよいよ僕と親しくなった人には、その仕組みがもう知られているだろう。わかるね? つまりそうでもしなきゃ、新しく読んでくれる人にとっては、何もはらはらしないし、どきどきもしない、面白くもないだろ、ということだ。
第26回のキャッチフレーズは、「ウソしかついてはいけない」だった。このフレーズを持ってここまでの話を揉み返せば、まあ色んなことが明らかになる。想像力の爆発というやつさ。「ウソしかついてはいけない」! さて、次回というか今回の、第27回は、「実話はぜんぶ忘れた」というフレーズを背負う。「実話はぜんぶ忘れた」んだから、そりゃあ、追想はしにくいよな。
というわけで、追想はここまで。次回、第27回は、10月19日(土)です。みなさまどうぞ、奮ってご参加のほどを。
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とんでもないネタバラシをすると、僕は追想などと銘打って書いているが、半ば以上は、やはり参加してくれる新しい方を増やしたくてこのように話しているのだ。つまりあなたのことである。あなたが気まぐれか、気の迷いを起こして……つい参加エントリーしてしまった、ということを引き起こせないかと、これは企んで書く。それはふつう、宣伝とか広告とか言われるのだけれど、僕は広告がありありとしているものが、逆にあなたにその参加への気まぐれなど起こさないのではないかと思うし、そう確信もしている。だから何というか、「素敵で有意義なパーティなのだよ」とは書きにくい。書きにくいし、そもそも僕自身の感性として、そういった書きぶりは気色が悪い。冷静に考えて、別にこんなパーティが、人に有意義ナンチャラをもたらすとは思えない。そんなことを信じ込んでいる奴がいたら、そりゃ新興宗教にハマった人か何かだ。
そういうふうにはなりたくないし、なれる気がしないし……こと、これは別に、僕が糊口をしのぐために(生活の糧ために)していることではないのだから、別にしぼむならしぼめばいいじゃないか、という気がするのだ。
だいたい、万事について、しぼむものというのは、しぼむべきだからしぼんでいくのであって、それを当事者の都合で延命措置するのは不潔である。不潔になるぐらいなら、清潔にしぼんでいったほうがまだよい。僕は、せっかく自分で企画していることだから、拡大してゆけたらよいなと思ってはいるのだが、しぼんでいくならしぼんでいくで、別にそれを眺めてゆくのでもかまわないか、とも思っている。いかにも矛盾しているが、この矛盾がややこしくならないためには、これを読んでくれているあなたがササッと参加してくれればそれでよいのだ。しぼむとしたら僕のせいではなくあなたのせいである。これはなかなか正しいことが言えたので、僕は途端にわくわくしてきた。
僕はそういう、一般的論理のひっくり返ったところに、思いがけず浮かび上がってくる、わけのわからない正義みたいなものが好きだ。どういう動機で参加したかというと、「参加したかったわけじゃないが、参加しないと企画がしぼむので」という。こういった動機はまったくナイスなものだと思う。自分の興味やら好奇心やら、何か得るもののためにという、論理的に正しい動機で物事に参加するというのは、わかりやすいし正しいが、そのぶん面白くはないものだ。僕はいまだにロールプレイング・ゲームなどのビデオゲームをたまにやる趣味から逃れられないタチだが、「ゲームが好きなんですね」と言われると「違う」と答える。「好きなわけじゃないが、世界の危機を救うために、やむを得ず戦っただけだ」と答える。誰がそんな「好き」とかいう理由で、ドラゴンやら竜王を退治しにいくのか……
またいつもどおり話が逸れてしまったけれど、とにかく、僕はパーティ企画を参加者へのメリットで飾り立てることをしたくないので、気まぐれか気の迷いで参加してねと、これを読んでくれているあなたに、呼びかけるしかない。また加えて、とんでもないネタバラシをさらにすると、僕が逆の立場だったら、「うーんわかるよ」と言いながら、でも参加はしなかっただろう。単純に面倒くさいからだ。別に参加するような用事は無いしな、と思ってしまう。僕ならそうして参加はしなかっただろうから、逆に言えば、僕にはあなたの気持ちがよくわかるのだ。よくわかるだけに説得しようという気はしないし、説得の糸口がない。
(えっこの話どうするつもりだ)
だからまあ、本当に正直な話をすると、これは僕からあなたに与えるという類のことではなくて、あなたから僕へ「協力」するという話なのだな。こう考えると途端に話は明るくなってくる(だからやはりこっちが正しい)。僕には新しい時代への、新しい文化としての、ideaがあるのだ。それが一時でも実体を持つためには、何の工夫もない、協力してくれる人たちが必要なのだった。
今ふと、あることを思い出したので、それについて聞いてもらおうかな。ずっと昔のことだが、僕のやっている、あなたの今まさに読んでいる、ウェブサイトとブログについてだが、そこに「Quali村」という企画がかつてあったのをご存知だろうか。ご存知の方は、かなりのツウというやつだ。当時、ブログというのが新しいものとして流行して、誰もが日々ブログをつづるのが当たり前というような時期があった。でもそれだけでは、書き手と読み手に構造が具わっていないので、思ったように面白く膨らまない。それで、それに構造を持たせようという、あるideaが僕にはあったのだった。
ある人が僕のところに、「自分もブログというやつを書いてみたいです」という。それで、「Quali村、○○の家」というタイトルを冠してもらって、僕のブログからそのブログへとリンクを貼る。そうした「○○の家」が複数、並ぶようになり、その「家」同士は、同じ村の人として、親近感を持った書き手同士となる。僕のブログを読んでくれていた人も、ときにその「○○の家」まで足を伸ばして(?)それを読みふけったりなどもする。この企画は短期的にだが活発に機能した。
そういう企画が以前にあった。それは今でいう、SNSの原型みたいなものだ。今の、テクノロジーが成立させたSNSの仕組みではなく、もっと個人的な営みを接続させたものだが。
そんなものはもちろん、いつまでも続くものではない。というのは、そうして書き手として居心地のよい構造を与えられたとしても、そこで数年がかりでそのブログをずっと書いていくことなんてふつうできないからだ。日記みたいなものでかまわないから、といっても、その日記だって人に読ませられるような形で数年間も書いてはゆけない。そういったことは、「やってみたい」という気持ちは誰しもあるが、趣味の感覚だと、決して続かないのだ。
でもそれにしても、実は(と、今さら、数年越しに暴露話をするなあ、感慨深い)、その「Quali村」企画から、結婚したお二人がいるのだ。男性のほうは直接には知らないけれど、女性のほうは、ものすごい美人だった。僕はそんな話が進行していたなんてツユ知らずだったから、何か知らないが慌ててしまった。
以降、ブログそのもののブームが去ってしまったので、もうQuali村の企画は閉じてしまったが、そうして幸せになるお二人を接続できただけで、まあやった価値はあったなあと、僕は一人思っていた。あのお二人がご成婚されたそもそものきっかけを、正確に知っているのは、きっとそのお二人と、この世で僕だけであろう。今まで単純にプライバシーの観点から、まったく人に話す気はなかったけれど、もう何年も前の思い出話だ、さすがにそろそろ差し支えないだろう。
その後、実際に、SNSが流行して、今では誰にとっても当たり前のツールになっているように……僕は割と、「この先どうなりうるか」というようなことを、実は考える性質がある。このパーティ企画も、単に僕の思いつきというのではなく、こういったことが起こっていく必然性があると、僕なりに読み取ってのことというのが、背景にある。
そしてこういったことが、もう当たり前になってしまったら、僕自身はこの企画をきっとやめてしまうだろう。当たり前にあるものなら、もう僕がわざわざやらなくていいし、やる気もしないのだ。
「この先どうなりうるか」……たとえばあなたは、ファッション雑誌や、その他のカタログを見たりすることがあると思うが、それらのカタログは、いつまで静止画なのだろうか。ウェブ上のカタログなら、物によっては動画になって差し支えないし、そのほうが有効になることはいかにもある。
ホテルや飲食店などの紹介などについてもだ。いつまでも静止画ではゆかないだろう。店内の雰囲気、料理の質、そこにいるスタッフの表情など、動画のほうが優れて伝わるということはいくらでもある。店によっては、店内にライブカメラがあって、常時その混雑状況を確認できるということがあったっておかしくない。
僕は割とそういったことをよく考える。学生でも、たとえば部活動があったとして、新入部員を呼び込むのに、活動内容やメンバーの動画説明があれば、そのほうがコンテンツとしては優秀だ。映像に加えて音声が伝えられるというのは大きい。
その他、親身な診療を売りにしている医院とかね。僕はすでに、そこに動画紹介がないことのほうを不自然に感じている。
さてそういったことの、「この先どうなりうるか」について……人々には当然ながら、実生活というものがあり、あるのだが、これにいよいよ息切れを起こしている。「虚実皮膜」というのがあり、これまた説明すると長引くので割愛するけれども、人にとって肝心なことは何なのか? というと、それは必ずしも実生活だけのことではなかったりする。自分が生きたことの真実、みたいなものは、必ずしも実生活にのみ結びついているものではない。むしろほとんどの場合、その実生活から離脱できたときに、自分は本当に生きることができたと感じてしまうものだ。
しまった、こんなこと、ここに書くことではなかったな、長くなってしまう。
とにかくだ。実生活というものがあるなら、その裏側には、「虚生活」と呼ぶべきようなものが、実は潜んでいるのだ。これらはかつて、上手い具合に混交していたものだが、今はすっかり切り離されて、実生活の生々しさだけが人々にのしかかっている。それで、生きていくのは大変なのに、何か生きている実感がないような、気がしてくる。そういう状況がある。
人は実生活でも充実して活躍しなければいけないけれど、虚生活でも充実して活躍しなければいけないのだ。このことは、やがて多くの人が気づいてくることになると思う。そうなると、そうなってから、その充実と活躍のための仕組みが必要になるわけだ。それが、「この先どうなりうるか」ということとして、僕の考えるところに捉えられているわけだ……
学友や同僚や、習い事やクラブメイトなど、知り合いが増えることはいくらでもあるけれど、それらの知り合いは、いかにも実生活の圏内から逸脱しにくい。婚活に熱心な人は、本当にはそれがしたくてしているわけではないし、合コンというのも死語になりつつあるし、異業種交流会というのも、多くの人にとって何十回も行きたいものではない。
そうして、知り合いをどのようにして増やしても、なぜか人に「出会った」気がしない。それはなぜなのか? それは、出会いというのは、実生活ではなくて虚生活での出来事だからだ。あなたはきっと海の向こうに旅に出るのに憧れているところがあるし、その先に出会いがあるような希望をどこかに持っているのではなかろうか。それは、海の向こうには、あなたの実生活を知る人はいないし、そうした旅の時間は、あなたの実生活の時間ではないからだ。
「虚実皮膜」というのは、その虚と実は、よくよく見たら、どっちが虚でどっちが実か、わかったものではない、ということを指している。
まして、人間、いつか死んでしまうもので、死ぬとなったらその途端、これまでの実というやつがゼロになってしまうのだから……
あ、難しい話になるので逃げよう。
あなたが、ひょっとしたら、何ヶ月も、半年も、あるいは数年間も、僕の与太話を楽しんで読んでくれていて、「九折さん」という存在を受け取ってくれていたなら、あなたはずいぶんな時間、虚生活を楽しんでいらっしゃることになる。何しろ僕は、あなたの実生活になんらの寄与も関わりもしていないのだから。
うーん、次々回のパーティのフレーズは、「実生活もほどほどにしろ」になるかもしれない。
でも、今回はとりあえず、「実話はぜんぶ忘れた」で。
まあ言っていることは同じか。
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そんなわけで、次回というか今回のパーティは、10月19日(土)なので、よろしく。19時に原宿の竹下口交差点、ムラサキスポーツ前に来てくれたら、あとは勝手に進んでいく。
なんだ、結局、「来てね」としか言えない、広告代理店のような気の利いた売り込みはできないときたもんだ。
まあでも、こんな、何のプロフェッションでもないところで、費用対効果みたいなことを考えるのはやめよう。
→参加エントリーはこちらから
参加して、楽しくなかったという人は、一人もいなかったと、これは保証していい。あまり楽しい楽しい言わないのは、僕がそういう売り込みをするのが嫌いなだけだ。
楽しさはもう十分なので、あとは僕がどれだけサボれるか、手抜きと横着とラクをできるか、ということがテーマだ。
いろいろ難しいふうの話もしてみたけれど、こんなことは僕しか考えておらず、参加している人にとってはもちろん知ったことではないのだ。
ではでは、ご参加をお待ちしております。
勇気を出して、とか、そんな気持ち悪いことは絶対に言いたくないので、さっさと、ああ協力してあげようという、慈悲の心を起こすように。
やっぱり、やるからには、にぎやかなほうがいいからなあ。
ではでは、おやすみなさい。
[第26回パーティ盛会追想/了]