No.292 ぽんぽん自我でこんにちは
自慢じゃないですが僕の話なんか何も聞く値打ちはないですよ。何かこう、次第に誤解される方が増えていらっしゃるので、あえてこんなことなんかも言わねばならない。最中(もなか)をモシャモシャ食いながらこんな話をしています。土台大事なことは、別に僕みたいな者、誰に好かれているわけでもありゃしないので、だいたいがこんな奴が言うことのあれこれをアテにしていたってしょうがないんです。そうだね、僕なんぞには、親しくしてくれる友人が一人もいないと思ってもらって差し支えない。もちろんウソだけれど、そのウソのほうがあなたが物事を正しく捉えられるのじゃないかと思うので、へえそうなのかとそのまま鵜呑みにしてくださって結構だ。友達なし、好いてくれる女性もなしだ。なんともわびしいことじゃないか。それでもときに、すばらしく佳い思いをさせてもらえることもある。そんなことは、まあ誰にでもあるでしょうし、しょっちゅうある。「有難い」とは言うけれど、その有難いことでも割としょっちゅう有るものだ。何が良いかといえば宿運ですか。宿運、持って生まれた運が良くて、世の中には奇特な(奇特というのはもともと好い意味です)女性たちがいて、僕のような者を見ると、善悪はともかく、その持ち前のやさしさをつい振る舞ってしまうという方がいらっしゃる。それで、にわか雨に降られることの逆のように、こちらに何の因果もない形で、わーとやさしいものが降ってくる。傘を差さなければそれに濡れるわけです。僥倖とも言うでしょう。言い方は何だってかまいやしない。
誤解のないように申し上げておくと、友人なし、好いてくれる女性もなしというのは、なかなか良いものですよ。何かこう、自分から余計なものがぽろぽろと剥がれ落ちていく心地がするのです。もともと器が小さいからでしょうか、これのほうが自分の器というのがよく満ちるように感じるのでした。悲しいどころか、愉快が自然になってくる。なぜでしょう、そりゃあ自分が誰のことをも笑わせられないとかでは、さびしくもなるのでしょうが、これはそういったこととは違うため、満足です。自分の身の丈に合っていないものなら、どれだけ大物でも着心地は邪魔っけになるではありませんか。
僕は正直なところ骨のある女性が好きです。なんと佳い香りのする、姿や顔立ちをしているのだろうと、ほれぼれします。ぐいぐいと近寄ってきてくれるのですが、近寄ってはきてもくっつきはしない。芝居がかっておらず、それが当然の、人としての節度と教えられてあるようです。肌を重ねているときでさえそうなのでした。ところが、そういったことの最中ですから、ときおりきゃっと悲鳴を上げるように、心が過剰に親しく抱き付いてきたような声をあげる。そうして声をあげられてから、恥ずかしいことをしてしまったかというように顔を赤らめて視線を背けられる。そうしたいじましさを見ていると、なんとうつくしく教育されてきたものだろうと、なにやら胸の深い内を打たれるのでした。もちろん各人に色々な趣味はあるのでしょうけれど、僕はそういう女性を好ましいと感じますし、尊敬するというか、尊厳、うつくしさの格調があるものとして、犯しがたいものだと感じるのでした。僕のような、何でもない者にでも、そうして身も心も向けるときは向けてくださる。それはやさしさの上に、さらなるうつくしさを感じます。彼女の意地のようなものが光って見える。それは彼女自身、当然にしすぎて、彼女自身がすでに忘れてしまって、彼女を彼女たらしめている意地であるように、僕からは見えます。だからこそまぶしくて犯しがたい。
このごろ、つくづくとですが、他人のことは、他人ではどうしようもないと、あらためて思います。何しろ僕自身、僕は僕をも持て余しているぐらいですから、これで他人のことをどうこうとは言えない。それでもこの年齢になれば、年齢相応の相談事なども持ち込まれるのですが、それをどう付き合ってみせても、何か解決の足しになれるかというとなれない。そりゃ何しろ当人のことなのだから、当人がどこかでどうにかするしかないわけです。或いは相談を持ちかければピシャリと全体を解決できる妙技の御仁もどこかにいらっしゃるのかもしれないが、そういったことは僕などにはまるで無縁で遠い話です。特に女性の場合など、男の話を身を入れて聴くというとき、身も心も許しきった誰かの声をしか、そう親身には聞き取って受け入れなどできないものではありませんか。そうなるといよいよ、僕などの出る幕ではないのでした。そういった結びつきに憧れないではありませんが、僕にはいささか身に余るようなことだと思います。
二人三脚でというような言い方もされるが、何も彼女が一人で伸びやかに走れるものを、こっちが括りつけて、より走りづらくすることはない。僕にはそれが力を合わせるということだとはやはり思えないのでした。むしろ力を殺しあっているように見えます。それで先に申し上げたとおり、ぐいぐいと近寄ってくるが、くっつくわけではないという女性が、どうしても好ましいと感じるのでした。そういった女性は、何か大事なことを掴んでいらっしゃると、いつもそばにいて感じます。彼女の、身も心もですが、失礼を言えばそのお尻なども合わせて、ぽんぽんとした手触り、ぽんぽんとした手応えがある。よく弾み、表面はさらりとしていて、あたたかくてやわらかいのです。それが、まるで熟しすぎた柿のように、触れるだけでじゅるりと、危うくすればすぐにでも何かが漏れてくるようなことではいけない。それは何か汚らしい触りごこちです。であれば僕もせめて、友人なし、好いてくれる人もなしであっても、そうしたぽんぽんの手触りや手応えだけでも、具えておきたいものだと思うのでした。何しろ、どうせ同じように生きていくわけですから、その中で何も、粘りついたりじゅるりと中身を腐らせたりと、そんなことをするべきではない。道すがら人とぶつかることがあっても、その心地はせめてぽんぽんとしていたいものです。ぽんぽんというのは、失礼ながら、やはり女性のお尻の、"最高品質"のようなものが、一番想像に描いてしっくりときます。
友人なし、好いてくれる人もなしですが、逆にここから離れて思い上がっては、僕はもう何事も、おしゃべりの一つもできなくなるでしょうな。事実から離れておるからだと思います。もしわずかでも、僕の話すようなところが、何か人に向けて意味があるとか価値があるとか、そんなことが貼りつくならば、僕の口先はとたんに重くなり、何を言うにも話すにもおっくうになることでしょう。それでも無理やりということも数分か数日ぐらいはできなくもないですが、どうせ無理なら続かぬのだから無理などしないことです。僕自身、困ったことにですが、我ながら吾の言うことにはなんらの値打ちもないなというのが、もっとも正しい心地がして佳いのです。友人なしの好いてくれる人なしでも、そうして何でもないことを話すぐらいのことはできるし、ぐいぐいと近づいてきてくれて、それでいてくっつくわけでもない、ぽんぽんとした方はいらっしゃってくれます。それで正直なところ、佳い思いというのはいつでもさせてもらっているし、もうこれまでの与えられたものでも、一生の全体としてずいぶんなオツリを返さねばならないほどでしょう。そうして割と甘やかしてもらえるものを、わざわざ汚濁させてむつかしくすることは、少なくとも哲学屋でない僕などには不向きなことです。僕などは、いよいよこのごろになってですが、やれやれ僕というやつは何の無理もなくただ幸福にゆけるようだと、確信もするようになりました。何が上手くいっているかというと、世の中が上手くいっているのでしょう。こういったことは僕一人の奮戦でどうにかなることではありませんから。何かの按配が、好い人、佳い女を生み出してくれたおかげで、僕は色んな時間をうら寂しくなく過ごしてゆくことができる。丁度、大昔に誰かが、好い場所に佳い桜をまとめて植えて育ててくださったおかげて、僕の春の端にも桜吹雪が舞い散るようにです。そういったことは、一人で短時間でどうにかできるようなことではありません。
こんな僕でも、たとえば自動車を借りて運転することがあります。奥まったところにある、湯量のやたら豊かな温泉に行きたいと、誰もが思い立つようにして思い立ちますので。それで自動車を運転するとなると、何が必要かというと、情報と判断力だと思います。思うも何も、これだけは間違いない。情報の全てを読み取り、適切に判断してゆかねばならない。そうでないと事故をするし、同乗者にとってだって乗り心地が悪く車酔いをしてしまう。それでは何というか、単純に言って役立たずです。同じ値打ちなしの、友人もなし好いてくれる人もなしというのであっても、まるきり役立たずになろうというのは、いくらなんでも思えない。それで、情報の収集と、判断力の発揮をします。単純に頭を使えということですね、これぐらいはいくらなんでもできなくてはいけない。
運転者は周囲から情報を集めます。周囲の道路状況、交通標識はどうなっているか、歩行者はこないかどうか、道の曲がり具合はどの程度か。また後ろにおまわりさんがパトカーでついてきていないかどうか、など。だいたい前などよく見えるのですから後ろのほうに気を配らなきゃいけない。それで情報といえば、スピードメーターもそうですし、何より自分の運転の技量、コンディションや、自動車そのもの性能といったものも最大に重要な情報です。同乗者が乗り物酔いしやすいかどうかも情報のひとつですか。
これらを総合的に判断する。判断というのは、いつだって落ち着いていなくちゃやれませんし、そもそもの、判断の根拠となる情報が不足していては、判断なんて正しくやりようがないのです。判断が正しくなかったり、情報の収集に知能の力量が足りていなかったり、落ち着いていなかったり、とにかくその情報と判断というのが的確にやれていないと、自動車の運転だって取り乱して暴れます。危なっかしい運転になる。隣に乗っている者としては、車酔いはするし、同時に危なくて怖くておちおち居眠りもしていられないという心地になります。これは誰だってたまったものではない。
それで何のお話しをしているかというと、そういった運転があったら、やはりその自動車の挙動だって、傍から見てぽんぽんとはしていないのです。逆に、情報と判断が的確にやれていたら、誰とも知らないどこへ行く車であっても、傍目にもぽんぽんとしている。これは気分が好いのです。僕のような者でも、その情報と判断というのはやりますし、やらねばならない。またそれは僕のようなものでだってやれるのです。頭をちゃんと使うようにしていれば。そうしたら少なくとも、誰ぞと知らない馬の骨であったとしても、気分の好い、ぽんぽんとしたものではあれる。
こういったものは、自我のはたらきだと言われます。古くは、自我の確立、というようなことが、大真面目に議論されたこともありました。これは古臭くはあっても、やはり今でも正しいことの一つのように思います。少なくとも僕は、その程度のことはできないとなとさすがに思います。
僕は正直なところ、その自我のぽんぽんとしていない、じゅるりと腐敗して漏れてきそうなものが、きらいなのです。たとえば自動車の安全走行を保障しているのは、第一に自動車の性能であり、第二に運転者の性能です。情報と判断を的確にやれるという性能。これは当たり前だというのに、それをおろそかにして、単に気分だけで車内に安全祈願のお札を貼り付けてまわってはいけません。そういった運転者はもう運転する前から危なっかしいのです。やることが間違っているからです。もうその時点から、自分の情報と、それについての判断ができていない。いくら札を貼り付けたからといって、それで不運は回避できると信仰するのはよいにしても、情報と判断が貧弱であれば事故は起きます。それはお札を貼って事故をしに出かけているだけのことです。
そのような馬鹿げたことがまかりとおることが、割と世の中に少なくない。そういった人ほど、友人と好いてくれる人と、それらの人のつながりといったことに感情的で、涙さえ浮かべて語りだしそうなところがあったり、逆に血を流して怨恨を垂れたりすることもあったりするのですが、それは物事の順序がとんちんかんではないでしょうか。なぜ、自我のぽんぽんとした手触りもない、情報と判断ということに貧弱なままの、自我をつつけばすぐにじゅるりと内部の腐敗したものが漏れてきそうなところがあるのに、一足飛びに人とのつながりといったような高度なほうを先に求めるのでしょうか。きっと誤解してらっしゃるのですが、その誤解は少し笑える類のコメディではなく、それが何年も続くとなるとシリアスです。
まあ、それについては、そういった人もあるのだな、としか僕には言えない。他人のことは他人からではどうしようもないものです。じゅるりとやってもしょうがない。そうなると僕などにはますます、友人の多寡や、好いてくれる人の程度の大小など、どうでもよい、まずはその自我がぽんぽんとして手触りのよいものでいなくてはなと、改めて強く思うのでした。何しろ、ここでは都合のいいことに、僕には友人も好いてくれる人もこれといって無しなので、じゅるりとやろうにもじゅるりとする先の相手のアテがありません。それでまあ、愉快なわけです。秘湯に向かう自動車の運転が、ぽんぽんとして小気味が好い程度には。
情報と判断といえば、麻雀などが好例ですな。情報と判断というのがやれていなければ、ひどく痛い目に遭う。麻雀をしている人は誰もが、そりゃあ心の内に安全祈願の札を貼っています。貼っていますが、情報と判断を錯誤すると振り込むのです。人はそうして遊びの中に情報と判断力というのを磨いていくように思いますし、またそのことをやりあいできるのを楽しめるものだと思います。
それで、いくら仲良しでやると言ったって、お互いの手の内をオープンにして麻雀をするわけにはいかない。それでは麻雀という遊びそのものが壊れてしまう。まだ初級のうち、相手の捨牌や、そこから推察しうる相手の手の内の牌姿など、読み取れないあいだは、麻雀というのは、やっている本人は楽しくても、周りと一緒に楽しむまでは至らない。情報と判断といったって、自分の手の内の都合ばかりしかまだ気を配る余裕が無いからです。これはまだ麻雀というものになっていないでしょう。自動車で言えば車中のアクセルやブレーキやスピードメーターだけを観ながら走っているようなもので、これは教習所で済ませることであって車道でする運転ではない。教習所ではいくら走っても旅の道連れは得られないでしょう。僕が友人なしの好いてくれる人もなしの、値打ちなしだといったって、さすがにそれとは違う。友人がいないというのは、人がいないということではありませんからね。人がいないというのでは、さすがに愉快になりっこないし、寂しいし、何より自覚はなくても周囲にひどいご迷惑をお掛けするでしょう。僕はそれで、情報と判断力というのだけはきちんとやりたいと思い、ずっと来ていますが、どうやら終始これだけでやっていけるように済みそうです。ただし、麻雀をやるからには、それはたまには、大きな手であがりたいですよ。状況をよく見て、情報と判断をやって、鳴くのを我慢して先に迷彩を投げて、メンホンで当たって逆転してやるのは気分のよいものです。情報と判断に向けた集中力が、正しく必然に報われたというときには。まったく自分が生きている心地がきちんとするものです。
僕には人付き合いのことなどわかりません。他人のことというのも、結局はよくわかっていませんし、十分な情報と正しい判断をしないかぎり、僕は僕に限らず誰だって何かがわかるということはありえないだろうと思います。足りていない情報から投げやりな判断力で物事を決定していたらそれは占いです。占いというのは根拠を持たないからそういった遊びになります。そこにある神秘を信じたくなるのは人の性の一部ではありますし、僕だってそういった遊びがきらいではない。けれど、一昨年の三月に、東日本で巨大な震災があった、あの肝心な大危難を、占い師は予言も警告もできなかったのだから、やはり所詮はうそっぱちです。占いに心酔していた人がもしいたら、あの3.11以来、心酔していたものの無力さに悲嘆して、首でも括って自死するのではないかとも思いましたが、そういう発想にはゆかないものでしょうか。僕には直接の心当たりがないのでわかりません。少なくともブッダもキリストも占いや幽霊を重視しろといったことは一言も言い残していないので、宗教的に重要と捉える必要はないのでしょう。
占いや幽霊のことはどうでもよいし、安全祈願の札が自動車を安全にするわけではない。より安全に設計してくれた自動車メーカーに感謝するほうが先ですし、運転する自分の情報と判断の力を厳しく鍛えることのほうが先です。そうして、やれ占いが幽霊が何ですか。心理学や深層心理が何ですか。そんなもので、自我はぽんぽんとした手応えを返してはくれない。何か杞憂でもこしらえて、自分の気分だけ重くしたり熱くしたりすることは簡単です。でもそれに耽っていたって、情報と判断の力は磨かれやしない。じゅるりと漏れ出すクセがつくだけで、そんなものは汚らしいのです。やれ友人や好いてくれる人が何だというのだ。そんな贅沢を言わず、自我のぽんぽんとした手触りがまず先にある。そのために、まず友人も好いてくれる人もなしだというのは、余計なものが剥がれて気分がよいのです。適切な程度の愉快でいられる。それで僕も、じゅるりとせずに済むから、ようやく値打ちのないことでもこうしてお話しすることができるのでした。これが友人やら好いてくれる人やらにいちいち向けるようでは、重苦しくてやっていられない。
僕が申し上げていることが正しいかどうかなど知らない。そんなことは存じませんが、どうせそれが正しいかどうかなど訊いて回る先のアテは僕にないのです。そんなものが欲しいとはこれまでにも思ったことがない。ただ、佳い思いをたらふくしたいという欲は、僕にもあり、きっと誰にでもあるもので、それはぽんぽんとした女性のお尻の最高品質のようなものが、今日もぐいぐいと思いがけず近づいてもらえて、温度が伝わるほど近くに置いてもらえたということばかりです。情報と判断、そのいきいきとした自我というやつ。それがすぐ手の触れるところにあり、うつくしく、輝かしく、笑ってくれています。それに比べて、友人や好いてくれる人や人とのつながりといった、"じゅるりとせざるを得ない"ような難しいことの全てに、ずっと無縁で来られたことを、僕は今ではすっかり素晴らしいことだったとよろこんでいるのでした。
[ぽんぽん自我でこんにちは/了]