No.294 真水の温泉と胴体インポテンツ
他人のことについて話すのはまったく得意でない。
何しろおれのことじゃないんだからな……
僕が何を求めているかというと、何も求めていない。
そんなことを考える前に、もう与えられてあるしな……
考えることも、ないではないが、そうして考えているときは、もうほとんど僕は僕ではない。
全ての時間で、僕が僕らしくあれるわけではなく(歌詞みたいになったな)、僕らしくあらせてもらえない時間もあるのだが、その時間は何かというと、ただの無駄だ。
無駄な時間に、焦りはしないけれど、無駄な時間にも何かがあるさと、余計なごまかしをする、そんなところに気力を割くつもりはない。
「あなたはわたしに何をしてもいいの」と言われた。
うれしいセリフだ、これ以上にない。
とびきりだな、と、浮き上がりつつ、まあでもそうだよな、そうでないとな、とも思うのであった。
わざとらしさに加工した僕を向けられたって何も面白くないだろう、し、加工してかかるなら、そういうのはもっと得意な奴が他にいるはずである。
針にかかったカジキマグロに、「あまり動き回らないでください」とリクエストしているようなもので、そんな奴はもう海原に出るべきではない。
みんな、それぞれ、いいことがあるといいな……
僕は、万事、余計なことはしたくないタチだが(義理を除いて)、唯一腹が立つのは、うら若きレディが自分の美の素質を無駄にしているときである。
見ていて、モヤモヤするのである。
彼女が美しい時間は、もうそんなに残されていないというのに。
最近は、恋あいにネガティブな人が多いけれど、よくよく考えたほうがいい。
○年間を無駄にしたら、もう、生涯から青春を失うんだからな。
青春なしの生涯であった、と、そんなこと、冷静に受け止められるものなのか? 知らないけれど……
よくそれで、晩年になって、発狂している老人を見るので、誰もそんなことにならなければいいのにな、と思うのであった。
でもまあ、僕のことではないので、やはり他人のことについて話すのは、まったくしっくりこない。
「自分と他人は違う」、という、この当たり前の事実は、いつだって抱きしめていてよい事実だ。
いいじゃないか、生涯に一人ぐらい、いい人見つけなよ。
自己の生について、原則、二つの考え方があると思う(しまった、難しい話になった)。
ひとつには、<<自己の生というのはもともと存在していて>>、その前提で、その生の質と量を、高めていくべきだ、という考え方。
そしてもうひとつには、<<自己の生というのはもともと存在はしておらず>>、その前提で、まずどのように自己の生を実在たらしめるか、イグジスタンスを得さしめるか、それを追求するのだ、という考え方。
それで、言わずもがな、僕が実感するところでは、事実は後者のほうなのである。もちろん、自分と他人は違うわけだけれど……
最高の人生と最低の人生があるのではなく、そもそも、人生が「あった」人と、「無かった」人とに、分かたれるのである。
おお、恐ろしい。
でも、これが恐ろしいからこそ、晩年に発狂しはじめる老人がいるのだと思う。
老人になると、どうやら、自己の死がリアリティを持ち始めるらしい。加えて、この先に、自己の生に何か大きな獲得がありうるかというと、もう無い、ありえない、ということにも改めて気づかされる。
確かに、十五歳で高校に入るのと、七十五歳で老人ホームに入るのとでは、同じ入るというのであっても、内容が違うだろう。一方は発展に接続しているが、一方は収束に接続している。
何か物騒な話をしてしまったが、とにかくだ。グッドな人生とバッドな人生があるのではなく、まず自己の生がイグジスタンスを得るかどうかなのだ。
社会的に定められた外形だけをなぞっていっても、それでイグジスタンスを得たことにはならない。自分だけが知っている、「わたしは存在した」という確信の獲得にはならない。
(ウン十年を振り返って、わたしの人生は、「無かった」というのでは、それは怖いよなあ)
僕は、大江の小説を読んでいてよく思うし、また僕自身もこういう言い方をよくするのだが、「魂の帰るところ」だ。自己が死んだとき、その魂はどこかに帰る、という幻想を採用している。
僕はスピリチュアリズムへの傾倒はゼロなので、それをあくまで幻想として採用している。
魂の帰るところというのは、「あのときの、あの場所」だ。自己の体験した生のどこかへ、魂は帰ることになる。
そこで、「あのときの、あの場所」と言いうる、確かな自己の生のイグジスタンスが無かったら、死んだ後、魂の帰るところが無いのである。
それでウワーとなるのだが、ウワーとなっても、だいたいそのときにはひどく手遅れである。
「あのときの、あの場所」に、永遠に魂が帰るのだとしたら、あなたはどのときの、どの場所を選ぶだろうか?
それはたぶん、複数選択が可能だ。複数、あればだが。
あ、みんな、「ドラゴンクエスト」シリーズ、やったことある?
ドラクエだと、ルーラで、好きな町に飛べるじゃないか。ただし、一回行ったことのある町にだけ。
あれだ、あのルーラみたいに、人間は死んだ後、自分が一回行ったことのある時間と場所に、飛んでいくことができ、そこに住み着くことができるのである。
ただし、その「一回行ったことのある」というのは、そこに自己の魂が刻まれていないとだめだ。自己の生のイグジスタンスを得た場所・時間にのみ、人は死後にルーラで飛ぶことができる。
それで、そりゃ、気がつけばそのルーラで飛べるところが無いなんてことになったら、人はウワーとなってしまうだろう。
そんなわけで、あまり生きている時間を無駄にするべきではないし、それぞれの場所と時間、そしてそこに出会った人々に、しっかり、自己の生を、目印みたいに、しっかり結びつけてくるべきだよ……みたいなことを、思うのであった。
まあ、そういうのは、努力とかガンバリとかで、得られるものでも、ないけれど。
できたら、いい人を見つけて、いい思いをして、いや悲しい思いもしてか……でもそれで、「あ、わたしの魂はいつか、このときのこの場所に帰ってきてよいかも」と思えることがあったら、いいじゃないか。
あまり人に相談しないように。あなたのことであって、あなた自身の他に誰も、頼りにはならないよ。
あなたが、「自分しか知らない」それを、抱えてゆけるかどうかなのだから……
***
なんかおかしいと思わないか!
(この切り出しは失敗した)
温泉に入ったあとは身体が快調なものだ。
インパクトがあるから、湯中りすることもあるし、ほぐれすぎて、身体がバラバラに感じることもあるけれど……
温泉に入ったあとは、身体がほっかほかだ。
なぜでしょうか。なぜでしょうか、といっても、それは温泉があったかいからである。42℃ぐらいあり、湯量がたっぷりの、かけ流しだったからだ。
温泉に行くときは、ぜひ、事情通に相談してから行くのがいい。
これ以上に、人に相談するのに正当な理由はないほどだ。
今、ふと気づいたが、かけ流しというのは、とてつもなくいいな!
じゃんじゃん湧いていなくてはならず、じゃんじゃん捨てていなくてはならない、そしてその結果、ようやく湯は常に新鮮で、人を芯からあたためて癒す力を持つのである。
たっぷり溜め込むようなヤツ、循環して使うようなヤツには、何の力もないということだ。
うーん、であれば、自分はかけ流しの人間でありたいな……
まあそれはいいとしてだ。仮に、仮にだが、有効成分たっぷりという宣伝があり、看板に熱烈の湯、みたいなことが書いてあったとしても、実際には、その湯船に溜まっているのは、0℃の水、ということがありうる。
それに首までゆっくり浸かるとどうなるか、というと、もちろん、胴体が芯までガチンガチンに冷えて、病気になるのであった。
これで終わり、と、話を終わってしまいたいので、このあたりで、ハハアとわかってもらえると、僕としては話が楽だ。
つまりだ、「有効成分たっぷり」と喧伝しながら、実際には何かというと「冷たい」、0℃の水のような人間もいるね、という話だ。
善意的で、道徳的で、ヒューマニズムを標榜しているが、触れてみると温度は0℃じゃねえか、というような人間のことだ。
これは悪口を言っているのではない。
いや、どう見ても悪口だが、悪口を言いたいという意図のものではない。
先に言ったように、僕はうら若き乙女が、その素質を生かしきれていないのを見ると、モヤモヤするのである。
いい人がいて、大事な時間があって、「好きにして」「好きにしてくれないと悲しいの」と、堂々と言えるようになれば、それで解決するし、それでしかイグジスタンスを得られないのに……と、モヤモヤするのだ。
話がぐちゃぐちゃだが、だまされるな、という話。
だまされてはいけない。
何にだまされるかといえば、その0℃の温泉ふうのものにだ。有効成分たっぷりです、と、言い張るし、有効成分自体はウソではないのだろうけれど、温度が0℃じゃないかふざけんな、という類のものにだ。
今度ははっきりと悪口だが、そんなものにだまされて、首までじっくり浸かっているから、胴体が芯までガチンガチンに冷えるのである。
活発になんかなれなくなるし、それに冗談でなく、病気にもなってしまう。
エミネムのアルバムはだいたい一曲目が「kill you」みたいな感じだが、それは聴いていて胴体がガチンガチンに冷えるものではない。
有楽町でやるフォーラムの「人類博愛」みたいなものがあるが、あなたの胴体をガチンガチンに冷やして病気にさせるのはそのフォーラムであってエミネムではない。
エミネムとボランティア団体なら、あなたに対して「熱心」なのはボランティア団体のほうだが、あなたの胴体をガチンガチンに冷やすのは、以下略……
熱心というけれど、たいていインチキで、物事に熱心な人間なんて、大半は疑ってかかったほうがいい。
フランソワーズ・サガンは、自分を笑い飛ばすことがユーモアの入口です、と言ったのであって、物事に熱心になりなさいウフフッ、とは言っていない。
突然真面目に言うと、あたたかい人と冷たい人がいるし、人と人との間に起こる「ぬくもり」の現象は、実は厳密にあって、そんなことはどうでもよいのだけれど、肝心なことは、あなたがその温度と熱とに「ニブい」ということである。
ニブい、から、実際、0℃の真水に浸かっていても、まったく気づいていない、真面目に浸かっている、ということが、冗談でなくあるのだ。
温度を感じるのも発するのも、胴体の問題なのだが、あなたは頭はよくても、胴体がバカなのだ。胴体がバカだから、平気で0℃の水に浸かってしまう。
まあ、ダマシにかかる側は、当人もダマシているつもりはないことがほとんどだし、ダマシ方は熟練しているし、色々あるから、しょうがないところもあるのだけれど……
愛と誠実の議論という、0℃の冷水に浸かって生きてきた人間と、「好きにして」と愚かな温泉に浸かってほっかほかに生きてきた人間とで、話が噛み合うと思うか?
このことについて、一部の人は、鼻毛を全て引き抜いて反省するほど、物事の見方を変換しなくてはならないことであろう。
何しろ、あなた自身のこともあるのだから。
あなた自身も、人に対して、ほっかほかの温泉なのか、0℃の冷水なのか、ということがあるのだから。
有効成分なんか、関係ない、とは言わないが、後回しのこと、まずは温度だ。
あなた自身、結局は、人の胴体をガチンガチンに冷やして、活発さを奪い、病気にさせるしか能が無い、というのでは、あまりに悲しすぎるだろう。
死後、魂になって、誰もあなたに会いに来なくなってしまうぞ……とまで言うと、宗教的なオドシになるからやめよう。
おれはあったかい人が好きだし、あったかい人のことしか覚えていない……あったかい人のことって、忘れようったって忘れられないからね。
***
ええっと、必要な話なので、真面目な部分を説明しておく。すっごく面倒なので究極に手短にいく。わかりっこないのであとで自分で書き出して理解するように。
人の「ぬくもり」と言ったって、人から人へ、電子レンジみたいにマイクロ波が出ているわけじゃない。人は水溜りをあたためる超能力なんか持っていない。これは科学的事実で、ものすごく大事なことだ。ひょっとすると、一番大事なことかもしれない。
そうして、マイクロ波ビームなんか出ていないのだが、実際に、人に「触れた」という感触が得られることはあり、そのときは「ぬくもり」を感じることが実際にある。
なぜか?
それは、実は、その「ぬくもり」は、それぞれの内部で自家生産しているのだ。これも大事なことだ。人Aと人Bがいたとする。彼らは、それぞれ別個ならフフンと何でもないが、A−Bと向き合って関わることで、互いに熱を自家生産するのだ。温Aと温Bになるのである。
それが、AとBに、人としての「関わり」があるということ。
その「関わり」、向き合ってどうこうというのが、どうやったら起こるかというと、ヒントは胴体にある。
人の営みは胴体でやるものなのだ。
これを頭でやろうとする人はアホなのである。
よく見ろ、人の声は、胴体から出ているし、人の動きもリラックスも、胴体から出ているだろ。
「笑顔」というが、笑顔と「笑う」は違う。笑顔なんてものは、頭にズタ袋でもかぶせたら見えなくなる。
が、「笑う」というのは、ズタ袋をかぶせていたってわかるだろう。笑うのは胴体だからだ。お腹から笑うし、お腹から横隔膜、気道、声帯、と連なって「笑う」のだ。
この事実に「すげえ!」と感嘆する人は、きっと頭のいい人なので、あなたも「すげえ!」と感嘆するように。
僕はあなたの世界観や人間観を根こそぎひっくり返そうとしているのだぞ。
胴体から話す、胴体で受け止める。胴体から声を出す、胴体から近づく、リラックスする、愛する……
わけのわからんことで悩んでいる人の大半は、単にこれができていないのだ。胴体が死んでいるのである。
ええい、内緒にしようと思っていたが、バラそう、僕はそのことを、内心で「胴体インポテンツ」と呼んでいる。
胴体がインポなので悩んでいるのだ。インポが悩むのは当然のことだ。
(しまった、やっぱり下品になった)
(が、これ以上に適切な表現は見当たらないのだ、タイトルは今改変した)
人間はマイクロ波ビームで人をあたためることなんてできないが、コミュニケートを胴体から発して胴体で受ける、というようなことがあり、その呼応によって、熱を自家生産するのだ。
それが「ぬくもり」と感じられる。だからそれが「ぬくもり」なのだ。人のぬくもり。
アホな人は、ではない、胴体インポテンツの人は、そうして本来は胴体でやるべきことを、顔面でやろうとするのである。
いつぞやの、「脳と自意識」の話に結んで言えば、顔面とは自意識の端末で、胴体とは脳の端末だ。
だから、顔面で人と関わろうとすると、自意識でのやりとりになり、結局いざこざばっかり起こるのだが、なぜいざこざばっかり起こるかというと、ぬくもりが無いからだ。
さすがに説明が面倒なので省いてしまうが、自意識で人と仲良しウフフしようとしても、最終的には衝突しかしないのである。他人は他人なのだから。
(注釈:自意識は表面上の脈絡を追跡するだけなので、全てに完全同意する他者でも存在しないかぎりは必ず衝突が発生する)
胴体と胴体ならば、人はいくらやりあいをしていても衝突は起こらない。
なぜか?
それは、人は、「ぬくもり」を受けたものとは、ケンカのしようがないからだ。
人は、ぬくもりを受けると、ほぐれるものであり、こわばりが解けてしまうものなので、もうぶつかろうとしてもぶつかれないのである。
お前って本当バカ、わかってない、センスがない、後ろから蹴りたい、と、好き放題に言っても、互いに「まあいいけど」としか思えないし、それが男女なら、でも大好き、というのがくっついてくるのである。
これがどういうことかわかるだろうか?
それはつまり、自由ということなのだ。
どれだけ好き放題をしても、衝突できない、ケンカできない、傷つけられない(いや、あとで謝れば大丈夫)、ので、何をしたって大丈夫、ということで、互いに真の自由を得るのだ。
だから、「好きにして」と。
「あなたはわたしに何をしてもいいの」と。
それは、あなたの胴体で、わたしの胴体に、「自由」、ありのままに全てをして、わたしの胴体はそれを全て受け止めるから、という、素敵な告白である。
それが恋あいというものであって、それ以外の全てはゴミだ。
(言い過ぎた)
まあそんなわけで、僕は常々、恋あいがいいね、自由がいいねと、言ってきたのだった。
どれだけ好き放題をしても、お互いにお腹から笑んでしまう、通じ合ってしまっている、これこそ自由で、この自由は、真の"平和"に支えられているのだ。
それに比べたら顔面で製作した笑顔最新号ver.2.01、みたいなものは一体なんなんだ。
一体なんなんだ、と、僕は馬鹿馬鹿しく思ってきたので、そういうケースには、無視しておっぱいを揉んだりしてきた。
のだが、かつてはそれで、なんだかんだ上手く行っていたものが、もはやそうは行かなくなったみたいだ。
だからやめてしまった。
今さらネタバラシをすると、僕がおっぱいを揉むと、揉まれた側は腹が立つ、腹が立つので睨んだり怒鳴ったり突き飛ばしたりひっぱたいたりするのだが、そうしてバシンとやった側が、「あれ?」と感じる、そのことで、だいたい解決してきた。
(もちろん僕は軽蔑されるし嫌われるので自殺行為ではある)
なぜ「あれ?」となるかというと、ムカついてバシンとやったはずが、そこに衝突の手応えがないので、そのとたん感触が変わり、揉まれたことも突き飛ばしたことも全部含めて、「あれ? 何か全体的にイヤじゃない」となるのだ。
そんなものは、こちらが一発殴られる覚悟でいれば、別に衝突するようなことじゃないし、だいいち、女の子の細腕で、慣れてない平手打ちなんか喰らっても、冗談みたいな痛さしかないし……
かつてはそれでなんとかなっていたのだが、どうもこのごろはそうではないらしい。
それで、その正体を捜査しているうち、「胴体インポテンツ」ということを突き止めたのだ。
インポテンツとは、つまり、胸を揉まれて腹が立つのに、そのバシンと突き飛ばすのが出ないのだ。<<胴体からの反撃が>>。それで、胴体と胴体の接触が起こらない。それでは、「あれ? 衝突が起こらない」という体験には接続しない。
それでは、僕が胸を揉むだけアホらしいし、ただその女性を傷つけるだけになってしまうので、やめた。僕だって、別にそこまでして女性のバストが揉みたいわけじゃない(そんなアホな奴がいるか)。
(逸脱)ところで、今ここで話すことではないけれど、セックスって、性欲でやるものじゃない。性欲でやる人もあるだろうけれど、それはほとんど性風俗業で解決しているだろう。他人のことは知らないが、僕のセックスの動機は性欲じゃない。性欲でやるセックスはまるきりアホに見える。
動機はほとんど、世界の共有だ。性欲は異性に対してなら誰にでも湧くものかもしれないが、世界の共有についてはそうじゃない。この人と共有したい、というのは特別なものだし、その共有が可能な人は、生涯のうちにそう数人も現れない。
僕があなたのことを好きだと言ったら、あなたを抱く理由は、その夜、その他すべての人間を世界から消すためなのだ。そうでないと、イヤだろ、虚しいだろ、いつだって、「たくさんの人がたくさんいる世界」なんて、漠然とした世界は……
と、話すと恥ずかしいし、いかにも何を言っているか意味不明なので、この話はやめよう。逸脱終わり。
「ぬくもり」の話をしてきた。それで、真水の温泉に浸かってガチンガチンに冷えている奴はアホだよなと、悪口を言ってきた。悪口は気持ちがいいが、悪口を残してもしょうがない。
人と人との間に「ぬくもり」という現象は確かにあり、これは科学的だと言いたいのだった。科学的に、「胴体での関わりだよべらんめぇ」ということだ。声は胴体から出る、振る舞いも笑いも胴体から出る。それを顔面の自意識でやろうとする奴はアホだという話で、でもアホの一言で済ませられない状況が今すでにある。それが「胴体インポテンツ」の出現だということだった。インポテンツをアホ呼ばわりするのは冷酷すぎることだ。
胴体で関わりが持てれば、ぬくもりがある。人はぬくもると、衝突できなくなる。衝突できなければ、人は数学的にやさしいのであり、どう暴れてもやさしさの時空から出られないのなら、人と人とは自由なのだ。AとBは、互いに胴体で関わることで、互いに自由であれるという、貴重な関係を得たことになる。
そういう場所と時間と人のところへ、死後、人の魂は帰ってくるだろう。互いに自由であたたかくやさしかった「あのとき」のところへ。自分と「あの人」が確かに存在/イグジストしていたあのときのところへ。
「ぬくもり」は科学的なことなので、いいかげんなことは言わないように……具体的な話も何も、あなたの目下、そこにあるあなたの胴体の話だ。
***
何が本当には言いたいのか、急にウズラの卵のような小さな本性を晒すと、麗しき若き乙女が、あまりにだまされきっている状況があって……それを引き止めたいのである。つまりは、あなたは有効成分たっぷりの冷水に浸かっている、そのことに気づいてくれ、と言いたいのであった。
彼らはもっともらしく、その有効成分の正当性を主張してくるけれど、それを真に受けて浸かっていたら、あなた自身もやがて、そうした冷水の、有効成分だけの人になってしまうから。お互いに有効成分を持ち合って、ガチンガチンに冷えて病気、そんなのは悲しすぎるだろう。
僕があなたのスカートに向けて、脚を開け、と命令することが、本当の問題なのではなくて、そこに「衝突」が起こることが問題なのだ。そこでウッとなる、わけのわからない衝突が起こることが。
人と人とで、ぬくもりがあったなら、そんなところで衝突なんて起こらないの。たとえ脚を開いてくれなかったとしてもだ。やあねバカねで済む話。
あなたが、僕の知らないところで、胴体をガチンガチンに冷やされて、その上でセクハラをされて、おぞましくなった、それであなたも胴体がこわばってよくわからなくなったというのなら、それはあなたの責任じゃない。どこぞの誰かの、我々でない連中の責任だ。迫害を受けてしまっただけだ。そうして、どんどん正当に、他人のせいに、社会のせいに、していこうな……
だってそれが本当のことだからな。
「真面目な話」をすると、自分で自分を軽蔑してしまうが、その軽蔑を覚悟した上で、全貌を話しておこう。キーワードは、「胴体」にあり、「胴体インポテンツ」につながり、「衝突」の問題に行き着く。
社会全体が「胴体インポテンツ」になってしまったら、世の中は「衝突」であふれかえってしまう。自意識うんぬん、仕組みはさっき話したからうまく自力で理解してくれ。人々は、たとえば匿名のウェブ上なら、毎日衝突ばかりしている。
で、そんなしょっちゅう、日曜から土曜まで、生身で衝突ばかりして生きてはいけない。それでどうするかというと、ごまかすのだ。衝突をごまかす。
ごまかし方にはタカ派とハト派がある。
タカ派は、「人を無視して独りよがりを横行させる」。
ハト派は、「半笑いでごまかして甘えと癒着を横行させる」。
あるダンサーは、今、自分が舞台上で独りよがりしかできないことに気づき、前向きな格闘をしている。
ある十五歳の少女は、自分の頬をこすって悲しそうに、「気づいた、わたし、笑うのクセになってる」とうつむいた。
「イヤなら見るな」と言わんばかりに、人が人に「無関係だし」と振る舞うようなら、確かに衝突は起こらない。「無関係」だから。
これによって、「どう振る舞おうがわたしの勝手」という立場が出現し、舞台上のパフォーマーは客席を無視し、電車内では女がのっぺり化粧をし、喫茶店では電話で大声で話し、友人が目の前にいても端末チャットを余所に飛ばして平気で遊ぶようになる。それがタカ派の表れ。
一方、「わたしはあなたの意見を大切にするわ」と初めから言われたら衝突は起こらない。そして話の合間にいちいちウフフッと半笑いをされたら釣られてしまって衝突はしなくなる。
ハト派のほうは、そうして半笑いで癒着していくことで衝突を起こさなくする。だいたい、上品ぶっており、下品なものを毛嫌いしている。博愛を感情的に自負しており、ときおり、自分の存在感を半透明だと感じてそのことに自己陶酔する。これがハト派のパターン。
と、激しく悪口になってしまったが、これらはすべて、胴体インポテンツが「衝突」を回避するために発生しているのだ。
それで、どうすればいいだろうと考えて、でも根本がインポテンツにあるのだから、そう簡単にはどうにもならないのであった。
胴体バイアグラでもあればいいだがな……
でもきっと、「そうか、そういうことなんだ」と、自分のこととして気づく人があれば、その人はその後の正しいアプローチを、自分で考案できると思う。
なんだこの真面目な話は。
まあそんなことを言いながら、僕が今、真正面に思っていることは、真水の温泉にだまされないでね、あったかいところへゆきなよ、ということなのだった。
「真面目なこと」を話すと、僕が自分で自分を軽蔑するというのは、真面目の話というのは、そこそこ頭を使って自意識で整理して話さねばならないからだ。
それで、そこにぬくもりがないのが自分でわかるので、自然に自分で軽蔑するのである。
やきそばUFOうめえ、とでも書いてあるほうがはるかにマシだ。
僕の書き話すものを、好きでいてくれている人は、僕がそれを胴体で書いているから、好いてくれているのだ。
有効成分じゃない、有効成分はオマケだ。
おしまい、またね。
[真水の温泉と胴体インポテンツ/了]