No.296 セクシャルハラスメントの真相
話したいことがある夜はややこしい。
「話したいこと」は、話すときに、一番邪魔だ。
そして、だいたい、「話したいこと」なんて、いちいち自分が話さなくても、どこかでもっと偉い人が先に話してくれているものだ。
だから、うっへ意味がねえ、と思いながら言うのだが、セクハラというのは最低の行為である。
ただし、本当には、行為が最低なのではなく、最低さの正体はおぞましさにある。
おぞましさ……
たとえば近所のおばさんが若い女性に通りすがりに訊く。
「まだ結婚なさらないの?」
あるいは既婚者なら、
「お子さんはまだいらっしゃらないの?」
何がセクハラでおぞましいかというと、質問の内容ではなく、質問者がその問いかけによって、ある種の快感、悦をむさぼり得ていることが、おぞましいのだった。
快感、その悦のために、他人の性を犠牲にいじっていくのである。
そして、そのことがおぞましく、おぞましさの何が悪いかといえば、人から前を向いて生きていく気もちを失わせるところだ。
おぞましいのが今日も居る、明日も居る、どこにでも居る、と思うと、もう全てがイヤになり、どうでもよくなるのである。
真面目にやっているのがアホらしくなり、やる気がなくなる。
セクハラは立場と無神経によって発生している。
近所という立場と、自分が年上のおばさんであるという立場によって、その質問は発生しており、無神経ということには、今さら言及したくもない。
でも何がおぞましいかといえばやはり、質問者が、そのことによって気持ちよくなっているところだ。
そういった人間は、確定した条件反射のように、立場上の有利を見つけるや否や、ただちに自分が気持ちよくなるためだけの接触をする。そのことをひたすら繰り返していく。
ある意味では快楽のマシーンかもしれない(こんな話、したくないな)。
おばさんが美人に話しかけるとき、一時的にきゃあきゃあしたいというのと、こんな美人に上から物を言える自分、というような立場に、悦を得たいのである。
こんな話、したくないが、誰かがしないと息がつまるので、よりによって僕がしている。
僕みたいな奴がセクハラを攻撃しだすとなると末世感がハンパじゃない。
ほとんどの人は、立場が有利だと、興味本位から人に質問をするし、美女というのは特に、その興味本位の質問を向けられやすい。
そして、美女は、その同じ質問を何百回もされ、何百回も同じ答え方をしているので、心底から辟易している。
誰もが自分を興味本位でいじくって、悦を得てご満悦で帰っていく、おぞましい、ということを体験させられると、さすがにやる気がなくなるものだ。
甘えてはいけない、美女は口説いてはいけないし、告白さえしてはいけない。
なぜなら、美女を口説くことは、それだけで悦に入れることだし、美女に告白することは、それだけで男として自分にウットリできる行為だからだ。
女はどれだけ綺麗でも、観光名所ではないのだ。
「いいじゃないか、減るもんじゃなし」と、最低なことを言う奴もあるが、減るもなにも、明らかに減るのである。神経がすり減る。
美女に、「きれいですねー」と、心の底からと言うと、どう思われるかというと、
「またか」
と、内心でため息をつかれる。
「きれいとかブスとか、あなたたちそのことにしか興味ないの?」
と、あきれ返っているのだ。
女はホメればよろこぶ、というような、二千億年前の幻想は、気軽にメッセージが送れる端末が行き渡った時点で、過去の遺物となった。
そして、「きれいですねー」というような、良心的なベタ褒めは、むしろ女性から女性へ向けてのほうが多いので、美女はよく同性を嫌悪している。
美女を苦しめず、そのやる気を失わせないためには、どうすればいいだろう。わからないが、少なくとも興味本位を向けるのだけはやめることだ。
僕などはせめて、「美人も不美人も関係あるか、女ならなんでもいい」と、せめて言い張っていたいものである。これなら、軽蔑はされるけれど、美女を疲れさせることはないと信じて。
***
「女なら誰でもいいんでしょ」と言われるので、男はつい、「そんなことないよ」と言ってしまう。
そして勢いで、「特別だよ」「キミだけさ」みたいなことを言ってしまう。
女性はそれで、よろこぶかというと、まったくよろこばず、逆方向への軽蔑を深めるのみだ。
「男なら、まともに、女を求めたらどうなのよ」
と、内心で呆れられる。
ガールハントの拡大に向かわない男のことを、女性は本能的に、意味がわからないインチキの存在、と感じるのだ。
解決策は、ほとんどないが、唯一あるのは、せめて女性を疲れさせないことだ。
男が男のために用意したロジックなど、女性にとっては疲れるだけである。
要は、「女なら誰でもいい」とはっきり見える男について、「でもこの人はね」と、何か胸を打たれたり尊敬できたり、やさしさを信じられたりするところがあればいいのだ。
「この人の場合は、生命力の燃焼なのよ、むしろかっこいいと思う」
と、そう感じられるときだけ、女性は胸の苦しさがあっても、疲れずに済む。
顔がカッコよければ上手くいくかというと、そうでもなく、むしろ「顔だけの男」を確認するたびに、やはり女性は疲れてしまうものだ。
我々の誰もがそうであるように、美女だってやはり、人に向けて「すごい」と素直に言えるときを愛しているのだ。
疲れるときというのは、四六時中、「うーん……」と言わされるときである。
女性を疲れさせるということは、罪深いことで、女性は冗談でなく、セクハラで「もう外出するのもイヤ」ということに、しばしばなるのだ。
ならないほうがおかしい、と、冷静に見れば、わかってくる。
夜道、女性は、自分をジロジロ見てくる男とすれ違いたいのではなく、何かしらんがハッピーそうに、スキップして帰る夢と希望の青年とすれ違うことを望んでいるのだ。
女性は微笑みたいのだ。
もはや、この情報過剰の時代に、男なんぞに感心したいのではない。
だから、女を感心させようなどという不潔な意図のない男が、酔っ払うと幸せになりスキップになり、彼が「美人とか不美人とか言うけど、女の子ってみんなかわいいじゃん」とでも言っているのを目撃でもするほうが、まだマシなのである。
それ以外の全ての男は、セクハラだ、というのも、あながち誇張ではない……
セクハラの正体は、おぞましさであって、僕だってたとえば、「おモテになるでしょう」みたいなことをおばさんに言われて、ウフフッとされると、うぞぞぞぞ、と寒気が走る。
何がおぞましいかというと、おばさんはとにかく、そうやって人に絡んで自分のさびしさを慰め、一時的な悦を得る、そのことを繰り返すマシーンになっており、もはや自制心はない、ということの明らかさが、おぞましいのだ。
彼女らは、慣習からの立場の有利さからしか、その悦のむさぼりをやらないので、たとえばアヴリル・ラヴィーンに向けて、「お子さんはまだ?」とはニヤニヤ訊かない。
不利な立場からでは質問なんか投げかけないし、投げかけられないなら、悦が得られないので、興味がなく、ひいては、彼女らはアヴリル・ラヴィーンに興味が無いのだ。
お、我ながらむちゃくちゃな言いっぷりで、かつ、わけのわからん的を射ているので、この話はなかなかよいと思った。
まあ、こうでも言わないと収まらないぐらい、実際僕は、セクハラには腹を立てているのだ。冗談でも誇張でもなく……
真面目な話、人は、自分が気持ちよくなるために、他人のことを勝手に使ってはいけないのだ。
別にセクハラに限らず、たとえば「尾崎豊のメッセージはつまり……」みたいなことを語って、自分が気持ちよくなるために尾崎豊を使ってはいけないのだ。
エコロジーにハマる自分の気持ちよさのために、地球温暖化説を妄信するのは醜いようにだ。
最近、どうも、公共の電波などでも、「このあいだ風俗に行ってね」みたいなことを軽々に言うところがあるが、ああいうのは、思春期の女の子がショックを受けるので、やめてもらいたいと思う。
僕の知るところでは、小さな女の子は、「お父さんがお母さん以外の女の人とキスしたことがある」と知っただけで、すごく傷ついて一晩中泣いたりすることがあるのだ。
それを、楽しいテレビタレントさんが、カネで女を買っているというようなことを、いくら高齢化社会とは言え、大人の都合だけで話題にするべきではない。
外国のテレヴィに出演しても同じことを話すだろうか? 昨日、コールガールを買いましてね! というような話を。
聖書世界では、それがどのように受け取られるか、僕にはわからないが、きっと日本での現在の受け取られ方とは違うだろう。
何しろ、東京オリンピックが来たら、そのときはコンビニからエロ本を無くそう、と言っているのだ。
コンビニにエロ本が堂々とあるのは、国際常識的にヤバイ、ということを、知っていないわけではないのだ。
わざとバラバラに書いているが、全体が伝わっているだろうか、この話、整然とまとめて書くと、僕自身がセクハラの犯人になるのである。セクハラの本質は、「おぞましさで健常を失う」ということにあるから。
***
セクシャルハラスメントの真相は、別にセクシャリティにあるわけではない。特にセクシャリティという敏感な部分に、おぞましさが強く影響しやすいというだけだ。
だから、セクハラが発生してしまったら、それは今さら詫びても、慰謝料を払っても、解決なんかしないのである。
おぞましいといえば、セクハラで慰謝料を払わされた奴がこの世にいる、たくさんいる、というだけで、もうおぞましいのだから。
女性は、不本意ながら、男どもに、「死んでほしい」と願わずにいられないだろう。
それは、殺せば別の罪だが、「死んでほしい」と願うことは、別に病気ではないし、罪でもない。
その「死んでほしい」が、同時に、「別に死んでほしいわけじゃない」ということを含んでいるのも、よくわかる。
消え去ってほしいのは、ただおぞましさについてなのだ。
おぞましさの体験は、身に刷り込まれると、もう本当に条件反射のようにゾゾッとしてしまうので、こうなってしまったら、とにかくこれを取り除いてほしい、と、つまりは恢復を当然に望むのである。切実に。
暗い話で、イヤになるな。
本当に苦しんでいる人は、僕のこの話だって、歯を食いしばって、ゾゾッとなるのに耐えて聞いてくれているのだ。
「おぞましさ」ということがまったく焦点で、だからこそ、「キミだけだよ」とか「誰にでもじゃない、キミは特別だ」みたいなことも、それは割とキモチワルイし、割とおぞましいから、そんなことは言わないほうがいいのだ。
だから、男は、「女は全員好き」と言っていながら、それが女から見て「おぞましくはない、この人の場合は」と見えること、それだけが重要なのだ。
それだけが重要なので、今さらそこに男なんぞの、いちいちの価値観とか恋愛観とか、そんなものはもうどうでもいいのだ。
もう、そんなこと、価値観とか恋愛観とか、オシャレにキメこんでいる場合じゃないだろ、どう見たって……
究極の解決はこうだ。男は、「女は全員好き」「女は無条件で全てかわいい」と言っている、そのアホなところ、男のはたらきかけは無差別で躊躇もないのに、その男に向けて、女性が自分もなんでもない女の一人として向き合う、そのことが誇らしい、生命の燃焼だ、と感じられる、そういう夜が無闇に続いていく、千日の夜、というようなことでしか、究極の解決はない。
別に絵空事として究極の解決を言っているのではなく、究極の解決でなければ結局解決でないし、究極の解決を得る以外にどこに向かうところがあるんだ、そこに向かう以外は不誠実だろ、と、僕などは言いたいわけだ。
セックスというのは、もともと淡白なものだ。
濃厚でイヤラシイものだというのは思い込みで誤解だ。
何しろ、他にもいろいろあるはずのものを、性交の用具のように使ってしまうのだ。
そのことは本質的に淡白なのである。
が、その淡白さは、純粋さに通じており、女性がひとつの夜にでも、その純粋さを誇りに思えたら、その夜はセクハラではないのだ。
「お前の身体を使ってやる」
「わたしを使ってくれるの?」
と、いうようなセリフが、冗談でなくなり……むしろ女性の側の真っ直ぐな眼差しによって、冗談でなくされてしまうことがある。
そうして、荘厳に殉じた夜は、セクハラではなくなる。
こんなに、ひとつのことに、セックスに、純粋になれるのか、と、気を抜くと、魂がガチガチ震えそうになるほどだ。
それと比べるとやはり、「ボクはキミとの愛を確かめるためにそれをしたいんだ」「うふふっ」みたいなものは、よくよく見るとセクハラだ。
精神的視力が異様に冴える夜があると、そのことのおぞましさが、はっきり見えてしまうことがある。
「なぜこの人は、可能なかぎり女を抱こうとしないのだろう、そしてなぜわたしをその中の一人にしようとしないのだろう、その当たり前のことを」
ということが、はっきり見えてしまうことがある。「この人、自信が無いんだわ」と。
そんな夜は、自分が生きていることも、やがては死ぬという「死」のことも、異様にはっきり見えているものだ。
そういう、荘厳の夜に、誰かとまっとうに出会えたら、そのときはじめて、女性は疲れを癒されるだろう。
でも、そのこと以前に、まず疲れてしまった女性はどうするべきだろうか?
僕は、できれば、たくさん休むことだと思う。とりあえず、神経のささくれに溜まった膿が冷えて引くまで、できればたくさん休んでほしい。
人は強くなければならないだろうし、「負けないで」「立ち向かって」と、自分自身の声にも言われるだろうが、人は「おぞましさ」についてはそう強くあれず、なかなかそうはいかないのだ。
疲れたとき、休まないといけないとは言わないが、休んだって、何も悪くない、当然だ。
セクシャルハラスメントの真実は、おぞましさにある。
おぞましさのショックが、健常を奪ってしまう、ということにある。
それ以外に、哲学的な意味はないから、気にしなくていいし、またそこに哲学的意味がないから、腹立たしいのである。
セクハラの正体はおぞましさで、おぞましさの正体は何かというと、セクシャリティではなく、「悦のむさぼり」にある。
「悦のむさぼり」、つまり、自分が気持ちよくなるために、平気で他人の存在を使うということ。そのことに無神経な上に、自制心のない繰り返しのマシーンになっているということ。そういう人間が存在するということ自体が「おぞましい」のだ。
悦癖のパターンロボットになった人間は、もうパターンの繰り返しのために徘徊するのみになるので、もう人間としての集中力が残っておらず、独特の濁った眼をしている。
もうそれは、眼と呼んでよいのかどうかも怪しい類のものだけれどね。
あなたはきっと、それでも人の悪口を、言うようなことをしたくないと、決めているだろうから、代わりに僕が言うことにした。余計なお世話かもしれないが……
僕はセクハラが大嫌いで、セクハラが女性の健常を奪うことを憎んでいる。心の底から。
男は、セクハラをするぐらいなら、女に嫌われて軽蔑されるほうが、はるかにマシだ。
[セクシャルハラスメントの真相/了]